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実朝の矢を探しけり藤袴

2018.02.01 07:31

源実朝 みなもとのさねとも 建久三~承久一(1192~1219) 通称:鎌倉右大臣

建久三年(1192)八月九日、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれる。母は北条政子。幼名は千幡(せんまん)。

正治元年(1199)、八歳の時父を失う。家督は長兄頼家が継いだが、やがて北条氏に実権を奪われ、頼家は建仁三年(1203)九月、北条氏打倒を企てて失敗、伊豆に幽閉された(翌年七月、北条時政の刺客によって惨殺される)。このため、実朝と改名して第三代将軍となる。翌年、坊門大納言信清の息女を妻に迎える。承元二年(1208)、十七歳の時、疱瘡を病む。翌年、藤原定家に自作の和歌三十首を贈って撰を請い、定家より「詠歌口伝」を贈られる(『近代秀歌』と同一書とされている)。建暦元年(1211)、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向した鴨長明と会見する。雅経とはその後も親交を続け、京から「仙洞秋十首歌合」を贈られるなどしている。建保元年(1213)には、定家より御子左家相伝の万葉集を贈呈された。また同三年の「院四十五番歌合」を後鳥羽院より送られている。建保四年六月、権中納言に任ぜられる。この頃渡宋を企て大船を造らせたが、進水に失敗し計画は挫折した。建保六年(1218)正月、権大納言に任ぜられ、さらに昇進を望んで京都に使者を派遣、十月には内大臣、十二月には右大臣に進むが、翌年正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、甥の公暁に暗殺された。薨年二十八歳。

新勅撰集初出。勅撰入集計九十二首。家集『金槐和歌集』(『鎌倉右大臣家集』とも)がある。同集定家所伝本には建暦三年(1213)十二月八日の奥書があり、実朝二十二歳以前に纏められたものらしい(自撰説が有力視される)。定家所伝本と貞享四年板本(以下「貞享本」と略称)の二系統があり、後者は「柳営亜槐本」とも呼ばれ、足利義政による増補改編本とする説が有力である。

実朝の墓

源実朝の墓 鎌倉寿福寺

「恐らく彼は、自分自身の自然感覚よりは、もっともっと深く、それに似通ったものをうたっている古歌の表現を愛している。彼が真に愛したのは言葉である。何故といって、言葉には文化があるからである。それ故に、彼の歌は王朝四百年伝統の風流に身をよせる心によって支えられている」(風巻景次郎『中世の文学伝統』)

【読書案内】実朝の家集『金槐和歌集』は岩波文庫(斎藤茂吉校訂)で読むことができますが、江戸時代の板本である貞享本を底本にしているのが問題です。やまとうたeブックスでは最も信頼すべき定家所伝本を底本にした佐佐木信綱の『校註金槐和歌集』を電子書籍として復刊しました。

テキストは主に新編国歌大観(底本は貞享本)を参考に作成したが、定家所伝本に拠って改めた歌も少なくない。その際は主として笠間索引叢刊『鎌倉右大臣家集 本文と総索引』及び新潮日本古典集成『金槐和歌集』を参照した。歌の末尾の〔〕内は採録された勅撰集と新編国歌大観番号を示す。

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4715 【源実朝~暗殺された鎌倉幕府3代将軍、悲運の生涯】 より

建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺されました。犯人は兄・頼家の遺児・公暁でした。

実朝は建久3年(1192)、源頼朝と北条政子の次男に生まれました。幼名、千幡。乳母には政子の妹・阿波局が選ばれます。一方、10歳年上の兄・頼家の乳母(複数)は比企氏の一族が占めていました。実朝は将軍の息子として不自由なく成長します。

建久10年(1199)、頼朝が急死すると、兄・頼家が家督を継ぎ、2代目の鎌倉殿となりました。実朝、8歳の時のことです。しかし、頼家とその後ろ楯の比企氏が実権を握ることを恐れた北条氏は次々と謀略を仕掛け、まず頼朝が生前信頼した梶原景時と、それに与する城氏を滅ぼしました。建仁2年(1202)、頼家は2代将軍となりますが、翌年、急病に倒れ一時危篤状態となります。すると頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「頼家死去につき、千幡(実朝)が跡を継いだ。速やかに将軍職任命を請う」旨の連絡が都に届きました。

