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ZIPANG TOKIO 2020「そびえる山の厳しさに山伏たちの姿が浮かぶ! 日本遺産認定 出羽三山」

2016.10.03 15:00


羽黒修験道

修験道とは

はるか昔、日本列島に暮らしていた人々にとって、山は神の宿る聖域であり、子孫を見守る祖霊が鎮まるところと考えられていました。修験道は、そのようなおだやかな山岳信仰に根を下ろしながら、仏教とりわけ密教や道教などの影響を受けてかたちづくられました。修験道は中世以降、聖なる山に分け入って谷を渡り、山々を駈け、山に籠もり、山の神霊を我が身に宿す修行を重ねた山伏たちを通じて、人々に受け入れられてきました。日本の多くの霊山が信仰を集める中で、この東北の地におこったのが羽黒修験道です。



羽黒修験道とは

日本海を望む出羽三山が四季折々の表情をみせるように、羽黒修験道は、四季の峰という季節ごとの修行を行いました。その一つ、「秋の峰」では生まれ変わりの修行を実践し、生きながら若々しい生命をよみがえらせることができるという考えを確立しました。それは中世にまでさかのぼる死と再生の儀礼を現在に伝える日本で唯一の修行といわれます。 修行者は、駈ける山々の風に揺れる草木一本に、動物に、自らに、森羅万象すべてに、宇宙のはたらきが生まれながら備わっているのをみます。ここに認められる自然界の生きとし生けるものと共存し、生命の尊さを学びとり、互いを配慮するという考え方は、多くの人々の心に共感を呼び、さらに人の生きかたを深めることでしょう。 羽黒修験道は、はるかな眼差しと未来に伝えるべき豊かな可能性を宿しながら、今も出羽三山に鼓動しています。



東北の霊場 出羽三山は、推古元年(593)に第32代崇峻天皇の御子であられる蜂子皇子によって開かれた。三山を開かれるまでの皇子の難行・苦行を今に伝えるのが、羽黒派古修験道であり、その最大の修行が秋の峰入である。 期 日 8月26日 ~ 9月1日 


秋の峰入

出羽三山に伝わる古修験道は、人皇第32代崇峻天皇の御子、蜂子皇子を御開祖と仰ぎ、1400有余年の伝統を有する尊い修行の道であります。  蜂子皇子が羽黒山に入られ、難行修錬の末、敬愛、仁愛の心を以て教化布衍せられました尊い修行の道を承け継ぐ羽黒派古修験道の行法は、現在では当出羽三山神社の行事として、古儀を厳修し年々変わることなく行われており、霊域羽黒山吹越籠堂を道場としての修行は、まことに意義深いものがあります。古来、春、夏、秋、冬、四季各々の入峰がありましたが、このたびの入峰は秋の峰であり、昔はこの修行を経て、はじめて修験者としての資格を与えられた程重大なものでありました。  この意義深い入峰によって、御開祖の功徳を仰ぎ、誠の道に徹して、世のため、人のために奉仕し、明るく正しい世の中の建設に寄与せらるる様念願するものであります。

参加要項 1、入峰資格 山駈等の厳しい荒行に耐え得る男子(山伏名を付与される) 
              1、期 間 8月26日から9月1日まで(7日間)



神子修行

神子修行道場「趣意」 出羽三山は古来東三十三ケ国総鎮護と云われ行の山、浄めの山、修験の山として宇内に冠たる霊山であります。平成五年、御開山1400年を期し、始めて女性の方にも山伏修行の道を開くこととして創設した神子修行は、内外に多大の感銘を与えました。そして、心の時代としての出羽三山の新たなる歴史を刻む幕開けとして、期待され高く評価されております。  御開祖蜂子皇子は皇統を継ぐべき貴い身でありながら遥々この出羽の辺境に下られ、一切の人間的な怨念を捨て去り信仰の道に入られ、只管厳しい修行に明け暮れて宝 の無窮と庶人の幸せを祈られた「仁愛」の精神は、羽黒派古修験道として生成発展し、今日の山伏修行の根源となっております。  この皇子の尊い足蹟を尋ね、有難い遺戒・訓伝に浴し人間本来の真姿を悟り、明るく正しい清らかな世の中の顕現に寄与されんことを希い、神子修行道場は開設されました。

1、参加資格 山駈等の厳しい荒行に耐え得る女子(年令は問わない) 1、期  間 9月6日から9日まで             集 合 9月6日 午前11時  出羽三山神社社務所          解 散 9月9日 午後5時頃  同 右 

