第9回目 ミャンマー ホマリン 2016年5月
胸を張って日本に帰国して下さい
1:高田陸軍歩兵第58連隊
3月7日 いつもと違う時季外れに新たな日本の兵隊方が我が家を訪れました。奇妙に思いながらも、彼らの思念に意識を向けてみました。彼らのいる場所はミャンマー西北部であることが感覚的にわかりました。妻にも聞いてみるとおおよそ同じ位置を感じ取っていたようでした。
3月8日 再び、彼らが我が家に訪問しました。どこの出身かを尋ねると、新潟県であると答えてくれました。そして、戦闘というよりも飢餓・病で倒れた旨を伝えてくれました。私の意識の中に、ある風景が広がりました。場所は、私の立ち位置から舗装されていない道が目の前に見え、左側は崖になっていた。そして、その下には川があることがわかりました。その瞬間、その川があるということがポイントであるように感じました。今回、連絡を取ってきた日本の兵隊方の代表者は3名で、各々から焦燥感が伝わってきました。きっと私に伝えたい情報が伝わるかどうかが気になっている。『もっと注意深く、今伝わってきているものを理解しなくては』 一人は他2名の上官のように感じました。3名は『タカダ』という言葉を何回も一生懸命伝えてきました。『タカダ?上官らしき3人目の人の名前なのか?』と注意を引きましたが、とりあえず、気には留めておくことにしました。
我が家にやってきた彼らの居場所、インド側方面の山脈に近いミャンマー東北部から調べると、インパール作戦時は第31師団、烈兵団だとわかりました。さっそくネット検索を利用して、「烈兵団」「新潟」とキーワードを打ちこみ、さらに調べ始めました。すると、「高田陸軍歩兵第58連隊」という連隊名が出てきました。そして、その情報ばかりが私の目に留まるようになりました。『そういや、タカダって兵隊たちが叫んでいたな。ひょっとして、この連隊のことだったのか』とふと思い始めました。すると、彼ら3名から伝わってきている焦燥感は消え、安堵感に包まれたような様子が伝わってきました。『おそらく、間違いないな』と思いましたが、疑い深い性格である私は、念には念をとさらに確認するかのように一段と調べ始めました。一応、それを基本にいろいろと高田陸軍歩兵第58連隊のことを知ってみたいと思うようになりました。そうなると、違和感を感じるくらいに、自然に高田陸軍歩兵第58連隊の情報ばかりが目の前に現れ、私の目を引くようになっていきました。ビルマ・インド国境に立ちはだかる山脈を越えた師団・部隊はたくさんあるだろうにと思いながらも、この状況を冷静に見守ることにしました。そして、今回、日本への帰還依頼をされている日本の兵隊3名は、ほぼ高田陸軍歩兵第58連隊であると念押しの確信へと自然に導かれていきました。
私は地図を広げ始め、戦争当時の動きを確認しながら、現在の飛行場で訪問するには、どこが一番いいのかなどを調べ始めました。その際、おおよその感覚を頼りに現在の地図を見始めると、初めに出てきたのがカムティ空港でした。その時はまだ高田陸軍歩兵第58連隊の進んだ進行ルートを詳しく知らずにいましたので、この空港から降りて、彼らの呼ぶ場所を探そうと思っていました。すると、その晩、再び、私のところに日本の兵隊方が訪れましたので、目の前に戦争当時の地名が付された地図を広げ、的確な場所を聞いてみました。すると、彼らが指を指した場所はほぼホマリンでした。若干ずれていましたが、ホマリンであることは容易にわかりました。そこからホマリンについて、集中的に調べ始めました。すると、高田陸軍歩兵第58連隊が、烈兵団として進んだ時、ホマリンを通って、険しい山脈を越え、インド側のコヒマを目指していたことがわかりました。この時点で、我が家に来ている日本の兵隊方が高田陸軍歩兵第58連隊であることが改めて間違いないと私の中で再確認が出来ました。そして、最寄りの空港はホマリン空港であると訂正されることになりました。昨年末の中国雲南省騰越の場所特定の時のように間違えれば、訂正が必ず入るんだなと苦笑している自分がいました。
ここまでくれば、あとはホマリン周辺のどこかで彼らと合流し、帰国するだけだという気持ちが固まりました。
2:雨季 厳しいスケジュール調整
いつもは夏8月お盆を目指して日本の兵隊の帰還依頼がやってくるのが常でしたので、この時季の依頼がどこか半信半疑な気持ちもありました。依頼があったことは事実だが、これは8月に来てくれという依頼なのか、まさか4月もしくは5月に来てくれという依頼なのか、その判断が微妙に難しかった。そんな中、妻と話していると、夏、ミャンマー西部は雨季に入り、川の洪水が起こる可能性を話し始めました。『そういえば、昨年2015年8月はミャンマー西部で大洪水が起こり、川が氾濫、多くの家屋が水に浸り、倒壊していたと聞いたな』 ですので、その雨季を避ける為に、ひょっとしたらこの時季に依頼があったのかもしれないと思い始めました。となると、4月は仕事が多忙で5月になるかもしれないと心構えを持ち始めました。
そして、昨年末、日本の兵隊方からの帰還依頼があった時、中国雲南省騰越へ共に伺った北海道のF氏にも連絡を取りました。すると、F氏から4年前の2012年1月にミャンマーのヤンゴンへ伺った際に、高田陸軍歩兵第58連隊の墓地に伺ったとの連絡をしてくれました。そして、その時の写真をメールにてお送り頂き、拝見させて頂きました。
『奇遇だな』と率直に感じると同時に異質な空気感も感じ取りました。たくさん慰霊碑がある中で高田陸軍歩兵第58連隊の印象がF氏の心の中で残っていた。そして、その写真を持っておられたというのは、妙な縁を感じざるを得ませんでした。そして、F氏がミャンマーへ訪問された際に、お世話になった現地ミャンマーで会社経営されておられるN氏をご紹介して頂きました。N氏は現地で様々なビジネスを多角経営されており、その中で特殊な旅行手配・マネージメントもされており、インパール作戦に関するテレビ取材の現地コーディネートもされておられましたので、ミャンマー国内の戦跡等においてもかなり明るい方であるということでした。さっそく、N氏にメールでご連絡し、いくつか質問をし、アドバイスを頂きました。ミャンマー西側は、我々夫婦にとってまだ未踏の地でしたので、非常に心強い気持ちにさせて頂きました。この時、特に気になったのは、雨季のことでした。『(雨季の関係で)4月中に来られた方が良い』というアドバイスをN氏から頂き、非常に焦りました。仕事がありましたので、『4月は厳しいな』と思っていました。ですので、5月にギリギリ間に合うかどうかという点を意識するようになりました。
F氏もタイミングが合えば、昨年末同様、ご同行されたい旨を伝えてきていました。目に見えない世界の出来事を同行されても、どこまで信用できるものなのかわからないはずなので、少し、申し訳ない気持ちではありましたが、徐々に私の中で、自然とF氏の存在が必要不可欠であるような存在であると意識を持ち始めていました。一緒に考え、共に向かう人で英霊の依頼と名付けたこの活動を共に遂行される方という感じでしょうか。特に先の雲南省騰越では、F氏はその能力を強く発揮され、我々の動きをサポートして下さいました。ファイスブックで気になることがあれば、言葉少な気にやり取りをしていました。『こういう本ありました。こういう記事がありました』というような他人から見れば、他愛のない遣り取りですが、F氏からのメッセージが来ると、より一層、この活動への思いが熱く鼓舞されているような気持ちになっていきました。
3:尻尾を巻いて逃げ帰る
現実的なところ、この時季の日本の兵隊からの帰還依頼は正直、私を悩ませました。8月だけだったこの活動が、気が付けば、年末に来るようになり、2016年5月にミャンマーへ行くことになれば、今までの定期的な時季から大きく外れ、年中、彼らに呼ばれるかもしれないと危機感も持ち始めていました。そうなると、費用がかかりますし、ミャンマーに行っている間は仕事が出来ないので活動の日数制限の縛りが出てくる。十分な活動日数が取れない不安。もし長期休暇を取れば、お客様から仕事が出てきても、対応出来ず、自然と別の同業者へ仕事が回り、客離れが起こるかもしれない恐れを予測している自分がいました。この活動は、そういったものとの闘いでもありました。そして、この帰還依頼活動が始まると、極端に体力も落ち、身体が重く、立ち上がるのも必至な時がありました。経験のある人ならわかると思いますが、肩こりというか首の後ろ側が重く、頭も痛くなります。となると、ほぼ数か月間体調を崩したままの状態になります。と考えると、霊能者に依頼して、浄霊をして頂くほうが安くつくのではないかと思う自分もいました。が、しばらくすると、日本の兵隊方から「貴方様にお願いしたい。総意です」と思念が届いてきて、行かざるをえない状況に陥り入りました。
現地ミャンマーへ飛び立つ前の月、4月17日、新潟県上越市高田に足を伸ばしてみることにした。我が家に来ている以上、ひょっとしたら、私がミャンマーに行かず新潟に行くことによって、彼らは成仏してくれるんじゃないか?と淡い期待を寄せながら伺いました。が、当日は暴風警報が出ていて、車の外に出るのも一苦労で、高田城でさくらまつりが予定されていたにも関わらず、桜の花びらさえなく、設置されていた一つの屋台では、屋根が半分めくれているような有様でした。『こりゃ、ダメだ』と恐怖すら感じ、しっぽをまいて金沢を抜け、我が家に逃げ帰ることにしました。
結局のところ、きっと国内ですることが全部無意味で、現地、ミャンマー・ホマリンへ迎えに行かなければならないことを、痛切に感じさせられ、改めて覚悟することにしました。
