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三解脱と煩悩即菩提

2022.11.23 13:34

https://ameblo.jp/nis-nis05/entry-12272044486.html  【増上寺 - 三門】 より

正式名称を三解脱門といいます。高さ21メートル、間口19.5メートル、奥行き9メートル東日本最大の門です。

日比谷通りから見上げると、東京タワーを背後に二階建の朱い門がそびえ立ちます。

これは三門から大門を望んだところです。

門をくぐります。

この門の二階には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。江戸時代には彼岸や中日、正月などには階上に上がることがゆるされたそうです。

通常は非公開で、2011年に一度だけ戦後はじめて公開されています。

三解脱門は迷いから解放されるための三つの道を門に例えたもので、「むさぼり(貪欲 とんよく)、怒り(瞋恚 しんに)、おろかさ(愚癡 ぐち)の三毒煩悩を解脱する意味があるそうです。

「仏語。解脱に至る方法である3種の三昧(さんまい)。一切を空と観ずる空解脱。一切に差別相の無いことを観ずる無相解脱。その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。」とあります。

三つの道は空、無相、無願、どれも物事にとらわれないことを意味します。

今の時代、煩悩を解脱するのは難しい。この門を通って煩悩がなくなるわけではないですが、怒りや愚かさで後悔した時、「物事にとらわれないようにしたい」と前向き思うだけでも、心は穏やかになるように思います。

増上寺 – 三門。空を見上げると朱とブルーの対比が美しいです。

次は増上寺 - 大殿 へ続きます。


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%85%A9%E6%82%A9%E5%8D%B3%E8%8F%A9%E6%8F%90 【煩悩即菩提】 より

ぼんのうそくぼだい/煩悩即菩提

煩悩がそのままさとりの縁となること。原始仏教や部派仏教では、煩悩と菩提は対立的に捉えられたが、大乗仏教において煩悩も菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると説かれるようになった。さとりの面から捉えれば煩悩も真如の現れであり、それを離れてさとりはないということになる。大乗仏教の一思想表現として「生死即涅槃」と併称される。『大乗荘厳経論』六に「法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと」(正蔵三一・六二二中)とある。


煩悩即菩提は気づきと選択、そのうえでメンタル面では以下の記事が、フィジカル的にはチャクラの浄化プログラムがスピリチュアル的には瞑想プログラムや呼吸法が有効ではないでしょうか?


http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/nlp.html  【NLP神経言語プログラム】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12270974059.html   【NLP(リフレーミング)】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12307980647.html   【悟りのコースのために~潜在意識の浄化】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12307995190.html  【ライフスキルプログラム7&8】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12461738487.html  【イメージが一人一宇宙の現実を生む;唯識論】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12461741831.html   【アウェアネスカード】

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12461742737.html   【アウェアネスカード:あなたのタイプは?】


http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=224 【No.200煩悩即菩提の生き方】 より

ダムに水を貯めるか貯めないかという問題は答えが一つではない。上水道に水が送られるにはダムを必要としている。日照りが続くと貯水量が減り、みんなに節水を求めていく。大雨の時は川に水があふれ流れ出るのを防ぐため、水を貯える。だが、貯水量をはるかに超えてしまうと堤が崩壊してしまうこともありうる。その対策として、ダムに流れ込む水の量を抑制するため、田んぼや広場が小さな貯水池になるのも必要である。その他、ダムに貯めた水を大量の水が流れこむ前に事前に放流しておく場合や、貯まっていないダムを用意するなど柔軟な対応が求められている。

 また、夜空に浮かぶ星は、「これが」と手に取って確認できない。だが長い時間をかけて光が届き、今、私の目で眺められ、このような星が輝いているとわかる。それを確認したとき、存在を具体的に認識する。しかし自身の目に光が届いたその時には、光を放った星はもう既に消滅している場合もある。

