「野ざらし紀行」と責任主義から思うこと
https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/4f9869081cab9551ab9c7714e1b3c89c 【「野ざらし紀行」と責任主義から思うこと】 より
松尾芭蕉の野ざらし紀行の「富士川のほとりの捨て子」についての話は時々話題にしています。一句残して立ち去る芭蕉、それでよいのか芭蕉!
現代人ならば、そうではないだろうと思うところ、その時代では、あろうことの一つであったようです。
今朝は、『芭蕉入門』(井本農一著 講談社学術文庫)からこの富士川のほとりの一節を紹介します。
幼い捨て子の泣き声
こうして旅に出ましたが、箱根の関所を越えて、富士川のほとりまで釆ましたところ、川原で二、三歳の捨て子がいかにも哀れ気な声で泣いています。そこのところの文章と句を読んで見ましょう。
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣くあり。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、あすやしはれんと、袂(たもと)より食ひ物投げて通るに、
猿を開く人捨子に秋の風いかに
旅人の芭蕉は捨て子を拾いあげて行くわけにはいきません。当時の農村は、耕地面積の不足から、人口のふえることは極端に押えられていました。従って妊娠中絶も多く、捨て子も多かったのです。
捨て子を収容する施設は捨て子の数にくらべてほとんど無きに等しかったでしょう。まして、現世的な実事(じつじ)を捨てて、虚事にのみ専心する芭蕉に、捨て子を拾い上げて育てることなどとてもできません。芭蕉は、少しばかりの食い物を与えて去るよりほか、仕方がありませんでした。しかし仕方がないといって平気でいられるなら、事は簡単です。仕方がないのはわかっていても、自分の無力、人間の哀れさを思い、やっぱり万斛(ばんこく)の涙にくれずにはいられません。それが「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」の句の心です。
「猿をきく人」というのは、古来猿の鳴き声を開くと断腸の思いがすると詩文に詠まれているからで、そんなことを詩文に詠んでいる詩人たちよと、自分を含めて詩人たちに呼びかけたのです。
猿の鳴き声を悲しいと開くのは、いわば虚事です。そんな虚事よりも、この眼前の捨て子に吹く秋風の現実の悲しみを、君たち詩人はどう受けとるかという問いを出したものです。それは、他人事ではなく、文人としての自分自身に対する問いかけでもあります。
芭蕉は、現実世界を捨て、文芸に専念する決心をしたのですが、捨て子を眼前に見て、自分の現実的無力、さに対する痛切な反省が、その決心を動揺させるのです。それがこの句を作らせたのですが、しかし結局芭蕉は、現実を捨て、虚事に生きる決意を新たにするより仕方がありません。
仕方がないのですが、ただ安易に現実を無視するのでなく、この痛切な反省の上に立って芸術に献身しよう、わが身を捧げようとするところに、強く、激しく、純粋なものがあると言えましょう。この強く、激しく、碗粋なものは、『野ざらし紀行』全体を貰いていると思います。
と説明されています。これまでは「無常観」を中心に言及してきましたが、捨て子をそのままにすることから、私自身が感じる「それでよいのか芭蕉!」という視点から少し述べたいと思います。
時代的背景、芭蕉の立場、環境等諸事情は呑み込められるのですが、現代人にはそうであったからそうであろうという推測でしかありません。先ほども述べましたが、現代とは異なる世界の出来事、一コマなのだと納得させるしかありません。
捨てた親は、橋のたもとを歩く人の中に、必ずやこの子を拾ってくれる人がいるであろうことを願い、期待し、その事情は、誰もが納得していたのかもしれません。
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現代ならばどうでしょうか。子供が橋のたもとにおかれている。発見した人は警察に届け出て、関係機関にその捨て子は保護され、親を探すことになります。
警察は、よく耳にする「保護者責任遺棄」を視野に捜査することになります。
芭蕉のように食事を与えたが、そのような保護することをせず、そのままそこに遺棄すれば、与えるという行為(先行行為)により、相互に他人ではない関係が生まれ、継続して関係を持たなければならない作為義務が生じます、それはその子の保護者と同じ立場になるということで、保護する義務と責任が生じます。