4月月末、相変わらず、仕事が忙しく、5月にミャンマーのホマリンへ行く現実味が帯びてくることはありませんでした。北海道のF氏からご紹介して頂いた現地ミャンマーのN氏にメールをするのが申し訳ない気持ちになってきていました。そんな中、仕事が5月ど真ん中に一つドンと入ってきましたので、いよいよ駄目かと思いました。が、そう思った瞬間、気持ちが切り替わり、5月初めのゴールデンウィーク中に出来る仕事はおさめておかなくてはという気持ちに切り替わりました。
北海道のF氏に日程の話をし始め、この時の私はのるかそるかという緊張した心境にありました。『駄目かもしれないけど、行くつもりで全ての段取りをしよう』と思い始めていました。そして、その旨をF氏に現状をお伝えし、『もし、思うところあれば、今回はご遠慮して頂いても大丈夫です(行けるかどうかわかりませんから)』といったメッセージを送りました。すると、F氏は、今の状況を知った上で『それでも構いません』といった返事を送ってきて下さいました。
とりあえず、ビザ申請が必要なので、準備だけはし始めました。年々、ビザ申請の条件に変化があり、より簡易的でスピーディーなシステムになっていました。申請日より3-4営業日くらいで、パスポートが返却されました。その旨をF氏にもお伝えすると、しばらくして、F氏の飛行機の便を伝えてくれました。私がミャンマーへ到着する前日にF氏はヤンゴン入りし、我々夫婦をヤンゴン国際空港で出迎えて頂けるという話でした。F氏は第8回目英霊の依頼活動での中国騰越に向かう途中、かなり荒れた飛行移動(遅延の連続)をご経験されましたので、今回は抜かりの無い準備をされていました。
4:ミャンマー国内線ルート成立
F氏と私のヤンゴン入り日程が確定し、さっそく、N氏の社員スタッフTさんに連絡を取り始めました。私の明確な目標地点とする場所とルートを決め、日程プランを作成し、スタッフTさんにメール連絡をしてみました。すると、返事はなかなか厳しいものでした。ホマリンという街への空路は、飛行機の便数も少なく、ヤンゴンからの直行便も無いようでした。ヤンゴンから一度、ミャンマー中央部にあるマンダレーに移動し、一泊しなければ、今回の日本の兵隊方との合流地点であるホマリンへ移動出来ませんでした。スタッフTさんの話では、初めは土曜日しか便が無いというご返事でした。ちょうどN氏も日本へ出張に来られていましたので、ミャンマーへ戻らないと他のルートをすぐにご返事出来ないという旨のメールを頂きました。そういった状況を北海道のF氏にお伝えし、とにかく、スタッフTさんには航空会社に連絡を取って頂き、我々の日程に合うような便をさらに探して頂くことをお願いしました。この時点でF氏は今回も一筋縄ではいかない英霊の依頼活動の醍醐味を感じていましたが、『必ず行けると信じております』といったご返事を返して下さいました。確かに、過去8回の英霊の依頼活動におけるルート作成は難産であっても、必ず最後にはうまくいっていました。特に絶体絶命の第8回目の中国雲南省騰越に伺った際も、北海道のF氏、中国大連在住のK氏ご夫妻がご連絡を下さり、中国雲南省騰越への道を開いて下さったのが、記憶に新しい奇跡でした。前回の旅では、一人で宿泊地・現地での交通手段・ガイドが得られない状況・言葉の問題などで私は思考が煮詰まっていて、ほとんど頭がパンク寸前でしたので・・・。
数日後、スタッフTさんからのご返事はほぼ飛行ルートがうまく噛み合い、ホマリンまで移動手段が確保できたという内容でした。少し気になる点もございましたが、これでホマリンへ行けるという安堵感に包まれました。念の為、気になる点というのを説明させて頂くと、帰路において、マンダレーよりヤンゴンまでは飛行機移動ではなく、夜行バスを利用するということでした。ネットでさっそくバス移動について調べていくと、バスは日本の高速バスと変わらない質の高い内装・装備でこれなら大丈夫だと、逆に夜行バスに乗ることが楽しみになるぐらいの気持ちになりました。が、最終的に帰路、便がないと思われていたマンダレーからヤンゴンへ移動の飛行機も見つかり、夜行バスのルートは消滅することとなりました。
この後、宿泊費・交通費・ガイド費用などなど試算して頂きました。当たり前の話ですが、これほどの飛行機の乗機回数とガイドを含めた人数を考えると、大きな金額になりました。我が家の財務事情もあり、それほどお金もかけられないなということで、恥ずかしながら、ガイドは必要無い旨をお伝えしたり、飛行ルートから陸路ルートへと変更を考えたり、移動コストを下げることを考え、その旨をN氏とスタッフTさんにご連絡申し上げました。英霊の依頼活動を個人で続けようと思うと、出費は出来る限り抑えたいのと家庭事情もあり、ルート作成でご尽力頂いたN氏とそのスタッフ様に申し訳ない気持ちでいながらも、致し方無しという結論に至りました。とにかく、第9回目の日本の兵隊方からの依頼を真摯に成功へ導きたい、彼らの日本への帰還を果たせるように事を運びたいという心からの願いで活動を続けていましたので。
すると、北海道のF氏から提案のメッセージがありました。ミャンマー国内における全ての費用を私に任せて頂けないでしょうかとのことでした。『分業です。各々が出来ることを致しましょう』といった内容でした。そのメッセージを読ませて頂いて、すぐにご返事が出来ませんでした。過去、英霊の依頼活動では、確かに飛行機代金をタイ人の方に払って頂いたり、数人の日本人の方からお金をお預かりさせて頂いていましたが、目に見えないことにお金を出して頂くことに大変抵抗がありました。ですので、第7回目の英霊の依頼活動の時には、財務サポートのお話をある方からお聞きしていましたが、お金を受け取らないことにしましたので、今回のそれはどう判断・考えたらいいのかわかりませんでした。F氏のメッセージを見た瞬間は、目に見えないことにお金を使わせられないというのが、最初の私の気持ちでした。が、時間の経過とともに、F氏からのメッセージを何度も読むにしたがって、私の考えに変化が出てきました。「日本の兵隊方の為だと自分が言い切るなら、その費用を援助して頂き、依頼遂行の為に真っ直ぐ迅速に動くべきなんじゃないか。この海外で亡くなった日本の兵隊方への思いが自分だけのものになっていないか?」などと考えるようになっていきました。そうすると、第8回目中国雲南省でお世話になったK氏ご夫妻のお心遣い(騰越でレンタカーをお借りして頂き、ドライバーを務めて下さったことや奥様の通訳)を受け入れ、それを糧に、英霊の依頼活動の為に、私は私の仕事をしたことを思い出しました。人からそういった行為、いや、共に先の戦争で命を落とした日本の兵隊方に対する思いを共有することが今の私には必要だと思いました。返事をするのに、時間は要しましたが、F氏のご提案を受け入れ、私は英霊の依頼活動完遂のために彼らを帰還させるという一点集中の心構えを固める決意をすることが出来ました。そこにはもう遠慮をするという気持ちは無く、私自身も自分に出来ることに邁進しようという心境に至りました。こうして、今回はF氏にミャンマー国内での経費一切をお任せし、現地ミャンマーで旅行手配をして頂いているN氏スタッフのTさんに全ての段取りをお願いすることに致しました。
時間が経つにつれ、重圧が増してきましたが、それに不思議に耐えられている自分自身がいました。きっと、英霊の依頼活動を成功させなければという思いが重圧を押し返しているのかもしれないと思いました。妻に事の次第を話すと、いつもの妻なら、それは駄目だと言うのですが、F氏の提案を自然と受け止めるような心の変化が見受けられました。恐らく、私がF氏の提案をすんなりと受け入れた姿や私の心境を感じとったのだと思います。
こうした流れに沿って、現地、ミャンマー・ホマリンへの英霊の依頼活動完遂の為のスタート地点に我々3人は立つことになりました。
5:心の準備
渡航準備を続けてきた我々に、現地ミャンマーにいるN氏から、気になる情報が届きました。雨季のことです。N氏の話では4月くらいまで乾季であるが、5月になれば、雨季が始まり、雨具、長靴、傘が必須であるとアドバイスを頂きました。同行する北海道のF氏からは、趣味が登山ということもあって、F氏奥様・娘さんの雨具の貸し出しのご提案もありました。お言葉に甘えて、雨具を貸して頂くことにしました。が、靴に関しては、なんとなく悪い気がして、防水靴を自分たちで購入することにしました。リュックも必要であったし、国内線移動においては最小限に荷物をとどめようとしましたが、帰路で嫁がタイ王国へ立ち寄ることから、自然と荷物が増え、結構かさばりました。あと、私もカップラーメンを10個近く持参していましたので、それも荷物が増えた原因でした。
あとは場所の特定でした。私の中ではやはりチンドウィン川が気になっていて4月28日にチンドウィン川の地図を描き、N氏にメールにて伺っていました。N氏からのご返答は『斜線の部分はチンドウイン河になります。 烈兵団が拠点していていたのがホマリンで、ここからコヒマ、インパールに向かっています。チンドウイン河は地獄の河とも言われており、多くの日本の兵隊が命を落とした有名な河です』といったものでした。おそらく、無意識ではありましたが、この場所が日本の兵隊方との合流地点として、理解していたのかもしれません。が、現地ホマリンは行った事のない場所でしたし、ネット検索しても現地の様子を伺い知る写真がほぼ無く、イメージでしか捉えることしか出来ませんでした。
N氏からは『事前にホマリン市外へ行く必要がある時はミャンマーの首都ネピドーにてガイドによる許可申請がされなければならないので、早めのご連絡を下さい』と言われていました。が、最後までお願いするタイミングを失い、ホマリン市内のみで英霊の依頼活動を済ますような形でホマリンへ向かうことになりました。最終的にこれはある出来事から、これで良かったのだと思うような結果に繋がりました。それはまた後程、ご説明させて頂きます。
