第7回目 ミャンマー ミートキーナへ 2015年 8月
1:2011年の兵隊の姿が蘇る
2015年4月某日 突然、2011年ミャンマーのシッタンへ行った際に出会った日本の兵隊方の姿が頭の中にフラッシュバックのように映像として何度も蘇ってきました。それからは彼らの事が気になり始め、『一体どういう事だろう』と私の意識が彼らに向き始めました。2015年になり、初めて、インパール作戦についての本、将口泰浩著「未帰還兵 六十二年目の証言」を読みましたが、更にインパール作戦について知ろうと思い、新たな本を購入しました。しかしながら、いつもの私、つまり、戦史に興味の無い私に戻ってしまい、新たに買った本をどうしても読む気持ちになれず、本棚に置いたままになっていました。そんな時、今度は、2011年のシッタンに行った時の記憶が何度も蘇り、現地を訪問していた時にガイドさんからお聞きした連合軍と日本軍との戦争がここであったという話を記憶の中から何度も呼び起こされ、その事について書かれている部分を新たに購入した本から探し始めました。すると、シッタンでの出来事について書かれた部分が有り、その部分のみを読み始め、改めてシッタンでの出来事を知ることになりました。そして、さらに、日本の兵隊方は日本からどのようなルートで、どれ程の時間をかけてこのミャンマーまでやって来たのだろうという事に興味が湧きました。私は早速、新たに気になる本を買ってみました。するとその本が、見事に私が興味を持っている部分について書かれており、食い入るように読みふけりました。日本の門司港を出て4週間でミャンマーへ入国していた。その後、私の意識が徐々に線路伝いにミャンマー北部の町ミートキーナまで北上していきました。そして、最後はフーコンと呼ばれる死の谷での戦闘部分やミートキーナでの戦闘について知る事となりました。
2:信じるか?身の安全を保障する兵隊
2冊目の本を読み終えた頃、一人の日本の兵隊が私のもとへ帰還依頼に現れました。彼は九州出身の兵隊のようで、読み終えた本の情報から、当時「菊」「龍」といった部隊に所属していたのではないかと感じました。2011年の記憶と、時折、聞こえる九州弁とお酒が好きであるという事から、そう思うのであって、相変わらず、生きた人間同士で話すような遣り取りではありませんでした。しかし、そんな彼の意識が私の頭の中に一つの地名を印象付けました。地名の名前は「フーコン」。本で読み知っていた場所で、その後は取り憑かれたようにフーコンに興味を持ち始めた。しかし、この意識のベクトルは後々の私に少なからず悪い影響を与えていたように思いました。
そこから、フーコンに関する情報を、インターネットを通して調べ始めましたが、得られる情報は僅かで、現在の状況を伝えるものではなかった。フーコン地区はカチン独立機構とミャンマー政府軍との戦闘が、現在も続いていました。そして虎の自然保護区であります。この2点しか現状を伝える情報は無く、どうすれば良いのだろうかと思い悩む日々が続きました。やはり、危険であろうし、息子と妻を連れて行くのは心配で、行く事を止めようという結論ばかりが頭を過りました。
すると、日本の兵隊が、『(ミートキーナに)来て欲しい。あなた達の命・安全は保証します』と伝えてきました。その言葉に喜び、驚きましたが、思ったほど良い情報がインターネットを通して得られないので、彼がそのような事を言ったところで、簡単には信じる事が出来なかった。とは言うものの、フーコンという場所にはとても興味が湧き、徐々にその場所はどのような場所なのかと関心が強くなっていきました。
ここで一つ誤解のないように説明しておきます。思念・テレパシーを使ってのやりとりにおいて、地名についてですが、わかりやすいように具体名を書いておりますが、幽霊といった存在が地名を直接話してくることはほとんどありません。しかしながら、意識が私の中の頭の情報を繋げてくれて、ミートキーナのことを話しているなということが伝わってきます。こういった方法で亡くなった人たちと連絡を取り合っていることを補足説明させて頂きます。
5月に入り、より詳しく当時の様子を知りたい為、フーコンそしてミートキーナに書かれた本を購入しました。この本にはフーコンという戦場から南下・転進する際に、当時の九州出身の兵隊方が筑紫峠と名付けた峠があり、多くの日本の兵隊方が地獄絵図のような形で飢え、病気、体力の限界、無気力、望郷の念を抱きつつ死んでいった場所でした。どの兵隊にとってもこの場所は、特にその悲惨さが尋常でなかったと回想録で書かれるほど、過酷な場所だったようです。
更にミートキーナは当時、軍事上、大変重要な要衝で、インド側にいる連合軍から日本軍と戦う中国軍へ物資を供給するためのルート、ㇾド公路が存在していて、その中間地点にありました。ここを死守する事が戦況を悪化させないためにも必要でした。そういった意味から、この場所を連合軍に渡せない状況にあったようです。しかし、その場所も連合軍との激しい戦闘の末、最終的に転進を余儀なくされ、多くの日本の兵隊がこの場所から南へ撤退したようでした。そのまま、連合軍の追撃に応戦しながらも、最終的に現在のミャンマーの南部のシッタン(2011年私が行った場所)で戦闘をしている最中に、日本が無条件降伏をしたという流れだったようです。全体的には、人によっては、当然、シッタン他、様々な場所で終戦を迎えたのは言うまでもありません。
そのような大まかな流れを知って、初めてインパール作戦というものに触れたような気がしました。このような出来事が日本から遠く離れた場所であったことを知らずにいたことに対し、反省に近いような悔しい気持ちになりました。
その頃から、検索ワードの影響でyoutubeという動画サイトで菊兵団の特集の動画がトップに表示されるようになってきました。題名は「北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊」。 菊兵団という活字だけでなく、映像として、菊兵団の帰還兵の姿と体験談を音声として見聞きする環境が整っていきました。
しかし、情報量は増えましたが、結局のところは、訪問予定になるミャンマーの北部地域の現在の安全性を確認出来るものではなく、相変わらず、不安を抱えたままでした。
3:ミャンマー政府と武装組織の停戦合意
ここで少し溯りますが、その年の2月末日、私は読書会と名の付く会で自身のお薦めする本を紹介するプレゼンテーションの機会を得ました。きっかけは私の大学の先輩からの招待メッセージでした。幾度かそのメッセージを頂いていたのですが、正直なところ興味が無く、一度も行く事がありませんでした。が、急に先輩からの招待されたこの読書会が気になり始めました。先輩に読書会についてメールで尋ねてみると、直ぐに連絡が有り、読書会の内容を教えて下さいました。そして、私が軽い気持ちで行く事が出来るような口調で『是非、時間があるなら来て下さい』とお声を掛けて下さいました。気が付けば、参加をさせて下さいと先輩にお願いし、出席する事になりました。