現代ではそのように関係性を有することから、責任という問題がすぐに出てきます。哀れであるが、いたしかたない、と放置することは許されません。芭蕉の時代にはなかった新しい責任という言葉がついて回ります。
以前「しがらみ」という古語について言及したことがありますが、そこには、「しがらむ縁」というまとわり絡(から)む関係性は概念として存在していたと思います。しかし合理的に「責任あり」と現代のように竹を切ったようにはなりません。
人情話、義理話、義理と人情を量りにかける、義理人情に篤い、そういう概念が息づいている世界なのです。そこにはありありと「無常」が現出する何かがありました。
話が無常論に行ってしまいますが、ここに出てくる責任とは何でしょうか。責任ありという言葉を聞き、犯罪という視点に立つと刑法上の責任論が思い出されます。
そこで刑法上の責任の話です。私は学生の頃刑法学者故藤木英雄信奉者でしたから、先生の刑法総論(弘文堂)の責任論から刑法上の責任主義について引用したいと思います。
責任主義は、一方においては、刑罰を科する前提としては、道徳的にも不正と認められる行動、すなわち行為の外形ばかりでなく、行為者の意思内容においても非難に値するものがあることが必要だとする道徳的責任の要請、倫理主義的要請に基づくものである。しかし、同時に、刑罰の犯罪抑止力としての実効力性を重視する功利主義的観点からも、有責性を処罰することは有効かつ有意義なことである。(同書p80)
と説明されています。
「道徳的責任の要請、倫理主義的要請」に基づく行動をすることが、現代人には求められています。義理人情から道徳的・倫理的世界に進化しています。
上記の藤木先生の文章の道徳・倫理を「義理と人情に基づくものである」とすると、まったく論外なってしまいます。
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芭蕉の生きたその時代には、確かに何かがあります。「なげき」で時は過ぎ行く。如何ともしがたいそんな世界があったのです。それにみんなが納得していた。
芭蕉に仏教的な関係を論究するするのが普通ですが、芭蕉と「荘子」の関係に論究する考え方もあります。白百合女子大学教授田中義信先生は、『芭蕉』(2010.3.25 中公新書)で次のように述べています。
「猿を聴く人」の句のあとに、芭蕉は子供が捨てられたのはこの子供の天命だと記しているが、この文章が『荘子』「大宗師篇(だいそうしへん)」の子輿(しよ)と子桑(しそう)の説話によっていることが、廣田二郎氏によって指摘されている(『芭蕉の芸術その展開と背景』)。子輿と子桑の説話を簡単に要約する。
子輿と子桑は親友であった。子桑は極貧の生活を送っていた。あるとき、子桑が困っているだろうと、食べ物を用意して子輿が彼を訪ねると、彼は「父か、母か、天か、人か」とうたっていた。子輿はその歌はどういう意味かと訊ねると、子桑は次のように答えた、
「自分がこれほど貧しいのはどうしてなのか。こうなることを父が望んだのか、母が望んだのか、あるいは天のせいか、人のせいか。父や母がこうなることを望んだはずがないし、天や人も自分だけを不公平に扱ったとは考えられない。自分がこのように貧しいのは天命なのだ」と。
芭蕉が描いた捨て子の段と、右の説話は話の構造が同じだから、捨て子の段が右の説話を典拠にしていることは確実であろう。芭蕉は全面的に典拠に依存しているといってよかろうが、これほど典拠に依存した文章はこれ以後の芭蕉の作品には見られない。『野ざらし紀行』の文章はまだ過渡的な段階にあったといってよかろうが、しかしそれだけに、芭蕉が『荘子』の思想に大きな影響を受けた実態をはっきりと見ることができる。
としています。
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今の世の中、天命で許されるものではありません。親としての責任それは、社会人としての責任が社会の進化の中で成立しています。しかし・・・・・・・。
無責任時代という言葉がかつてはやりましたが、今は責任を明確化にする時代、そうであるはずです。しかし、世の動きを見ていると、義理人情の世界でも、倫理道徳の世界でもなく、責任主義の時代でもないように思えてなりません。
今朝は、取り留めのない話ですが、世の動きを見ていてふと思いました。