「 秋の峰入」・「神子修行」<問い合わせ先>出羽三山神社社務所            〒997-0292 山形県鶴岡市羽黒町手向7  電 話 0235-62-2355 FAX 0235-62-2352



出羽三山の概念

出羽三山に限って、その思想、哲学は誠に明快ながら奥深く、壮大、無限で、その考え方はいつの世でも万人に通じる真理があります。 現代にあって益々その存在に目が向けられている奈良の三輪山(大神神社)と同様に、この山形県の古代出羽国でも神体山信仰(神名備型山容=神が鎮座する聖山)、自然崇拝など“敬神崇祖”とされる慣わしがありました。 その基となるのが端山信仰※と云われる習俗でした。 ※端山信仰とは 地元には、古来よりアニミズムとされている端山信仰と謂われる慣習には 死後49日間、人の魂はその家に留まって家族を見守り、その後、生家近くの低いお山(端山)に移り、33回忌(33年間)迄の間、集落の安泰繁栄を見守ります。そして、その務めを終えると、死者の魂はその背後に聳える高山に昇り、より高い次元で神仏のお側に籠ると信じられて来ました。出羽三山信仰では 山中においては現在→過去(死)→未来( 再生)とする流れで、修行の意味付けが構築されています。 つまり、 羽黒山、月山、湯殿山という三山を現世ー過去ー未来に見立て、修行の行程も <現在の自分>ー<祖先・過去>ー<未来・再生>という時空間を体験する修行なのです。   この三山はそれらの何処の場所に立ってもその領域があまりにも広大で、それら全体を一望することは出来ません。従って、理屈のみではこの概念の会得は難しい話になるかも知れません。修験道における行は自らの足で体験してこそ、初めて感得できるものなのでありましょう。
 


   羽黒山 羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が随神門(ずいしんもん)。左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と弓矢をもって鎮座しています。 明治の神仏分離以前、この門は仁王門と呼ばれ、仁王尊と左大臣・右大臣が鎮座していました。これは元禄8年(1695)に由利郡矢島の領主生駒讃岐守(いこまさぬきのもり)が、家運の繁栄と極楽往生を祈って寄進したものといわれます。 人の世界と、ご神域である山を分かつ、随神門。 ここをくぐるといよいよ羽黒山に入ってゆきます。


石段参道

羽黒山の入口、随神門をくぐり参道に入ると、ふっと空気が変わるのを感じるでしょう。敷き詰められた石畳の階段を下れば、遠くからせせらぎが聞こえてきます。参道沿いに立ち並ぶのは、樹齢350年から500年を越す老杉。その中へ歩みを進めると、清々しさに満たされてくる―これが山頂まで1.7km続く、羽黒山の参道。新たに生まれ出るための産道と伝えられる山道です。 (photo by Kagioka Ryumon )


 羽黒山中興の祖、50代別当天宥が江戸時代の慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて敷設しました。かつて観音菩薩を祀った由緒から石段には33個の彫り物が刻まれ、すべて探せば大願が成就するとも。山頂までは約1時間。それを見つけながら登るのも一興です。
 


祓川(はらいがわ)

随神門を下ると、川のせせらぎはだんだん近くに聞こえてきます。祓川(はらいがわ)と呼ばれるこの川は、その名のとおり羽黒山へ登るために身を清めた川。戦後まもなく、まだ山頂まで車道がなかった時代まで、参拝者はみな衣服を脱いでこの川に身を浸し、清らかになって山頂までの生まれ変わりの道を歩いたそうです。


羽黒山五重塔

せせらぎの祓川を越えると左手に見えてくるのが羽黒山五重塔です。高さ29m、三間五層の杮葺(こけらぶき)・素木造り(しらきづくり)で、長い軒は飛び立つ白鳥の翼のように美しく、四季を通してそびえたつ姿は優美。雪の降り積もる塔を見に来る人もいるほどです。平安期平将門の建立とされ、慶長十三年(1608)には57万石の出羽山形藩主、最上義光が修造しました。東北地方における唯一の国宝五重塔です。