読書会は大阪の某ホテルで行われました。十数名が出席され、その中で順に各々が推薦する本を5分という制限された時間の中で、魅力を分かりやすいように説明し紹介するというものでした。私は本を推薦するどころか、普段は本を読む事も少なく、家を出発する前に、どうしたものかと少し悩んでいました。その年に読んだ本と言えば、「未帰還兵 六十二年目の証言」しかないかと考えながらも、少し躊躇しながらも読書会でその本を紹介する事になりました。プレゼンテーション時には、どのように話して良いのかも分からず、即興でついつい体験談を含めたインパール作戦についての話をしていました。人前で普段発言をするような環境になく、かなり不細工なプレゼンテーションになってしまい、少々、自分自身が惨めに感じましたが、過ぎた事は仕方がないと気にしないようにしました。
読書会を終え、滅多にないこのような機会を設けてくれた先輩に感謝とご挨拶をして逃げるようにその場を抜け出しました。『何だか、バカみたいだな。何をしているのだろう・・・。霊能者でもなく、日本の兵隊の幽霊方を本当の意味で助けられているのかどうかさえもわからないのに』と落胆し、思い詰めてしまいました。もちろん、応援して下さる方も居られますが、否定的な言葉の方が私の心に残り、どうしてもネガティブに考えてしまっていました。『私のやっている事は本当に意味があるのか?』と徐々に自分を蔑んでいきました。そのような自分自身をどうにか支えながら、今後の展望をどのようにするか、もう辞めようかなどと悩んでいました。
数日後、その読書会に参加されていた方から連絡を頂きました。私の話をもう少し聞きたいとの事でした。そのような反応を持って下さった方がおられた事に救われたような気持ちになりました。
すると、今度は先輩から連絡が有り、他2名の方がご興味を持たれていて、お話を聞きたいという事でした。意外な反応に嬉しくなっていました。『こんな嘘みたいな私の体験に興味を持って頂いたんだ』と不思議でした。が、どちらもお引き受けしました。
最初にお会いした方は、某会社の社長様でした。どのように説明すれば良いかも分からず、またしても上手く説明出来ませんでしたが、逆にその方から良いお話をお聞きする事が出来ました。それは遺骨収集に関するお話でした。そのような活動を聞いた事はあっても、興味など少しも湧いた事がなく、全くの無知でした。その社長様からその遺骨収集団の名前を教えて頂き、さっそく自宅に帰った後、調べ始めました。インターネットで検索すると直ぐにそのサイトが見つかりました。次にミャンマーで遺骨収集に着手されている井本勝幸氏の名前が目に留まりました。『このような人が居るのか』と彼のしている事に興味を持ち始めました。
すると、その井本氏が2015年5月13日に大阪市内で講演をする事を知りました。私は、彼から現在のミャンマー北部の生の情報をお聞き出来るのではないかと思い、早速、その日は仕事を早めに終わらせ、彼の講演に出席する為、大阪市内に向かいました。どのような話を聞かせて頂けるのだろうかと不謹慎ではありますが、期待を持ちながらその瞬間を待っていました。
講演場所には議員さんもたくさん居られ、少々おっかなくも感じました。普段、お目にかかれないようなお仕事の方々を見ると、苦手意識からか、一般庶民の私は萎縮しがちな傾向にありました。何の取り柄も無い人間というものはこういうものです。ついつい卑屈になってしまう自分が嫌でもありましたが、日本の兵隊方からの依頼も有りますし、特にこのような見知らぬ異国での情報は、家族同行を考えるとしっかりと事前調査しておかなければ、子供を今回の旅に連れて行くかもしれない父親として無責任な行動にもなり兼ねず、旅先での危険回避を念頭においた行動を取るための情報を得る絶好の機会を見逃すわけにもいきませんでした。
講演会場に現れた井本氏が眼前でお話を始められました。彼の現在に至るまでの経緯をコミカルに、興味がより一層湧くような話をして下さいましたが、内容は深刻なものが多く、目の届かない世界での理不尽な行いを知る事が出来ました。そして、彼の思いと行動力を知る事になり、私も沸々とこの日本の兵隊方からの帰還依頼を完遂したいとより強い気持ちにさせられました。
そして、彼の話の中でとても興味深い部分がありました。私が気になっていたカチン独立機構とミャンマー政府軍との戦闘の部分でした。井本氏はそういったミャンマー北部に住む民族(カチン族など他)と信頼関係を築き上げ、ミャンマー政府との停戦協定の橋渡し、未届け人になり、2015年3月にミャンマー停戦協定草案の調印式にも出席し、立ち会っておられたようでした。場所は私が今回訪れる予定のミートキーナのようでした。6月には全土停戦が行われるという事で、私にとってはこの講演で大きな収穫を得ました。ミートキーナは安全であるという裏付けがされたわけです。そして、首尾良く進めば、フーコン方面にも足が延ばせるという思いにも繋がりました。
結局、私は井本氏とは一度も直接お話する機会も無く、その講演を後にする事になりましたが、足取りは軽く、不謹慎にも笑みを浮かべながら、家路に着く事が出来ました。そして、読書会に出席したことで、この情報が私に届けられたような気持ちにさせられました。
4:安全確認は済んだ 出発の決意
迷いが無くなった私はパスポートの更新、ビザの発給、航空券の手配、ガイドの手配と俄かに忙しくなってきました。 今回のガイドは、妻の友人がミャンマーに訪れた際にお世話になったガイドさんを紹介してもらう事で目途が立ちそうでした。ビザの発給は昨夏と違って手続きすれば、3日程で出来上がりました。ビザ発給のスピーディーさが民主開放によって進んだようです。航空券の手配が一番面倒で、どの航空会社が便利で安価かという事で探し出すのが大変でした。タイ王国チェンマイからマンダレー行きの直行便はスムーズに見つかったのですが、マンダレーからミートキーナまでの航空会社の便の選定、フライトスケジュールの確認、予約完了までが非常に手間のかかる作業になりました。航空会社の予約画面が、途中でログアウト状態になり、突然のシャットダウンで妻が頭を抱え込んでいた姿が印象的でした。最終的には素晴らしい航空便を見つける事が出来、妻に感謝しかありませんでした。やはり、日本の兵隊からの帰還依頼旅は妻のマネージメント能力が大きな支えになっていると痛感しています。若し、妻がいなければ、現地の情報も入り辛かったかもしれません。ミャンマーのお隣の国、タイ王国出身の妻は非常に心強い存在でした。妻に初めに声を掛けた日本の兵隊は全てを見越していたのであろうか。またはもっと違う世界からの配剤なのだろうか。考えれば考えるほど、迷宮に入り込みそうで、所詮、私の脳では推測不可能でした。
航空券やガイドの手配は終わっても、ホテルの予約はせずにいました。今回は、臨機応変に対応するような旅が良いのではないかと考え、現地ガイドに紹介して貰うという事になりました。家族旅行にしては、ぞんざいに感じますが、これが、我々が英霊の依頼と名付けた旅の醍醐味の一つでした。
