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死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮

2018.02.02 06:37

https://blog.ebipop.com/2015/10/autumn-basyo20.html 【「野ざらしを心に」から持続する旅「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」】 より

「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に おもひて旅立ければ、」と、句の前文にある。

「野ざらしを心に風のしむ身哉」という思いは、旅(野ざらし紀行)の間中ずっと芭蕉の心の中にあったのだろう。

ポジティブな思いで旅を続ける芭蕉だが、不慮の死というのも念頭にあったに違いない。

そして親しい友人「谷木因(ぼくいん)」の住む大垣までたどり着いた。

死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮  松尾芭蕉

「旅寝」というスタイルは、芭蕉にすれば「死」に近いものだったのかも知れない。

その「旅寝」を重ねた末に、やっと大垣にたどり着いたよという、芭蕉の心の区切りの句であるように思う。

芭蕉は「旅の劇」のなかで来し方を振り返る。

そして出発のときの台詞(野ざらしを心に風のしむ身哉)に対して、どこかで「締め」をせねばなるまいと思った。

それは区切りをつけることでもあり、気を引き締めることでもあっただろう。と同時に安堵感もあった。

「旅寝の果てよ」とは、何やら歌謡曲でも歌っているようなムードがある。

旅装束の芭蕉、舞台上手から、「青い山脈」の4番を歌いながら登場。

木因は舞台中央で、待ち遠しいように芭蕉に手を振っている。

「父も夢見た 母も見た 旅路のはての その涯の 青い山脈 みどりの谷へ 旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る」

芭蕉、元気な足取りで谷木因に近づく。歌声も若々しい。遠くでお寺の鐘が鳴る。

木因、拍手で迎える。

「お元気そうで、何よりでございます。」と木因、芭蕉に駆け寄る。

「木因殿、しばしお世話になりますぞ」芭蕉は、道中に思案した木因に対する挨拶句を吟じる。

「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」

舞台に燃えるような夕焼け。

まさに「旅寝の果て」の「秋の暮」。

芭蕉も木因も、落ちていく夕日の影となって舞台下手に去って行く。

「青い山脈」の前奏曲が、無人となった暗い舞台に高らかに響き渡る。

それは、芭蕉の大垣到着を祝うファンファーレのようであった。


https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2017-11-05 【美濃から尾張へ──栗田勇『芭蕉』から(13) [芭蕉]】 より

ときどき思いだしたように、栗田勇の『芭蕉』を読んでいる。

貞享元年(1684)、芭蕉の野ざらしの旅は、吉野をでたあと、大和、山城をへて、近江路を通り、美濃にはいった。江戸深川を8月に出発し、美濃の大垣に着いたときは9月下旬になっている。

 例によって、芭蕉の記述をやぼな現代語訳で示しておく。

〈大和から山城をへて、近江路にはいり、美濃にいたる。今須・山中をすぎると、いにしえの常磐(ときわ)の塚がある。伊勢の守武(荒木田守武)が詠んだ「義朝(よしとも)殿に似たる秋風」とどうしても似てしまうが、自分もまた一句。

  義朝の心に似たり秋の風

    不破

  秋風や藪も畠も不破の関

大垣では、木因(ぼくいん)の家に泊まらせてもらった。武蔵野をでたときは、野ざらしになるのを覚悟していたので、

  死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〉

 常磐は、平家と戦って敗れた源義朝(1123-60)の愛妾で、義経(牛若)の母。牛若が京の鞍馬山から出奔したという知らせを聞いて、あとを追うが、山中(やまなか)の宿で、賊に殺されたという伝説が残っている。だが、これは事実ではないらしい。

 山中では、近世、大きな戦いがくり広げられた。すなわち関ヶ原の合戦である。だが、芭蕉はそのことに触れない。思いはひたすら物語にえがかれる中世、常盤の悲劇へと向かう。

 芭蕉は伊勢の内宮に仕えた連歌師、荒木田守武(1473-1549)が、「月みてやときはの里へかかるらん」に「義朝殿に似たる秋風」と付けたのを知っている。

 常盤は臨月で里へ帰っているというのに、義朝殿は薄情にもちっとも姿を見せないという戯(ざ)れ歌である。

 芭蕉はそれをひっくり返して、義朝が常盤のことを思ってやまないと転じ、それを常盤の塚へのたむけとした。

 古代の不破の関は関ヶ原に置かれていた。そもそも関ヶ原という地名は、不破の関があったことに由来するのだろう。その関もいまはすっかりなくなって、藪や畠となり、秋風が吹くばかり、と芭蕉はうたう。

 芭蕉が宿を借りたあるじ、谷木因(1646-1725)は大垣の船問屋で、大垣では名の知られた俳人だった。北村季吟に俳諧を学び、井原西鶴とも交流があったという。芭蕉とは以前からの知り合いだった。

 その木因の家で、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」の名句を詠む。まだ生きてるよ、とやや自嘲気味なところに滑稽さがただよう。

 のちに木因とは句風のちがいから疎遠になるものの、このころはまだ親しい関係が保たれていた。

 俳諧は座の文化、かけあいの芸術でもある。芭蕉はひと月ほど大垣に滞在し、座をおこし、歌仙を巻いている。

 それから、興にまかせ、木因とともに、句商人(あきんど)、すなわち俳諧師のやつがれ姿をして行脚の旅に出た。

「野ざらし」の旅はつづく。11月上旬(いまの暦では12月中旬)、季節は冬に移っている。また現代語訳で。

〈桑名本当寺で一句。

  冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

 旅の枕に寝あきて、まだほの暗いうちに、浜のほうに出たとき、

  曙(あけぼの)や白魚(しらうお)白きこと一寸(いっすん)〉

 本当寺は本統寺のこと。芭蕉は多度山権現を訪れたあと、この寺に数日滞在した。牡丹の句は、この寺で開かれた夜会の席で詠まれた。

 寒牡丹といえば冬の千鳥を思い起こす。それは雪のほととぎすと同じで、清冽な趣がある。栽培されて、みごと大ぶりの白い花をつけた冬の牡丹から千鳥へと連想を広げ、ほととぎすの哀切な声を引きだした一句だ。

 そして、次の日の朝、浜辺にでたとき、次の一句が頭に浮かんでくる。

 曙や白魚白きこと一寸。

 水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。生きていることの実感が伝わってくる。

 芭蕉は木因と別れ、桑名から船で熱田に向かった。

 桑名では林桐葉(はやし・とうよう、?-1712)宅に逗留。俳席をもつかたわら、熱田神宮に詣でた。

〈熱田神宮に詣でる。社殿はじつに荒れ果て、築地塀も倒れて、草むらに隠れている。あちこち縄をはって、ちいさな社の跡を示し、そこに石を据えて、それぞれ神を名乗っているありさまだ。

 ヨモギ、シノブも手入れされないまま生えている。めでたいというより、胸をつかれる。

  忍(しのぶ)さへ枯れて餅買ふやどりかな〉

 このころの熱田神宮はよほど荒廃していたらしい。栗田勇によると、大鳥居も倒れていたという。熱田神宮は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体とする。「筑波の道(連歌)の祖とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)のゆかりから、とくに連歌・俳諧者たちの信仰も深かった」ようだ。

 芭蕉は、霜枯れでシノブさえ枯れ果て、昔をしのぶよすがさえないなか、門前の茶店で餅を買って休むおのれの姿をうたう。そこにゆったりと古代からの時が流れている。

 このあと、芭蕉は名古屋にはいり、尾張連衆と交わり、『冬の日』五歌仙を興行する、とある。「いわゆる蕉風確立の契機ともなった重要な歌仙」だ。『芭蕉七部集』にも収められているとか。

『野ざらし紀行』では、名古屋にはいる道中に浮かんだ句が無造作に並べられている。

〈名古屋にはいる道すがらの風吟(尾張旅泊)。

  狂句木枯(こがらし)の身は竹斎に似たるかな

  草枕犬もしぐるるか夜の声

   雪見に歩きながら

  市人(いちびと)よこの笠売らう雪の傘

 

   旅人をみる

  馬をさへながむる雪の朝(あした)かな

   海辺で一日すごして

  海暮れて鴨の声ほのかに白し〉

 竹斎とは仮名草子にでてくる狂歌好きの医者の名前。狂歌に熱心なばかり患者もつかなくなり、東に下る途中、名古屋に立ち寄った。そのときの風体は、笠はほころび、コートもぼろぼろ、羽織もすすけているといったありさま。芭蕉は物語にえがかれている竹斎に自らをなぞらえた。

 そして旅寝の枕に聞こえてくるのは、犬の遠吠え。しぐれのわびしさが夜の闇の深さをいや増す。

 雪が降ったのだろう。次の句は雪のなかを歩くと、雪のつもった笠がなかなか風流なので、どなたかこれを買ってくださらんかとおどける。

 雪の朝は幻想的な世界が広がる。馬に乗る旅人も、まるで中国古代の詩人のようにみえてくる。

 そして、海辺での絶唱が生まれる。

 海暮れて鴨の声ほのかに白し。

 桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」に対応する。

 夕暮れた海にカモの声がほんのり白く聞こえてくる。カモの姿はもう見えない。ただ、その声がほんのり白く聞こえてくるのだ。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。

 芭蕉はそううたった。