準備といえば、今回の日本の兵隊方は新潟の高田陸軍歩兵第58連隊の方々でしたので、北海道のF氏が妙高酒造よりお酒を1瓶と産地特産物などを取り揃えている旨をご連絡頂きました。前回の中国雲南省騰越の英霊の依頼活動時といい、私とは違って、彼らが喜ばれることを本当に着実にされておられるなと慰霊への真摯な態度に心を正される思いにさせられました。最終的に皆さんとメールで日程を確認しながら、2016年5月23日ヤンゴン国際空港で出揃い、顔合わせを含めまして、お会いすることになりました。
出発の2日前、自宅に帰るとレターパックが届いていました。なんとなく日本からでないことはわかりました。字を見ていると、ひょっとしたら中国からかなと思い、開封するとお手紙とお金が入っていました。手紙は昨年、第8回中国雲南省騰越でご一緒した中国大連在住のK氏からでした。『安全に任務を遂行され、日本の兵隊の御霊と共に無事日本へ帰国を祈念しています』といった内容でした。人の巡り合わせに感謝しながら、中国雲南省騰越の時と同じように、黙々と準備を進めるように背を押して頂いたように感じました。
6:F氏が加わりミャンマーへ出発
5月22日の夜に関西空港に到着。5月23日0:30タイ国際航空に搭乗し、タイ王国バンコク経由でヤンゴンへ向かうことになりました。今回は昨年末と違い、乗り慣れたタイ航空でしたので、リラックスしてフライト時間を過ごすことが出来ました。夫婦揃って熟睡をしていたようで、幸先の良いスタートとなりました。ヤンゴンへは2013年の夏以来でしたので、なんとも懐かしい気持ちで飛行機からヤンゴンに降りたちました。空港の外に出ると、見慣れた人が立っておられました。昨年末の中国・昆明空港でお別れして以来のF氏の姿でした。なんとも嬉しい再会でしたが、今回は前回とは違い、一段と距離感が縮められた存在に感じました。
さっそく、空港外で用意されていた車でF氏が滞在しているホテルに移動しました。F氏の部屋に着くと、シャワーをお借りし、さっぱりさせて頂きました。部屋ではN氏からの旅行日程のご説明を詳しくして頂きました。そして、半日強ではありますが、インターンでN氏の会社で働いておられる日本人男性S氏と共に市内移動をして頂くことになりました。
北海道のF氏は私共の動きについていき、サポートをして頂くだけですのでという話を伺っておりましたので、今日の予定を決めていきました。まずはヤンゴンに訪れる度にお世話になっているバラミー寺院へ伺うことにしました。手配して頂いた車に乗り込み、最初の目的地へ向かいました。今までタクシーに場所を言って、行くだけでしたので位置関係がわからず、伺っていたのですが、インターンで働いている日本人男性S氏の話では街外れで空港より少し離れているということでした。
バラミー寺院に行くと、以前来た時とは違い、内装が変わっていました。仏舎利博物館としてのブッダリリックが見当たらず、引っ越しをしたのか?と思うぐらい何もありませんでした。少し、おっかなびっくりしながら、中へ進んでいくと、お坊様・スタッフが食事をしておられました。ご挨拶をして、英語が堪能な秘書を呼んで頂き、話を通すと、ご住職のいる部屋まで上がって行くように促されました。秘書の話によると、なんでも1週間ほど国外に出かけられていて、昨日、帰国したとのこと。我々が日本から電話していましたが、秘書の電話に繋がらなかったことを言うと、着信がいくつかあったが多忙で取れなかった旨をご説明していただき、合点がいきました。タイミングがずれていれば、お会い出来なかったので『今日、来てくれたので良かった』という話でした。前日に来ていても、時間の関係や帰国直後でお疲れだったので会えたかどうかわからなかったそうです。いつものことだが、タイミングが良かった。
部屋の奥に行くと、バラミー寺院ご住職が笑顔で迎えてくれました。私は仏教徒ではありませんが、いつもの見慣れた姿を見ると、ホッと安堵感に包まれました。さっそく、ご挨拶と今回はホマリンへ日本の兵隊方を迎えに行くことをお話させて頂きました。お布施とお供え物を渡すと、ご住職が仏教における聖なる言葉を我々の旅路の安全と成功を祈念して唱えて下さいました。
私はこういった行為の中に言霊というか、思いが波動となって我々の波長というか意気込み・テンションを高めて下さっているのかなと考えています。もちろん、他にも何かあるのかもしれませんが、宗教を信仰しない私はいつもそう捉えていて、仏教徒が発するお経を、「聖なる言葉」という英単語を使い、秘書がご説明されておられたが、宗教心からではなく、そういった意味でいつもとても有り難い行為だなと感謝しております。
我々全員が各々ご住職の元に呼ばれ、直接、聖なる言葉をかけて頂きました。そして、食事を誘われましたが、今回は時間に余裕がなく、午後には国内線飛行場に行かなくてはいけなかったので丁重にお断りしました。が、最上階にある部屋が完成したので見ていきないさいと言われ、行くと、階下にあった全ての仏舎利が運ばれていて、飾られていました。とても高貴な感じがして、有り難く拝見させて頂きました。仏教徒と同じく、ブッダリリックに手を合わせ、今回の英霊の依頼活動完遂を祈念するのでした。最上階からの景色を堪能した後、ご住職にお別れのご挨拶をして、お寺を発つことになりました。本当にいつも我々を温かく迎えて頂き、有り難いと思うのでした。
次の目的地は時間があればということでしたが、なんとかギリギリ行けそうでしたので、F氏が以前訪れた日本人墓地で、高田陸軍歩兵第58連隊の墓碑に伺うことになりました。なんとも因縁深い場所のように思い、私も是非訪れてみたいと思っておりました。
現地に着くと、ちょうど雨が降っており、傘を差しながら、F氏に案内をして頂きました。墓碑の前に立ち、手を合わせ、ミャンマーのホマリンへ今から向かいますとご挨拶をさせて頂きました。F氏とこの慰霊碑との奇縁を感じながら、ここでは、深く慰霊への思いを念じさせて頂きました。
この後は、夕方の飛行機の便でマンダレーに移動でしたので、余裕をみて、ヤンゴン空港国内線乗り場へ移動しました。ここからはマンダレーまでは3人で移動。今までとは違い、F氏という仲間がいることで心強い気持ちを持って、チェックインカウンターへ向かうことが出来ました。荷物を預け、航空券を発行。まだ時間的に余裕があったので、お昼ご飯を兼ねて、レストランで食事をしました。ここに来ても飽きもせず私は焼き飯を注文。やはり、安全面を考えると火を通す焼き飯が一番安心でした。飛行機搭乗の時間が来て、搭乗口へ移動すると、天候が怪しかった。かなりの豪雨でしたが、スコールっぽい感じもしていたのでそれほど気にしないようにしていました。現地に着けば、いつも晴れるというジンクスがありましたので、今回も・・・と淡い期待を持ちながら、飛行機に乗り込みました。
1時間ほどのフライトを経て、マンダレー空港へ到着。飛行場から出てくると、一人のミャンマー人男性がロンジーを身にまとい立っていました。彼が、今回お世話になる日本語ガイドMさんでした。とても礼儀正しく誠実な雰囲気を持った男性でした。彼は笑顔で我々を空港の外へ案内して下さり、さっそくF 氏がお話をされておられました。マンダレー市内でホテルを用意して頂いていましたので、そちらまで専用車で送迎して頂き、夕食時に、明日5月24日の朝の段取りの打合せをして、我々3人だけで近くのレストランで食事をすることにしました。これが、3人が揃っての初夜であり、決起会のような食事会でした。ここでも私は焼き飯。なんだか、現地の美味しいものを食べない勿体ない旅行者のようで、自分ながら楽しめない奴だなと思うのでした。
次の日の朝早くマンダレー空港からホマリンへ移動でしたので、ほどほどにして早めの睡眠をホテルでとることにしました。飛行機移動は結構、疲労を招き、ベッドでの睡眠は本当に有り難く、身体が楽でした。もう若くないなと思い始める年頃になった自分を感じました。
7:合流可能なのか ホマリンへ
早朝、ホテルのロビーに下りて行くと、ガイドさんとF氏が既にお話をされていました。ご挨拶をして、さっそく用意された専用車にてマンダレー空港へ向かいました。マンダレー市内から空港までは1時間。その間にF氏から本を一冊ご紹介されました。題名は「ビルマ戦記」で、後藤氏著作の本でした。F氏が付箋を入れてあるページを見ると、烈兵団高田陸軍歩兵第58連隊のことが書かれていて、地図がついていました。すると、兵隊の思念を感じ、地図を利用して場所を指定してきました。『やはり、そこか・・・』その時点で私の感覚では「その辺」に変換されていました。恐らく、チンドウィン川の対岸の陸部のどこかと推測することとなりました。その時点で私の気持ちは浮足立ち、『場所はもうわかった・・・』と思い込んでいました。これが後々、落とし穴に変化していき、苦しい気持ちにさせられることになるとは予想だにしませんでした。
マンダレー空港でチェックイン時、何事も問題なく通過。国内線ゲートで出発時間を待ちました。こういった時間が私にとってはゆっくりと落ち着いて目的地のことを考える時間になっていました。日本での普段の生活では忙しいので、まさに道中に感覚を研ぎ澄ましていくといった感じです。その繰り返しで8回目までやってきた自然に作り上げられていった私の活動スタイルでした。
搭乗時間になり、飛行機に乗り込みました。F氏とガイドさんは最前列に座りました。前に来るようにF氏に誘って頂きましたが、嫁が寝たいからというので、致し方なく、真ん中よりも少し前ぐらいの座席でそのままホマリンまで行くことになりました。機内食はパン。意外にミャンマーのパンは美味しかった。昨年も美味しかったので、ミャンマーのパンのイメージは旨いになっていました。
そこで小さな事件が起こりました。私の腕につけていた念珠が弾き飛びました。何もしておりませんし、原因がさっぱりわかりませんでした。弾けた玉を全て拾いあげようとしましたが、いくつか見つけることが出来ず、諦めることにしました。こういう時の玉は拾わず、そのまま処分した方が良いと聞いていました。自分の悪い出来事の身代わりになってもらったと考えるべきと以前、誰かに言われたことが頭に残っていました。なんとなく、幸先の良いとは言いにくい微妙な空気を感じ取りながら、機内でホマリン到着を待ちました。