5:日本の兵隊が待つミャンマーへ
家族がタイ王国チェンマイに集い、一泊した後にミャンマーのマンダレーにタイ王国チェンマイから直行便で移動となりました。チェンマイからマンダレーへの直行便は最近開通したようで、非常に助かりました。わざわざヤンゴンまで下がって国内線でマンダレーまで移動するのは面倒であり、また移動時間ばかり取られ、現地で限られた時間内での行動しか出来なくなるので、そういう意味で非常に良い便を見つける事が出来ました。チェンマイからマンダレーまでは飛行時間1時間程度。あっという間に1年振りのマンダレー空港に到着しました。
そして、空港に着くと、昨年と同じドライバーが、笑顔で我々を出迎えてくれました。
今回のマンダレーでの行程は、先ずはメイミョー(ピン ルー イン)へ行く事でした。イギリスによる植民地時代からの避暑地として有名な場所で、多くのイングリッシュガーデンが点在する町でした。また、町には多くのインド人が住んでおり、イギリス軍がイングリッシュガーデンを造園する労働力として連れてきていたようで、今も多くのインド人がビジネス拠点としてこの地で独特の文化を育んでいました。ここに来た理由は妻がイングリッシュガーデンやイギリス人が建てた美しい建物を見たいという事からでした。
マンダレー空港を出て、メイミョーまで急勾配の坂道を蛇行しながら、高地に進んで行きました。遅い車はクラクションを鳴らしながら追い抜くという交通ルールやマナーもお構い無しのカーレースが繰り広げられているように見えましたが、ミャンマー人にとって、このような追い抜きは争い事ではなく、ごく普通の一般的な光景のようでした。
メイミョーに着く前に昼食を摂る事になりました。妻はミャンマー拉麺、私と息子は焼き飯を注文しました。妻のミャンマー拉麺を見ると、美味しそうではあるが、見慣れない感じのスープだった。少し味見をさせてもらうと意外に美味しかった。焼き飯も塩味が若干足りなかったが、美味しいと言える味付けでした。
レストラン横のミニマートで飲み物を買おうとした時、缶ジュースの上が汚れている事に気が付いたが、気に留めず、それを買おうとすると、妻が『買ってもいいけど、洗わないと飲めないよ。その汚れはネズミのせいよ』と教えてくれました。私は急に飲む気が無くなり、手に取っていたジュースを避け、別のジュースを買うことにしました。ペットボトルなら、蓋を開ければ、口元は安心だという事でしたので。さすがにこのようなミニ知識は妻の方が格段上だと思いました。そう言えば、タイ王国でも、レストランで出されたお皿やフォーク、スプーンをテーブルの上のナプキンで再度綺麗に拭いている光景をよく目にします。アジア圏は熱いので細菌が増殖しやすく、そういった事に敏感なのだろう。他にもお菓子を買い、徐々に現地の食べ物に馴染んでいく妻と息子の姿がありました。順応性の高い二人を見て、後れを取っているような気分になりました。
1時間程すると、メイミョー(ピン ルー ウィン)に到着しました。早速、その町で一番有名なイングリッシュガーデン、ボタニカルガーデンを訪れました。ミャンマーとは思えない風景が目の前に広がり、イギリスにある庭園がそのままの姿であるような光景にうっとりしました。多くのミャンマー人、インド人が楽しそうに花の前で写真撮影をしていました。私の想像するミャンマーという国のイメージとは全く違う光景が目の前にありました。
町の中にはインド人により建てられた植民地時代に在住していたイギリス人の為の建物がいくつかあり、とても優雅な生活が送られていた事を想像させられました。我々は、所々で車を停め、建物の前で記念撮影を楽しみました。
時間が良い頃合いになってきたので、何処に宿泊しようかという話になりました。予約せず、臨機応変に対応しようと言っていましたので、ドライバーのMさんに探してもらう事になりました。wifiのあるホテルが良いというのが我々の条件でした。すると、ドライバーMさんのお父さんの友人がこの町でホテルを経営しているようで、そこに案内してもらう事になりました。そこはインド人が多く住むエリアで少し物騒な感じがしました。でも、すぐ近くにお寺も有り、ホテルの外観も立派に見えたのでここで宿泊する事にしました。あちこち探しまわっても骨折り損になりそうでしたので、ベッドが綺麗でお湯が使えれば、どのようなホテルでも良いと思いました。
ホテルに到着すると、Mさんのお父さんの友人でガイドのDさんがロビーで待っていました。ドライバーMさんと一緒に食事をするようでした。妻はその2人を誘い、一緒にレストランで夕食を摂ろうと提案しました。すると、ガイドDさんが一瞬躊躇しているように見えました。最終的には、ドライバーMさんが強引に誘い出し、こうして、我々5人でメイミョーのレストランで食事をする事になりました。
ドライバーMさんは観光地についてそれほど精通していなかったので、その友人ガイドDさんにメイミョーでの訪問地相談をしました。すると、『明日は休みだから、ガイドしましょうか?』という話でまとまりました。なんとも軽い流れで次の日の予定が決まっていきました。
次の朝、ドライバーMさんとガイドのDさんがホテルまで迎えに来ました。先ずはメイミョーの朝市場に散策に出掛けました。その後は、メイミョーの軍用地にある陸軍墓地に伺うことになりました。ここでは撮影禁止になっているようで、軍敷地内の陸軍墓地に行くにはミャンマー軍兵士が付き添うことが条件でした。パスポートを見せ、許可が出るのに20分程要しました。日本人なら、誰でも手続きさえすれば入る事が出来る場所のようでした。
妻はタイ人でしたが、夫が日本人だという事で、許可が下りたようで、軍用地とはいえ舗装された道ではなく、狭く、さながら農道のようでした。乗用車で乗り入れたのですが、何度か車体の底が擦っているような音が聞こえてきました。私達が行った時はオレンジ、黄色といった花が咲き広がり、とても美しい風景を見る事が出来ました。ここで花を栽培し、出荷しているのだとか。
しばらくすると陸軍墓地に到着しました。綺麗に清掃が行き届いており、その前に座り、手を合わせました。目の前に広がる広大な土地に対し、この墓石がとても小さく見えました。ここでは何も感じることはなく、多くの日本人が来て供養が行き届いているようでした。何故ここに墓があるのだろうかと考えながら、その場所を後にしました。
その後は、ガバナーハウスといった場所や現地で有名なお寺に訪れました。お昼はとても素敵なレストランで食事をしました。敷地面積はわかりませんが、一面が芝生でこのような開放感のあるレストランに来たのは初めてでした。そこにはもうミャンマーという国を感じさせるものは全く無かった。私の想像していたイメージのミャンマーとはあまりにもかけ離れていました。 時間も2時を過ぎた頃、そろそろマンダレーに戻ろうという事になりました。ガイドのDさんとは別れ、急ぎ早にメイミョーからマンダレーに向かいました。道中は完全に熟睡。眠っていましたので、あっという間にマンダレー市内へ戻ってきました。
