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Okinawa 沖縄 #2 Day 76 (01/02/21) 旧真壁村 (1) Arakaki Hamlet 新垣集落

2021.02.02 01:32

旧東風平村 世名城集落 (よなぐすく)、高良集落 (たから) 

訪問レポートは Okinawa 沖縄 #2 Day 46 (19/10/20) 旧東風平 (9) Yonagusuku Hamlet 世名城集落 と Okinawa 沖縄 #2 Day 47 (23/10/20) 旧東風平 (10) Takara Hamlet 高良集落 に追加記載している。

八重瀬公園

旧真壁村 新垣集落 (あらかき、アラカチ)

今日から糸満市に合併した旧村の三つ目の真壁村巡りを始める。2月が始まり沖縄では桜の季節が到来した。真壁村に向かう途中に桜の名所の八重瀬公園があるので、そこで桜を見てから向かうことにした。八重瀬公園は八重瀬岳の高台にあり、自転車で登るので、最短距離の急坂をさけ、世名城集落に出て高良集落を周り、八重瀬岳の頂上までというルートをとった。

途中で世名城と高良で以前訪問した際に見つからなかった文化財を見つけた。2月に入り旧正月が近づいてきている。この時期はいつもは草が生え茂り隠れてしまっている拝所への道の草刈りを行う。それで今日発見できたという次第だ。


旧真壁村 新垣集落 (あらかき、アラカチ)

今日から訪れる旧真壁村は、もともと真壁間切で、古くは「しもしましり」とも呼ばれていた。1896年の郡区制で島尻郡に編入され、1908年に島嶼町村制で真壁村となった。沖縄戦では激戦地の八重瀬や与座に近いこともあって当時の村の人口の半数近い約2000人近くが犠牲になり、戦後は村独自では復興が難しいことから、1946年に南に隣接する摩文仁村、喜屋武村と合併し三和村となり、真壁村は消滅。その後三和村は1961年に旧糸満町 (現在の糸満市字糸満)、旧高嶺村、旧兼城村と合併し新しく糸満町となり、さらに1971年に市制施行し、糸満市となった。

与座岳南麓の緩やかな斜面にある字で、北は旧高嶺村の与座、大里、国吉と、南は旧真壁村の真栄平、真壁と接している。字新垣の東部は農地とゴルフ場が大部分を占め、西部は集落と農地が広がっている。主要産業は農業。この旧真壁村の村史は作られておらず、パンプレット形式の文化財マップがあるのみで、村や集落の詳しい歴史や習慣などを調べるのは難しく、インターネットや糸満に関する書物で部分的にわかるのみだ。村史が作られていないのは残念だ。戦後随分と年月を経て以前の文化や風習を語ってくれる人も極めて少なくなってきている。村史を編纂するとしたら、多分、今が最後のチャンスと思うが、どうしているのだろうか。

新垣集落の人口についてはここ20年は毎年減少が続いている。現在の人口は明治13年のレベルにまで減少している。糸満市内では兼城地域、西崎地域は人口数が増加しており、高嶺地域についてはほぼ横ばい、糸満地域、三和地域については減少傾向にある。これは旧三和村共通の問題だ。糸満市の今後の人口予測では三和地区ではこの先30年で40%の人口減少が起こるとしている。地域産業 (農業等) の停滞、雇用力の減少、利便性 (交通・暮らし等) の欠如、生活習慣の変化 (核家族化等) 等など複合的なものとされているが、雇用環境が最大の原因で、その雇用環境の悪化には産業の停滞や利便性が大きな影響を与えていると思う。他の集落を見てきて、人口が高い率で増加している地区には大規模の集合住宅がある。県が指定地区に選定し、建設をしている。この三和地区はその対象にはなっておらず、県営や市営の集合住宅が他の地域に比べて少ない。糸満市の計画書には地域資源を活かした集落環境の整備をすると書かれてはいるが、その内容には具体性がなく、お粗末なものと感じる。新垣地区では「新垣クスクの公園整備の促進、伝統的な格子状街路の保持、集落内幹線の整備推進、公共下水道の導入、地域資源の保全・整備・活用」 とあるがどれも本来行政がやるべきことの基本的なもので、ここに住みたい思わせる魅力的な対策はない。私見だが最も重要なのは仕事があるか、住んで満足できるかが重要だが、それに対しての取り組みは見られない。この三和地区の人口減少の対策として糸満市では「三和地域市営住宅建設基本計画」を策定している。これに目を通したのだが、計画の主体は現在住んでいる住民の流出を防ぐという観点で作成されている。ヒアリングを行い地域から出ていった人の理由を分析しているのだが、あまりにも視点が狭すぎると感じた。行政は他の地域との競争と考えるべきで、他の地域より魅力的なものにし、転入の促進を主体にすべきと思うのだが、沖縄の住民のメンタリティーは保守的で地域外からの移住で文化や習慣に影響が出ることに不安を感じる傾向にある。そのような風土が流出の抑制が目的に置かれてしまったのではないかとも感じた。転入が文化や習慣を破壊する直接の要因ではなく、それを維持する方策はいくらでもあるはずなので、本来はもっと攻める計画を市としても立案すべきだろう。