南谷

「ありがたや雪をかほらす南谷」松尾芭蕉

三の坂の麓で右へ伸びる道が延びています。400mほど進んだところに、「おくのほそ道」の旅で芭蕉が泊まった別院紫苑寺の跡、通称「南谷」があります。俳聖もこの地を詠んで一句、「ありがたや雪をかほらす南谷」。心の字の形をした「心字池」は夏も涼しげな風を運び、南谷を時間のとまったような苔むす場所にしています。かつて涸れていたこの池に320年ぶりに水が湛えられたのは2000年のことでした。羽黒の若者たちによるNPO法人蜂鼓山社中が中心となったボランティア活動が、羽黒山の聖地を整備してきました。今は羽黒山の隠れた名所となっています(photo by Kagioka Ryumon )

 


出羽三山神社・三神合祭殿

羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。周囲には自然の地形に応じて建物が配される山岳寺院特有の景観が広がります。現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。平成12年国の重要文化財に指定されました。


月山旧参道

「木立三里、草原三里、石原三里」

月山旧参道は、羽黒山から月山へ続く道のこと。昭和43年(1918)に麓から八合目に車道が開通するまで、みんなこの道を歩いて月山に登りました。たとえば、『おくのほそ道』の俳聖松尾芭蕉も。 地元では昔から、「木立三里、草原三里、石原三里」と呼びなわされ、羽黒山から月山への約35kmのこの道は標高ごとに風景を変えてゆきます。とりわけ、羽黒山山頂から荒澤寺までの苔むす石が並ぶ道は趣深く、大きなブナの木立は夏に鮮やかな緑を、秋に見事な紅葉を見せてくれます。



月山本宮

標高約1400mの月山八合目弥陀ヶ原湿原から約2時間30分登ると月山山頂に到着します。 月山は標高1984mで、夏でもスキーのできる万年雪があります。吹きつける風は強く、大きな社殿を建てることはできません。そのため自然石を積んだ石垣の中に、一メートル四方ほどの小さな祠をつくりました。かつて「御室(おむろ)」と呼ばれたここに、現在月山神社本宮があります。 祭神は月読命(ツキヨミノミコト)、『古事記』では「夜の食国(おすくに)を司る」とされている神です。『羽黒山縁起』という古い文書には、月山に阿弥陀如来が現れたとあります。阿弥陀如来は死者の国の仏、月読命は夜を支配する神。それゆえ月山は死者たちの住む夜の浄土といわれます。 <開山期間> ●7月1日より9月15日まで  ●月山本宮 参拝時間 朝5:00~夕方17:00 ●月山登拝所要時間/月山八合目、御田原より徒歩約2時間30分、途中八合目、九合目、山頂に山小屋あり、宿泊可(要予約)


その背後に広がるのが雄大な弥陀ヶ原湿原。 その中には「いろは四十八沼」といわれるように、大小さまざまな沼(地塘=ちとう)が散らばっています。


弥陀ヶ原湿原

月山の八合目にある弥陀ヶ原湿原には、この世と思えないほど清々しい景色が広がっています。今は八合目まで車道が通じていますが、かつて一合目から歩いて登った人は、突如として花々の咲き乱れる広大な湿地に到って、さぞ感動を覚えたことでしょう。夏には百数十種の高山植物で埋め尽くされ、毎年多くの観光客が訪れています。 弥陀ヶ原は、阿弥陀如来が祀られていたので「弥陀ヶ原」とも、神様が御田植えをされたことから「御田ヶ原」ともいわれます。御田原参籠所のとなりにあるお社・御田原神社には、稲田の守護神である奇稲田姫神(くしなだひめのかみ)が祀られています。
(photo by Kagioka Ryumon)


月山山頂は、かつて八つの方角(八方)に設けられた八つの登山口(八口)から遠近の旅人を集めた山で、今も多くの登山者が訪れている場所です。山頂に至れば、永い時間になぜそれだけ多くの人々が訪れてきたのかがわかってくるような気がします。


湯殿山神社本宮 

湯殿山神社本宮では、参拝に際して現在でも履き物を脱ぎ、裸足になり、御祓いを受けてからでなければお詣りは許されない。俗世とは切り離された神域である。

湯殿山神社本宮 月山から西に尾根づたいに下りること8km、月山の絶頂より流れ落ちる梵字川のほとり、幽邃な仙境に、悠久の太古より、滾々と霊厳とを御霊代として、大山祗神、大巳貴命(大国主神)、少彦名神の三神が鎮まります湯殿山神社(1,100m)がある。

湯殿山総本寺瀧水寺大日坊 仁王門(中門)

湯殿山総本寺瀧水寺大日坊 本堂外観

国指定重要文化財「金銅仏釈迦如来立像」


湯殿山総本寺 大日坊瀧水寺 (ゆどのさんそうほんじ だいにちぼう りゅうすいじ) 