市内に戻ってくると、また寺院に立ち寄りました。有名なお寺で多くのミャンマー人が座り込み、瞑想をしたり、頭を下げたりしていました。そんなマンダレーでの最後の訪問地ではドライバーMさんも一緒に参拝し、息子の面倒をよく見てくれました。
ここでも宿泊ホテルの予約はしておらず、Mさんにお任せしてホテルに向かいました。昨日のメイミョーとは一変して、完成間もない綺麗なホテルで胸が高鳴りました。部屋の内装も素晴らしく、日本のホテルと比べても遜色のない仕様でした。残念ながら、次の日は早朝5時にホテルを発ち、マンダレー空港に向かわなくてはなりませんでしたが、一時の優雅な時間を過ごす事が出来ました。
6:ミャンマー北方の要衝
ミートキーナへ 早朝、ドライバーMさんが迎えに来ました。ホテルからマンダレー空港までは1時間もかからず到着し、空港で別れの挨拶をし、昨年とは180度違う満面の笑みで我々を見送るMさんの姿がそこにはありました。昨年、モンユアに行った時のドライバーの彼とはこれで清算出来たような気持ちになり、少し寂しい気持ちになりました。これで本来の目的地ミートキーナへ向かうことが出来ました。
マンダレー発ミートキーナ着の国内線の飛行機。期待していなかったのですが、予想を遥かに裏切る素晴らしい新機でした。機内食のパンがとても美味しく、今まで食べたどの機内食のパンよりも美味しかった。『ミャンマーってこんな国だったの?』と思うぐらい、フライトアテンダントの姿勢・勤務態度も素晴らしく、かなりの教育を受けているのだろうと容易に分かるくらい彼らの動きは洗練されていて気分が良くなりました。
空港に見えなかった・・・。ミートキーナ空港
しかし、ミートキーナ空港に降り立つと、空港の建物に唖然としてしまいました。言葉は悪いが、昭和初期の駅舎を彷彿とさせるような建物で不安な気持ちになりました。妻の表情も非常に険しく、イライラしているのが分かりました。空港の外に出ても、ガイドらしき人は待って居らず、知らない言葉で近寄ってくるミャンマー人がより一層恐怖心を掻き立てました。妻は自分で手配したガイドに連絡のしようがなく、何かと私にストレスを発散していたように感じました。
気が付くと、妻は見知らぬ現地のミャンマー人の電話を借り、ガイドに連絡を取り始めました。見た事の無い咄嗟の裏技に笑ってしまいました。そこにいたミャンマー人数名が笑顔で協力している姿を見て、ミートキーナに住むミャンマー人独特の気質を垣間見たようで安心しました。 暫くすると、15分程遅れてガイドと運転手がやって来ました。車はトヨタ製でランドクルーザーでした。ガイドは高齢で大丈夫かと心配になりましたが、知識、経験共に豊富であろうし、逆に良いのかもしれないと思うようにしました。このガイドさんも妻の伝手でタイ人の方の紹介でした。妻の人脈を辿れば必ず誰かに繋がるという強みを再確認しました。
ドライバーは私が日本人と言う事で、ある男性の名前をよく口に出しました。その名前は「坂口睦」と言い、インパール作戦から日本へ無事帰還され、この地で亡くなった戦友の魂の鎮魂のために多額の寄付を募り、ミートキーナ市内に涅槃像を建立した事を話してくれました。私たちはその涅槃像が気になり、後で訪問したいとお願いしました。道中、道の真ん中に時計台が有り、あれも坂口が建てたものだと説明をしてくれました。ガイドさんの説明で坂口さんの名前が出る度に、帰還兵坂口氏のこの町に対する貢献度が非常に高い事を知りました。私は単純に動画サイトyoutubeで彼の存在を知っていましたので、ガイドさんの説明に対する理解度も深まり、興味を持って聞くことが出来、非常に良かったです。
坂口睦さんは、インパール作戦時に九州出身の若い兵隊で構成された部隊、「菊兵団」としてミャンマー北部での戦闘に加わっていた方で、戦時中、死の谷と呼ばれたフーコン地区、そしてそこを通って生き残った帰還兵が最も過酷だったという故郷九州にある風景に似たところから名付けられた筑紫峠での悲惨な撤退を潜り抜け、日本に帰る事が出来た帰還兵でした。戦後、戦友の慰霊のため、この町ミートキーナに何度も足を運ばれたようで、生きていれば是非お会いしたい方でした。が、残念ながら、今は他界されたようでした。
ガイドMさん(ここではMさんと呼びます)から、先ずは宿泊するホテルに荷物を置き、そこから、ワインモウという町へ出かけましょうと提案がありましたが、ここでも今回はホテルを予約しておりませんでしたので、ミートキーナの繁華街のような道沿いにある1軒のホテルを紹介して頂きました。部屋を見ると、埃が酷く歩けば足跡がつくような床でしたが疲れていた為か、このホテルでいいかとつい妥協してしまいました。ガイドとドライバーには1時間後に再度ホテルに迎えに来るように約束をし、ホテルでシャワーを浴び始めたが、浴室内も掃除が行き届いておらず、悲鳴を上げそうになる程でした。シャワーの後、備え付けの冷蔵庫を開けると電源が入っておらず、かなりカビ臭い匂いがしました。『これは、失敗したな』と思いましたが、今更、宿泊キャンセルとは言えず、ホテルを外出する際にシーツの交換と床掃除をして欲しいとフロントのマネージャーにお願いをしました。
車に乗り込み、まずは坂口さんが寄付を集め、建立された涅槃像へ向かいました。現地に到着すると、お寺の本堂のようなものは無く、30m以上もある涅槃像が目の前に横たわっていました。そこを横切り奥へ進むと、小さな建物が有り、その中には坂口睦さんの銅像と祭壇が有りました。祭壇の上には当時の日本の兵隊方の写真が並んでいました。まじまじと見ていると埃が酷く掃除が行き届いていないようでした。建物の中には部屋が有りましたが、廃屋の中で見かける部屋のような状態で、堪らなく哀れな姿となっていました。出来上がった当初は綺麗だったはずなのに、全然管理されていないなと思いながら部屋の中を眺めていました。こういった建物は寄付が止まるとこのような姿になると学ぶことが出来ました。祭壇の横にはアルバムが有り、慰霊時の坂口睦さんや多くの日本人遺族の写真が残されていました。こちらへ何度も足を運んでおられる様子が窺えました。『この建物はどうなっていくのだろう。ご遺族がこんな遠い場所まで何度も足を運べるような事は無い筈。我々もここを訪れるのは特殊なケース』そう考えると少し憂鬱な気持ちになりました。私と妻は、明日、もう一度、この場所に来て掃除、お供えをしようと決めました。ここに呼んでくれた日本の兵隊方も喜ぶのではないかと考えると、とても嬉しい気持ちになり、明日が待ち遠しくなりました。『明日は奇しくも8月15日だから、お待ちください』と告げてその場を立ち去りました。初めは気持ちも曇りがちでしたが、明日の事を考えると晴れやかになり、次の場所へ気持ち良く向かう事が出来ました。