 人間にとって「心の支え」「仏の見守り」とはこれに似ている。存在が認識できるものは「ある」といい、認識できないものは「ない」と言い切っていいのだろうか。「境あるとしているは己の心なり」私の周りには多くの見守りがあって、そこでようやく生きている姿でもあります。自己中心に振舞いたい人には自分の意と異なると、対峙する敵の抵抗力、邪魔としか見えない。それを何とか打ち砕こうと必死になってしまう。そんな事件があちこちに発生している。「人の為に尽くせることは幸せである」欲望に任せ、わがままを成就しながら生きたいと進む時は一生懸命になれる時もあれば、時がたつとペースを崩したり、嫌になったり、諦めたり、怠ける時も出てくる。しかし、他の人の喜ぶ笑顔を生み出したいとの目標を持つときは、自分のペースはさておき、相手の状態、期待に応えようとするから、自分の都合では進めない。人と共に、励めたのを振り返ると清々しい気持ちになれる。己とはどんな姿なのか。どこまでが己なのか。とても答えは出ない。独自では己の評価が卑下し落ち込んだり、過大に評価して有頂天になり、己を見失う。片方がよくて、片方は捨て去るべきものではない。どちらもあり得ることを踏まえて、あれこれと求める「己れ」に気付きながら生きよう。


https://xn--udsw7h21snjj.jp/oshie/bonnosokubodai/ 【煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは】  より

「煩悩即菩提」というのは、仏教でよく言われる究極の境地を表した仏教用語です。

仏教の本なんかを読むと、

「煩悩がそのまま悟りの縁になる」とか

「煩悩と菩提は対立するものではなく、本来は相即不二である」とか、

「煩悩を離れて悟りはない」とか、

「煩悩に苦しむ現実の中に生きた菩提がある」

など、色々と説明されますが、いまいち何を言っているのかよく分かりません。

果たして煩悩即菩提とはどんな意味なのでしょうか?

まず、「煩悩即菩提」の煩悩とはどんな意味でしょうか?

「煩悩」というのは、欲望のことだと思っている人がありますが、それだけではありません。「煩悩」とは、私たちを「煩」わせ、「悩」ませるもの、ということで、全部で108あるといわれます。大晦日に除夜の鐘を108つくのは、ここから来ているといわれます。

その108の煩悩の中でも最も私たちを苦しめるのが、欲望と、怒りと、愚痴の3つです。

これを三毒の煩悩といいます。

欲望というのは、食べたい飲みたい楽がしたい、お金が欲しい、物が欲しい、認められたい、褒められたい、悪口を言われたくない、という心です。

なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しい。限りなく欲しがる心です。

遺産相続では、欲の心で兄弟や親戚同士、長い間争ったあげくに絶縁します。

その欲望が妨げられると、カーッとなって腹を立てるのが怒りの心です。

ちょっとしたことでイライラして、頭に血が上ります。あいつのせいで損した、あれをやらせてもらえなかった、あいつにバカにされた、邪魔されたと怒り狂います。

そして、もうどうにでもなれと、言ってはいけないことを言い、やってはならないことをして、すべてを焼き払います。

怒っても仕方がない相手になると、ねたみやそねみ、怨みの愚痴の心が起きてきます。

幸せそうな人をみると許せない、足を引っ張ってやりたくなります。

また、困っている人をみると、口ではお気の毒にといいながら、優越感を感じて面白がる心が出てきます。そういうねたみや怨みの醜い心が愚痴の心です。

このような、欲や怒りや愚痴の煩悩で悪い行いをして、因果応報で苦しんでいるのが私たち人間なのです。

ですから、苦しまないためには、この煩悩をなくさなければなりません。

では、煩悩はなくせるのでしょうか?

親鸞聖人は、『一念多念証文』にこう教えられています。

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで止まらず、消えず、絶えず。

(一念多念証文)

「凡夫」というのは人間のことです。

人間というものは、無明・煩悩が身に満ち満ちているといわれています。

ここでは「無明」も「煩悩」も同じ意味です。

具体的には、欲の心が多く、怒り、腹立ち、ねたみそねみの心も多いといわれています。

それらの煩悩は、休むことなく、死ぬまで、とどまりもしなければ、消えることも、絶えることもない、といわれています。煩悩はなくならないのです。

ですから、親鸞聖人は『歎異抄』には、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」といわれています。「具足(ぐそく)」というのは、それでできているということで、100%煩悩でできているのが人間だ、ということです。

ちょうど、雪だるまから雪をとったら何も残らないように、人間から煩悩をとったら、何も残りません。人間は煩悩の塊だということです。

煩悩以外に人間はありませんから、もし煩悩をなくしたら、自分もなくなってしまいます。

もしそんな煩悩の塊が幸せになれるとすれば、煩悩あるがままで幸せになる以外にはありません。それが煩悩即菩提です。

煩悩即菩提というのは、煩悩がそのまま菩提に転ずるということです。

「菩提」というのは、幸せとか喜びということです。「即」というのは、そのまま、ということですから、欲や怒りや愚痴の煩悩が、そのまま喜びに転じる、ということです。

苦しみがそのまま喜びに転じるということです。

転じると聞くと、苦しみがなくなって喜びになるのではないかと思いますが、そうではありません。苦しみのままが喜びになります。「即」というのは、時間を隔てません。同時です。煩悩以外に菩提はありません。