さらに鎌倉では、頼家の後ろ楯で、頼家の長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族が滅ぼされます。幼い一幡は母親が抱いて辛うじて脱出しました。病床でこの変事を知った頼家は激怒しますが、母親の政子の手で伊豆の修善寺に押し込められます。そして脱出した一幡は北条氏の手にかかって殺され、頼家もまた翌元久元年(1204)、入浴中を刺客に襲われて絶命しました。享年23。一方、鎌倉から虚偽の申請を受けていた朝廷は、前年の建仁3年(1203)に実朝を3代将軍に補任しました。実朝、12歳の時のことです。

その後も北条氏による策謀、粛清事件は続きます。元久2年(1205)には頼朝以来の重臣・畠山重忠が討たれます。また北条時政と後妻・牧の方は密かに実朝暗殺計画を練りますがこれが発覚。時政は修善寺に追われ、時政の息子で政子の弟・義時が執権職を継承します。こうした一連の政争に実朝は常に蚊帳の外に置かれており、実権のない将軍であることを嫌でも感じたことでしょう。

こうした中で、実朝は次第に都の公家文化に親しみを覚えるようになり、公家の坊門信清の娘を正室に迎え、和歌に熱中するようになります。血なまぐさい日々を嫌ってのことでしょうが、そんな武家の棟梁の姿に、御家人たちは失望を覚えたといいます。

建永元年(1206)、母親の政子の計らいで、実朝は亡兄頼家の遺児・善哉を猶子とします。7歳の善哉の乳母夫は三浦義村でした。5年後の建暦元年(1211)、善哉は鶴岡八幡宮寺別当のもとで出家し、公暁と称しました。

建保元年(1213)、侍所別当の和田義盛一族らの謀叛が露見したとして、和田一族が北条義時に討たれます(和田合戦)。これにより義時は侍所別当となり、幕府における権力はいよいよ大きくなっていきます。北条氏は、実朝に忠節を尽くす名目で次々と対抗勢力を滅ぼしていきましたが、公家風を好み、和歌に熱中し、『金塊和歌集』の編纂に力を入れる将軍は、都合の良い存在であったのかもしれません。

そんな実朝が、義時や側近の大江広元の諫言を退けて強行したのが、唐船の建造です。事の発端は、奈良東大寺を再建した宋の僧・陳和卿の実朝への拝謁でした。実朝に拝謁した陳は、はらはらと涙をこぼし、不審に思った実朝が訳を尋ねると、「将軍は宋の医王寺の長老の生まれ変わりです。私は門弟の一人でした」と語ったのです。 にわかには信じられない話ですが、実朝には思い当たることがありました。以前、夢の中で高僧から聞かされた話と同じだったのです。実朝は前世ゆかりの宋・医王寺を訪れることを思い立ち、陳に唐船建造を命じました。建保5年(1217)、船は完成し、海に曳き出されますが、しかし浮かぶことはなく、実朝の渡宋の夢も潰えます。

その後の実朝は、昇進を続けていきます。そこには、実朝を取り込もうとする後鳥羽上皇の目論見もあったといわれます。大江広元がそれを危惧して、しばらく昇進を見合わせることを進言すると、実朝は「源氏の正統は余で絶える。ならば官職を高め、家名を上げておきたい」と応えたといいます。自分の行く末を見切っていたのでしょうか。

建保6年(1218)、武士として初めて右大臣に就任した実朝は、翌建保7年1月27日、それを祝うべく雪の積もる中、鶴岡八幡宮に拝賀します。その帰途、境内で「親の仇はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、絶命しました。享年28。公暁もほどなく討たれ、ここに実朝の言葉通り、頼朝以来の源氏将軍家の流れは絶えることになります。なお太刀持ちをしていた北条義時は、途中で腹痛を訴え参列を離れ、難を逃れています。

公暁に実朝を討たせたのは、北条氏の専横を憎む公暁の乳母夫・三浦義村であるとも、後鳥羽上皇の意向とも、公暁の独断ともいわれ、はっきりしません。奪われた実朝の首は所在不明ですが、一説に秦野市の首塚がそれであるといわれます。

http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/003552.php 【フジバカマ】 より

英名 No Information 中国名 佩蘭,蘭草  花期 10~11月

生薬名 佩蘭(ハイラン) 薬用部位 茎葉

成分クマリン類(coumarin, o-coumaric acid),フェノール誘導体(thymohydroquinone)

産地と分布

本州関東地方以西,四国,九州,および朝鮮,中国に分布し,川辺の土手,斜面などに生え,観賞用などに栽培される.