この後はワインモウという町へ向かいました。イラワジ川を渡り、ミートキーナとは川を挟んで反対側にある町でした。日本を発つ前に読んだインパール作戦関連の本によると、確か龍兵団(九州の部隊)が、中国雲南省騰越よりこの町を通ってミートキーナに入り、同じく九州の部隊、菊兵団を援護し、全滅したと書いてあった事を思い出しました。その部分が記憶に残り、最初の行先がワインモウと聞いた時に感慨深いものとなりました。
ワインモウに着くと、小さな町で何も無いといった感じでした。川の横の店舗の中では村人数名がビリヤードを楽しんでいました。この町の道楽というところでしょうか。市場を覗きましたが活気も無く、何も売っていませんでした。きっと時間帯が悪かったのだろうと思います。お昼は舗装されていない道の交差点の角にある町の食堂で食事を摂る事になりました。安全面を考慮し、私は加熱されている焼き飯を食べる事にしました。妻は現地の料理をあれこれと注文していました。息子は私と同じ焼き飯でした。妻が注文したものは現地の川で獲れた魚を料理したものでした。それを見ながら、戦争当時の兵隊は魚を食べる機会はあったのだろうかと考えさせられた。妻が注文した現地の料理を見ながら、そのような思いに浸りました。
ガイドMさんが我々の様子を見て、少し早いが今日はホテルに戻ろうと提案して下さいました。確かに疲れていて、ホテルで昼寝を少しして、その後にホテル周辺を散策でもすればいいかとゆっくりすることにしました。シーツ交換・掃除を頼んでおいたホテルに戻り、部屋を確認。シーツは替えていましたが、床は掃除した形跡がなく、がっかりさせられました。半ば諦め、取り敢えず、もう一度シャワーを浴び、ベッドの上に横になりました。まだ陽が明るいうちにホテル周辺を散策しようと妻と息子を連れて町中を歩き始めました。先ずはホテルの部屋の窓から見えていたミートキーナ駅に向かいました。日本軍がイギリス軍をミャンマーから追い出した後、この鉄道を使って、ミートキーナ駅まで多くの日本の兵隊が来ていたようでした。現在は、古めかしい活気の無い駅舎の様子にがっかりしましたが、記念撮影をして気分を盛り上げました。
町中を歩いていると、道路の脇に多くの井戸を見つけました。途中、井戸から水を汲み出すミャンマー人女性に笑顔で近づき、井戸の中を覗かせて頂きました。この井戸から水を汲み出し、バケツで運ぶという事は飲料水として使っているのかと思いました。ミャンマー語は分からないので尋ねる事が出来ず、挨拶をして再び歩き始めました。妻は途中で衣類のお店に立ち寄り、傘を購入。日傘が欲しかったようでした。この後、ガイドさんに教えて頂いた中国レストランの前を通ると満席でした。ミートキーナでは初めて見る繁盛振り。ここで食事をしようと3人で入店すると、衝立で囲われたテーブルに案内されました。そこでも焼き飯を注文。妻は様々な料理に挑戦し、どれも美味しいと感嘆していました。
食事後は、イラワジ川沿いの堤防に向かって歩き始めました。徐々に夕日が川の水面と空を赤く染めていきました。目の前に見える中州の向こう側では坂口睦さんの上官であった水上少将が自決された場所があるとガイドさんから聞かされており、夕日と共にその川の中州方面をずっと眺めていました。今は多くの現地の人が川の傍で夕日を眺めたり、夕涼みを愉しんだり、若いミャンマー人カップルのデートスポットにもなっていました。川沿いに少し北上しながら歩いていくとヒンドゥ教のお寺がありました。インド人の方が自然と我々家族をお寺の中へ誘導してくださり、その立派な装飾のお寺の中に入り、2階の本堂へ上がらせてもらいました。絢爛豪華なお寺の内装に非常に驚きました。あまりの美しさにうっとりしながらも祭壇の前に座り込み、手を合わしました。宗教は気にせず、神々様にここに残る日本の兵隊方の日本への帰還と許可を祈願致しました。
気が付けば、外は真っ暗になり街灯が裏通りには全く無い事に気付かされました。家族揃って、『やばい、やばい。早くメイン通りに戻らないと何も見えない』と足早に夜店が建ち並ぶメインロードへ向かいました。こちらの裏通りは、外套が無く、本当の暗闇になり、何も見えないという感じでした。周辺に建つ建物からも灯りが無いので、前後左右に何があるかわからない状態になるので、本当に恐怖でした。日本では有り得ないので、非常に貴重な体験をしました。無事ホテルに帰ることが出来、ホッとしました。
ホテルの部屋に戻ると、私はベッドのシーツさえ綺麗になれば、眠る事が出来るので大丈夫だろうと考えていましたが、妻と息子は不満そうな表情を浮かべていましたので、明日以降、別のホテルに移動する事にしました。正直、気持ちはすごくわかりましたので、致し方なしと思うに至りました。
次の朝はホテルの朝食を頂きに最上階へ上がりました。スタッフが男性ばかりという事もあり、細かいところで汚れが目立ち、食事をしたくないような感じでした。妻と子供の反応が怖くて、聞くこともできませんでしたが、きっと不満があったと思います。
部屋に戻り、荷物をまとめました。ホテルのロビーに行くとガイドさんが既に待っていて、別のホテルに移りたいと相談しました。ホテルマネージャーにその事を伝えてもらい、荷物を車に乗せました。そして、私が指定したホテルへと向かいました。このホテルはインターネットで評判が良く、ここで駄目なら止むを得ないと思っていました。ホテルに到着し、フロントで空室の有無を確認すると、今日から空いている大部屋が有り、その部屋には3つベッドもあるとの事でしたのでその部屋に宿泊する事に決めました。まだ午前中なので部屋の掃除が出来ておらず、荷物だけ預かって頂くことにしました。奇遇にしてもすごくついているなと思いました。これでミートキーナでの寝床は確保でき、旅に集中できるようになりました。
7:日本の夏の果物 西瓜
この後は、今日の予定の場所に行く前に坂口さんが発起人となって建立された涅槃像のある場所へ向かいました。先ずはお供え物を買うため、果物市場へ立ち寄りました。妻とガイドさんだけが車から降りて色々と買い始めている様子を眺めていました。すると、メロンが目に留まりました。『ミートキーナにもメロンがあるのか』と思い、妻にメロンを買うように声を掛けようとした瞬間に、『西瓜が食べたいです』と突然誰かが私に話しかけました。一瞬、驚きましたが、すぐに日本の兵隊だなと思い、彼らが西瓜をお供えして欲しい事が分かりました。私も車を降り、妻に『西瓜を買って』と頼みました。妻は何かを感じたようで『分かった』と言ってすぐに西瓜を購入してくれました。あと、飲料水もお店で購入し、涅槃像へ向かいました。敷地内に車を停め、坂口睦さんの銅像のある建物に入り、ウェットティッシュで祭壇、写真立て、銅像の掃除をしました。祭壇の上は非常に綺麗になり、お盆に清掃出来た事をとても嬉しく思いました。線香と蝋燭はこの涅槃像にある境内の売店で購入し、無事、線香と蝋燭に火を灯す事が出来ました。西瓜は敷地内に住む管理人のような方からナイフを借り、切り分けました。祭壇の上は、日本のお盆のように豪華にお供えをして、こちらで亡くなった日本の兵隊方に召し上がって頂けるように致しました。我々家族は祭壇の前に座り、彼らの御霊の安寧を祈り、手を合わせました。線香の火が消えた後に祭壇の果物を粗末に腐らすわけにもいかないので、ナイフを貸して下さった方や涅槃像の前で売店をしておられる方方々にお配りしました。こうして、ミートキーナで清掃とお供えをする事が出来、無事、お盆を迎えることが出来ました。