弘法大師が開山された寺として知られる湯殿山の総本寺です。弘法大師自作の御本尊と即身仏「真如海上人」、国指定重要文化財「金銅仏釈迦如来立像」を安置し、徳川将軍家の祈願寺で春日局が参詣した寺として、全国に名を轟かす由緒ある寺です。 旧境内には高さ27mの風格ある老杉「皇壇の杉」(おうだんのすぎ)がある。(山形県指定天然記念物)
所在地: 鶴岡市大網字入道11 電話: 0235-54-6301 


皇壇の杉 

今から約一八〇〇年前、出羽国大網は12代景行天皇の皇子、御諸別皇子が奥州巡錫の折、旧大日坊境内地に逗留せられ、 大網村、田麦村の境界に海抜七三五米の山に数百羽の鷹がおり、弓矢の風切りにこの鷹の羽根が重要されました。 此の山一帯に大きい網を張り鷹を捕まえ、朝廷に羽根を送り続け、朝廷から大変喜ばれ御礼として此の地を出羽国と 名付けられ、其の山を鷹匠山とされた。此の地に大きい網を張ったので大網と名付けられ、皇子の居住地となりました。 今日でも大日坊旧境内地は大網一番地であり大網の発祥地となっております。 皇子は此の地で御遷化なされ墓所に植えられた杉が皇檀の杉と言われ、山形県指定の天然記念物として保存されています。 大同元年、空海上人(弘法大師)は唐より帰朝の際、これから自分が求める聖地に一寺建立と誓願され、 五鈷と三鈷を唐より投げられたのは有名な伝説ですが、五鈷杵は湯殿山大網の地、皇檀の杉に掛かり、弘法大師五鈷掛の杉とも言われました。 もう一方の三鈷は高野山の松に掛かり三鈷の松と言われております。帰国後、空海上人は大同二年四月八日一番に湯殿山を開山され、 最後は高野山を開山されたのです。 其の昔、湯殿山は女人禁制であり、それを哀れんだ大師は此の地に湯殿山本地仏大日如来(湯殿山大権現)を勧請し祀られ、 月山の麓の聖地に祀った(月山は阿弥陀如来)ので、大日如来の大と阿弥陀如来の阿弥で大阿弥とも付けられた。 大網(大阿弥)は大日坊の事なのです。

                                                                                                                                  即身仏「真如海上人」

かつて、世の平穏を願い、自らの意思によって穀物を絶つ厳しい修行のすえ、土中に作られた石室の中に隠り、生きながら即身仏(ミイラ仏)となったお坊さんたちがいました。全国でも数少ない即身仏。そのうち4体が鶴岡市に祀られいます。

代受苦菩薩真如海上人

真如海上人は朝日村越中山に生まれ、純真な性格の持ち主として育ち、幼少の頃より仏教の教に心をひかれ、 青年時代よりは仏門に帰依出家し一生を捧げました。弱肉強食の不平等社会を仏国楽土たらしめ衆生をすくうことを誓願なされ、 湯殿山大権現を信仰し本寺大日坊を拠点として各方面の教化につとめ、寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、 徳望一世に高く生き仏として多くの人々より尊ばれました。 一世行人を誓い生身のまま土中に入定するまで七十余年の長い間この難行苦行をつみ重ね日本一の即身仏となられました。

即身仏とミイラの違い

一般的に、ミイラは遺体から内臓等を取り出して防腐処理を施すなど人工的にその姿にしたものを言い、 即身仏は、厳しい修行の末に体内から脂肪や水分を落とし、身体内の窒素率を消耗しつくし、 腐敗雑菌の発生を防ぎ朽ちない身となり土の中に入って断食死し、その後数年後に掘り出されたものを言います。 真如海上人は、湯殿山修行の難業苦業(一世行人)の木食の行をつみかさね、 身と口と心の行ないを正して自らを修め慈悲を施して他人を正し現世来世を通じて仏国楽土を築かんとの信仰から、 死後も体を残して人々に仏教を語ろうと決意され、生きながらにして土中に入定し三年三ヶ月後に 弟子や信者の手により掘り出し自然乾燥して即身仏となられました。 ※ミイラとはポルトガル語ではミルラーと言われ防腐剤のことです。


松例祭(歳夜祭)