煩悩と菩提は一つなので、煩悩がなくなったら菩提もなくなってしまいます。

苦しみがなくなったら喜びがなくなってしまうということです。苦しみがそのまま喜びに転じます。

苦しみがそのまま幸せになることなんかあるのかと思うかもしれませんが、ある遊女がこんな歌を歌ったそうです。

見れば見るほど たのもしそうな そうて苦労がしてみたい

この女性は苦労が好きなのではありません。誰でも苦労は嫌なものです。苦労したいという物好きな人はありません。ところが、あのたのもしい人と結婚したら、苦労が楽しみになるということです。

では苦労でないかというと苦労はあります。 ところが苦労とは少しも思わない。それが楽しみになります。

苦労以外に楽しみはない。 苦労がなくなって楽しみになるのではありません。

たのもしい人が、苦労を楽しみに転じてしまうのです。ところが、これは一時的なことです。5年も10年もたのもしそうな男がいるはずがありません。せいぜい3日です。

「見れば見るほど たのもしそうな そうて苦労がしてみたい」

と言っていた人が「見れば見るほどぞっとする はやく別れてせいせいしたい」と言い始めます。煩悩即菩提は、変わりませんから、仏教でいう煩悩即菩提ではありません。

それでもこういうたとえによって、世間でも一時的でもあるんだなと分かります。

仏教でいわれる煩悩即菩提は、阿弥陀如来の大願業力によって、煩悩が菩提に転じます。

この煩悩即菩提になった自らの体験を、親鸞聖人はこのように教えられています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず。(教行信証行巻)「大悲の願船」というのは、阿弥陀如来の大慈悲によって造られた本願の船のことを大悲の願船といわれています。これは南無阿弥陀仏のことです。

大悲の願船に乗ったというのは、南無阿弥陀仏を頂いて、阿弥陀如来の本願に救われた、ということです。

阿弥陀如来の本願に救われたらどうなったかというと、光明の広海に浮かんだといわれています。

今まで暗くて苦しい人生の海に沈んでいたのが、光明輝く楽しい人生に変わった、ということです。

阿弥陀如来の本願に救われると、南無阿弥陀仏と一体になりますから、苦しみ悩みの人生が、明るく楽しい人生にガラリと変わります。

「至徳の風静に」の「至徳(しとく)」というのは、南無阿弥陀仏のことです。

南無阿弥陀仏と一体になった幸せを、静かな風がそよいでいるとたとえられています。

そして「衆禍の波転ず」の「衆禍」というのは不幸や災難です。

不幸や災難を波にたとえられて、それが転じる、ということは、不幸や災難が喜びに転じ変わるということで、煩悩即菩提のことです。

南無阿弥陀仏というのは仏心ですが、その仏心と一体ということは、仏心と凡心が一体となります。

これを「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」といいます。

「凡心」というのは、煩悩具足の私たちの心ですから、救われても煩悩は減りもしなければなくなりもしません。

それが仏心と一体になります。

一体というのは、ちょうど、炭に火がついたような状態です。

黒くて冷たい炭に火がつくと、炭のままが真っ赤な火、真っ赤な火のままが炭、炭と火と区別がつかなくなります。

煩悩具足の私たちの心が、南無阿弥陀仏と一体になりますから、腹を立ているままが喜んでる、喜んでいるままが腹立てているのが、煩悩即菩提です。

この煩悩即菩提の世界に導こうとされたのが、親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』であり、お釈迦さまの一切経です。ですから、一切経は煩悩即菩提におさまります。煩悩即菩提の解説書が一切経といっても過言ではありません。

煩悩即菩提には、大変な意味があります。ですが、煩悩即菩提は言葉を離れた世界です。

一切経は、言葉を離れた世界に導くための言葉です。ですがお釈迦さまは、説ききれなかったといわれています。だから煩悩即菩提は一切経におさまりません。それほどの意味と深さを持っているのが、煩悩即菩提です。

