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「野の花を見よ、空の鳥を見よ」

2018.02.01 03:33

https://www.keiwa-c.ac.jp/info/2018/11/25/49852.html  【「野の花を見よ、空の鳥を見よ」】 より

皆さん、おはようございます。今朝は収穫感謝礼拝の日です。これは1620年にメイフラワー号でアメリカに渡ったピューリタンと呼ばれるキリスト教徒と乗組員併せて130人ほどの人が、持ってきた種が育たず最初の冬を越すと飢えと寒さと病で半数近くの人が亡くなりました。一年経ってインディアンに教わったトウモロコシを植えて、初めての収穫を祝って生き延びることができたことを神に感謝したことから始まったものです。

また、今日は新発田教会では敬和学園大学デーとして敬和学園大学を覚えて礼拝を捧げてくださることを心から感謝いたします。皆さまのさまざまなご支援を覚えて心から感謝をいたします。今朝はルカ福音書12章22-31節の「思い煩うな」というテキストから、イエスの教えを学びたいと思います。

このテキストと同じ内容は、マタイ福音書6章25-33節にもあります。現在の研究ではルカ版の方がイエスのオリジナルに近いことが分かっていますのでルカ版に基づいていきます。両者の違いは重要な点で指摘していきます。両方の結末部分(ルカ12:32-34、マタイ6:34)は、それぞれの福音書記者の追記ですのでそれは省略します。こうしてイエスのオリジナルな説教にできるだけ近づけていきます。

この段落のキーワードは「思い煩うな」です。新共同訳は「思い悩むな」新改訳は「心配するな」と訳していますが、「煩う」というニュアンスが抜けているので、文語訳・口語訳と同じく「思い煩うな」と訳していきます。

この説教がどこで語られたか書いてありませんが、内容から見て、大空の下の野原であると考えられます。語られた対象は「弟子たちに言われた」とあるように、イエスの生き方に従っている弟子たち、すなわち信者に向かってです。

 「命のことで何を食べようか、身体のことで何を着ようかと思い煩うな」(22節)。

現代人の多くの人々は、心の中に理由がはっきりしない不安をかかえています。現代は将来に対して希望を持ちにくい時代になっています。「私の将来はどうなるのだろうか」「私は何をして生きていくのか」不安や心配が生まれます。

イエスの周りにいたガリラヤ地方の人々は、主として土地を持たない貧しい小作の農民でした。何を食べようか何を着ようかと日々思い悩んでいる人々でした。イエスはそのような弱い立場の人々に寄り添って生きていました。さまざまな不安をかかえている人々にイエスは「何を食べようか。何を着ようか思い煩うな」と声を掛けました。「思い煩う」という言葉は、元来は「配慮する」「ケアする」という意味に由来する言葉でした。食べることと、着ることという日常生活への配慮とケアが高じてくると、不安や心配や悩みが度を越して、若い草木の芽が雑草で覆われるように、心がふさがって「思い煩う」ようになるのです。

イエスは思い煩っている人の心を、まったく違った方向に転換させます。第一に、食べ物や衣服に注がれていた心を、それらよりもっと本質的な「命」と「体」に目を向けさせます。根本的なことに目を向ける点にイエスの特徴が見られます。

 「命は食べ物よりも大切であり。体は衣服よりも大切ではないか」(23節)

と誰にでも分かる理由を疑問形(オリジナル版マタイ6:26)で問いかけます。

 

第二に、「食べ物」よりも「命の方が大切」という理由を説明するために、大自然の中で私たちが生かされていることを教えるために、大自然の営みの中で天空を飛ぶ小動物に目を転じさせます。

 「カラスのことを考えてみなさい」(24節a)。

しかし、ここでもイエスは「空の鳥」の中でも、美しい鳥を挙げるのではなく、人間から好まれず忌み嫌われがちな「カラス」を例に挙げます。マタイは「カラス」に抵抗があったのか「空の鳥」に変え、美しい詩的なイメージに変えていますが、それはイエスの本来の狙いとは外れます。

 「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養って下さる」(24節b)。

ここで「カラス」はガリラヤの泥にまみれて土地を耕す農夫の仕事と比較されています。カラスは「種も蒔かず、刈り入れもせず、)納屋も倉も持たない」。だが、忌み嫌われる存在であるカラスでさえも「神が養ってくださる」のです。

