今日に「ヒカリ☆」をみっけ『そこにあるもの』執筆復活!
「そこにあるもの」
見えているものを見る
そこにあるものを観る
この二つについて、普段、どれくらいの割合で「みる」をしているだろうか。
たとえば、いつもつかう道で想像してみる。
通勤途中や、買い物や友人と会うためにつかう道、犬と散歩する道、どんな道でもいい。
屋外じゃなくても、手すりのある階段、広い廊下、どこでもいい。
いつも、“安全”につかっている道。
いつも、“安心”してつかっている道。
わたしはよく、“ある”に意識を向けて歩く。
あるというより、“なかったら”と言ってもいいかもしれない。
もし、この階段が50センチくらいの幅しかなかったら、
ましてや手すりさえもなかったら、同じような心地と速度で階段を降りられるだろうか。
もし、この道がこんなに広くなくて、
ましてや自転車のタイヤがパンクしそうなほどでこぼこガタガタな道だったら、我が物顔で同じような足取りで歩けるだろうか。
私たちの日常は“ある”で溢れている。
これはほんの一部だが、
私は道を歩くとき、道具をつかうとき、建物を見るとき、花壇や街路樹を見るとき、
よく思いを馳せる。
〇〇は、いつかの誰かがあったらいいと思いついてくれたんだ
そして、つくろう!と決めてくれた人がいたんだ
そして、つくるために知恵を出し合い、長い時間と大変な労力をかけてくれた人がいたんだ
そして、その人たちが取り組めるように犠牲になった人や支えてくれた人がいたんだ
実際に目にしていないものにも、確かにそこにあったもの、もしもそうでなかったら・・というものに目を向けてみると、
私たちの周りには、満たされているもので溢れている。
ちょっとここで、少し、視点を変えてみよう。
“実際に目にしていないのに、確かにそこにある”を知る、意識の向け方についてだ。
私たちは、しょっちゅう、“それ”をしているはずだ。
例えば、車の運転中で信号待ちをしているときを思い出してほしい。
信号を“見ていなくても”、信号が青に変わるのを感じることができる。
それは、横断歩道を渡る人の歩く速度が速くなり、走りながら渡り始めた人の足を見たり、気配を感じたりして“感ずる”アンテナを立つことで知ることがある。
実際には、信号を“見ていない”のにだ。
例えば、窓の外を見ていなくても、部屋に差し込む光の加減で部屋自体の明暗を感じることで、天気や時間を知ることがある。
実際には、外の空や時計を“見ていない”のにだ。
実際のものを確認していなくても、“感ずる”があるだけで気づいているものや出来事というのは、いくらでもあるのだ。
普段何気なくつかっている“感ずる”力を研ぎ澄ませていくと、
“そこにある”ものに出会うことが増えるだろう。
私は、今でもずっと忘れられない心の発見がある。
まだ小学生だったときのことだ。
頭を洗おうとシャワーを浴びたときだった。
当然、お湯がでる状態で私の心も体もスタンバイしていた。
当然、のように。
すると、蛇口からでてきたソレは、冷たい水だった。
「ひゃっ!」と思わず小さな声がでた。
あまりにびっくりしたこと、あまりに冷たかったこと、
そして、体のなかからギュッと力を入れている自分がいた。
冷たい水が、だんだん、だんだん温かくなった。
水が、温かいお湯に変わっていくにつれ、
私が体に入れた力は緩まっていった。
自分にとって“冷たい(いやだ)”と感じるものを浴びているとき(対峙しているとき)、
心と体はこんなにも固く力が入るが、
自分にとって“温かい(心地いい)”と感じるもを浴びているとき(包まれているとき)、
心と体はこんなにもゆったりと何の心配もないような、安心した安定感のある状態になるんだ・・と。
“感ずる”と、いつも共にいよう。
日常のなかに、私たちには与えられているものという光は、
いくらでも、そこかしこに、いつでも、存在している。
今日も、
一日を迎えられて、
終えられて、
ありがとうございます
幸せです。