煩悩即菩提は、お釈迦さまでも言葉で言い表すことはできませんから、その説明は絶望への挑戦ですが、それをしようとされているのが仏教です。

この煩悩即菩提を体験させるのが、仏教の目的なのです。

言葉を離れた世界ですから、親鸞聖人も「不可称 不可説 不可思議(ふかしょう ふかせつ ふかしぎ)」(教行信証)といわれています。

「不可称」というのは、言うことができない。「不可説」というのは、説くことができない。「不可思議」というのは、想像もできない、ということです。

ですが言葉でなければ導けないので、親鸞聖人も、その絶望への挑戦を死ぬまで続けられているのです。

例えば親鸞聖人は、煩悩即菩提をこのように教えられています。

罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし (高僧和讃)

これが阿弥陀如来の本願のすごい働きです。

親鸞聖人は阿弥陀如来の本願に救われて、何とかわかってもらえないだろうかと、このようにいわれています。

罪障を功徳に転じる働きが阿弥陀如来の本願にあります。

これを「転悪成善(てんあくじょうぜん)」ともいいます。

転悪成善というのは、悪を転じて善となる、ということです。そういう働きが阿弥陀如来の本願にあります。この「罪障」というのは煩悩のことです。「功徳」というのは菩提のことです。煩悩がそのまま菩提に転じることを、「体となる」といわれています。

「体」というのはどんな関係かというと、次に氷と水のような関係だと教えられています。

水の体が氷です。そうすると、氷が大きいほど水の量が多いということです。

逆に氷が小さいと、水の量が少なくなります。

氷と水の場合は、今度は同時ではないのですが、氷のほかに水はない、氷が大きいほど水の量が多くなるということを表しています。

同じようなことを教えた有名な歌があります。渋柿の 渋がそのまま 甘みかな

これは干し柿のことです。干し柿というのは、甘い柿から作るのではありません。

渋柿から作ります。しかも、渋柿から渋をなくして甘くするのではありません。

渋がそのまま甘みになります。ですから、渋い柿ほど、甘い干し柿になります。

ですから、苦しんでいる人ほど、幸せが大きくなります。不幸な人ほど幸せにする力が阿弥陀如来の本願にあるのです。

今までは借金が多いほど苦しんでいたのが、借金が多いほど、借金がそのまま貯金になります。10万円借金していた人は、10万円の貯金になります。100万円借金していた人は、100万円の貯金になります。借金している人ほど金持ちになります。

「みんな幸せそうなのに、何で私ばかりこんなに苦しまなければならないんだ。私ほど不幸な者はない、世界一の不幸者だ」と思っていた人が、阿弥陀如来の本願に救われると、「いや私は世界一の幸せ者だった」となります。

これが煩悩即菩提であり、転悪成善です。極悪人が大善人になります。

極悪最下の者が、極善無上の幸せ者になります。

蓮如上人のお言葉阿弥陀如来の本願に救われた世界は、煩悩即菩提なので、蓮如上人は、『御文章』にこう言われています。

法然上人の御詞にいわく、「浄土をねがう行人は、病患をえて偏にこれを楽しむ」とこそ仰せられたり。

然れども、強ちに病患をよろこぶ心さらにもって起こらず、浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか。

(御文章4帖目13通)

「法然上人の御詞にいわく」というのは、親鸞聖人の先生の法然上人は、こんなことを言われたそうだ、ということです。

「浄土をねがう行人」というのは、阿弥陀如来に救われた人のことで、信心決定した人です。「病患をえて」というのは、病気になって、ということです。

「偏にこれを楽しむ」というのは、楽しむということです。

なぜ病気になって楽しむのかというと、阿弥陀仏に救われた人は、死んだら極楽とハッキリしていますから、死が近づくということは、極楽浄土へ近づくということだからです。

ところが蓮如上人はこういわれています。

「然れども」というのは、だけどもこの蓮如は、病気になった時、ということです。

「強ちに病患をよろこぶ心さらにもって起こらず」

病気を喜ぶ心は少しも起きない。

「浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか」というのは、恥ずかしいことだ。浅ましい蓮如だ、といわれています。

他力の信心は、法然上人の信心も、蓮如上人の信心も、同じ阿弥陀仏からたまわる信心だからまったく一つです。

ところが、病気になった時、楽しむのと、喜ぶ心が起きないのとでは全く反対です。

これは信仰が違うのかというと、そうではありません。

ここは煩悩即菩提が分からないと読めないところです。

蓮如上人は、ただ喜べないといわれているのではありません。

「浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか」

と懺悔となり、同時にそういう者が救われたという喜びに転じているのです。

親鸞聖人のお言葉

こういうお言葉は親鸞聖人にもあります。

『歎異抄』の第9章で、ある時唯円というお弟子が親鸞聖人にこんなことを尋ねています。

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、

また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」

と申しいれて候いしかば、

「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。

よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、

いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり」(歎異抄)