しばらくすると、飛行機が下降し始めました。あっという間の時間で、窓から見える野原に飛行場がポツンとあるといった感じでした。昨年末のように日本の兵隊方の出迎えはありませんでした。無事、着陸し、飛行機から降りると、古びた駅舎のような飛行場が出迎えてくれました。昨年のミッチーナ空港と似たようなものでした。
8:兵隊が指定した町 ホマリン
ホマリン空港の建物内で荷物を拾い、外に出ると、貸し切りのパジェロが待っていました。運転手が笑顔で出迎えてくれ、荷物をさっそく車に載せ、ホテルに向かいました。空港の横には一本の道しかなく、緑が多い田舎の景色をしみじみと車窓から眺めていました。車はホマリンの市内を通りながら、2泊滞在予定のホテルにあっという間に到着。チンドウィン川沿いにホテルは立っていました。なんとも良い立地条件。日本の兵隊方との合流場所捜索を考えると、最高のポジショニングにように感じました。そして、他に感じたことはホマリン市が本当に小さい街だということでした。空港からホテルまでは15分くらいの時間だったように思います。チェックインをして、部屋に荷物を降ろし、土地勘を養う為、まずは市内の様子を見てみようということになりました。もちろん、ホマリンの土地神様にもご挨拶をさせてもらうことも念頭にありました。
初めに市内をチャーターした車でまわり、寺院のパゴダを訪問。献花をさせて頂き、今回の日本の兵隊の御霊引き上げの許可を頂けるようお願いを致しました。次にもう一度ホマリン空港の前を通り過ぎ、街をぐるりと回るようなルートでチンドウィン川沿いの街の北端に立つ仏塔・パゴダに立ち寄り、そこから目の前に流れるチンドウィン川の対岸の様子を伺いました。思っていた以上に川幅は広く、ここを日本の兵隊方が渡ったとなると、容易にその過酷さを想像することが出来ました。恐らく、川は穏やかに流れているように見えますが、実際は、流れがきついだろうなと感じながら観察していました。これを兵装で重い荷物を持って移動するなんて、本当に出来たのであろうかと様々な疑問を持ちました。
あっという間に街を一周し、ホテルに戻ってきました。昼食時、打合せをして、ホマリン市の外にあるチンドウィン川対岸の場所へ行くことを計画し始めました。日本の兵隊方のいる場所が、マンダレー空港に着くまでに改めて連絡が来た旨をF氏にお話させて頂きました。が、ここでチンドウィン川対岸に行くには入国管理局による許可申請が必要であることが問題になってきました。どうも対岸はホマリンとは違う区域のようで町の名前も別のものでした。このまま、申請を出さず対岸に行ったとしてもたいしたことはないという話をガイドさんとしながらも、一応、入庫国管理局へ確認は取っていたようで、結局、警察官がホテルを訪れ、許可が下りないとホマリン市に沿ったチンドウィン川の対岸へは行けないということになり、ガイドさんが許可申請に動き出しました。基本は、先に書きましたが、ミャンマーの首都ネピドーで事前にガイドによる許可申請が必要でしたが、出さずにここまで来てしまったので、ここでガイドさんの交渉能力にすがる他なかった。そして、たまたま彼の親族は入国管理局で働いており、入管のことなら任せて下さいと話して下さっていたので大船に乗った気分で待つことにしました。ガイドさんが午後から入管に伺っている間にF氏と我々夫婦はホマリンを再び徒歩で散策。徒歩で回ったほうが街の様子を、より肌で感じ取ることが出来るということでチャーターした専用車は使わないことにしました。
散策をし始めると、人の目が気になりました。ホマリンという場所はたいした観光地もなく、1年の大半、観光客が来るというような場所ではなかった。ナガという民族を見に来るようですが、これもお祭りの時ぐらいで、このホマリン観光を目的としてくる人はほとんど見られないようでした。来るとしたら、ビジネス目的で材木といった商材を探しにくる来るぐらいのようでした。ですので、現地人とは異なった出で立ちの我々は、どうしても街の中では目立つ存在だったようでした。それでも気にはせず、散策を続けました。
街の中をひたすら徒歩で歩きましたが、大したものはなく、見るものと言えば、現地の植物、現地の店で売っているものを見て、どんなものが流通していて、どんな生活がされているのかといったものを確認していくような散策になりました。他で気になった点といえば、家屋がどれもこれも傾いているように見えました。大体、ベランダを見れば、一番よくわかりました。傾斜がどちらかに傾き過ぎているというか、全体的に波打っているようにも見えました。あと何年持つのだろうと興味深く見つめていました。
そんな中、F氏と私の妻も各々の独特の視点で街を観察していました。F氏は植物(木々や花)に対する発言が多かった。そして、妻は現地の食べ物や生地・布に対する好奇心が見受けられました。現地の市場も回るが、我々の購買意欲を駆り立てられるものは何一つ無く、買ったものといえば、線香ぐらいなものでした。結局、街の中をぐるりと回りましたが、徒歩でも大した時間はかかりませんでした。1時間以内で十分回れたと思います。ホテルに戻ると、ガイドさんより、まだ入管から連絡が来ていないという報告を受けました。現地入管のトップの方が会議だとかで、なかなかホマリン市の郊外(チンドウィン川を挟んだ対岸)へ行く許可が取れないということでした。致し方ないので、各々の部屋に戻り、一度、休むことにしました。夕方に再度集まり、食事をしながら、明日の予定を決めましょうということになりました。
部屋に戻るとエアコンがつかないので扇風機を回すことにしました。これでも十分なくらい部屋は涼しかった。ミャンマーへ来る前は、ヤンゴンは暑いと聞いていましたので、覚悟をしていましたが、気温に関しては思ったよりも過ごしやすく、楽に感じました。おそらく、こちらにきて、少しスコールがあったからかもしれません。少しといっても、アジア特有のバケツをひっくり返したような雨で一時はどうなるかと心配するぐらいの雨量で、次の日の5月25日活動ができるかどうかが気になりましたが、あっという間に雨が止み、怪しい雲は見受けられなかったので、なんとか明日も持ちそうだなと思えるような天候に恵まれました。
夕方、お昼とは違ったレストランで食べることにしました。1階のロビーに降りてくるが、ガイドさんから新しい情報は得られなかった。進展が無い。なんだか暗雲が立ち込めてきたような心持になりながらも、ガイドさんの気負いのない説明を聞くと、楽観的な気持ちにもなれました。入管スタッフによると、『安心してください。許可は下りると思いますので問題ないと思います』といったような内容だったと思います。ガイドさんの話す物腰には、安心感を与える何かがありました。が、どこか気になる部分があったのも事実。なにせ、許可が簡単に下ろせそうでなかなか返事が頂けなかったからだ。『本当に会議中なのか?』という気持ちもゼロではありませんでした。
夕飯で立ち寄ったレストランにはwifiがありました。が、回線速度が2Gということで、フェイスブックで写真投稿しても、なかなか投稿されず、本当にインターネットが繋がっているのかと疑いたくなるような速度でした。ガイドさんも携帯電話を3つぐらい持っていたように記憶しております。電話会社によって、場所との相性があるからということでした。さすがにプロだなぁと思いながら、現地の電話事情を知ることとなりました。
食事は、現地の野菜もありますし、外地からのものもありました。チンドウィン川沿いにある街ということで、水路による交易が盛んでしたので、物は豊富にありました。味も薄くなく、どちらかというとミャンマー国内あちこち回りましたが、濃い方だと思いました。ミャンマーでも味がはっきりしている場所があるんだと、過去4回来た時とは明らかに違う味の濃さだったので、やたらと味の濃さに意識がいきました。そして、食が進みました。F氏は食べもの関しては、なんでも食べられそうな感じで、特に辛いものが得意そうに見えました。トウガラシを敢えて見つけて口の中に放り込むところがすごかった。時折、身体をこわばらせながら、その辛さを堪能されていました。日本人らしからぬ辛さに対する強さの持ち主でした。タイ人である妻でも、あんな食べ方しないと驚きましいていました。F氏の海外対応力の神髄を少し垣間見たような気がしました。そして、後はお酒。現地ビールを美味しそうに嗜んでおられました。そして、妻も同じようにビールを飲んでいました。私もここミャンマーに来て、少し飲み始めましたが、F氏や妻と比べれば、たいしたことはなかった。基本、ジュース派ですし、日本では飲んでもチューハイぐらいでしたので。
テーブルでは食事をしながら、明日のプランも立て始めました。許可が下りるにしてもチンドウィン川を渡らなければならないので、船のチャーターをF氏からガイドさんに依頼していました。そして、市内観光をした時にお寺もありましたので、お坊様も連れて行きましょうかという案も出てきました。明日は服装・装備に関してはフル装備で準備し、お供え物も用意してから、許可が出れば対岸に渡りましょうということになりました。恐らく、対岸側にも道はあり、移動に関してもそれほど問題がなさそうな口ぶりでガイドさんが話していたので、歩いても知れているだろうという感じで聞いていました。とにかく、対岸側のイメージがあんまり湧かなかったので、皆、想像で話すしかありませんでした。ホマリン市内に関しても、日本を出る前、大した情報もネットで掴めず、現地の写真すらほとんど出てこなかったので、ブログを書かれているサイトの写真を僅かながら見ることしか出来なかったが、現地につくと、その写真とは違う世界が目の前に広がっていたので、やっぱり観光地でない場所の情報収集には相変わらず厳しいものがあるなと改めて痛感するのでした。昨年末の中国雲南省騰越もたいした情報は入ってきませんでしたので。我々が日本の兵隊方に呼ばれる場所とは、こんなところばかりでした。なかなか慰霊をされる方も足を運びにくい場所なんだろうと思うばかりでした。
