白魚(しらうお)
https://kouji2880.at.webry.info/201301/article_22.html?pc=on【白魚(しらうお)】より
清く繊細な姿白露のごとし
体長10㌢ほどの小魚。詩歌に登場するのは俳諧以降である。江戸時代、その漁は春の風物詩となり、白魚は春の季語となる。ただし、 「明ぼのや白魚しろきこと一寸」 (松尾芭蕉 『野ざらし紀行』 ) は稚魚を詠む冬の句。薄明の寒気の中、透きとおる身の色が感覚的に表された。
「藻にすだく白魚やとらば消ぬべき」 (芭蕉 『東日記』 ) も、水中に透ける白魚を描く。繊細な姿は、手に取れば消える白露のよう。
水揚げされ調理の具となれば、色は純白に変じる。 「青きほど白魚白し苣の汁」 (松江重頼 『藤枝集』 ) 。苣はキク科の野菜、チシャのこと。葉の青さによって白さが際立つ白魚の汁は、視覚にも美味を訴える。
近代詩では 「白魚はさびしや/そのくろき瞳はなんといふ/なんといふしほらしさぞよ」 が有名。 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 で知られる室生犀星 「小景異情」 の冒頭である ( 『抒情小曲集』 ) 。
泳ぐ様も食膳の姿も、歌われやすいのは、清らかなはかなさ。
https://nabanatei.com/blog-entry-7934.html 【 日記 白魚】 より
『白魚(しらうお、しらうを) 初春
子季語: しらお、しろお、王余魚、銀魚、白魚網、白魚舟、白魚汲む、白魚火
関連季語:
解説: 春の訪れを告げる小魚。生のうちは半透明だが、蒸したり煮たりすると真っ白になるので白魚という。
近海魚で、春先に産卵のため川へ上がるところをとらえる。おどり食いにする素魚(しろうお)は、ハゼ科の別種。
来歴: 『毛吹草』(正保2年、1645年)に所出。
文学での言及: 月も朧に白魚の篝も霞む春の宵 河竹黙阿弥の歌舞伎「三人吉三郭初買」
実証的見解: 白魚は、シラウオ科の魚の総称で、北海道から九州の沿岸域、河口付近、汽水域に棲息する。大きさは十センチ前後になるが雌のほうがやや大きい。二月から五月にかけて川に上り産卵し、産卵後は死んでしまう。』
(季語と歳時記)
白魚の俳句:
・あけぼのや白魚白きこと一寸 松尾芭蕉
・白魚のどつと生るゝおぼろ哉 小林一茶
・白魚のほね身を透かすかがりかな 加藤暁台
・白魚やさぞな都は寒の水 高井几董
・白魚や目までしら魚目は黒魚 上島鬼貫
・白魚や黒き目を明く法の網 松尾芭蕉
白魚という語感や目ばかり黒くて身体は透明な容姿の白魚。
春まだ浅い冷たい水の中を目が泳いでいるような儚さを感じさせる。
それが日本人の心性に合うのの花、江戸の昔から俳人たちが詠んできた。
芭蕉の「あけぼのや」の句は有名だが、有名どころも取り上げている。
芭蕉の「白魚や」の句は意味が取れないので、調べてみた。
芭蕉の句はデータベースが公開されているのでありがたい。
『題ス二蜆子ノ像ニ一
白魚や黒き目を明く法の網
(旅舘日記)
(しらうおや くろきめをあく のりのあみ)
元禄6年春。蜆子<けんす>は、中国五代の禅僧で奇行の目立った人。毎日蜆子<えび>を獲っては食べていたのでこの名がついたという。蝦を採るための網を持った禅画の題材として好まれた。一句は、その海老を白魚に変えて詠んだもの。
白魚や黒き目を明く法の網
蜆子和尚の網ですくい取られたのはエビだけではない。白魚も採られたに違いない。それが証拠に白魚の目はあんなにパッチリとして開眼している。それは白魚が蜆子和尚の深い悟りの法の網にすくい取られたからに他ならない。』
(芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sirauo.htm
より転載)