涅槃像での慰霊も終わり、今日の予定地であったミッソンという村へ向かいました。ここはミートキーナから北西側にあります。車で行くと途中まで舗装道路ですが、しばらくすると舗装されていない林道に変わりました。将来的には、この周辺一帯に中国が巨大ダムを建設する予定になっており、ここで電力を作り出し、中国側に供給するプロジェクトが進んでいるようでした。この地を追い出される事になったいくつかの村の一つに訪問しました。目の前には大きな川が2本合流していて、大きな山がダム建設のため、無くなるようでした。多くのミャンマー人がこのダム建設に反対ですが、ミャンマー政府が許可しているのでどうする事も出来ないようでした。そんな将来的には消えてしまう村にガイドは連れていってくれました。
1-2時間、車を走らせた後、消えてしまう村に到着しました。所々、悪路であったり、橋の修理で片側通行であったりと少し危険な道程でしたが、途中、坂口さんが慰霊に訪れたとされる場所で車を停めたりしながら、ミッソンに辿り着きました。目の前に広がる開放感のある景色に癒されながら、川沿いにある平地のレストランでローカル料理を頂きました。目の前には大きな川と将来切り崩して無くなってしまう山が見えました。なんとも言えない残念な気持ちになりながら、自然が豊かで長閑な雰囲気を楽しみました。
この後は、ミートキーナ方面に戻るのですが、その途中の小高い丘に展望台があるというのでそこに連れて行ってもらいました。そこからはミートキーナの町を一望出来、戦時中は、敵の動きを監視するのに役立ったであろうとこの場所を、きっと連合軍と日本軍がこの場所を奪い合ったのではないかと思いました。ミートキーナからワインモウへ行く橋が見えるのですから、監視台としては最適の場所であったに違いありません。 次はインパール作戦中に日本の兵隊がミートキーナ郊外で水の湧く場所を見つけ、大きなコンクリートの土管を輪切りにしたようなものを置き、そこに湧き水を利用して水汲み場を作り、飲料水として利用していたという場所を訪れました。現在では、現地のミャンマー人が生活用水として利用されておられました。
そして最後に、可能ならば日本軍が連合軍から死守しようと戦闘を繰り広げた飛行場跡に行きたいとガイドに言うと、ドライバーとガイドがその付近へ案内してくれました。彼らもはっきりした場所が分からずその周辺の住人に聞きまわって下さいました。すると、ここのお宅の裏にあるのではないかと紹介して下さる方がいたので、ドライバーはその付近まで車を移動して下さいました。
そのお宅の敷地内に入ると、家の中から住人らしき方が出てきました。すると、家長である男性が出てきて、我々家族とガイドさんを家の中へ入るように勧めてくれましたが、我々は事情を説明して、戦時中のミートキーナでの日本軍飛行場跡を見たい事をお伝えすると、家長が『私についてこい』と家の裏を案内してくれました。家の裏を奥へ奥へと進んで行くと竹林の中にいくつかの穴の痕跡が地面に見受けられました。恐らく、これは、蛸壺と呼ばれるもので、この穴に入って銃撃戦をしていたのだろう事は容易に推測が出来ました。その後ろの広い場所は滑走路の一部だったのではないかと家長が話してくれました。今でも地面を掘ると戦時中に使われた薬莢など出てくるということでした。
穴の前で手を合わせ、家長の家に戻りました。彼は親日家のようで、部屋に入るように案内されました。中に入ると、彼のご親族の写真を見せて頂き、様々な話を聞かせてもらいました。日本にも行った事があり、親戚が現在も東京にお住まいだというので少々驚きました。インパール作戦時は彼のお爺さんはアメリカ軍の元で働いており、情報分析・提供を担ってご活躍をされていたようでした。家長の話は尽きないようで、ガイドさんが話を遮らなければ、夜まで長居していたかもしれません。とても人懐っこいミャンマー人の人柄に触れ、空港到着時に電話を貸して下さったミャンマー人を思い出し、この地域に住むミャンマー人の気質を知る事が出来ました。家長及び、時折姿を見せる若い御親族の方々の恥ずかしそうな態度に彼らの誠実さを感じ、とても興味深い時間を持つ事が出来ました。家長の表情からは、もっと滞在していってくれよと言わんばかりの感情が読み取れ、名残惜しい別れとなりました。ここミートキーナで心温まる出会いに非常に感謝しました。
その後はホテルに戻り、今日からは昨日とは違うホテルでした。部屋は広くなり、清掃も行き届いていました。一日の移動の疲れを癒してくれる部屋でゆっくりと休む事が出来、妻や子供の言う通り、良いホテルで宿泊することの重要性を感じました。外出するのが面倒になり、夕夜は日本から持ってきたカップラーメンを食べました。不慣れな場所での疲労回復を図るには、日本食に限るとカップラーメンも重要な栄養食になり、元気を取り戻しました。
一夜明け、ミートキーナ最終移動日となった。昨年のように日本の兵隊がはっきりと話し掛けてきませんでした。自分で少しイライラしているのが分かりました。これほど遠い所まで来て、どういう事なんだと思い始めていました。この時、私が目的地として掲げていた場所はフーコン(死の谷)入口の町カマイン。しかし、そこにはどうしても行く事が出来ないとガイド及びドライバーから話をされていました。ヤンゴン市にある旅行会社に1ヶ月前に許可申請しなければ足を踏み入れる事が出来ないようでした。そのような情報を知らなかったので、ガイドの伝手で行けないか何度か話していると、数週間前にカマイン警察が相対する少数民族から爆弾テロに遭い、警察官1名を含む2名が亡くなったばかりだということを話してくれました。ですので、ドライバーが『今は非常に危険です。訪問許可申請をしていたとしても、結果的には今は行けないでしょう』と私を諫めてくれました。場所の映像は頭の中にありましたが、行く事が出来ない。まるで2012年のマンダレー訪問時と重なるような苦い思いを感じていました。筑紫峠周辺で立っている兵隊の姿が脳裏から離れず、何度も悔しい思いが込み上げてきました。
8:モガウンの慰霊碑の清掃
車はレド公路を走り、分岐点へとやってきました。直進すればカマイン(フーコン方面)、左に曲がればモガウンという町でした。これ以上あれこれ言って、ガイドとドライバーを困らせることは出来ないので、反対方向のモガウン方面を目指しました。そこは筑紫峠を越えて南下してきた兵隊が戻ってきた場所であるんじゃないかと思い、自分自身を納得させました。右手に見える山々が目に映り、筑紫峠はどこにあるのだろうかとずっと移動中は眺めていました。
