Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

芭蕉と大垣

2018.02.02 06:49

http://www.ip.mirai.ne.jp/~binyou/basyou.htm 【芭蕉と大垣(1)】より                         

俳聖松尾芭蕉と大垣のつながりは深く、四度来垣しており「奥の細道」むすびの地として知られています。

市内には、芭蕉の句碑が多く存在しており大垣市には奥の細道むすびの地記念館が完成し(昭和60年)関係資料が展示されています。

このページは、大垣市・教育委員会発行の「奥の細道むすびの地 大垣」から抜粋しています。

美濃俳壇は斎藤徳元や岡田将監によって芽生えたが、大垣俳壇は地元の指導者谷木因を得て、貞門・談林の風潮に触れて成長してきた。

俳人には藩士が多く、藩侯の文教奨励もあって盛況を呈した。指導者谷木因の人徳がしのばれるところである。

大垣俳壇が、真に文芸的価値に目覚めて隆盛期に向かうのは、俳聖芭蕉が四度にわたって当地を訪れ、蕉風の新風を吹き込んでからであろう。

この芭蕉来垣の経緯にも谷木因の力が大きく働いていることは言うまでもない。そして、これを機に、蕉風俳諧が美濃一円を風靡するに至るのである。

写真は、船町にある史跡「奥の細道 結びの地」の松尾芭蕉と谷木因の像で奥に見えるのは住吉灯台です。

芭蕉と大垣の結びつきを知るため四回の来垣の内容、芭蕉の追悼、谷木因、についてをまとめ、

最後に芭蕉翁をまとめてあります。

第一回芭蕉来垣

芭蕉の第一回大垣来遊は、貞享元年(1684年)の晩秋であった。

八月、江戸深川の芭蕉は、郷里伊賀上野に帰省し、続いて近江路より美濃路に入り、関ヶ原・垂井・宮代・表佐を経て大垣に入り、宿願の木因訪問をしたのである。

しばらくの逗留の後、名古屋に向かい「尾張五歌仙」を巻いた。これは、いわゆる「野ざらし紀行」の旅の途次のことであった。

時に、芭蕉四十一歳、木因三十九歳であった。

千里に旅立て、路粮をつつまず、三更月下無何(仙境)に

入ると伝けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、

江上の破屋をいづる程、風の声、そぞろに寒げ也。

 野ざらしを心に風のしむ身哉

 秋十とせ却て江戸を指ス故郷

紀行文によれば、風雅の道一筋を旅に求めて、野ざらし(どくろ)を覚悟しての厳しい旅立ちであった。しかし、それが大垣につき、旧友木因との再開のくだりでは、

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出でし時、

野ざらしを心におもひて旅立ければ

 死もせぬ旅ねの果てよ秋のくれ

と旅の緊張感をほぐし、冒頭の句文に対応させて大垣での様子を表現しており、ちょうど大垣がこの旅の締め括りのような感じを与えている。よほど嬉しかったのであろう。

大垣入りした芭蕉は、木因をはじめ、近藤如行ら大垣俳壇の連衆の歓待を受け、滞在すること数日で多くの作品を残した。この時の様子は、後に如行が編んだ「後の旅集」や蕉門十哲の一人で、美濃出身の俳人・各務支考の「笈日記」の大垣の部に詳述されている。

 死よしなぬ浮身の果は秋の暮れ

といひしは、杭瀬川の川の流れに足を濯ぎて、

浮雲流水を身にかけ、心にかけて、頭陀やすめ、

笠やすめられし因なり、げにや茶の羽織、

桧の木笠も、此の志より仰ぎそめられけり、

  霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し    如行

翁をはじめて宿しける夜ふと申出ければ、

  古人かやうの夜の木がらし     翁

かくありて興じ給ひぬ。その後座頭など来て

貧家のつれづれを紛しければ、をかしがりて

   琵琶行の夜や三味線の音霰    翁

         「後の旅集」より

   