「念仏申し候えども」というのは、念仏称えますけれども、ということです。

「踊躍歓喜の心おろそかに候こと」というのは、踊り上がるような喜びの心がありません。

「急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬ」というのは、早く死んで極楽へ往きたいと思う心も起きてきません。

「いかにと候べきことにて候やらん」というのは、これはどうしてでしょうか、ということです。

親鸞聖人はこの質問に対して驚くようなことを言われています。

「親鸞もこの不審ありつる」というのは、お前が今尋ねたのと同じ心がある、ということです。

「唯円房、同じ心にてありけり」というのは、唯円房、お前もか。 「よくよく案じみれば」というのは、よくよく考えてみると。

「天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり」

というのは、喜ばなければならないことを喜ばないから、間違いなく極楽往ける、ということなんだよ。

こう聞くと、「それでは私たちと一緒ではないか?」と思います。

この「喜ぶべきことを喜ばない」というのは煩悩です。

「往生一定」というのが菩提です。

これが一つなのが煩悩即菩提です。

このあと親鸞聖人はこのように教えられています。

喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。

しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、

他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、

いよいよ頼もしく覚ゆるなり。(歎異抄)

阿弥陀如来は、かねて煩悩具足の、煩悩でできているのがお前らだと見抜かれて、

そういう者を助けるという本願を建てられているのです。

煩悩具足の人間というのは、

「天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬ者」のことです。

阿弥陀如来の本願は、そういう者のために建てられたと知らされて、

「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」

そこで飛び上がって喜んでおられます。

これが菩提です。

煩悩即菩提の喜びが分からないと、書いて有っても分からないのですが、喜ばない一杯が喜び一杯です。

喜び一杯が喜ばない心一杯です。

喜ばない心が見えるほど喜ばずにおれない、煩悩即菩提です。

喜ばない心と喜びの心が、同時にあるのです。

煩悩即菩提になる方法

この煩悩即菩提の世界に出るには、阿弥陀如来の本願力によって、苦悩の根元を断ち切られなければなりません。

その苦悩の根元は、煩悩ではありませんので、苦悩の根元が断ち切られると、煩悩あるがままで、煩悩即菩提の幸せの身になれるのです。

では、その苦しみ迷いの根本原因とは何か、どうすれば断ち切られるのかについては、以下の電子書籍とメール講座に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。


Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事「幸せは今ここにある」

目の前に1枚の紙があります。

あなたが紙の片面を「こちらが表」と定義するとき、同時に「裏」が生まれます。

あなたが「生」まれたとき、同時に「死」が生まれました。

あなたが何かを「美しい」と思ったとき、同時に「醜い」ものも頭の中に生まれました。

もし世界に「男性」がいなければ、自分が「女性」だとはわからない。

「善-悪」「強-弱」「左脳-右脳」

「勝-負」「高-低」「出逢い-別れ」…

それらは別々のものではなく、すべてワンセットであり、 互いに支えあっている。

凍える寒さを経験した人は、日差しの暖かさを知っていて

病気を経験した人は、健康への感謝を知っていて

飢えを経験した人は、一膳のご飯の美味しさを知っていて

孤独を経験した人は、絆の大切さを知っていて

絶望を経験した者は、希望のありがたみをよく知っている。

でも自分の弱さを認められない人は、他人の弱さを受け入れることもできず

自分の弱さがわからなければ、自分の強さにも気づくことができないのです。

光が美しく輝くことを支えているのは「闇」であり、光が存在できるのは、闇がそこに在るからです。

あなたの光の部分を引き出すために、まず闇の部分を認めてみてください。

これは、闇を好きになれ、という意味ではありません。

好きになるのと、存在を認めるのとでは、まったく違う。

長所(光)と短所(闇)、両方あるからこそ、自分なんだと認めてあげること。

自分のダメなところ、カッコ悪いところは、素直に認めればいい。

そうやってプラスもマイナスも両方を受け入れ、それでよいのだと自分を許してあげると

心の余裕が生まれる。

心に余裕が生まれると、そのマイナスの欠点から魅力的な人間力がにじみ出てくる。

そうなれば、人はどんどん、活き活きと輝いてくるんだよ。

幸せはいつも今ここにあるより。