毎度思うことだが、江戸期の文人たちは教養が高い、一定の教養を前提に句を詠むので、教養の乏しい我々には理解が出来ない。
動画の白魚の棲む小川原湖は、青森県上北郡東北町にある汽水湖で、日本の湖沼では11番目の面積規模を有し、水産資源が豊富だそうだ。
http://sogyusha.org/saijiki/01_spring/shirauo.html 【白魚(しらうお)】 より
早春、海から河口に上って来る白魚は、ほっそりとしてはかなげな姿が美人の白い指の形容にもなり、江戸時代から春を呼ぶ魚として珍重され、俳句の世界でも数々の名句を生んだ。
隅田川の白魚漁が有名で、河竹黙阿弥の歌舞伎世話物の名作『三人吉三廓初買』の序幕大川端の場でのお嬢吉三の名セリフは芝居に縁の無い人たちにも知れ渡った。「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ鴉のただ一羽、ねぐらへ帰る川端で、棹のしずくか濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両、こいつァ春から縁起がいいわェ・・・」。この名台詞に酔った江戸っ子は、帰りがけに白魚の三杯酢や掻き揚げで二三杯やって余韻を楽しむのであった。
シラウオはサケ目シラウオ科の魚で、鮎、シシャモ、ワカサギなどの類縁である。北海道から九州北部にかけての日本各地の沿岸部、さらには沿海州から朝鮮半島、中国沿岸部に棲息している。成魚でも十センチ足らずにしかならず、口がとがり、細長い体型で半透明で、死んでしばらくたつと真っ白になる。
湾岸部に棲み、春になると産卵のために河口の汽水域に上って来る。葦などが茂った岸辺近くの砂底に群がり産卵、やがて孵った稚魚は流れに従って海に下り、沿岸部でプランクトンを食べて成長し、春になるとまた遡って来て産卵、雌雄ともわずか一年の一生を終える。
昔は隅田川ばかりか日本各地の川が海に注ぎ込む所では大量に獲れたらしく、鰯の稚魚のシラスと同じように茹で干しになったり、シラス干しの材料にもされた。しかし日本の河川はどこも河口堰が出来たり、セメントの護岸が作られたために白魚の産卵場所が無くなり、一方、河川の汚れがひどくなって白魚は激減、今日では絶滅危惧種に指定されるありさまである。辛うじて北海道、青森、宮城、茨城、島根などで獲れた白魚が料亭や高級鮨店で細々と供される体たらくとなった。
ところが最近では、この貴重品の白魚が回転寿司にまで出現するようになっている。これらはほとんどが中国産の白魚、銀魚(インイー)である。中国人も韓国人も昔から白魚を食べていたのだが、何しろ日本に輸出すれば現地価格の何十倍何百倍にもなるというので、どんどん送り出すようになったのだ。冷蔵冷凍コンテナ輸送が発達したのもそれを助けている。
隅田川の白魚漁が有名になり、白魚と言えば江戸の名物とまで言われるようになったのは徳川家康のおかげである。天正十八年(一五九〇年)秀吉によって都から遠く離れた江戸に国替えを命じられた家康は、当時全く開けていなかった江戸を開発するために、故郷の三河、尾張、駿河ばかりか大阪、伊勢などからも人材を集めて乗り込んだ。その時に摂津佃村(現大阪市西淀川区佃)の漁師三十三人が隅田川の中州を埋め立て島を作り佃島と命名して移り住んだ。家康はこの漁師たちに隅田川から江戸湾の漁を仕切る特権を与えた。
三河、尾張から伊勢湾一帯は元々白魚がたくさん獲れた所で、恐らく家康も白魚を好んだのだろう、漁師たちは毎年十二月下旬から三月まで隅田川で獲れる白魚を毎日「献上品」として江戸城に運んだ。献上品は量としてはたかが知れている。漁獲の大半は「お余り」と称して高値で売りさばいた。町民や江戸詰の武士たちが白魚の魅力に取り憑かれ、大いに喧伝した。これが江戸名物隅田川白魚の始まりである。
