「ナポレオンを育てた母と妻」1 絵画も戦力化したナポレオン
ユリウス・カエサルには遠く及ばないと思うが、ナポレオンも世界史上、類い稀なリーダーの一人であったことは間違いないだろう。ナポレオンは、フランス革命によって生じた分裂、混乱を収拾し、革命の成果を取り入れた新たな秩序を創設するために必要なあらゆる手を打った。例えば教育。革命の成果としての「教育の平等」をまず軍の士官教育の場で実行する。身分や階級の上下に関係なく、実力第一主義の入学試験を行い、実践的な教育訓練を重視し、役に立つ士官候補生を軍に送り込んだ。公教育の場でも、教会と教育の分離など、学校教育の改革と近代化を断行し、国家や社会に役立つ実力主義教育制度を推進した。ナポレオンはこうして教育を戦力化した。さらに宗教も戦力化する。彼自身は、宗教心の篤い人間ではなかった。しかし、政治や戦争に宗教が役に立つことは知っていた。神の力や救いを信じることは、兵士たちが絶望し自暴自棄に陥るのを防ぎ、逆境に堪えるのに役立つ。また、人間の力を超えた神の力を信じることは、指揮官が自信過剰や独善に陥るのを予防する。なにより、来世の楽園を信じることにより、死の恐怖を少なくし、戦場で勇敢に行動できるようにしてくれる。
このようにナポレオンは教育も宗教も戦力化した。彼は「戦力」というものを兵器・兵制面からだけでなく、より総合的にとらえていた。だからこそ有形無形のものを戦力化することに大きなエネルギーを注いだのだ。彼を描いた絵画も、このことを頭に入れて鑑賞しないと大きな誤りを犯すことになる。彼は絵画も戦力化したのだから。例えば、ダヴィッド作「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」(マルメゾン城)。第二次イタリア遠征時の有名なアルプス越えを描いた作品。画面いっぱいに、前足を挙げてはやる白馬にまたがったナポレオンの雄姿が描かれている。しかし、これは事実に反した絵。実際のアルプス越えは悪路に強いラバで行われたと記録に残っている。事実を反映しているのはドラロッシュ作「アルプスを越えるボナパルト」(ナポレオンの死後30年もたったころ英国のオンズロー伯爵アーサー・ジョージが描かせた)。しかし、この絵のような姿では英雄ナポレオンのイメージを民衆に植え付けることはできない。ダヴィッドはナポレオンの意向に沿って作為的な理想化を施したのだ。ナポレオンはダヴィッドに「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」の複製画を4点(ヴェルサイユ宮殿蔵2枚、シャルロッテンブルグ宮殿蔵、ベルウェデーレ宮殿蔵)も描かせて自分の勇姿を国民に見せつけた。
ナポレオンを描いた代表作と言えば、なんと言ってもダヴィット「ナポレオンの戴冠式」(ルーヴル美術館 幅10メートル、高さ6メートル)だろう。ただし、この絵はナポレオン自身の戴冠の場面が描かれているわけではない。描かれているのは皇后ジョゼフィーヌがナポレオンによって戴冠される場面。そして、画面奥の中央に、ジョゼフィーヌの戴冠を、満足げな面持ちで見守る女性が描かれている。ナポレオンの母レティツィアだ。しかしこれは全くの嘘、虚構だ。実際には彼女は式典に列席しなかった。彼女が参列しなかった理由は、表面的には、旅に思わぬ時間がかかり式に間に合わなかったとか、体調がすぐれずローマを出発するのが遅れたとか言われるが、ちょっとそれは考えにくい。彼女は、式に間に合わなかったのではなくて、出席したくなかったのだ。
では、なぜ出席したくなかったのか?彼女がジョゼフィーヌを嫌っていたためという説もあるが、それ以上に、息子が皇帝になるのを見たくなかったのだろうと思う。母レティツィアにとって、息子が皇帝になることは喜び以上に不安だった。ナポレオンのおかげで国王や王妃になって浮かれている子どもたちにもこう言い放つような母親だった。
「あなた方は、自分たちが何をやっているのか、わかっていない。世の中っていうのは、いつまでも同じようにゆくもんじゃない。」
さらに、かりにレティツィアが出席していたとしても、あの絵のような暖かなまなざしを送ることはあり得なかった。彼女はジョゼフィーヌを心底憎み、ナポレオンと彼女の離婚を切望していたのだから。
ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」1800年 マルメゾン城
ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」1801年 ベルヴェデーレ宮殿
ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」1802年 ヴェルサイユ宮殿1
ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」1803年 ヴェルサイユ宮殿2
ドラロッシュ「アルプス峠を越えるナポレオン」ウォーカー・アート・ギャラリー リバプール
ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」ルーヴル美術館
ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」ルーヴル美術館 部分
左上の女性が、ナポレオンの母レティツィア
フランソワ・ジェラール「レティツィア」ヴェルサイユ美術館