糸満市の資料ではこの三和地区の少子高齢化が危険な状態と分析している。これを見ると三和地区の高齢化が他の地域に比べ突出している。

新垣集落は旧真壁村では現在人口は3番目に多い地区とはなっているが、すべての地区が人口減少問題を抱えているので、この順位についてはあまり意味がない。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の新垣集落の文化財


今日巡った新垣集落の文化財


八重瀬公園

標高120mにある八重瀬公園に桜を見るために訪れた。桜は咲き始めたばかりでまだ5分、6分先といったところ。今年は気温が例年に比べて低かったせいか開花が遅れているのだろうか?来週にでももう一度来れば、満開下桜が見れるかもしれない。


八重瀬公園から標高140mの与座岳まで登り、与座航空自衛隊基地から新垣グスクに向かって坂道を下る。



恵泉 (メグミガー)

新垣グスクのある丘陵の東側の麓に井戸跡がある。この井戸は集落にあったソージガーに代わる簡易水道の水源地として新垣住民が出資して1975年 (昭和50年) に造った井戸で農業用水や家庭での雑用水などに利用されている。井戸があった周りはコンクリートで固められて、真ん中に給水施設が建っている。この建物の前に香炉が置かれ、カーマーイ拝まれている。


歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地

恵泉 (メグミガー) のすぐ近くに沖縄戦の遺構が保存され、慰霊碑が建っていた。ここには歩兵第八十九連隊の本部が置かれ、6月19日に軍旗を焼き、連隊長が自決しほとんどの将校も自決し、玉砕した地だ。以前西原を巡った際に西原の塔の敷地内にこの第八十九連隊(山三四七六部隊)顕彰碑があった。この歩兵第八十九連隊は北海道旭川に置かれた舞台で、満州、サイパンを経て沖縄に配属された。沖縄戦に於いて日本軍の主力歩兵部隊として善戦するも、米軍の圧倒的な兵力火力の前に徐々に劣勢となり、遂に6月19日に新垣の司令部壕にて金山均連隊長以下将兵が玉砕。インターネットで沖縄戦を詳しく解説しているサイトがある。そのサイトを見ると当時の先頭の模様がよくわかる。 (沖縄戦史 公刊戦史と地図で探る沖縄地上戦 戦闘戦史 http://okinawa-senshi.boy.jp/index.htm)

恵泉 (メグミガー) から表示板に従い進むと丘陵の麓に慰霊碑が二つ建っている。軍旗奉焼之地と玉砕終焉之地とある。その奥には洞窟がある。ここが歩兵第八十九連隊の本部があり、この中で自決が行われた。


新垣グスク

新垣グスクは、新垣集落の北側石灰岩丘陵に築かれたグスクで、南山配下の新垣按司の居城であった。グスクは、北側が断崖で、東・南・西側とも崖状になっており、その地形に 沿って城壁を巡らせていた。

