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こよひやちるらん、あすやしほれん

2018.01.31 13:58

https://blog.ebipop.com/2018/10/basho29.html 【猿を聞人捨子に秋の風いかに】 より

富士川の捨て子

東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。

富士川付近からも富士山を望見できるのだが、「富士を見ぬ日(江戸離れ)」を目指した旅なので、芭蕉はもう富士には触れない。

以下は、「野晒紀行」の富士川について書かれた文である。

「富士川のほとりを行(ゆく)に、三(み)つ計(ばかり)なる捨子(すてご)の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計(ばかり)の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

次に、私の現代語訳。

「富士川の辺りを進んでいると、三歳ぐらいの捨て子が悲しそうに泣いているのに出会った。富士川の急流を渡るのに比べると、浮世の荒波を渡るのはむずかしい。露のようなはかない命が消えるのを待つ間もないと捨て置かれたのであろう。小萩の根本に捨て置かれて秋の風が冷たく吹いている。捨て子は小萩の花のように今夜に散るかもしれない、明日にはしおれるだろうと思われ、袂から食物を出して捨て子の方へ投げて通るけれども、」

富士川を長江に模して

猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに

中国の長江で、川の両岸の猿が悲しげに鳴いているなかを、舟がまたたくまに急流を下ったという漢詩を連想させるような挿話と発句である。

その漢詩は「白帝城(はくていじょう)」と題された李白の作。

日本三大急流のひとつである富士川の急流を、芭蕉は長江の急流に模したのだろう。

掲句の「猿を聞人」とは、猿の鳴き声を聞きながら長江を舟で下った李白のことと思われる。

猿の鳴き声ならばいかに悲しそうでも、これを聞き流してそのまま船で下ることが出来る。

だが、寒い秋風に晒されている捨て子の泣き声だったら、どうして船で通り過ぎることができようか。

というイメージなのではと私は感じている。

捨て子に説教

掲句の後に次の文章が続く。

「いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。

「どうしてそんなに泣くことがあろうか。おまえは父親に憎まれたと思っているのか、母親に嫌われたと思っているのか。父親はおまえを憎んでなどいないだろう、母親はおまえを嫌ってはいないであろう。ただ言えることは、おまえが捨てられたことは、天がおまえに与えた運命であるから、そのことに気づかないおまえの未熟さを嘆け。」

これはちょっと主観的な意訳が過ぎるであろうか。

なんと芭蕉は、三歳ぐらいの捨て子に、考え方や生き方について説教したのである。

いや説教というより叱咤激励か・・・

上記の激励を切りに、この捨て子のエピソードは終わっている。

捨て子のその後

そのあと、この捨て子はどうなったのだろう。

芭蕉に言い聞かされて泣くのをやめ、プラス志向に転じ、渡し船の船頭の弟子になったか、商人に拾われて丁稚奉公に励んだか。

そんなことまで芭蕉は書かない。

「野ざらし」ではじまり、「野ざらし」を打ち消しながら「野晒紀行」の旅を進めていた芭蕉。

芭蕉は、この富士川でも「野ざらし(マイナス志向)」を打ち消したに違いない。

プラス志向

ちなみに、「猿を聞人捨子に秋の風いかに」に対するインターネットの評判は悪い。

それは、芭蕉が捨て子にわずかばかりの食料を投げ与えて、薄情にもその場を立ち去ったという「解釈」に因っている。

はたしてそうだったのか。

あるいは、この話自体が、「富士川の急流」と「浮世の荒波」を掛け合わせるためのフィクションだったのか。

それは芭蕉のみぞ知る。

ただ私は、「野晒紀行」の旅を、芭蕉がマイナス志向を打ち消していく旅だと感じているゆえに、捨て子の生きる道を空想したまでである。


http://www.basho-bp.jp/?page_id=20 【野ざらし紀行(43句)】 より

貞享元年(1684)8月〜貞享2年4月末 芭蕉41歳

 貞享元年(1684)8月、芭蕉は門人千里を伴い、初めての文学的な旅に出る。東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都・大津・名古屋を訪ね、江戸へ帰るまでの9か月にも及ぶ旅。「野ざらし」を心に決意しての旅であっただけに収穫も多く、尾張連衆と巻いた『冬の日』は風狂精神を基調として、新風の萌芽がみられる。

 紀行文の名称は、『草枕』『芭蕉翁道の記』『甲子吟行』など多数みられるが、今日では『野ざらし紀行』が広く用いられている。「漢詩文調」からの脱却と蕉風樹立の第一歩となる。芭蕉自筆の画巻や元禄11年(1689)刊の『泊船集』などの刊本の形で伝わっている。