食事を終え、部屋へ戻ることにしました。ガイドさんにはご足労でしたが、次の日の船のチャーターとホマリン郊外であるチンドウィン川を渡った対岸側へ訪問する許可をもらう為の動きを続けてお願いをしました。部屋に戻ると、妻は次の日の用意をしてくれていて、いつもながら、こういった準備を妻任せにしていました。そのようなことに気が付くくらい、今回ホマリン初日に時間有り過ぎて心の余裕が出来たということでした。ホテルへ戻る途中に買ったミネラルウォーターに水出し秋冬番茶のパックを入れ、透明の水が緑色に変化するのを待ちました。通常なら4時間以上待ち、5度前後に冷やしたものを飲むのが常であったが、ここホマリンでは色が変わればすぐに飲んでいました。現地ホマリンで唯一味わえる日本の味の一つでした。が、食事に関しては用意したカップラーメンが要らないくらいに美味しく頂いていました。これが明るくなれるポイントでした。
部屋で寝ていると、ドアをノックする音が聞こえました。ドアを開けると、F氏とガイドさんが立っていました。何でも状況がはっきりしたようでした。皆でF氏の部屋へ移り、入管の答えを聞くことになりました。ドアを開けた時点でなんとなく、若干、嫌な予感がしていました。何故なら、認可OKの話ではなく、入管から返事がきましたという話し方だったからです。心してガイドさんからお話を聞くと、対岸へ渡る許可が下りなかったということでした。『やっぱり』という思いと、対岸へ日本の兵隊方を迎えに行けないという悲しみに包まれ、私の心は闇に閉ざされそうになりました。頭を思わず下げてしまいそうになりましたが、ここは気丈に振舞わないといけないと思い、顔を上げ、仕方ないので出来る限りのことを致しましょうと皆で話し合いをしました。F氏は、『船はガイドさんに手配して頂いているので、午前中から船で慰霊をしましょう』という提案をされました。私もそれしかないので、返事をするしかありませんでした。誰も責められないし、もちろん、日本の兵隊方も責められない。しかしながら、私の中では大きな疑問が残った。マンダレー空港へ行く道中に日本の兵隊方は場所を指定してきた。なのに、何故、こういった状況に陥ったのか?我々は何のために、遠路はるばるこのような場所に来なければいけなかったのかと延々と複雑な思いが湧いてきていました。がっくりした私はうなだれながらも、部屋に戻り、ベッドで横になって、ひたすら、日本の兵隊方とのやりとりを思い出しながら、どこか勘違いが無かったかを繰り返し考えていました。が、何も答えは出ませんでした。そんな時、F氏が木箱に入れて持参して頂いた日本酒が冷蔵庫に入れる際に落とし、日本酒を駄目にしてしまった話を思い出し、今回の日本の兵隊の御霊引き上げは何か間違っているのではないかと様々な疑問を持ってしまうことになりました。私自身も持参していた念珠も紐が切れてバラバラになり、飛行機の中で玉がいくつか無くなってしまったので、これも嫌な気持ちに一層させていました。とにかく、今回は不穏な感じがしましたので、今一度、心を正し、誠心誠意、自分の行為を清めるように努める夜となりました。
9:合流場所の捜索 始動
現地時間、朝6:30にホテル一階のロビーに集まり、朝市場で朝食を取りまし
ょうということで、一日をスタートしました。6:30といっても、日本時間に直すと時
差は2時間半ですので、9時でした。日本ではとっくに起きている時間でしたので、
まったく苦になりませんでした。むしろ、元気ではありました。歩いて朝市場に行く
と、様々な現地食材を見ることが出来ました。野菜が豊富で、嫁がタイの野菜と同じだと非常に喜んでいました。私が驚いたのはコオロギなどの昆虫で、まるまると太ったコオロギの羽や足をもぐ女性の姿でした。現地麺類を頂きましょうということで素敵な雰囲気の屋台でラーメンを注文しました。麺の種類が豊富で、自分で選ぶことが出来、私はしっかりとした歯ごたえがありそうな細麺を選びました。スープと麺は別々でラーメンはジャージャー麺のような感じでした。食べてみると意外に日本人の味覚に合っていて美味く頂きました。麺もとても美味しく、艶がありました。気になる点と言えば、油が若干多いように思いましたが、こちらミャンマーでは、油は高価なものでお金持ちの象徴のようなもので昔気質の皆さんはよく摂取されるようです。今は、油の取り過ぎは身体に良くないと人々にも情報が伝わり、その考え方も変化しつつあるということでした。
ホテルに戻り、船に乗り込む時間を決めました。船にはお坊様にも来て頂きましょうかという話も出てきましたが、私は、『今は必要なく、午前中の巡航の様子を見て、午後、必要かどうか考えましょう』とご提案させて頂きました。ここからは、引き揚げにはいるので、いてもいなくても関係ないというのが私の考えで、仏教徒である妻やガイドさんはどちらかというと、お坊様が必要であると考える方だったと思います。が、今は慰霊ではなく、引き揚げだという私の信念が揺らげば、ここホマリンに来た目的が変わってしまうことになりかねないので、ここでは丁重にお断り致しました。
朝8:30準備をした我々はホテルのロビーに集まり、私は少し精神統一をし、心を整えていました。そして、ホテル前の川にチャーター船に来て頂き、乗り込みこみました。これは、現地の人に目立たず川に出たかったという狙いがありました。現地では我々日本人の姿は珍しいですし、チンドウィン川を航行し慰霊という目的で許可を頂いていましたが、我々のしていることがよくわからない人たちが警察に通報したりして、事情聴取のような無駄な出来事に巻き込まれないようにする為にもそうしたほうが良いという判断からでした。各々が緊張感を持って、真摯に日本の兵隊の御霊を引き上げに向かう心の準備をしていました。
乗船すると、私は真っ先に船首に立ち、チンドウィン川の様子を伺い始めました。特に目立った様子も感じられず、日本の兵隊方からの連絡も来なかったので、どういうことなんだろうと船首から見る風景を静観していました。ここはあれこれ考えても仕方ないので、とにかく、根気強く周囲の変化に意識を向け続けなくてはと思いました。
数十分、上流へ進むが、何も手がかりを掴めないまま、時が流れ、徐々に集中力が途切れかかってきた頃、ガイドさんが私の左横に座り、スマートフォンで川の地図を開け、『どこまで船を走らせましょうか?』と聞いてきました。私は地図を見て、私が日本にいる時に描いていた場所一帯を思い出しながら、『上流のここまで船を進ませて頂けませんか?』とお願いをしました。そんなやりとりをしていると、自然とF氏も集まってきて3人で船首に座り、『この後、どのように進めていきましょうか』という話になりました。対岸に渡れない以上、我々の出来ることは川幅の広い大きなチンドウィン川を移動しながら、慰霊をするほか選択肢はないなと思い始めていました。
10:合図を送る兵隊の集団 高田陸軍歩兵第58連隊
おおよそ、そんな話を終え、各々が景色を見ていた時に、チャーターしていた船のエンジンがストップしました。それを機に屋根のある船体の場所に陽ざしから逃げるように皆が移動し、寛ごうとしていました。しかしながら、実は船首でF氏、ガイドさんと話を終えた時に、意識が対岸のある場所に向いていました。『ん?』と思った私はじっと対岸を見つめていました。私は船首から船体中央に移動したのは、対岸のある場所を確認するためでした。すると、日本の兵隊方がかたまって対岸側の岸に集まっていました。まずは妻に『いたよ』と合図をして、その後、すぐにF氏の身体に触れ、『あそこにいます』と声をかけました。最後に声を上げてガイドさんに『あそこにいます』と声を上げたように記憶していますが、そこから先はもう気持ちが日本の兵隊方に向いてしまい、彼らの喜ぶ感情が私の中に思念として伝わってきて、気持ちがコントロール出来なくなってきました。が、身体は私のものなので、船首に再び移動し、腕をまっすぐ彼らのいる場所に延ばし、船頭たちが分かりやすいように進路を指し示しました。船頭は船体の向きを変え、一気に私の指し示す方向へ船を移動させ始めました。すると、日本の兵隊方は『やっと日本へ帰ることが出来る』と高ぶった感情が喜びとなって、伝わってきました。船は徐々に私が指し示す対岸の場所へ近づいて行きました。船が川岸にぶつかるんじゃないかとドキドキしていましたが、絶妙な舵さばきで川岸に船首をつけて下さいました。『対岸に上陸しなくていいですか?』と誰かが言いましたが、ガイドさんが入管にかけあってくれ、彼のガイドとしての責任を考えると、上陸の許可が出ていないので良く無いと思い、『このままで良い』と思いました『大丈夫です』と言いながら、日本の兵隊方に乗船を促し、全員が乗った後に、船頭に合図をしました。すると、ゆっくりと船首が対岸から離れ、無事、日本の兵隊の御霊が現地ミャンマー・ホマリンの対岸から動くことが出来、帰還へ向かうことになったことを実感しました。なんという速攻劇。正直、対岸に上陸出来ないと言われた時は、心が折れ、悲しみのどん底に落ち込んでしまいました。が、この瞬間から全てが明るい気持ちにさせられました。
乗船した兵隊さん達は、何故か長袖で身なりを整え、隊列を組むかのように横一列に座り、何列も並んでいました。死してなお、統率がとれているように見えました。
すると、彼らから今の気持ちを伝えられました。
『長いようで(70年前後もしくは以上)短かったような気持ちです。ここに居る時は嫌な気持ちで早く日本へ帰りたい気持ちしかなかった。が、今は全て良い思い出に変わりました。この場所も思い出深い場所に変わりました』(思念を勝手に訳しております)