  死よしなぬ浮身の果は秋の暮れ

といひしは、杭瀬川の川の流れに足を濯ぎて、

浮雲流水を身にかけ、心にかけて、頭陀やすめ、

笠やすめられし因なり、げにや茶の羽織、

桧の木笠も、此の志より仰ぎそめられけり、

  霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し    如行

翁をはじめて宿しける夜ふと申出ければ、

  古人かやうの夜の木がらし     翁

かくありて興じ給ひぬ。その後座頭など来て

貧家のつれづれを紛しければ、をかしがりて

   琵琶行の夜や三味線の音霰    翁

         「後の旅集」より

実際の旅はなお続き、名古屋の俳人たちと「尾張五歌仙」を巻いて、芭蕉俳諧の確立を示すという芭蕉にとっても異議深い旅となったのである。

清新の気満つるこの木の芭蕉との出会いは、大垣俳壇にとってもまことに時宜を得ており、これが機縁で、この後も芭蕉の来遊となったのである。

大垣に入る前の関ヶ原にも芭蕉句碑が残っている。

常磐御前の墓と芭蕉句碑(不破郡関ヶ原町山中)

平治の乱後、牛若丸の生母常磐御前が都を落ちて東国に下る途中、山中で殺害されたので里人がこれを憐みて墓を建て供養を営んだと伝えられている。

  義朝の 心に似たり 秋の風    はせを

           貞享元年「野ざらし紀行」

不破の関と芭蕉句碑(不破郡関ヶ原町、不破の関跡)

壬申の乱(672年)の翌年、天武天皇によって設けられて関所で、越前の愛発関、伊勢の鈴鹿関とともに日本三関とされた。桓武天皇の延暦八年(789年)に廃され、荒れ果てた。古来詩歌の題材として多くの人に詠まれた。

  秋風や 藪も畠も 不破の関    はせを

           貞享元年「野ざらし紀行」

第二回芭蕉来垣

元禄元年(1688年)の春より、大和から大阪・兵庫を巡歴しての後、京都に滞在していた芭蕉は、夏五月、大津より帰東の途中、岐阜妙照寺住職である己百上人の案内で美濃に来遊した。

   しるべして見せばや美濃の田植歌    己百

     笠あらためむ不破の五月雨     芭蕉

この時、芭蕉は、中山道を関ヶ原・垂井を経て赤坂に草鞋を脱いで矢橋木巴亭に一泊したといわれている。そして神戸を経て岐阜に入り、妙照寺己百亭に着いた。

滞在することおよそ一ヶ月。この間に鵜飼いを見物。また、安川落梧(岐阜市本町の商人)や賀嶋鴎歩(岐阜市日野中川原の商人)方を訪れて吟詠唱和している。

   やどりせむあかざの杖となる日まで   芭蕉

芭蕉は、長良橋下流にある河畔の賀島鴎歩の別荘を訪れて、付近の景勝を賞し、賀嶋氏の亭に「十八楼」と命名した。

   此のあたり目に見ゆるものは皆涼し   はせを

             貞享五年夏

岐阜に残る芭蕉句碑

 ・長良橋南詰め

   おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな   芭蕉

 ・岐阜市井奈波神社境内

   山かげや身をやしなはむ瓜ばたけ    芭蕉

 ・岐阜公園三重塔の下

   城跡や古井の清水先とはむ       芭蕉

 ・岐阜市法久寺境内

   夏来てもただひとつ葉の一葉哉     芭蕉

   

大垣木因亭にて

   矢張めせ此処は伊吹の吹すかし     木因

   来てみれば獅子に牡丹の住居哉     芭蕉

ここから芭蕉は、名古屋・鳴海方面をまわり、八月十一日、美濃路を経て「更科紀行」の旅に出立した。

この旅は、姥捨山(うばすてやま)の伝説の地、信州更科に古来有名な名月(田毎の月)を見ようと時を選んで出かけたものである。

矢橋木巴(もくは)