町の入口に到着。モガウンは小さな町でした。ここにも慰霊碑があるというので立ち寄ることにしました。市場で花やお供え物を購入し、慰霊塔のあるお寺に向かいました。慰霊碑のあるお寺は静かにひっそりとした街はずれの場所にありました。ぬかるんだ道を裸足で歩きながら、慰霊碑のある場所を探しました。時々、小石を踏み、足の裏が痛く、仏塔の周囲は雨が降った後で滑りやすくなっていました。このような場所に本当に慰霊碑はあるのかと探していると、仏塔の奥に慰霊碑らしきものを見つけました。ガイドが『あれではないですか?私が確認してきましょう』と先に進んでいきました。それを必死に遅れまいとついて行きましたが、一番遅いのは私でこういった状態の地面を歩くのがとても苦手でした。ガイドが奥の方から手を振っているのが見えました。妻はあっという間にガイドに追いつき、慰霊碑の横から合図を送ってくれました。それを見た私も急に足早になり、その場所に辿り着くと、確かに日本語が慰霊碑に刻まれていました。10数年前に建立されたもので、京都という地名が慰霊碑に彫られていました。『そうか、京都からこちらに来て慰霊碑を建てられたのか』と思うと、こんなに日本から遠く離れた場所に慰霊碑を建てられた方々の思いを感じることとなりました。しかし、いつかは、御親族の代替わりが進み、記憶からも消えていくのかと思うと、この慰霊碑の維持の行く末について、微妙な想いにさせられました。滅多に人が来ることが無い慰霊碑を我々夫婦で掃除する事にしました。綺麗に清掃が完了した慰霊碑の前に献花・お供えをし、最後はこの地で命を落とした兵隊方の為に手を合わせました。慰霊碑を管理されているお寺の本堂に足を運びました。ミャンマー人のお坊様が2人おられ、肝心なガイドが車に戻っていましたので、身振り手振りで話をし、少しばかりのお金とお供えした食べ物をお渡ししました。彼らは我々に笑顔で接して下さり、お経をあげて下さいました。私達は頭を下げ、手を合わせました。こうやって、ここでの慰霊は終わり、お坊様に日本語で『よろしくお願いします』と言って車へと戻りました。
本によると、フーコンでの戦闘のため、このモガウンにも多くの日本の兵隊が戻って来ていたようでした。しかし、今はそのような痕跡は無く、慰霊碑以外何も見つける事は出来ませんでした。そのような出来事があったのかと思わせる景色も無く、ただ町の建物しか目をやることが出来ませんでした。親族であっても、帰還兵であっても、滅多に足を運ぶことが出来ないこの慰霊碑に、清掃とお供えが出来たことは良かったなと思いました。
慰霊が終わった後は、モガウンの町で美味しいと噂の自家製麺のラーメンを食べに行きました。それ以外は特に観光地も無さそうですし、ミートキーナへ戻るしかありませんでした。ミートキーナ市内へ戻ると、少し市場で買い物をしてホテルに戻りました。
10:気分を害す
ミートキーナでの最後の夜は少し気分を害していました。自分の事を棚にあげ、日本の兵隊方があまりコンタクトしてこなかった事に。『もう、来年から日本の兵隊からの帰還依頼があったとしても止めておこう。疲れた』と怒りながら妻に話していました。恐らく、日本の兵隊方は非常に私にコンタクトを取り辛くなっていたと思います。私は、たいして霊感も無いし、だからこそ、今回、我々をここミャンマー北部に呼び寄せた理由がわからなくなってきていました。そんな私の怒った姿を、私には視えない世界からずっと見ていたに違いないと思います。
次の日の朝、ミートキーナ空港へドライバー・ガイドさんに送って頂き、ミートキーナからマンダレー空港に戻ってきました。そこで数時間の待ち時間があり、空港内のタイレストランで食事を摂りました。そこで、また考えていました。ミートキーナに取り敢えず来て下さいという連絡を日本の兵隊から連絡を受け、行ってはみたものの、今回は2014年の8月と年末のようにはっきりとした連絡ではなかった。しかし、結果を見れば、インパール作戦所縁の場所には回っていました。私は霊感がほとんど無いし、メッセージがなければ、何をしているのかわからないという感じでした。結局、搭乗時間になり、マンダレー空港からタイ王国チェンマイ空港へ移動し、嫁の実家に戻ってきました。
10:兵隊からの謝罪
タイの妻の実家でもベッドの上に寝転んで、愚痴っていました。『あんな所まで行ったのに、連絡が少ししかないってどういうことなんだ。まさか西瓜をお供えした涅槃像の場所だったのか?もうわからない。時間もお金も使って、行った目的がはっきりしなかったら、俺は来年からもう行かない』と思っていました。すると、今回連絡を取ってきた日本の兵隊が話しかけてきました。『すみません。すみません』と何度も謝罪してきた彼の言葉が私の胸に突き刺さりました。私はきっと私情が入ったのだと思いました。理想・美談に目が眩んだ自分に気が付きました。『いや、俺が悪いのだ。こうなるのだろうと勝手に決めつけて、いつのまにか自分の中で理想の流れを作ろうとしていて、日本の兵隊の声に耳を傾けられなくなっていたのかもしれない。だから、彼らはミートキーナで声を掛けづらかったのかもしれない』と自分を戒めました。『大丈夫。一緒に帰れて良かったね。もうすぐ日本に帰れるからね』と妻が掛けた言葉が一番優しかった。日本の兵隊に謝罪までさせた私の態度は見苦しかったと凹みました。
しばらく反省の日々が続きました。人前で人に英霊の依頼と名付けた活動の話をすることの恐ろしさを少し感じました。話す内に自分自身が、過去に起きた奇跡的な出来事に綺麗な話の続きを思い描き、予想していたこととは異なる流れに心が苛立ち、乱れて行った自分を感じざるを得なかった。しかしながら、タイ王国に戻ってきた時に、今回、出会った日本の兵隊がミートキーナから一緒であることはわかりました。が、何とも言えない思いが何度も突き上げてきました。この活動は、もうやる資格は無いと思うようになっていきました。
8月20日、日本へ帰国しました。取り敢えず、仕事に勤しむ事にしました。すると忙しかったはずの予定が週末にポッカリ空きました。おかしいなと思いましたが、これで旅の疲れをしっかり取ろうと思いました。8月21日夜になって、妻とスーパーに買い物に出掛けると、日本の兵隊が話掛けてきました。『すみません。帰郷したいです』と。急いで妻の元へ行き、明日から九州の久留米に行くと伝えると、妻がびっくりした表情で『本当なの?』と確かめるように聞き返してきた。『うん。早く帰りたいだってさ。だから、明日から行こう』と言うと、『仕事は大丈夫なの?』と心配そうに言いました。『2日間は大丈夫だと思う。だから、行こう。そう言えば、ミャンマーに行く前に彼に約束したのを思い出したよ。帰国したら、帰郷させてあげるって』妻は驚きながらも九州へ行く支度を始めました。
11:九州 久留米に帰還