私は『そうなんだ。帰れるとなったら、すぐ、そんな風に考え方も変わってしまうんだな。しかも、彼らの思いには視界が開けたような心の変化がこんなにも現れるんだ』と納得しました。とにもかくにも、私の気持ちも彼らの思いに同調するかのように晴れ晴れした気持ちになっていきました。
F 氏、妻、そしてガイドさんたちは用意していたお供え物を慰霊の念を持って手を合わせ、川に流されていました。お供えが終わった後は、皆が感無量の思いに浸り、喜びに満ちた感情に満たされているようでした。船を一日チャーターしていましたが、F 氏からガイドを通し、午前中だけでチャーターは終わりで、お金はそのまま一日分取っておいて下さいと話して頂きました。F 氏の船のチャーター依頼は、功を奏し、今回の合流成功に繋げる結果となりました。やはり、適材適所という言葉が自然と私の中に浮かんできましった。不思議とこの英霊の依頼活動に加わった人たちというのは、この活動を遂行するにあたって、必要不可欠な何かを持った人たちが携わっているような気が致します。それは、天の配剤という事象のような気がしてなりません。そして、今、振り返れば、日本の兵隊方は、この展開をわかっていたかのように私が日本に居る時に、その場所を指示していたのかなと思うような節がありました。それは、手書きの地図でした。まさにその場所でしたので、そう考えると、私が日本を発つ前からわかっていたのかどうかといったことも気になります。どちらにせよ、この真相はいつ解るものなのかわかりませんが。
日本の兵隊方との合流を果たし、午後から明日5月26日の午後4時の搭乗時間まで自由になった我々は祝賀会をしようということになりました。単純に労を労い、真に目的を達成できた喜びを共に分かち合う飲み会ですが、そのぐらい今回は、もう駄目だという思いにさせられた中での成功でしたので、飲みたくなったのかもしれません。ホテルのすぐそばにあるレストランで食事をして、ビールを飲みながら、今回の流れを振り返りながら、話し合いました。特に良かったのはガイドさんにご迷惑をかけず、対岸に渡らず、日本の兵隊の御霊を引き上げることが出来たことでした。自分を褒めるなら、よくあそこを冷静に考え、対岸に上陸しなかったことでした。入国管理局が見ていなくても、対岸に上陸し、それを見ていた誰かに密告されていれば、ガイド免許を取り上げられるという事態になりかねないからでした。私はまさかこういう展開で彼らと合流出来ることになるとは思ってもいなかったので、本当にしみじみと喜びを嚙み締めていました。昨晩は、F氏とガイドさんから聞いた入国管理局の許可申請の結果を聞いて、落胆していましたので、まさかこのような急展開で成功するとは予想できず、本当に仲間に感謝いたしました。これもF氏、ガイドさん、日本から海外からの応援して頂いたおかげだと思いました。やはり、一人だけでは何も出来ないなと思い知らされた回でした。
食事を終え、時間があまりにも余り過ぎるので、夕方からお世話になった現地の土地神様のご挨拶に行こうということになりました。そして、日本の兵隊方との合流地点となった場所の対岸、つまり、我々が滞在しているホマリン側にあるお寺にも行こうということになりました。
夕方までは各々シャワーを浴びたり、昼寝をしたりと思い思いの時間を過ごしました。今回は、入国管理局の許可を待つ間、寝てばかりいる時間が多かったのですが、日本にいる時は仕事のことで頭がいっぱいになり、熟睡できないことが多かったので、ここぞとばかりに睡眠を取らせて頂きました。これも思えば、身体に負担を少なくする良い旅だったのだと思います。
夕方になり、ホマリン訪問初日にご挨拶に寄ったお寺に赴くと、仏塔の中へは入れないように鍵がされていました。境内に居た人に聞くと、鍵を開けて下さり、仏塔の中へ入り、東西南北の仏像に手を合わせることで現地の土地神様に、今回の成功のお礼を述べました。この後は、ホマリン空港の側道を通り過ぎ、日本の兵隊の御霊引き上げとなった場所の対岸になるお寺に伺い、ここでも現地の土地神様にお礼を述べました。
思えば、5月24日ホマリン滞在初日、ここで川を眺めていました。まさか、その対岸側で彼らが待っているとは思いもしませんでした。各々が昨日のことを思うと、感慨深い気持ちになったと思います。
この時、私はこの高台のお寺から見えるホマリン市北部郊外の緑の多い村が気になっていました。ひょっとしたら、あの集落の住む人に聞けば、インパール作戦当時の日本の兵隊の動きを知ることが出来るんではないかと。ガイドさんに声をかけ、『あの村に行って、誰か高齢の方に戦争当時のことをお聞きでないか聞いてみてもらえませんか?』と尋ねました。ガイドさんは快く、聞き入れて下さいました。車に乗り込み、さっそく集落へ。村の中を、ゆっくり車を走らせていましたが、とても喉かで活き活きした感じが伝わってきました。まるでそこに住む人々が土地そのものを綺麗にしているかのように見え、なんだか精気を宿らせているような空気を感じました。途中、村の売店らしき店でこの集落の村長さんの家を教えて頂きました。突然の訪問にも関わらず、我々のことを村長さんのご自宅の庭先のテーブルに客人として招き入れて下さいました。村長さんは戦争当時のことは知らず、御祖父なら知っているかもしれないとバイクに乗って連れて下さるようでした。しばらくすると、70代の村の男性を連れて帰ってこられました。彼も日本の兵隊が来た記憶はないが、彼よりも年配の村の住民から聞いた話を丁寧にして話して下さいました。
以下、同行したF氏が書き留めたものを使用させて頂きます。
・現在73歳、日本軍撤退後生まれ。日本人に似ているので生まれ変わりと言われてきた
・タニワキ部隊が当地に展開。敵方に少人数なる事を悟られぬよう、あちらこちらで発砲をしていた
・日本軍が東側岸、対岸に英国軍。グルカ兵では無い。
・英国航空機による爆撃で村内寺院敷地へ爆弾落下。幸いに不発弾、神が仏像を守ったと噂する
・村人5人位日本軍へ協力の罪で英国軍に連行されるも、無事に帰村。既に葬式は済んでいた
・当地に日本軍は、長居はしていない。対岸へ渡る時(インパール作戦進行)のみ通過。
・ホマリン市内の市場の有る付近、現在警察関係建物が有る所は、英国軍が使用していた
・川沿いのパゴダ付近から湧く水で飲むお茶が美味しい。河の水では美味しく呑めない
・当地で作るお茶は一切何も使用していないので、美味しいですよ
~御茶うけとして、油炒めしたお茶/にんにくスライス/唐辛子スライス等を出して下さった際にご説明
・同席していた通訳をしていた男性の孫娘(40歳半ばくらいか)曰く「祖父の姉が日本兵を背負って運んだ事が有る。お礼として塩を貰った」との事
・我々より質問「日本兵に関し、古老から何か聞いた事は有りますか?」
~一瞬顔付きが硬くなったように思われた後「悪い事はしなかった」と発言
・対岸に85歳の古老が居られるので、詳しい事を聞けるかもしれない
以上が、村長さんのご自宅でお聞きしたお話でした。
時間的には小一時間くらいだったであろうか。とにかく、紳士的にお話をして下さり、とても有意義な時間を過ごすことが出来ました。そして、対岸に今もご存命でおられる85歳の方とお会いし、お話をより詳しくお聞きできないかとガイドさんに手配をして頂くことになりました。F氏が凡そこの話を提案し、進めて下さったので最終日の残りの時間も有意義な時間を過ごせるのではないかと淡い期待を持ちながら、ホテルに戻ることになりました。
時間的に夕方になっていましたので、再度、ホテル近くのレストランに行き、ビールを飲みながら、食事をすることになりました。無駄な時間が多く感じられた今回の旅でしたが、身体を休めながらと思えば、決して無駄な時間を過ごしたわけではなく、日本の兵隊方との合流が叶った後も、こうして貴重なお話を通して、当時の情報を聞くことが出来、とても納得のいく2日目を過ごしているように思いました。それに今回はガイドさんの活躍が非常に大きく、とても頼りになる素晴らしいガイドさんで、次回も機会があれば、是非お世話になりたくなるガイドさんでした。
11:古老の記憶 戦時中の日本の兵隊の様子
昨日同様、6:30起床。日本時間では9:00に朝市場で朝食を取ることにしました。現地の人々が集まる屋外喫茶店&レストランのようなところがあり、皆、大きなテレビを見ながら食事をしていました。調理場が丸見えなので、皆で覗き込むと美味しそうな卵を焼く様子が見えたので、ここで朝食を取ることにしました。コーヒーと焼き飯を私は頼み、F氏とガイドさんは麺類を頼んでいました。本当に美味しく、コーヒーは甘いがなんとも朝から身体に活力を与えてくれ、元気にさせてくれるような食べ物でした。4人は寛ぎ、ゆっくりとした朝食を愉しみました。ホマリンでの朝食は今日が最後。なんとも感慨深い充実感溢れる朝のスタートとなりました。
ガイドさんの話によると、対岸に住む85歳のご老人は来ることが叶わず、もう少し若い方が来られるということをお聞きしました。我々はそれでも戦争当時のお話をお聞き出来るのであれば、対岸からホマリンへ来て頂いてお話をお聞きしたいということで、船でチンドウィン川を渡り、足を運んで頂くことにしました。
インタビューという形で当時の様子をお聞きすることにしたのですが、適当な場所がなかった為、F氏のお部屋に来て頂くことにしました。その際、その様子をビデオ撮影しましょうということになり、F氏の部屋にビデオをセットし、客人を待つことにしました。来てくださった男性は2名で年配の村の人たちから聞いた話を彼らが知る限り、お答えして頂くことになりました。
以下、インタビューをしたものをF氏の記録をそのまま引用致します。
・対岸ケッタ村生れ、67歳。ケッタ村面積は、ホマリン市より広く、家は千件程度ある。
・ケッタ村には85歳以上の方が3名いる。85歳の古老は腰が曲がって歩けない、もっと知っている?