伝承では三山時代、新垣大親は八重瀬按司の達勃期の家来だったが、汪応祖が大城按司になった際にサムレー大将として迎えられ、以後、汪応祖に仕えていた。汪応祖が山南王になる際は、汪応祖を裏切り達勃期側に着き、戦いに敗れ処刑された。息子が新垣大親として父親の跡を継いで、山南王の重臣となった。汪応祖は島尻大里グスクの防備のために、重臣たちの本拠地に出城を築かせ、新垣大親も新垣にグスクを築き居城としていた。汪応祖が達勃期に殺害された後は達勃期の重臣となった。その後、汪応祖の嫡男の他魯毎軍勢に新垣グスクは包囲され落城し、他魯毎により処刑された。その息子が新垣大親を継ぎ他魯毎に仕えたとあるが、それ以降は調べられなかった。他魯毎の最期は重臣の寝返りがあったので、この新垣大親も尚巴志側に寝返っているのかもしれない。

畑を突っ切り丘陵の方向に行くと林の中に入る道がある。桜の木の横に自転車を停め、多分グスクへの道と思われる道に入っていく。

道を進むと置くん標識が建っている。グスクへの入り口。底に井戸跡が残っている。

標識がある道を進むと石の階段が頂上に伸びている。ここが城門に当たる場所。階段は左に曲がり、その先に頂上が見えてくる。


頂上部には「新垣城南山神世」を拝む香炉とヒヌカンを祀ったお宮が建っているのだが、宮野小屋は入戸は壊れ、傾き、香炉は埃だらけで乱雑に置かれている。村でもそれほど賓案に御願されてはいないのだろう。

お宮の横は石垣で囲まれ、一段高くなっており、そこには二つの拝所がある。今帰仁、首里、大城森グスクへの遥拝所だそうで、並里門中がウマチーで拝んでいる。

ここからはここに来るときに通ってきたゴルフ場や自衛隊分屯地が見える。ここは標高120mぐらいで向こうに見えている自衛隊のレーダーがある場所は標高140m程だ。沖縄南部では比較的高い場所だ。


ここで少し景色を見ながら休憩をし、階段を下り標識のある場所に戻る。この周りもグスクの一部と思える。道はまだ数本ありそこを行くと何本かは登りになり、石垣が残っている。そこは崖の縁で多分、物見台の役割をしていたように思われる。

もう一本の道を進むと新垣集落に通じていた。この道の途中に石を積み重ねた祠の拝所がある。拝所の前は広場になっている。ここに集まって御願をするのだろう。

グスクのある丘陵から新垣集落までは新垣集落の門中の墓がいくつかある。


大城門中の墓


和茶門中の墓


大内間門中の墓


この新垣も古琉球の典型的な集落の形態で丘陵にグスクと拝所がありその丘陵の斜面南側に向けて集落が広がっている。



クラサンマ―、旧村屋 (ムラヤー)

墓群を抜けると先ほどグスクから集落に通じる場所に出た。ここに新垣公園がある。ここはかつて琉球王府に上納する米などを保管する高倉が建っていた広場で、完納を祝うムラ行事のクラサウグワン (倉の御願) はここで行われた。その後、村屋 (ムラヤー) もこの場所にあった。


トウン (殿)、平和之記念碑

新垣公園之丘陵側、集落北部に金網フェンスに囲まれた拝所がある。トウン (殿) と呼ばれている。新垣の重要な聖地で、そこにあるコンクリート造りの建物はお宮と呼ばれ、ムラ行事で拝むヒヌカンと香炉が祀られているそうだ。そのほかにも、ジーチヌカミ (土地の神)、ワラビ神 ウタムトと書かれた拝所がある。

もう一つ石碑があり平和記念之碑となっている。沖縄戦後に集められた遺骨は国吉にある浄魂之塔に埋められていたのだが、集落内の住民戦没者の慰霊碑はここだけだ。もう一つ白鳩之碑と呼ばれる慰霊碑があるのだが、こちらは住民の慰霊碑ではなく第24師団通信隊 (山 第3482部隊) の鎮魂碑となっている。

