見えないを見る
http://www.sagamihara-seishin-j.ed.jp/pdf/tayori/R2/R2_1102.pdf 【見えないものを見る力】より
『上農は草を見ずして草を刈り 中農は草を見て草を刈り 下農は草を見ても草を刈らず』とい
う言葉をご存じの方も多いと思います。農業に従事する人の中で、一流の人(上農)は、雑草の芽が出る前に、その根がつきにくくなるように農地の表面をけずるなどして最良の土づくりを行うといいます。一方、農業に十分な知識や技能のない人(下農)にいたっては、雑草が出ても何もせず放置してしまうということから、この言葉には、先んじて策を打っておくことが大事という意味があるようです。
この言葉は農業に限ったことではなく、あらゆる生活場面でもいえる話で、常に一歩先、先手を打つことによって物事が効率よくいくということを教えてくれているのだと思います。「あの時○○していれば・・・」、「どうして○○しておかなかったんだろう・・・」、「こうなることはわかっていたのに・・・」など、私など、ちょっと振り返ってみただけでも反省は尽きません。
この言葉を語るとき、「先見」という言葉がよく引き合いに出されます。「先見」とは読んで字のごとく、「先を見通す」という意味をもち、「先見性」や「先見の明」、「先見の目」など、日々の生活の中でもよく使われているのはご存じのとおりです。
しかしどうでしょう。私たちは、将来や未来を予見できるような特殊能力を持ち合わせているわけではありません。むしろ一寸先のことは誰にもわからないといっても過言ではありません。では、この矛盾とも思える「先見」を身につけるにはどうしたらいいのでしょうか。
「先見力」が身についている人とそうでない人の差は「観察力(物事を注意深く見る力)」と「洞察力(目に見えるものを手掛かりにその奥底にある「目に見えないもの」を推測する力)」の差によるよるものが大きいといいます(注1)。目の前で生じていることが一見正しいと思えることでも、視点を変えてみると、必ずしも正しいとまでは言い切れないことが世の中にはたくさんあります。また、どういったことが原因でこの状況や問題が生まれているのか、今後どういった影響が考えられるのか等、常に「なぜ?」、「どうして?」を自分に問いかけ、現状を分析しながらこれから先に起こりうることを想定しようとするクセが、「先見力」を身につけ、人としての幅を拡げていくといいます。
少々難しい話になりましたが、実は私たちは幼少の頃に、目には見えないものであっても見ようとしなくてはならないことを、身近な大人から教わっていたように思います。例えば、夕食を終え茶碗に残ったご飯粒を見て、「この一粒のお米も、こうして食卓に並べられるまでには、田んぼの土作りから田植え、収穫・販売にいたるまで、見えないところで多くの人の手間や苦労があって食することができるのだから、たとえ一粒でも残さずに感謝しながら食べなさいよ」と、親に言われたという経験をお持ちの方もおいででしょう。
表面には現れてこないものを心の目で見られるようにするには、日常からの心配りや気遣いがなくてはならないと思います。自分のことしか考えられない状況の中で、他者の心の変容など到底気づけるはずもありません。また、人間は多くの人の見えない力によって支えられ、生かされているという単純な事実に気づけないでいると、目先の損得ばかりに目がいき、当たり前に感謝することすらできなくなってしまうのかも知れません。そう考えると、先見力とは、日常の思いやりや感謝の心ともつながっているようにも思えます。
昔読んだサン・テグジュペリの「星の王子さま」の中に、次のような一節があるのを思い出しました。『大切なものはね、目には見えないんだよ』。人のこころの中にある思いや気持ち・感情・感性にはじまり空気や命に至るまで、本当に大事なものというのは目には見えないものなのかも知れません。
心のゆとり
「出ばな面」。相手がこちらの面を打とうとして動き出す瞬間を狙う、剣道における技の一つです。非常に難しい技であり、多くの剣道家にとって憧れの技でもあります。
この技を決めるために必要なことは「心にゆとりをもつこと」だと私は考えています。自分から、がむしゃらに攻めるだけでは相手は防御を固めてしまい、余計に打てなくなってしまいます。激しい攻防の中で、あえて相手に「面が打てそうだ。」と感じさせるような隙を見せる心のゆとりが必要なのです。
「出ばな面」に限らず、剣道の試合や稽古ではこのような駆け引きがずっと続きます。そのため相手との相性が重要です。不思議なことに、自分より格上の相手のはずが剣を交えてみると「やりやすい」と感じることがあります。逆に剣道歴の浅い相手でも「やりにくい」と感じて、なかなか技を決めることができないこともあります。
私の場合、「やりにくい」と感じると、ついイライラしてしまい、後で反省するなんてこともよくあります。みなさんには、そのような経験はありませんか。スポーツをしている時だけでなく、日常生活でもあるかもしれませんね。
私の尊敬する選手が、こんなことを言っていました。「やりにくくて打てない。それは、相手が強いということ。心の中で自分の方が強いと思い込んでいるからイライラする。」