・ケッタ村より5マイル南のコントン村に日本軍駐屯地。夜に車の音がしたが、朝行くと誰も居なかった。
・コーヤーには無線塔が有るので、ヤッパとの間に無線を張った。ウル河を渡った
・少数民族の古老から聞いた話では、ケッタ村から3マイルのホマレーで日本軍の戦闘あり。相手は英/印/グルカが混ざっていた様子
・当時は村を守る人だけ残し、村人は避難していた。ホマリン市は川沿いなので被害は無い
・日本軍が通過しただけで何もなかった。日本兵と地元女性が結婚した例は無い
・河へ爆弾投げ込んで魚が沢山捕れたが、塩が無かったので干物が作れなかった
・此処より北側から侵入した、中/右突進隊の件は聞いた事が無い
・ホマリン市南側のモンクリィ付近は川幅が狭い
・日本軍が撤退した際に通過したのは、トンヘ付近なので慰霊に来た人が沢山の骨を見つけた。ケッタは通らず、行く時だけ。
・英国側は日本軍の撤退路を予想しており、モンキリーで待ち伏せしていた
・〈食料売った?〉
~日本兵はココヤシ好きだった。日本兵に頼まれてココヤシを取ってくると、高官が一札書いてくれた。後続部隊へ其れを提示すると、再びココヤシを取りに行かされた
・〈日本軍は支払手段として砂金を使った?〉
~軍票は沢山あった。価値が無く、子供の時おもちゃとして遊んだ
・〈日本の兵隊が幽霊として出た様な話はあったか?〉
~山の方の老人曰く、「土に埋もれた兵隊の遺体は、地元の神様が守って下さるので後で探しに行っても見つからない」
~日本軍の駐屯地跡を色々と探したが、何も見つからなかった。土に還えったのではないか
~チョウワ(ケッタ村より6マイル)では昔水筒が出てきた。高官が使ったナイフもあった。
~ペイネブー/ポンビエン方面へ日本兵の慰霊に行く人たちが、トラック道で誰も居ないのに頬を叩かれた
~チンドゥイン河底に日本軍が遺棄していった箱を二つ見つけた。大変重いので後日引揚げようと戻ったが二度と見つからなかった
・〈村からインド国境まではどれ位の時間で行く事が出来るのか?〉
~約10ビス=16KGの荷物を背負い、往路は9時間/復路は6時間。山を越えると平地になっている。休むところは水が有る所、獣道の様な場所を進む。虎や山猫には会った事が無い
~印度へは内臓が入ったまま干した魚(内臓取り除くと駄目)/茶/海老ペーストを運ぶ
~ミャンウォー(猿が鳴く)なる豆科植物は甘味で印度にて人気、当地で委託栽培している。スープにすると美味
・〈現在での対岸の治安は?〉
~問題無く、安全と思う。ペテー村(印度人との混血が多い)の方面で軍高官が殺された。山奥の方である
~マニプラは、戦争の時にミャンマーへ侵入してきた。ナガ/ペテーは互いに争う。カチンへは中国経由で武器が入って来る
以上が、F氏の部屋で聞き取りをした内容となりました。
この後は、ホテル前で皆揃って、記念撮影を致しました。そのまま、お帰りさせるのは失礼だということで、一緒にレストランで昼食を取ることになると、そのレストランは今回来て下さっていた方のご親戚が経営をされているらしく、とても驚かされました。お酒も入りながら、さらにいろいろ話をお聞き出来ました。この後は、別れを告げ、我々は各々の部屋に戻り、日本への帰り支度を始めました。
少し早めにホマリン空港に行こうということを決めていました。理由は我々が到着した5月24日(前便)中国人ビジネスマンの一行が国内線の飛行機に乗り遅れたか置き去りにされたかで我々と同じ飛行機に乗ってマンダレーまで帰るとのことで、満席になれば、我々が置いていかれるんじゃないかと心配になり早めに空港へ行き、席を確保することにしました。なんせ我々の常識が必ず通用するというわけではありませんので出来る限りのことはしておかないと、5月27日の飛行機に乗ってミャンマーを発つことが出来ませんので細心の注意を払うことにしました。
無事、ホマリン空港に早めに到着し、チェックイン。荷物を預け、待合室で少し待つことになりました。どうみても空港ではなく駅舎にしか見えない建物。天井にある扇風機も電気節約のためか、なかなか電源を入れてくれませんでした。扇風機を回してくれたかと思うと、すぐに飛行機が到着し、また、扇風機の電源を落とされました。なんとも電気の無い国なんだと思い知らされました。そう言えば、街の一角でバッテリーに電気を貯めている店を見つけました。あれは電気を売っているとのことでした。日本では見慣れない商売に非常に驚かされました。
飛行機に乗り込むと、F氏とガイドさんは最前列に席を取りました。我々は行きと同様、真ん中で席を取り、妻は寝始めました。あっという間のフライトでしたが、途中、モンユアを経由し、マンダレーまで帰ってきました。モンユア付近では妻がスタンディングブッダの撮影に成功したようで私に写真を見せてくれました。あれは5回目の英霊の依頼活動だったはず。タナカと名乗る日本の兵隊に導かれ、彼らの待つ場所に到着することが出来ました。今でも忘れられない言葉。『ずっとあなた様のことを待っていました』あの言葉が今でも忘れられない。懐かしい思い出の地に立ち寄り、再び飛行機はマンダレーに向けて飛び立ちました。空港へ着くと、荷物と共に一度空港の外へ出て、改めて2階へ移動し、チェックインする場所をガイドさんに教えて頂きました。これでガイドさんの仕事は終了で、最後に御礼を言ってご挨拶をしました。彼が階段を下るまで我々に手を振って下さり、我々も手を振りました。たった3日間とはいえ、非常に濃くて深いお付き合いをさせて頂いたように感じました。彼と別れる時は非常に寂しい気持ちにさせられました。しかし、また、ご縁があれば、彼の力を借りなければならない。これが一生の別れではないと信じ、疑いはしませんでした。
次のフライトはマンダレーからヤンゴンへの国内線移動。まだ時間がありましたので、我々はレストランで腹ごしらえをすることにしました。注文したのは定番の焼き飯。相変わらずでした。
チェックインの時間になり、荷物を預け、搭乗ゲート待合室側に移動しました。ミャンマーのお土産屋さんに少し立ち寄り、私以外は各々のお土産を買いました。F氏は、私に小皿の器で何がいいかと意見を聞いてきましたので、彫刻細工がされたミャンマーらしいものを指さすと、それを購入しました。妻はというと、赤い珊瑚の腕につけるパワーストーンのようなものを購入していました。少し価格が気になったが、安価なものでしたし、あれこれ言うと機嫌を損ねかねないので、笑顔で沈黙することにしました。
最後の荷物検査を終え、搭乗口前にて時間を潰しました。マンダレー空港でこの場所に座ったのは何回目になるだろうかと過去を振り返る自分がいました。『何の縁だか、不思議な出来事は続いているな』と冷静に自分自身の人生について考えました。
この後、マンダレー空港からヤンゴン空港へ飛行機で移動しました。特に悪天候にも見舞われず、無事、到着。空港前のホテルまでタクシーを拾い、チェックインを済ませました。各々の部屋に荷物を持ちこみ、私はベッドに横になりました。明日5月27日は朝早くからタイ王国のバンコクへ移動し、妻はタイ王国チェンマイへ移動する。私は日本の羽田空港へ向かうことになっていましたので、荷物の振り分けをし始めました。
荷物整理が終わると、F氏の部屋にお伺いしました。F氏に御礼を申し上げ、共にミャンマー国内における目的の成功の喜びをシェア致しました。今回の旅において、F氏の随所に渡る決断力が、英霊の依頼活動において大きな助けとなり、F氏のご英断が無ければ、ミャンマー国内における第9回目の英霊の依頼活動は成し遂げられなかったのではないかとつくづくそんな思いにさせられました。これも、役割・使命であったと考えると、いやが上にもF氏の存在が大きく感じました。F氏は『分業です。各々が作業に励む』という言葉を私に残して下さいました。それからの私は一点集中という言葉に心身を寄せ、日本の兵隊方との合流と帰還への活動に全力を注ぐことを決めました。今回の英霊の依頼活動でF氏とは2回目となり、F氏の人柄と日本の兵隊の御霊に対する慰霊の思いを十分に知ることとなりました。会うべくしてF氏とお会いした。そして、英霊の依頼活動に協力して共に動き、各々の仕事を皆がされた。それだけのことだけですが、それがどれほど重要なのかも私は心得ているつもりです。
その夜は疲れもあり、早々に部屋に引き上げ、寝床につかせて頂きました。朝早くホテルで共に朝食を取りました。ヤンゴン空港までF氏は見送りに来て下さり、なんとも恐縮致しましたが、F氏の姿を最後まで拝見することが出来て良かったと思っています。前回は中国雲南省昆明空港が最後でしたので、ここミャンマーのヤンゴン空港でのお別れがなんとも言えない気持ちにさせられました。とにかく、目に見えない力によって引き寄せられた縁を深々と感じながら、空港内へ移動しました。
タイ航空でそのままバンコクへ移動。あっという間にバンコクに到着し、妻と私は別れ、空港の無料wifiにてお互いが各々の搭乗ゲートに無事到着したことを確認し合いました。今回は、バンコクから羽田までの飛行機は利用し、大阪へ帰阪致しました。
そして、バンコクで別れた妻が1日遅れで関西空港へ戻ってきたと連絡を受けました。最寄りの駅まで迎えに行き、今回のメンバーが各々の自宅へ無事到着となりました。
これでひとまずミャンマーで無事日本の兵隊の御霊を日本までお連れすることが出来ました。しかし、これで全てが終わったわけではない。気を引き締めながらも仕事に意識を向けるようにしました。
12:この時点で気が付いたこと
ミャンマーへ発つ前、ホマリン郊外へ行く許可申請がタイミングを失い、出来なかったことですが、結果、良かったと思っています。あの時点でもし許可申請時に、事前に却下されていれば、私はホマリンへ行く決断をし切れずにいたかもしれません。知らぬが仏で、知らないから片道4回のフライトを経て行くホマリンまで行けたと思います。そして、ミャンマーにて、入国管理局に顔が利くガイドさんとの奇跡的な出会いがあり、同行し、現地でうまくチンドウィン川に船を出して行く特別許可が出たのは、ホマリンまで行ったからこそ、起きた出来事だったのだと思います。そう考えると、日本を発つ前にホマリン市外への訪問許可申請を出さなかったのは必然だったのかもしれないと思う自分が今います。時間が経てば経つほど、その意味が全て明白になっていくような気が致しました。
13:新潟県妙高 故郷の山