沖縄戦では首里が陥落した後は日本軍は南部に移動し、八重岳、与座岳、国吉丘陵、真栄里丘陵は米車の進撃をむ日本軍最後の防衛線であったことから、日本軍は生き残った兵力をこの防衛線に集結させ、最後の抵抗に臨んでいた。

この新垣もその戦火に巻き込まれた集落の一つで、戦没者の比率が非常に高い集落でもある。新垣集落には昭和19年から、野砲第42連隊第一大隊や第24師団制毒隊などが新垣に駐屯しており、瓦葺きや雨端瓦 (ひさしが葺き) の家は、ほとんどが将校の宿泊所になり、その他の家も物資の保管所として使用されていた。一般兵士は、部落周辺にテントを張って宿泊していた。部落周辺の丘部には、いくつもの陣地壕が構築され、部落西側には高射砲陣地が設けられていた。兵隊の食料は集落が供出を強制されてていた。昭和20年4月1日の米軍沖縄本島上陸後は、駐屯していた日本軍は戦場に移動していったが、首里陥落後は日本軍は与座岳周辺に陣を設け、この新垣にも多くの兵隊が移動してきた。兵隊だけではなく南部へと逃げてきた避難民で集落はいっぱいとなっていた。この新垣にも艦砲射撃で砲弾が撃ち込まれ多くの犠牲者がでていた。新垣住民の避難壕は日本軍に占領され、住民は壕から追い出されたという。沖縄戦当時、新垣の人口は744人 (沖縄県内 480人、本土 62人、南洋外地 143人、南米移住者 48人、不明 11人) の内戦没者は300人で40.3%。全133世帯のうち、戦没者がいる世帯は110世帯 (82.7%)、家族の半数以上が戦没した世帯は55世帯 (41.3 %)、一家全減した世帯が21世帯 (15.7 %) となっている。沖縄県内 480人の中では239人が戦没しており、49.7%で、疎開者がこのうち35名いるので、それを除くと445人中235人が犠牲となり52.8%にも上る。米軍が新垣に接近してきた時には集落の南方も戦火が激しく、住民は逃げ場所がなく、集落の避難壕や屋敷壕に隠れていた。村に残留した住民は378名で、その内48%の182名が戦没者と報告されている。

これほどまでに被害が大きくなった要因として一般的に挙げられているのが、

沖縄戦での生き残った人たちの回顧録の多くで、日本兵の沖縄住民に対する残虐行為を証言している。米軍が記録している報告書の中でも、住民と日本兵が混在していた避難壕を掌握した際に、沖縄住民に日本兵をどうするかと尋ねたときに住民は殺してほしいと答えたとのがいくつかあるそうだ。集落によっては恐れていたのは米軍ではなく日本軍だったともいう。米軍が沖縄統治を開始し琉球政府を設置した一つの大義が沖縄の独立だったのだが、前述の沖縄住民の日本軍への憎しみや、琉球王朝の歴史などから、アメリカは当初は本当に沖縄の日本からの解放独立も根強い一つの方向だったのだろうと思う。



三様が世 (ミサマガユー)

殿 (トゥン) の丘陵側に幾つかの古墓が集中している所がある。その一つは三様が世 (ミサマガユー) と呼ばれ、香炉が3っ置かれており、正面に向かって右から長男、二男、三男の香炉であると伝わるが、ムラとの関係など詳細は不明。棒巻きの御願で並里の屋敷からから遥拝している。

これ以外に女神と男神と書かれた拝所があるが、詳細は分からない。

この奥には村元 (ムラムトゥ) の並里門中のトーシー (現在使用している墓) がある。



並里 (ナンジャ) の神アサギ

かつてクラサンマ―だった新垣公園のすぐ西に、先ほど墓があった新垣の草分け筋の家で村元といわれる並里 (ナンジャ) の神屋が屋敷内に建っている。ムラ行事で拝む香炉とヒヌカンが祀られているほか、ジューグャーの棒巻きで使うポーバタ (棒旗) なども保管されているそうだ。