植物解説

多年草.草丈1~1.5 m.茎は直立し,円柱形で下部は無毛,下葉は小形で花時には枯死し,中葉は対生して多くは3深裂,裂片は長さ8~13 cm.茎の先に淡紅紫色の頭花を散房状に密生する.

薬効と用途

健胃作用があり,口の粘り,口臭,みぞおちの張り,食欲不振,消化不良,吐き気,嘔吐などのほか,糖尿病や浮腫に用いる.皮膚の痒みには浴湯料として用いる.

秋の七草の一つ.中国原産で古くから日本に帰化したとの説もある.生の植物体に香りは無いが,乾燥させるとクマリン配糖体が分解してオルトクマリン酸となり,桜餅のような香りがする.


http://www.kotennohi.jp/?page_id=6726 【古典の日絵巻[第八巻:わたしの源氏物語植物園]  9月 藤袴(フジバカマ)】 京都府立植物園名誉園長 松谷 茂  より

人工の合成香料が存在しない時代、自然の、特に植物の放つかすかな香りに反応し、その恩恵を生活に取り込んだ一つが、今でいう匂い袋。今から一千年以上前の平安の時代、入浴する習慣のなかった生活の中での苦労、とくに十二単をまとった姫君たちの夏の体臭消し対策には人知れずの苦労が相当あったのでは、と想像します。

フジバカマは、葉や茎を切り取って完全乾燥までの生乾き状態のとき、なんとも雅な芳香を放ち、日本人好みのこの香りは永遠に普遍だなと、しみじみ感じ入ります。香りの成分はクマリン。

フジバカマは、第30帖「藤袴」と第42帖「匂宮」に登場しますが、なんといってものハイライトは、第30帖「藤袴」における、夕霧が玉鬘にフジバカマの花をプレゼントしようとする名場面。当時は、目を見つめて受け取ってください、の直接の手渡しではなく、御簾(みす)の前からさし入れて、と相手の表情がわからない中での、優雅ではあるけれどもしかしヒヤヒヤ・ドキドキ感いっぱいの愛情伝達方法でした。

蘭(らに)の花のいと面白きを持(も)給へりけるを、御簾のつまより差し入れて、

夕霧:「これも御覧ずべきゆゑはありけり」とて、とみにもゆるさで持給へれば、うつたへに、思ひ寄らで取り給ふ御袖を、引き動かしたり。 (第30帖「藤袴」より)

蘭(らに)は、フジバカマの異名。

夕霧は、実の姉ではないとわかった玉鬘に恋心を抱き悶々としていたある日、父親の源氏から伝言を頼まれ、彼女の住む御殿に出向いて几帳を隔てた対面を果たしました。プレゼントにと持参したフジバカマを御簾の袖から差し入れたとき、この花に思いを託して詠んだ下の歌が、帖名の根拠となっています。

夕霧:おなじ野の露にやつるる藤袴 あはれはかけよかごとばかりも

「あなた(玉鬘)と同じ野の露に濡れてしおれているフジバカマです。二人の同じ祖母・大宮の死を偲んでいるのですから、つれなくせず、私にやさしい言葉をかけてください」と訴えたものの

玉鬘:たづぬるにはるけき野辺の露ならば うす紫やかごとならまし

かやうにて聞ゆるより、深きゆゑはいかが と宣へば、……

「もとをただせば遠く離れた野の露ですから、紫のゆかりとは言いがかりでしょう。このようにお話しする以上に深い因縁はございません」と、つれない返事。

この場面、なぜフジバカマだったのか。喪服の色とフジバカマの花が同じ藤色系の同色であったので、だから夕霧はフジバカマを持参した。との解説が多いのですが、私は一ひねりして「差し入れたフジバカマから発するクマリンの香りがポイントで、この芳香で玉鬘をコロリとまいらせたい。これを匂い袋ならぬ香水代わりに是非使ってほしい、なんとしてでも自分(夕霧)に向かせたい、との魂胆があったにちがいない。だからフジバカマだった」との説を追加提唱します。夕霧は、準備万端刈り取っておいたフジバカマの束に水を吹きかけ、生乾き状態に戻してから持参したのでは。これは邪推かな?

玉鬘二十三歳、夕霧十六歳。

 

フジバカマの香りに誘われて飛来したアサギマダラ

フジバカマの香りに誘われて飛来したアサギマダラ

この香りを確かめたいかた、来春の桜シーズンまでしばしお待ちを。桜餅を包むオオシマザクラの葉のいい香り成分もクマリンです。