家族揃って寝室で寝ていました。私は横になりながら、日本へ帰国をした日本の兵隊の幽霊方の行先はどこなのかと考え始めました。すると、彼らからメッセージが届きました。『F氏の思いが叶う場所へ送って頂きたい』私はこの思念からいろいろなことを予測しました。F氏のご親族と関係あるのか?F氏が特定の場所を知っていて、そこを推薦してくださるのか?などなど考えていると、夜中に電話がしたくなってうずうずして寝られなくなりました。とにかく、次の日の午前中に連絡できればと思いました。
翌日になり、さっそくF氏に連絡を取ってみました。すると、お仕事で忙しいようで、午後3時以降なら大丈夫だということでした。電話でF氏に事情を説明して、何か心当たりがないか聞いてみましたが、どうも無さそうな雰囲気でした。それから、F氏がご自身の個人情報や過去の記憶などをメッセージで送って来てくださいました。私も仕事から自宅へ戻り、まずはお風呂に入りさっぱりさせて頂きました。心が落ち着いたところで、F氏から頂いた個人情報を読みなおすことにしました。すると、キーポイントとなる文字が頭の中で浮いてきました。表現的には的確ではありませんが、文字が強調されるというかそんな感じです。その文字は「山」と「岳」でした。この時点で『どこかの山なのかな?』と思いました。帰宅前に買ってきた全国地図を開けると、妙高という文字がすっと視線に入り、意識が妙高という文字に集中していきました。その時点でF氏がミャンマーへ発つ前に準備されていた妙高酒造の日本酒が頭の中でフォーカスされていきました。現地ホマリンでは、そのお酒の瓶が割れ、残念な結果となりましたが、その話をF氏から聞いた時に私の中に記憶として深く刻み込まれました。そして、印象付けられた新潟県妙高という場所へ導かれました。F氏には個人情報の開示を通して、妙高への道のりを築いて下さったことに感謝し、日本の兵隊の見えない動きを感じとることが出来ました。
その場所さえわかれば、あとは行くだけ。最終的にF氏と第9回目の英霊の依頼活動の仕上げに行くことを確認し、6月18日土曜日に新潟県の方で待ち合わせをすることとなりました。
14:妙高山の麓で
北海道のF氏と新潟県妙高山へ行くことになり、現地待ち合わせの前日は早めに仕事を引き上げ、夕方3時間ほど仮眠を取りました。F氏とは6月18日新潟県妙高高原駅で朝9時前に会う約束をしました。お互いの都合を考え、この日にし、時間は午後3時前ぐらいまでの間で日本の兵隊方の見送りを完了することにしました。F氏はこの日の内に北海道へ帰宅する予定でした。
ですので、それまでの遣り取りで、場所をある程度より明確にしなければならなかった。妙高高原がポイントであることはすぐにわかりました。意識の集中する場所だからでした。そういったことから、妙高高原のどこかということでいろいろな推察が私の中で繰り広げられました。ここからは、霊感的なものでなく現実的な資料・情報に基づく調査がメインになりました。しかしながら、妙高山と新潟県出身の日本の兵隊方との強い関わりがどうしても見つけることが出来ませんでした。ほとほとそんな状態に疲れ果てた時に、地図をもう一度見始めた。ズームイン・ズームアウトを繰り返すと、山の神祠という文字が目につきました。気になって、探してみると、あったが、ネット上の地図ではあまりわからず、画像検索をかけると、なんとも小屋のような本堂?で『おそらく登山をする人たちが山の神様にご挨拶するもので石碑ではないかな?』と思いました。
6月17日午後11時過ぎ、もう一度、高田陸軍と関わりのあるスキー場を調べていくと、上越市高田方面にある金谷山スキー場という処でオーストリアのレリフ少佐にスキーを当時の兵隊が学んだと記されていた。ここに行こうかと一瞬思ったが、それなら、妙高高原はどうなるんだと思い、地図を見直すと、意識がやはり妙高高原に集中しました。何も考えず、妙高高原に行けばわかると思った後、山の神祠が意識の中に出てきたので、また地図で探し始めました。すると、ネット上では細い道を通り向かうのですが、途中で道が切れていて、やはり行くには少し困難のように思いました。きっと林道のような感じなのかなと推測しました。
結局、家を出て、妙高高原駅方面に車を走らせ始めたのは午前1時半過ぎでした。この日の朝9時頃には妙高高原駅にてF氏と待ち合わせでしたので、睡魔と死にもの狂いで戦いながら、なんとか9時頃妙高高原駅に到着しました。0分もずれが無く到着する自分自身に、いつもながらの奇跡に笑いが止まらなかった。駅に着くと、建物中央から足の先が見えていました。黒い先の尖がった靴。F氏に違いない・・・。その足の本体に向かって歩き出すと、やはりF氏でした。ミャンマー・ヤンゴン空港で別れ、また、日本の新潟県妙高高原駅での合流。なんとも言えないF氏との再会・合流する場所に奇妙な感覚を覚えました。しかしながら、F氏のいつも通りの笑顔と人柄に安心感を覚えました。
さっそく、F氏の荷物を車に乗せ、駅近くの観光所に二人で足を運んでみますが、まだシャッターが下りていて1時間後の10時に開くようでした。その日の内にF氏は北海道まで帰宅しなければならないことを考えると、無駄な時間を費やすことはできず、観光マップをいくつか取り、車で妙高高原に向かうことになりました。私は意識が向かう場所が妙高高原であることをF氏に告げ、とにかく、そちらに向かえば何かわかるかもしれない旨を伝えました。
妙高山を登る形で車を走らせると、赤倉温泉街に着きました。シーズンオフのせいか、人通りもなく、閑散としていました。F氏としばし位置確認しながら、妙高山スカイケーブルの場所を探すことになりました。となると、今、来た道を引き返すことになり、途中で山の頂きのある方向に曲がりました。そこには妙高高原らしき草原が左手に見え、右側にスカイケーブルの搭乗口のある建物がありました。車から降り、二人で確認するが閉鎖中で7月にならないと営業を再開しないようでした。妙高山の頂きに向かい、そこで英霊の帰還活動を締めくくりましょうかと話し始めていた我々は、ふと妙高山の頂き方向に目を向けました。すると、F氏が『道があり、車が走っているみたいだから、行けますよ』と言い始めました。私は『行けるところまで上がってみましょうか』と提案し、全員一致で車を走らせることとなりました。上まで行くと、ホテルが一軒建っていました。そして、道は行き止まり。どうしようかと思いながらも車をホテルの駐車場に止め、辺りを確認しながら歩くことにしました。すると、ホテルの向かい側に木で出来た展望台らしきものが見え、皆で上がってみましょうかとなりました。F氏に先導してもらいながら、歩道らしき道を歩いていくと、小さな標識がありました。そこには山の神祠を指し示す標識がありました。F氏は私に視線をやり、『ここが?』と言い始めた。私は『そういえば、山の神祠を、家を出る前、夜11時過ぎに見ていたんです』と話し始めていました。すると、全員、腑に落ちたような気持ちになり、『ここだよ』と納得し始めました。4人でゆっくりと歩いて上がって行くと、山の神祠があり、日本の兵隊方の日本への帰還の喜びが伝わってきました。私は憑依させずになんとか済まそうと必死になっていると、最終的には妻の方に憑依していました。F氏は山の神祠の石碑に妙高酒をかけ始めました。なんとも言えない空気が流れていました。間違いなく、ここで彼らが帰国を果たしたいう気持ちに至っている。すると、妻には光の柱が下りてきているのを感じていたようでした。私も感じたことがある見えない光の柱。妻によると、若い兵隊さん達が少年に戻ったかのように林の中を楽しそうに駆け回っている姿が見えたそうです。彼らにとっては、戦争などとは無縁な童心を取り戻し、あの世へ旅立って行ったのかもしれないと思うのでした。残念ながら、私には光の柱は今回視えなかったが、身体が楽になったことで、我々の今回の使命を果たしたことを感じました。身体は今回の英霊の依頼活動から解放されたのがわかるぐらいに、軽くなりました。3ヶ月、正直、身体がつらくてつらくてどうしようもありませんでした。彼らと共に私自身も元々の身軽な一人の肉体となったことを感じました。4人は手を合わせ、彼らの成仏を祈念しました。これにてミャンマー・ホマリンそして新潟県妙高までの英霊の依頼活動第9回目の使命を終えることが出来ました。こうして、4人は山を降り、任務を終えました。
この後は、時間的に余裕があったので、新潟県上越市高田にある高田城に行きましょうと私が提案しました。本当は関山神社という地元に神社に行こうと思っていたのですが、突然、高田城へ行くことを口走ってしまいました。そのまま、我々は高速に乗り、高田へ移動し、まずは高田城へ向かいましたが、その途中、陸上自衛隊高田駐屯地の前を通り過ぎ、高田城へ到着しました。そして、4月に来た際に決して伺うことが出来なかった高田城公園内にある忠霊塔へ訪問、そして手を合わすことが出来ました。不思議だったと感じるほどの天候の違いは、感じました。4月に来た時は暴風雨で車の外に出るのも危険を感じるぐらいでした。が、今は、空が青く、最高の天気でした。この後は高田城三重櫓に上り、妙高山方面を眺めました。妙高山は高田市からはっきり見えることがここでわかりました。おそらく、当時から妙高山はこの地域の人々にとって故郷のシンボル的存在であったのではないかとF氏と語りました。だから、妙高山?もしくは山の神様を奉る石碑の元で日本の兵隊方を送らされたのかもしれないと思いました。
ここで、これ以上、留まる必要もなく、妙高市を後にして、F氏の帰途の交通手段となる列車に乗る為に長野駅へ移動することとなりました。長野駅までの車中でF氏の話の中で非常に印象に残ったのは、試練の話でした。英霊の依頼活動に初めてご参加される為、中国雲南省騰越に行った際の道中の困難。そして、今回のミャンマー・ホマリンへ行った際の資金面での援助。F氏は英霊の依頼活動において、日本の兵隊への慰霊・成仏に対する本気度を試されたと思っていると話しておられました。F氏の英霊の依頼活動2回参加における思い・考えを再び知ることとなりました。英霊の依頼活動は9回で終わるかもしれないし、まだ、続くのかもしれません。が、もし、新たな日本の兵隊方の依頼があれば、正直にF氏にお伝えしたいと思うに至りました。
では、これにて、9回目の英霊の依頼活動を完遂ということでご報告させて頂きます。今回の英霊の依頼活動に関わって下さり、お手伝いして下さったり、声をかけて下さった、見守って下さった皆様に今回の日本の兵隊方に代わり、厚く御礼・感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。