並里 (ナンジャ) 腹門中の墓

国元 (クニムトゥ) の並里腹門中のトーシー (当世) 墓 は大里集落から新垣集落に向かう道路沿いにあった。墓の敷地の中にお通しがある。大城森、南山城、冨盛安谷屋、冨盛奴呂殿内、中城城とある。新垣は南山に属していたので、南山国に係わるところへの遙拝所なのだろう。


野呂殿内 (ヌントゥンチ) の神屋

新垣集落の東の端には並里門中の行事やムラ行事における神役を担う野呂殿内 (ヌントゥンチ) の神屋がある。内部には香炉とヒヌカンが祀られている。棒巻きの御願では屋外にある石のも香炉も拝んでいる。


地頭火の神 (ジトゥービヌカン)

野呂殿内の北には地頭火の神 (ジトゥービヌカン) がある。村の火の神 (ヒヌカン) で、昔はここに種火があり、各家庭で使う竈の火が絶えないよう、先ほどの野呂殿内が種火を守っていたとされる。かつては旧暦10月1日のカママーイ (竈廻り) で拝んでいた。カママーイとは集落内の家にあった竈をまわり行事で、台所廻りの火災防止のために行っていた。沖縄は今でも台所に火の神 (ヒヌカン) を祀っており、旧暦1日と15日には茶や線香をあげ、健康家内安全を祈願する習慣がある。旧暦10月は神無月で全国の神様が出雲大社 (?) に集り、火の神 (ヒヌカン) 含め各地の神様がは居なくなるので、この月は火の神 (ヒヌカン) がも持ってくれないので村で火の用心のため竈を見回り注意を呼び掛けた。


クバ御嶽

野呂殿内 (ヌントゥンチ) の南側にはクバ御嶽がある。かってはクバ (ビロウ) の木が生い茂っていたことからクバアタイ (小さな畑の意) とも呼ばれる。現在は4月吉日の農地の害虫駆除のためのアプシバレー (畦払い) で拝んでいる。


ウチバンジョー

クバ御嶽から少し西へ集落に入った所にウチバンジョーという拝所があり、4つほど拝所が集まっている。ここは新垣の人々に芸能を教えた人物が葬られているとされており、旧暦8月15日のジューグャー  (十五夜) のムラアシビ (村遊び) があったころに拝んでいたが、新垣では現在はジューグャー  (十五夜) の御願は行われていない。


ムイ

ウチバンジョーの隣に、集落東部の住人がチナウチ (綱作り) をしたり、チキイシ (カ石) を持ち上げたりした広場があり、ムラのフンシ (風水) として大切にされた。ムイと呼ばれているのだが、このムイは山の事や森の事を指しているようだ。ここは山とは言えないので森の事を指しているのだろう。今は森ではないのだが、広場には沖縄戦を乗り越えたガジュマルの木が2本生えている。


東井泉 (アガリガー)

ムイから坂道を下り、集落の南にある畑の中に東井泉 (アガリガー) がある。ここは、かつては集落東部の住民の生活用水などとして使われていた。今でも水が湧き出している。言い伝えでは新垣のノロと真栄平に住む武士が隠れ住んだと伝わる場所の近くにあるカーで、クワッキナガー (隠れるカー) とも呼ばれる。新垣ノロと真栄平の武士との話は書かれていないのだが、不倫なのかロマンスなのか、少し気になる。更に、干ばつのときに濡れた犬を追って発見したカーであるとの伝承もある。(この伝承は何度目だろう。沖縄ではごく一般的な伝承だ)


グスクマシガー

東井泉 (アガリガー) の近くの畑の中に別の井戸跡がある。ここにはもう水は枯渇しており井戸は残っていないがコンクリートプロックで祭壇を造り拝所となっている。新垣で最も古いカーであると伝わる。ウマチーのカーマーイ (井泉巡り) などで拝んでいる。


これで集落の東側の文化財見学はすべて終了。正確にはガイドブックに載っていた二つの墓跡は何度も探しても見つからなかったので、それ以外ということ。未訪問の文化財についても、記載しておく。また来る時には再度探すことにする。