 「あなたがたは鳥よりもどれほど価値があることか」(24節c)。

小動物のなかでも忌み嫌われる小さな存在の「カラス」と「神の似姿」である人間と比較して、神が「カラス」を養ってくださるなら、まして「人間」を配慮し、ケアしてくださると修辞疑問を用いて確信させます。

2018.11.25学長ブログ(カラス)

 「あなたがたの中で誰が思い煩わったからといって、自分の寿命に一日でも加えることができようか」(25節直訳)。当時の格言を用いていると思われますが、人間の寿命は人間の手の中になく、神の中にあるのです(詩篇90:12「願わくは我らにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得しめ給え」)。皮肉なことに思い煩えば寿命が短くなるのです。(26節はルカの追記)

第三に、「着る物」よりも「体が大切」という理由を説明するために、大自然の大地の上で人知れずに咲く「野の花」の例を挙げます。

 「野の花がどのように育つかを考えてみなさい」(27節a)。

「野の花」(口語訳)、「野原の花」(新共同訳)は「百合」(文語訳、新改訳)としばしば翻訳されてきました。現代では、「百合」に限らず「アネモネ」「クロッカス」「グラジオラス」「アザミ」などの総称と考えられています。忌み嫌われがちな「カラス」と釣り合うのは「百合」ではなく、トゲトゲしいので人々から嫌われ呪いの象徴とされ(創世記3:18)、乾燥させて「炉に投げ込まれて」焚き付けになり(28節)、「栄華(繁栄した栄光)を極めたソロモン」(27節)から王家や貴族の服の紫色の花を咲かせる「アザミ」を念頭に置いていたのかも知れません。

「働きもせず、紡ぎもしない」(27節b)。

ここでは「野の花」が、農夫の妻の仕事と比較されています。すなわち、野の花は「糸を紡ぎもせず、服を編む働きもしないが」、「栄華を極めたソロモン」と比較して、それよりも美しく輝くように、「神は装ってくださる」と大自然における神のわざを称賛します(27-28節)。その上で、名もない小さな野の花と「神の似姿」である人間を比較して、「あなたがたにはなおさらである」(28節)と神が一人ひとりの人間に配慮し、ケアしてくださることを確信させます。

2018.11.25学長ブログ(アザミ)

「思い悩み」や「思い煩い」を解消するのに、大自然に目を転ずるのは、「よく見ればナズナ花咲く垣根かな」「山路来てなにやらゆかしスミレ草」という俳句に代表される芭蕉の自然を見る目に似ているかのような印象を与えます。しかし、イエスは日本文化的な自然を見る目とは、大きく違います。イエスは目に見える大自然の営みの中に、目に見えない神の働き、神の支配、神の領域、すなわち神の国の働きを見ているのです。

「カラス」が「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収穫物を収めもしない」のに生かされているのも、「野の花」が「働きもせず、紡ぎもしない」のに「ソロモンの栄華」よりも美しく「装って」生かされているのも、目に見えない神の働きがあることを「信仰の目で」見抜いているのです(28節「信仰の薄い者たちよ」)。

 「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと考えるな」「思い煩うな」「ただ神の国を求めなさい」(29-30節)。イエスはパンや服に象徴される日常生活で「思い煩っている」人々の心の中をよくご存知でした。日常生活も大切ですが、日常生活の背後で目に見えない神の働きのあることを信仰の目で洞察して、日常生活よりももっと大切な神の導きと働きを信じて生きることです。「思い煩う」のではなく、ルカの誕生物語でマリアが天使の言葉を聞いた時に「心に留め、思い巡らした」(ルカ2:19)ように「思い巡らして」洞察することが大切です。

敬和学園高校の校門を入った道の真中に、太田俊雄の書で安積得也の「明日」という詩が大きな石に刻んであります。安積得也は「手いっぱい」と題した次のような詩を残しています。

    眼前のことで手いっぱいのときも   

    花を忘れまい   

    大空を忘れまい

    おおいなるものましますことを忘れまい

祈りましょう。(山田 耕太)