1400年以上の歴史を持つ羽黒修験道の行場・羽黒山では、古より修験者が春夏秋冬と年4回の 峰修行を行なってきました。 明治の世となり、出羽三山が神の山になると、羽黒山頂の 清僧修験者のみで行なってきた春峰は寺院の崩壊とともに廃絶しました。 しかし残りの夏峰・秋峰・冬峰は、羽黒山麓の門前町「手向(とうげ)集落」の 妻帯修験者や村人たちによって今へと受け継がれてきました。 なかでも冬峰は、手向の妻帯修験者である二人の松聖 (位上と 先途)が、 9月24日から興屋聖に納められた五穀に稲霊の憑依を祈る百日行です。 満願の日となる大晦日には、手向集落の若者衆全員が位上方と先途方に分かれ、松聖の験力を試すさまざまな祭事を行います。それが「松例祭」であり、 大晦日から元旦にかけて夜を徹して行われることから、「歳夜祭」とも言われています。
 


祭の起源

その一「鳥海山の巨大な悪鬼説」 慶雲(704〜708)の暮れ、28m余りの一頭三面六臂の悪鬼が子分を引き連れ、鳥海山より庄内地方一帯に悪臭を吹きかけ、暴れ回った。 そのため家は壊れ、疫病が蔓延し、亡くなる者の数は幾万人にも及んだ。そこで出羽国を挙げて羽黒本社に祈りを捧げると、 羽黒山の神様である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、秋田県山本郡の郡司の娘に憑き、「神前に種々物(くさぐさのもの)を捧げ、 12人の験者を着座させて一か所にうずくまらせ、雌雄(陰陽)の加持を修しなさい。また松明を堅く縛め、悪の18種になぞらえて鬼形に象り、 これを焼き尽くしなさい。往古、諸々の神が高天原に集って日本国を分けられた時、東路より陸奥国までは羽黒山に遣わされました。 これより天地東西南北の堺に方尺棒を指し、すみやかに先祖の霊を祀り、鬼を日本の外に追い払えなさい」と告げた。 国人がこの神託に従って斎行すると、悪鬼はたちまち退いたという。

その二「文武天皇の追儺行事説」 慶雲3(706)年、疫病が広く流行したため、第42代文武天皇(692~707)が追儺(ついな)行事を行い、 病気や不作を鬼の仕業として追い払ったことに起因するという。

その三「蜂子皇子の焼き払い説」 開祖の蜂子皇子は都よりたずさえてきた五穀の種でこの地に農耕を広めたが、ある時、田んぼに入った農民が原因不明の熱病でばたばたと死んでしまった。 そこで皇子が手向にある聖山に籠って願をかけたところ、百日目に「悪魔を焼き払えよ」とのお告げがあった。それに従い網と綱でツツガ虫(悪鬼)に見立てた大きな松明を作り、 火をつけて焼き払うと、疫病はたちまち鎮まったという。


それでは最後に、羽黒山の麓にある観光案内所・いでは文化記念館から、各観光スポットへのアクセスをご案内します。


羽黒山へ 羽黒山参詣道の入り口・随神門までは徒歩約3分の距離です。ここから羽黒山五重塔まで徒歩約15分。山頂へは徒歩約1時間。詳しくは羽黒山おすすめルート・コースをご参照ください。 車をご利用の場合は、いでは文化記念館から一般道を進み、途中から羽黒山有料道路を経由して、羽黒山山頂駐車場まで約15分です(Google Mapsのルート検索でもご案内しています)。 月山へ 月山八合目駐車場までは約1時間の距離です(Google Mapsのルート検索でもご案内しています)。月山山頂へは片道約2時間半のコースです。詳しくは月山おすすめコース・ルートをご参照ください。 湯殿山へ 湯殿山参籠所前の駐車場へはスーパー農道(庄内こばえちゃライン)、112号線を経由して約1時間20分の距離です(Google Mapsのルート検索でもご案内しています)。駐車場から湯殿山本宮までは歩いて約20分の距離です。約10分おきに出発するシャトルバスがご利用いただけます。片道200円です。 正善院黄金堂へ 距離約2kmの宿坊街をぶらり散策しながら徒歩約20分、車で約5分です(Google Mapsのルート検索でもご案内しています)。 玉川寺へ 徒歩30分、車で約10分です(Google Mapsのルート検索でもご案内しています)。 



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使



協力(敬称略)

山形県鶴岡市羽黒町観光協会 (いでは文化記念館内)
〒997-0211 山形県鶴岡市羽黒町手向字院主南72
TEL 0235-62-4727(火曜日以外) FAX 0235-62-4729