2月10日に宇江城集落に向く途中に、この新垣集落に抜ける際、先日見つからなかった二つの墓を探した場所の少し下の道路を通った。道の側に雑木林に入る道があったので、ひょっとしてこの二つの墓があるかもしれないと思い立ち寄ると、二つの岩にそれぞれ墓があった。


東原の古墓 (2月10日 訪問)

真栄平集落と接する集落の東側は東原という小字がある。ここに幾つかの古墓が集まっている。古い時代の先祖 (沖縄方言ではウヤファーフジ と言い、今でも一般的に使われている) の墓で、正面の岩にはタマーヤマと書かれた墓がある。その墓の向かって右に玉城世 (タマグスクユー) 、祝女世 (ノロユー)、百次世 (ムンナンユー) のものと伝わっている墓がある。ムラ行事で屋号 並里から遥拝している。


謝名武士の墓 (2月10日 訪問)

東原の古墓の奥にもうひとつ墓がある。新垣の若者たちに棒術を教えた人物を葬ったとされる古墓。戦前まで墓の中には骨壺とともに刀が納められていたと伝わる。棒巻きの御願では棒術演武が奉納される。



アシビナー、公民館

新垣集落のほぼ中心に公民館がある。北側にあったクラサンマ―、旧村屋 (ムラヤー) から村屋が写ってきて公民館になっている。公民館の前の広場はアシビナーだった場所。ここでは現在でも十五夜行事の棒巻きやワラビジナ (童綱、子どもだけで引く綱) などのムラ行事はここで盛大に催される。

新垣棒巻きは140年ほどの歴史があり、兵 (ヒョウ) と呼ばれる4つの集団が分かれて巻く集団演舞「四方巻き」が有名だそうだ。


タケイシプリ

戦前からあるプリ (岩) のひとつで、干ばつの大元とされる「火ブリ」と考えられ、プリの上にあったアコウの木を大切にしていた。現在はガジュマルの木などが根を下ろしている。と解説にはあったが写真は載っておらず、岩を探すと地図上の場所にこのような岩があった。多分この岩の事かと思う。


酉の方御嶽 (ウイヌファウタキ)

この酉の方御嶽 (ウイヌファウタキ) も写真は載っていなかったが、地図に載っていた場所を探すと大木の裏に祠があったので、これがそうだと思う。酉の方角 (西) を拝む拝所で、門中行事で拝んでいるそうだ。


ソージ井泉 (ソージガー)

集落西に立派な井戸が残っている。ソージ井泉 (ソージガー) と呼ばれ、南山時代に発見されたカー (井泉) と伝わっている。西にあるので、イリーガー (西井泉) ともいい、かっては集落西部の住民の生活用水や字の簡易水道の水源として利用された。(後に今日初めに訪れた恵カーに水源が移されている) 沖縄戦では住民は集落の丘陵側に隠れていたが、生活用水はこの集落を下った西の端のソージ井泉 (ソージガー) まで通っていたのだが、この水くみは危険な作業で多くの住民がこの水くみの際に犠牲になり、井戸の周りには死体がいっぱいだったという話が載っていた。


クガーグワー

ソージ井泉 (ソージガー) から少しだけ西に行ったところに別の井戸跡がある。クガーグワーhは小さな (グヮー) カー (井泉) という意味でその名が付いたといい、チョンチョンガーとも呼ばれる。稲作が盛んなころは、このカーの水が周囲の水田を潤したと伝わる。


安里樋川 (アサトウヒージャー)

集落から外れて西にある国吉との境にもう一つ井戸があったそうだ。かっては水量豊かな安里樋川だ。この井戸を探したが、結局わからなかった。解説では「現在、周囲は雑木に覆われて足場が悪いため、カーマーイでは県営新垣団地の正面南側の市道から遙拝している。」とある。ちょうど崖になっており、下は畑なのだが、雨でぬかるんでおり確かに足場は悪そうだ。

ここにある県営新垣団地は以前は国吉に属していた。この井戸も国吉の人たちも使っていたので、今でも国吉の人からも拝まれている。


これで今日の新垣集落の文化財巡りはすべておわり、家路につく。



参考文献