明ぼのや白魚しろきこと一寸
https://blog.ebipop.com/2015/11/spring-basyo.html 【明ぼのや白魚しろきこと一寸】 より
シラウオとシロウオは混同されやすい。
漢字では、シラウオは白魚で、シロウオは素魚だという。
パソコンでもそのように漢字変換される。
白魚(しらうお)は、白っぽい半透明の、細長い小魚で、死ぬと白くなる。
素魚(しろうお)は飴色がかっているが、ほとんど透明で、これも死ぬと白く濁る。
姿も料理の仕方もそっくりなのだが、魚としてはまったくの別種。
多くの句の題材となっているのは、白魚の方が圧倒的に多い。
シロウオと比べると、シラウオの方が語呂が良くて聞きやすいせいだろうか。
女性の細長い指を、シロウオのような指とは言わないのもそのせいか。
「白波(しらなみ)」や「白砂(しらすな)」、「白鳥(しらとり)」もこの類か・・・・。
明ぼの(あけぼの)や白魚(しらうお)しろきこと一寸(いっすん)
松尾芭蕉
「野ざらし紀行」には「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て」と句の前書きにある。
「草の枕」とは旅寝のこと。
はやばやと目が覚めてしまったので、明け方に河口付近に出てみたというイメージが思い浮かぶ。
あるいは眠れない夜にじっと耐えていたのかもしれない。
海辺で、白々と夜が明けていく。
しらじらと明けていく「明ぼの」、「白魚」、「しろきこと」と続くこの句は、色彩的には白一色となっている。
掲句は「雪薄し白魚白きこと一寸(桜下文集)」を改案したものと「芭蕉年譜大成(今榮藏)」にある。
改案作は、薄明の浜に打ちあがった一寸ばかりの白魚の死骸を見かけたという設定になっている。
寝不足気味の寒々とした思いで、浜に出てみた。
そのとき、白魚の小さな白い死骸が砂浜に打ち上げられていた。
「明ぼの」には、浮世の喧騒が静かに始まるというイメージも込められているように感じられる。
「白魚のしろきこと」と白を繰り返し白を強調することで、死をイメージする白の世界を芭蕉は示そうとしたのではないだろうか。
それが、「明ぼの」とともに浮世の喧騒に紛れていく。
闇夜に白く浮かんだ死のイメージから、夜明けとともに色づいてくる生のイメージへ。
などと空想することは、思い込みが過ぎるかもしれないのだが・・・・。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という発句で旅に出た芭蕉が「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」と旅を続ける。
その芭蕉が、「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て」と句の前書きにした不眠の原因は何だったのだろう。
https://ameblo.jp/haikumomoka/entry-10246430626.html 【明ぼのやしら魚しろきこと一寸 松尾芭蕉】 より
季語★ 白魚・・しらうお
白魚は、目だけが濃くて身体は透き通っていて、硬いところてんのような感じで、煮ると白そのものです。
山本健吉の「煮ると潔白となり」という解説は、なかなか意味深です。なぜなら、「麻」誌に連載された松浦敬親氏の「新説・おくのほそ道」「芭蕉革命」による、芭蕉切支丹類族説にある白という色の象徴する身の潔白と、重なるからです。これについては出版されてからお読みいただくとして、この句のすばらしさを楽しみましょう。
一寸の虫にも五分の魂といいますが、まさに一寸の魚の魂が透けるようです。
「しら魚しろき」と白のイメージを重ね、印象を深くしています。
上五を「雪薄し」から「明ぼのや」に推敲したことは良く知られていますが、母音の「い・う」が減って「あ・え」が増えたことは、この句を明るい、温かなものにしました。
視点が地に近いところから空へ上り、作者、読者の姿勢が良くなります。
肝心なことは、現実の薄幸から希望の光の出現への時代の転換で、これも本をお読みになれば納得していただけることと思います。
俳句は決して言葉遊びではない、それをしみじみ思わせる句です。
https://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/11/-20161115.html 【東藝術倶楽部瓦版 20161115 :明けぼのやしら魚しろきこと一寸-春の味覚「白魚」】 より
おはようございます。昨晩はスーパームーン。しかし、東京はあいにくの雨で見ることは叶わずでした。今朝はその雨も止み、冬に向かって次第に寒さが増してきそうな気配です。
さて、本日も春の食の話題といきましょう。
「明けぼのやしら魚しろきこと一寸(初案:雪薄し白魚しろきこと一寸)」、お馴染みの松尾芭蕉の句です。今日はこの句に出てくる白魚についてご紹介したいと思います。
歌舞伎の『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』の銘台詞「月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)も霞(かす)む春の空」にも出てくるように、早春の夜に隅田川河口に篝火を焚いた漁火がいくつも見えた風景は、とても風情があったようです。
この漁火は「白魚(しらうお)」を獲るために、夜間に船を出して、四手網(よつであみ)を使ってすくう漁法のために焚かれたものです。この白魚ですが、サケ目シラウオ科の魚で、春2~5月に産卵、孵化して夏には2~4センチとなり、10センチぐらいまで育つそうです。よくスズキ目ハゼ科の「素魚(しろうお)」と混同されやすいのでご注意ください。
白魚は「白魚のような指」に例えられるように、細くて繊細な魚です。夜に漁獲したものをそのまま市場に出荷します。漁期は旧暦の12月中旬から3月3日の桃の節句までで、江戸前の海から始まり、季節とともに隅田川、荒川、江戸川、多摩川を遡っていきます。白魚漁は早春の風物詩だったわけです。
今では普通に食べられる白魚ですが、江戸初期には大変高価なもので、庶民が口にすることはほとんどありませんでした。徳川家康が存命中は「御止魚(おとめうお)」と呼ばれ、江戸城に納める以外は獲ることも売ることも禁じられていたといわれます。これは、家康が江戸入府したときに、摂津国より呼び寄せた佃島の漁師が江戸前の白魚を献上したところ、家康がたいそう喜んだことから、以降毎年献上するようになり、漁獲量を確保するために売ることが禁じられたとのことです。白魚の脳髄が葵の御紋に見えるなどという話もありますが、それほど白魚は特別な魚であったことを伺い知ることができます。
家康の死後、漁獲する漁師は制限されていたものの、他の魚同様に江戸城に納めた残りを売ることができるようになりました。体長10センチ足らずの白魚、指でつまめば潰れてしまいます。1匹ずつ箸でつまんで、20匹を1「ちょぼ」として最低単位で売られるようになりました。江戸中期までの値段は、「白魚に値あるこそうらみなれ」と芭蕉が詠っているように相当高かったのではないかと推測されます。これが、天保年間(1830~1844年)になると、1ちょぼ100文(2000円)くらいになり、さらに幕末には30文となったため、やっと庶民も春の味覚として味わうことができるようになったのです。