天保五年(一八三四年)に刊行された「江戸名所図会」や安政三年(一八五六年)から刊行され始めた安藤広重の「名所江戸百景」には白魚漁の有様が描かれている。舳先に篝火を焚いた白魚舟を隅田川に浮かべ、火に吸い寄せられた白魚を四つ手網で掬い取る。これが隅田川の春を告げる光景として江戸っ子に親しまれ、昭和の初めまで続いた。
芭蕉には白魚の句がいくつかあるが、その中でも最も有名なのが「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」である。一寸は約三センチだから、いくら白魚が小魚だとはいえ、ちょっと小さすぎる。この句は隅田川の白魚を詠んだものではなく、貞享元年(一六八四年)から翌年にかけて大和伊勢近辺から美濃尾張甲斐へと旅した「野ざらし紀行」の折に、桑名の浜辺で詠んだものである。その時は冬で、白魚がまだ育ちきっていなかったようだ。春になって河口に上がって来る頃には二、三寸になる。
この頃のものが一番旨い。
白魚は獲れたての半透明のものに醤油をつけたり、あるいは寿司ネタにして生で食べることがある。歯触りがよく、いかにも早春という感じでいいのだが、旨いかどうかということになると、うーんと首を傾げる。白魚の上品な旨味が一番よく感じ取れるのは、新鮮なものに熱湯をかけ、真っ白に変わったのを酢醤油か辛子酢味噌をちょっとつけて食べた時である。これこそ春一番という趣がある。あるいは卵とじか天麩羅(掻き揚げ)にしたものもいい。ご飯の炊き上がりに白魚と刻み生姜と塩少々をバサッと入れて蒸らした白魚飯も実に旨い。とにかく白魚は熱をさっと通した方が味わいが出るようである。生食は味わいよりは雰囲気を楽しむもので、少々粋がり過ぎのようにも思う。それに、白魚は沿岸や河口で獲れるものだから、近頃の汚れた港湾河川では細菌を持っている恐れがある。
さらに白魚は、横川吸虫という腹痛や下痢を起こす寄生虫の中間宿主でもあるから、安い回転寿司屋などで粋がって輸入白魚の軍艦巻きなどをばくばく食べない方がよさそうだ。
白魚とよく似たシロウオ(素魚)という魚がある。これも白魚と同様、日本各地の沿岸で獲れ、関西以南、特に九州で持てはやされている。体長五、六センチで半透明だから白魚とよく間違えられる。現に関西ではこれもシラウオと呼ぶ所があるからいよいよ紛らわしいのだが、ハゼ科の魚であり白魚とは全然別物である。福岡市の室見川下流では今でも四つ手網によるシロウオ漁が行われ、博多あたりの料亭ではこれの踊り食いが人気である。ガラス鉢に生きたシロウオを泳がせ、大さじほどの金網杓子で掬い、酢醤油の小皿に入れてぴちぴちはねるやつを口に含む。口中でしきりに動くのを噛みしめるのがなんとも言えない醍醐味だというのだが、馴れないせいもあるのだろう、
旨味も何も無く、ただ酢醤油の味が残るだけであった。これもやはり卵とじや茶碗蒸し、吸い物の実にするが、白魚には一目置く様である。
白魚の句は江戸の俳諧時代から今日まで大勢の人たちに詠まれてきた。春の使者とされ、その美しい姿を愛でられ、清楚ではかなげな様子を称えたものが多い。「白魚(シラウオ)」と詠まれる他に、「シラオ」と発音されることも多い。「白魚舟」「白魚網」「白魚汲む」「白魚鍋」「白魚汁」「白魚飯」などはいずれも「シラオ」と読ませている。
白魚やさながら動く水の色 小西 来山
藻にすだく白魚や取らば消えぬべき 松尾 芭蕉
白魚をふるひ寄せたる四つ手かな 宝井 其角
しら魚やうき世の闇に目をひらき 加藤 曉台
白魚や椀の中にも角田川 正岡 子規
ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり 夏目 漱石
白魚火や国引せしといふ海に 阿波野青畝
白魚にすずしさの眼のありにけり 石橋 秀野
白魚汁灯ともるいまを辞しがたく 野沢 節子
白魚の躍り食ひせりジャズ一団 宮島 晴子 .