場所は久留米だと分かったのですぐにインターネットで調べ、その場所を確認しました。宿泊は急いでその周辺のホテルを調べ、予約をしました。タイ王国での滞在とミャンマー・ミートキーナへの旅でかなりの費用が嵩んでいたが、約束した以上、出来る限りの事を、したいと思いました。8月21日(金曜日)の深夜に目が回りそうになりながら九州久留米に行く準備を整えました。 8月22日(土曜日)、週末は休みと思っていたが、急に仕事の予定が入り、結局は深夜の出発まで仮眠が出来ずじまい。夜通しの運転は若い頃と違って、自信がなかったが、いざとなれば、『寝ればいいか、家族だけの道中だし』と無理をせず、安全運転を心掛けようと決めました。とは言うものの、現地での時間は欲しい。1日だけでは時間的制限があり、せっかく行くのだから、諸々回ってみたい場所もありました。
深夜出発。妻は仮眠を取っていない私を心配していたようでした。実は私自身もかなり不安でした。途中の高速道路SAで仮眠をすればいいかと思いながらも、あまり寝すぎても九州、福岡には到着が遅くなり、行動時間も減っていくばかり。頑張って運転する他なかった。しかし、この時の私はあまり睡魔に襲われる事も無く、なんとか日曜日の午前中に福岡に到着しました。考えていたより早く到着出来、時間的に余裕が出来そうでしたので、大刀洗平和記念館へ立ち寄ることにしました。そこでゼロ戦を見学してから久留米市内へと移動しました。久留米市内では先ず忠霊塔に立ち寄りました。そこで手を合わせ、次は久留米の成田山久留米別院を訪問しました。色々興味のあった場所を回ることが出来、満足しましたので、その日は運転の疲労もあり、早めに久留米市内のホテルに泊まりました。
結局、到着したその日は何の手掛かりも無く、次の日の朝、予約していた久留米駐屯地にある広報資料館へ立ち寄りました。駐屯地のゲートで駐車スペースを案内して頂き、車を停め、自衛官の方からゲートの横にある建物の一室へ入るように言われました。刑事ドラマに出てくる尋問室のような部屋で少しおっかない気持ちになりましたが、広報資料館の担当の方がとても感じの良い人でホッとさせられました。彼の案内で広報資料館へ行くと、2階へ上がる階段の入口のシャッターを上げてくれました。見た事の無いような光景に少し驚きながら、2階へ上がっていくと明治、大正、昭和に至る旧軍郷土部隊 12師団、18師団(菊兵団)、56師団(龍兵団)の貴重な資料がたくさん展示してありました。最初は12師団のものから始まったのですが、進むにつれて見慣れた言葉が目に入ってきました。それは「菊」「龍」兵団の資料でした。広報担当の自衛官の説明時に地図が目に留まりました。私は思わず指をさして、『あのミートキーナに1週間前に居たのですよ』というと自衛官の方が非常に驚いた顔をしておられました。私は自然とミートキーナへ行った経緯とこの駐屯地へ来た経緯を話し始めました。その自衛官の方は私の話に聞き入り、神妙な表情を浮かべながら、『我々先輩にあたる方々をお迎えに行って下さって有り難うございます。彼らに代わって御礼を言わせて下さい』と頭を下げました。すると、隣に居た妻が、あちこちの写真を見ながら、あの人もこの人も知っていると騒ぎ始めました。そして自衛官の方が御礼を言っている隣で日本の兵隊も私に有り難うと言い始めました。私はそんな彼の挨拶を見て見ぬふりをしていました。理由は、自衛官の方から不審がられないようにする為でした。最終的にここで僕のお役目は終わりなのではないかと思いました。『約束は果たした。福岡に帰る事が出来たし、これで私の出来る事は果たしたし、約束した事を守ったから、後はお迎えを見つけて存在すべき場所へ行ってね』と心の中で念じました。
そして一冊の本を自衛官の方が見せて下さりました。それは坂口睦さん他が筑紫峠を訪れた時の写真資料本でした。行くことが叶わなかった筑紫峠の写真を見て、なんとなく満足することが出来ました。そして、その本の中に私がミャンマーに行く前に見た映像に近いジャングルのような山の写真がありました。一人興奮しましたが、『いつか必ずここに行って、出来る限りの事はするぞ』と思いました。そしてもう1枚、久留米に来る前に気になっていた菊兵団の為の慰霊塔の写真が有りました。『ここに行きたいのですが、場所を教えて頂けませんか?』と聞くと、自衛官の方が丁寧に教えて下さいました。私は今回の最後の行先をそこに決めて、久留米を発つ前に立ち寄る事にしました。お花とお茶を買ってその場所に来ると、その場所は神社の横の野球場の片隅に建っていました。ここまでやってきたが、結局、坂口睦さんは他界されており、当時の話を聞けませんでした。坂口睦さんとお話したかったのが残念でなりません。しかし、こんな話をしても、怒られたかもしれないと思うと、会えなくて良かったのかもしれないとも思いました。そして、こうやって、2015年のミートキーナへの旅、英霊の依頼を完遂させました。
12:最後に再び挨拶 謝罪と御礼
この後、自宅へ帰り、また普通の生活が始まりました。が、9月4日に私達の家に帰国され、郷土に戻ったはずの日本の兵隊方がやって来られました。そして、彼はもう一度、我々家族に最後の挨拶をしに来ましたと話しかけてくれました。当然の事ながら、非常に驚き、何故、あの世へ行っていないんだよ!わざわざ、久留米まで行ったのに!と思いましたが、彼の真意を知り、素直に彼の感謝の思いを受け止めました。
『日本に帰れて、本当に良かった・・・。それと、俺が悪かった。人にこの活動のことを話すようになって、思い込み(先入観)が強くなり、君たちと我々家族との間の純粋な帰還活動に目が向けられなくなり、不純な考えが混ざるようになってしまったから、君を責めてしまった。本当にごめん。俺、どうかしてしまっていたんだと思う。本当に申し訳ない』私は、今回連絡を取ってきた日本の兵隊の心が楽になったことを感じました。きっと、成仏する前に、私が彼を責めたことも、心残りになっていたんだと思います。
すると、あることに気がつきました。今回の日本の兵隊の周囲に光の存在を感じました。その光の存在は具体的に何者か私にはわかりませんが、3体おられました。その光の存在の正体が何者だったのか私にはわかりかねます。しかし、我々に謝罪と感謝を伝えに来た日本の兵隊方の付き添いのように感じました。我々との最期の交流を終えると、彼自身もその周囲の光と共に、魂が見えない光を放ち始めていました。そして、すっと存在感が消えていきました。私は目に涙を浮かべていました。
『さよなら、いつかあの世でね・・・』
今、思えば、この方は少し大人しい方だったように思います。2014年の夏そして年末に現れた日本の兵隊方の性格とはまた少し違ったようでした。各々の性格は違っても、どの方も素晴らしい人柄の方ばかりでした。私は見えない日本の兵隊方とこうやって6年に渡ってお付き合いしてきました。映像と憑依、頭に直接話し掛ける声等の様々な手段方法で我々家族に連絡をとり、その都度、その場所へ、気が付けば多くの人達の助けを借りて辿り着き、日本に一緒に帰ってきました。いつか色々な理由でこの活動を止めざるを得ない状況になるかと思うと、残念な気をしますが、きっと、別の人が出てきて、それを続けてくれるんじゃないかと希望を持つことにします。それまで、出来る限りのことはしたいなと、最後の挨拶と感謝の言葉を日本の兵隊から聞いて思いました。