谷木因門下の俳人。のち蕉門に入る。赤坂の名家で、大垣藩士との交遊は多くあり、特に近藤如行や戸田大川などとの往来があった。

芭蕉来垣の第二回、第三回に木巴亭を訪れている。木因の師、北村季吟をはじめ諸名家との交流があった。

赤坂俳壇の指導者。


https://www.nisimino.com/bunkyo/pdf/h27-kaihou10-11.pdf 【芭蕉を大垣へ誘った俳人谷木因】より

代表的な紀行文学作品『奥の細道』を著し,言葉遊びに過ぎなかった俳諧に芸術性を求め,

一つの文学にまで高めた俳諧師松尾芭蕉。

大垣船町湊の船問屋を営み,古典や和歌・俳諧を楽しむ美濃大垣俳壇の重鎮であった谷木因。

同時期に同じ分野で活躍していた二人の俳人は,やがて出会い,お互いの才能を認め合う友人となります。そして芭蕉を大垣へと誘うことへとなります。

この二人が,どのように出会い,交流を深めていったのかを紹介します。

1 大垣の俳人 谷木因

今から369年前の正保3年(1646),谷木因は,大垣船町湊の船問屋谷弥兵衛の長男として生まれました。幼いころに両親を相次いで亡くした上,家督をめぐる争いが起こるという不幸にみまわれました。赤坂の伯母が後見人となることで収まり,15歳の時に無事,家督を相続し,九太夫と改名し,船問屋の役目を務めました。

41歳で家督を譲り,隠居して白桜下と称しました。翌年,剃髪した後は,古典や和歌・俳諧の道に専念し,享保10年(1725)80歳で亡くなりました。白桜下のほかに杭瀬川翁,観水軒,呂音堂の雅号をもっています。

20代の後半頃から,古典文学者であり俳諧師でもある京都の北村季吟に和歌・俳諧そして古典を学びました。芭蕉もまた同じ季吟の門下にありました。

2 芭蕉と木因の出会い

延宝8年(1680),芭蕉37歳,木因35歳のとき,初めて俳諧を通じてのやりとりがありました。なる み ち そく鳴海(現在の名古屋市緑区)の知足という俳人が企画して,大垣・鳴海・桑名・名古屋の俳人たちが合作した連句の作品を当時江戸で活躍しつつあった芭蕉へ送り,批評を求めました。そのとき木因は芭蕉からよい評価を受けました。

このことが縁で,翌年7月木因は,江戸で芭蕉と会い,句会を共にします。その後の芭蕉か

ら木因への手紙には,もっと木因と語り合いたい旨が伝えられています。

3 芭蕉を感嘆させた「鳶の句」の答え

天和2年(1682)春,芭蕉は木因の見識を試す1通の手紙を送ります。

連句を作るとき,句の流れが単調にならないよう変化を重んじることから,連続して同じ字

や事物を詠むことは禁じられていました。

芭蕉は,その禁を破った連句「蒜の籬に鳶を しず やながめて」「鳶のゐる花の賤屋とよみにけり」を見つけたといい,どのように解釈すればよいのかを木因に求めました。木因は,鳶の連句が, ことばがき詞 書(和歌の前書)とその詞書による和歌の形として詠んだものと解釈し,その句を作った人物が芭蕉であることを見抜きながらも,架空の歌集を例に挙げ,鳶の連句に似た詞書と和歌をそのなかで見つけたという機知に富んだ方法で返しました。このやりとりは,「鳶の評論」としてのちに広く知られるようになりました。

芭蕉は,自分の真意を見抜いた木因からの返事を読み,感激し,その喜びを大垣藩士で自分 じょく しの門人の中川 濁 子へ知らせています。同じこ ほししらうおろ,芭蕉は,木因へ干白魚を贈ってもらったことへのお礼とともに「鳶の句」についての賞賛を濁子に伝えたこと,今後の大垣俳壇への期待,

来年4月か5月に大垣を訪れたいことを手紙で伝えています。

4 芭蕉,初めての大垣来訪へ

2年後の貞享元年(1684)9月末,芭蕉は願いどおり,『野ざらし紀行』の旅の途中に大垣を訪れました。約1ヶ月間大垣に滞在し,木因 じょこう宅や芭蕉の門人近藤如行の家を訪れ,交遊を深めました。

11月上旬,木因は再び旅立つ芭蕉とともに大垣を出立し,桑名までの吟行を楽しみました。

(大垣市立図書館 歴史研究グループ長瀬 とも)