「なかなか打たせてくれない相手との稽古は勉強になる。誰が相手でも勉強させてもらう、感謝する。そして必ず最初の一本は出ばな面を狙う。」やりにくい相手にイライラするどころか感謝をし、あえて難しい「出ばな面」を狙うというのです。「やはり強い選手は違うなぁ。」と感じるのと同時に、この選手のもつ心のゆとりに感動しました。
みなさんの周囲のストレスや壁。実は、みなさんを成長させてくれるものかもしれません。それらを全て突き放すだけではなく、心にゆとりをもって受け入れてみてください。私も人として剣道家として修行の最中です。一緒に成長しましょう。
https://note.com/shocktuck/n/n28e960704332【「見えないを見る」を終えて: 哲学者 鞍田崇さん】 より
2020年2月に、当時在学していた国際基督教大学で開催したイベント「見えないを見る〜衣・食・住・エネルギーから探る、これからの暮らし」。イベント後に参加者から寄せられた質問を中心に、4人の登壇者に事後インタビューを実施しました。
2人目は、「衣」の分野でご登壇いただいた哲学者の鞍田崇さんです。
哲学の道に進んだきっかけ
ーーそもそも、鞍田さんが哲学者になった経緯を教えてください。
鞍田:失恋かなぁ(笑)。哲学者になった経緯というより、哲学への興味がグッと深まったきっかけは。
もともと英語が好きで、高2の夏にはホームステイ行ったりもして、外大志望だったんです。でも、「言葉(言語)ってツールだよな。それで何がしたいんだ?」みたいな気持ちに次第次第になっていっての、失恋(笑)高校2年の2月のことでした。
って、これ、語り出すと、いくらでも語れるネタなので、今はこれくらいで。
――そうだったんですね(笑)普段はどのようなことについて考え、大学ではどういった内容を教えていらっしゃるのですか?
鞍田:普段は「何を食べようかな」とか「今日は何着ていこうかな」とかですよ、哲学者も。ただ、哲学のおかげかどうかはわからないけど、日常を見たり感じたりする解像度が、年々上がっている気がします。小さなこと、例えば、電車の中で、ふっと見上げたときの窓の外の光景に感動したり。そういうことは多いです。
大学では、明大は理工学部の一般教養担当で、「社会学」という授業を受けもっています。これはもともとあった科目名で、やっていることは哲学とデザインをかけあわせたような感じです。
哲学における、「見る」こと
――参加者の方からは、トークで鞍田さんが話されていた「半眼」の話にとても納得した、という声がありました。
↓トークのレポート記事はこちら↓
鞍田:ありがとうございます。哲学に引きつけても当てはまるんです、「半眼」。
20世紀の哲学は古代ギリシア以来の哲学のあり方を根本から見直そうという動きが活発だったんですが、そこで問題視された旧来の哲学のあり方に「視覚の優位」っていうのがありました。例えば、プラトンの「イデア」も、元は視覚的形象のことでもあったり、暗黙のうちに「見ること」がモデルとなって、さまざまな思想が生み出されてきたわけです。でも、その結果、リアリティからは遠のいてしまって・・・。
見ることよりも触れること、精神よりも身体を、もっと重視しようという哲学の流れが、半眼の考え方とも結びつくところだと思います。
――その「半眼」含め、トークでお話されていたようなことについて、ご自身ではどのように行動し、携わっていらっしゃるんですか?
鞍田:何を話したのか、あまり覚えていないのですが・・・。ボク自身は、大学で教えたり、研究室で読んだり書いたりだけじゃなく、研究上からも、なるべく「外」に出るように心がけています。具体的にはフィールドワークですね。
繰り返し訪ねているのは、奥会津の昭和村、新潟の燕三条、愛知の常滑市、それから山陰の鳥取・島根かな。民藝にフォーカスしていることもあって、いずれもものづくりの街・地域です。そういうところで、地元のひとと話したり、工房を見せてもらったり、そういう活動をしています。
――そうなんですね。イベントの中で「感性を磨く」ことについてお話されていましたよね。参加者の方から、もっと具体的に聞きたいという声がありました。スマートフォンについては、なぜ危機感を感じるんですか?
鞍田:ひとつはますます「見る」ことばかりになってしまうから。目以外で感じることに、もう少し意識してもいいかと思います。といって、見ることが全面的に悪いっていうんじゃないんですよ。見るとしても「全体を見る」とか意識するといいかも。
例えば、ボクの本棚の一画は、ジャンルとか著者とか関係なく、背表紙の色でまとめて配置してます。青い棚、赤い棚、黄色い棚、白や黒や、そういう感じ。書名はどうでもよくて、ぱっと全体見渡した時のまとまりが心地よくて。そういう感覚、細部認識よりも全体把握みたいな、そういうことに意識向けてみるのも、なにか感性を磨くことにつながるかもです。
――なるほど、面白いですね!
「お金」の意味
――では最後に、4名の登壇者共通の質問が来ています。鞍田さんにとって、「お金を稼ぐ」とはどんな意味がありますか?
鞍田:意味かあ・・・。ボクは貯金が苦手なんです。
お金って基本的にまわっていくものだと考えているので・・・。
もらうこともだけど、使い方が大事だと思っています(言い訳)。
ーー使い方が大事、その通りだと思います。
鞍田さん、今日はありがとうございました!