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心を旅に誘う神

2018.02.04 01:54

もしかして伊勢神宮参拝した芭蕉の目的は(内宮ではなく)旅の導き手である豊受神猿田彦への参拝では??

http://suechou.com/pdf/shirou_sue/shirou_sue19.pdf  【19、道祖神】 より

『道祖神』は路傍の神であり、私たちには馴染みの深い神様である。

旅の途中、いろいろな場所で「道祖神」と記した碑を見ることがあります。松尾芭蕉の

「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場します。旅にも様々な旅があり、旅の途

中で出会う道祖神にはなんとなくロマンを、郷愁を感じます。

道祖神は、旅の安全を守る神様でもありますが、元々は中国の神で、道中の安全と道案

内を務める神でした。日本の神話に登場する猿田彦(高天原への道案内)とは同じ役にな

ります。その神が日本の農耕社会の中で、村境や峠の道端に祀られ、悪霊・邪悪・病魔な

どが入り込まぬよう境を守る神、通行を守る神、田畑を守る神となり「道祖神」と呼ばれ

るようになったのです。近世では旅の安全、交通安全の神として信仰されているようです。

陶の道祖神も中馬街道の往来が盛んなころ、窯関連の荷馬車の往来を、あるいは参詣講

の旅人を、または遠く信州からの荷物を見守った事でしょう。

上手玉喜氏著の「陶町の石造物」に猿爪で 1 基、水上に 6 基、大川に 1 基の道祖神が載

っていますが、大川十三塚のもの(塔身 33cm)は発見できませんでした。残りの7基と吹

越峠吉良見側のものを加え 8 基の道祖神が確認できましたのでその場所と写真を記載しま

す。陶コミ通信では東町の確認結果(場所と写真)のみ記載しますが、それ以外の水上・

大川の確認結果は「すえっこぽっけ」のホームページに記載しますので興味のある方はご

覧ください。


http://www.ikiiki9pon.net/bunka/cdclub/index_manabu.shtml 【日々旅にして旅を栖とす 芭蕉という永遠の旅人像】 より

漂泊と定住─人が持っ漂泊遍歴願望

 一般に「漂泊」ということばは「定住」と対をなして使われる。たとえば小林一茶は「定住」を願いつつ、やむをえず「漂泊」を重ねて「夕乙鳥我には翌のあてもなし」と自嘲気味に詠んでいるが、晩年故郷柏原に帰って、ようやく定住のねぐらを得た写真のであった。それに対して芭蕉は生涯を「日々旅にして旅を栖」として漂泊することを願ったが、その通り"永遠の旅人"となり得たのであった。

 もちろん芭蕉の場合、俳譜を普及するという目的があり、各地の人たちと交流し、そこに俳譜の「座」というグループを形成してゆく旅でもあった。山折哲雄氏の分類に従えば「遍歴遊行民」の旅であった。けれども反面、芭蕉には強い精神的な漂泊志向があり、世間を離れて自然のなかへ没入してゆこうとする姿勢をもち続けた。つまり「漂泊遍歴民」の旅である。『おくのほそ道』に出てくる「そぞろ神」や「道祖神」とは人の心を旅に誘う神であるが、その神の声、自然の声を聞くという旅の姿勢である。

 ところで、人間は何故漂泊志向、遍歴志向をもち続けて、これをある意味で美化しようとするのだろうか。それはじつは人類は有史以来ずっと"永遠の旅人"でありたいという願望をもってきたからなのである。人類の歴史100万年のうち99万年は、狩猟と採集による遊動民として、 非定住の生活をしてきたのであった。日本でも古代から中世にかけて、「まれ人」とか「うかれ人」の系譜はあとを絶たなかった。芭蕉の先覚者にも、一遍上人や西行があり、また連歌師宗祇たちも旅に生涯を送ったのである。

大自然の運行に身を任せる─人生とは旅である

そうした芭蕉の「漂泊」の思想を最もよく示しているのが『おくのほそ道』発端の部分である。

  月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。……

とはじまる名文では、やはり旅が日常なのだという芭蕉の人世観、世界観大自然の運行に身をまかせつつ歩もうとする芭蕉の強い自覚が注目される。月日の流れを生成流転、永劫回帰のすがたとみているが、そこには絶えず循環してゆく天体の運行、またそれによってもたらされる季節や時間の循環への観察が働いているのである。それは仏教が伝わる以前から、日本人 の土着的な宗教観を支配していた輪廻、循環の理なのであった。

 芭蕉は29歳のとき、故郷の伊賀上野を離れて江戸に出、俳譜師としてスタートした。37歳のとき、深川の芭蕉庵に入り、以後、庵住と漂泊をくり返した。実際の旅の総日数は必ずしも多くはなかったが、精神的には毎日が旅であった。『野ざらし紀行』などいくつかの文学的紀行文を綴っており、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と吟じて、その51年の生涯を閉じたのは、いかにも象徴的である。芭蕉のあとを追う漂泊の旅人は、近代の山頭火までずっと引き継がれている。ワールドカップ後、引退表明をしたサッカーの中田英寿のHPにも「人生とは旅であり、旅とは人生である」と綴られていた。


https://ameblo.jp/chessmarimo/entry-12091817032.html 【道祖神(どうそじん、どうそしん)】 より

道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。

道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。 全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、 とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。

平安時代にはすでに「道祖」という言葉が書物に出てきているが、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。

道祖神の起源は不明であるが、『平安遺文』に収録される8世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝法8年(756年)条には人名としての「道祖王」が見られる。神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)で、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されている。また、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。13世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と訓じている。

初期は百太夫(ももだゆう、ひゃくだゆう)信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神(くなとのかみ、くなどのかみ)と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神(サルタヒコノカミ)と、その妻といわれる天宇受売命(アメノウズメノカミ)と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。

各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる。