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【感謝を胸に、闘い続けた20年】〜『魂の漢 李漢宰』特別インタビュー最終編〜

2021.02.05 03:30

 李漢宰氏は、2014年に入団したこのクラブが、壮絶な20年間のラストを飾る“最後のクラブ”となった。どのような想いをもって闘い、どのような覚悟を持ってFC町田ゼルビアで引退することを決断したのだろうか。

 

 自身初のJリーグ合同トライアウトに参加し入団を決め、同じくしてFC町田ゼルビアの監督に再就任した相馬直樹監督には「チームの中心選手としてJ2昇格に尽力して欲しい」と新たなミッションを託された。

 2020年12月25日に現役引退が発表された後「まだ現役選手としての感覚を引きずっているというのが正直な気持ち」と話すように、20年間貫き通してきた“プロサッカー選手 李漢宰”という肩の荷を下ろすことは容易なことではなかったはずだ。

 

 そして、李漢宰氏の何にも代えがたい20年間の経験と存在感が及ぼす次世代への影響力は、底知れない。次世代は李漢宰氏の生き様から何を感じ取り、李漢宰氏はこれからどういった使命をもって動き出すのだろうかーー。


決死の思いで掴んだJ2昇格


ーー2014年にFC町田ゼルビアに入団し、現役引退までの7年間を過ごすこととなりました。入団当初はこれほどの期間プレーすると想像していましたか?


:「まったく想像出来ていなかったですね。私が入団した2014年は、J3リーグが新たに発足された年でした。町田ゼルビアは当時そのJ3に属していたので、僕の中でのミッションは『クラブをもう一度J2に戻すこと』でした」


ーーその決意は入団時に固まっていたんですね。


:「合同トライアウトを通して町田ゼルビアに入団することになった同時期に、町田ゼルビアの監督に再就任された相馬さんとも話をしたんです。『チームの中心としてJ2昇格に力を貸してほしい』と。その相馬さんの熱い想いが伝わり、私自身も『FC町田ゼルビアというチームをJ2に導くこと』だけに全てを注ぎ込もうと決めました」


ーーJ2昇格というミッションを自らに課す中で、J3というカテゴリーは李漢宰氏にとって初めての舞台でした。この事実をどのように捉えていましたか?

 

:「カテゴリーこそ1つ下がりましたが、対戦チームや自分達のチームを含めレベルの低いチームは無く、しっかりまとまったチームが多かった印象です。そんな中で引き分けでもいい試合なんて一試合もなく、昇格するということは常に勝ち続けなくてはいけないということ。そのようなプレッシャーの中で戦う訳ですから、非常に厳しかったですね。特に加入1年目である2014年シーズンは夏場まで1位を独走していたんですが、僕も含めた主力選手が怪我で離脱したこともあり一気に3位まで転落してしまい、入れ替え戦にすら参入出来なかった苦い思い出があります」


ーーなかなか思い通りに行かなかったと。


:「そうですね。ただ、私個人としては大きい怪我から本来の自分の姿を取り戻したいという気持ちがあった中で、J3という舞台が弊害になることは一切無かったです。本来の自分を取り戻す以上のキッカケになった一年でした。それはやはり、当時の監督やコーチングスタッフ、そしてメディカルスタッフの方々に感謝しなくてはいけない部分ですね」


ーーその翌年の2015シーズン、李漢宰氏は全試合出場を果たし、チームのJ2昇格というミッションに大貢献されます。


:「本当に色んな想い、苦しみ、怪我があったなかでも信頼して起用し続けてくれた監督には感謝しています。僕としても、【自分はチームの為に何が出来るのか】と毎日自問自答しながらチームに全身全霊の力を注ぎ込むと決めたので、その決意を実行に移せたことは本当に良かったと思っています」



町田ゼルビア以外のユニフォームを着ることが想像出来なかった

 

ーー李漢宰氏は2020年シーズンをもって現役引退することを決断されました。12月27日に行われた引退セレモニーでは多くの方々への「感謝の想い」が強く印象的でした。


:「『感謝しかありません』という言葉を引退に関する記事やコメントでよく目にしますが、みんな本当にそう思っているんだなと感じますね。私の場合は、どんな時もたくさんの人に支えられるだけじゃなく、怪我をした時には復帰を待ち望んでくれている人が居てくれたし、自分が本当に苦しい時には背中を押してくれる人達だって居た。そういったたくさんの人達の想いを背中で感じながら生きてきたんです。だからこそ、人間は良い時は放って置いても良い方向に進んで行くから、如何に辛い時に助けてもらえるかということが大事で、助けてもらう為には私生活から信頼を積み上げていかないといけません。普段からの僕の姿勢を見てくれていた人達が自分が苦しい時に、背中を押して支えてくれていたんだなと思います。そして、これらの“支え”がプロサッカー選手として20年間やってこれた一番の要因だと思っているので、率直なこの気持ちを伝える為には感謝しても、しても、し切れないくらいの気持ちに繋がるんだと思っています」


 引退を決断することになった2020年12月は、李漢宰氏にとって苦渋の期間であった。ファンサポーターに対して中途半端な姿や言葉は伝えられない。自身が大事にしてきた人達に、李漢宰氏の生き様を通して伝えたいことがまだまだある。そのような葛藤があるなか、プレーの場を他チームに移すことも考えた。だが「どうしても町田ゼルビア以外のユニフォームに袖を通すことが想像出来なかった」と話すように、李漢宰氏の町田ゼルビアに対する愛は想像を遥かに超えていた。

 7年間「FC町田ゼルビア」に自身の愛情と情熱を捧げ続け、2020年に町田の地で現役を引退することを決断した。


 「愛国歌が流れた時は涙を堪えるので必死だった」朝鮮代表としての矜持を胸に夢見た舞台へ。

 

 李漢宰氏には20年間のキャリアを歩んできたプロサッカー選手として、もう一つ特別な顔がある。

 在日同胞の期待を背負い闘い続けた、在日コリアンフットボーラーとしての顔であり、朝鮮民主主義人民共和国代表選手(以下、朝鮮代表)としての顔だ。

 “在日同胞の期待”を背負うということは並大抵のプレッシャーではなく、その中で朝鮮代表にまで昇り詰めるためには李漢宰氏が話す「熱いもの」を持ち続けないといけない。李漢宰氏は在日コリアンフットボーラーとして、又は、かつて日本代表と死闘を繰り広げた朝鮮代表の一員として、何を想うのだろうか。

 

ーー李漢宰氏は一人のJリーガーとしてはもちろんの事、一人の在日コリアンとしても多くの期待を背負いながら朝鮮代表選手としてもご活躍されました。当時の心境はいかがでしたか?


:「朝鮮代表選手になるということは本当に特別だと思うんですよね。相当な熱いものが無ければ、辿り着けない場所だと思っています。当時は代表に行ってから驚くこともありましたが、ただ、それも自分が見てこなかった景色なだけであって、慣れてしまえば何てこと無いんですよね。英学先輩(アン・ヨンハッ氏/元朝鮮民主主義人民共和国代表)と行った海南島での合宿でも『マジか!』という事が何度もありましたが、人間は経験してこなかったことを新たに経験し、それを積み重ねることによって成長出来ると思っています」

 

ーー朝鮮代表に初めて選出された当時のお気持ちを聞かせてください。

 

:「一番最初に呼ばれたのは『2002アジア競技大会』の為の強化合宿の時でした。それはクラブで試合に出て認められて呼ばれた訳ではなく、『一回来てみるか?』という形での招集だったんですよ。初めての代表合宿で衝撃はありました。ただ、そんな事では放棄できない。今まで思い描いていた夢を少し違ったからといって、ここで放棄すればそれは自分の人生を自分で疑ってしまうことになる。だとすれば、結果はどうであれ認められるまでやろうと決意しました。その瞬間からは何事でもアピールすることを続けましたし、常に先頭で走り続けましたね。結果、最終的にはアジア競技大会のエントリーにまで漕ぎ着けることが出来ましたし、それが朝鮮代表としての第一歩目でした」


ーーなんといっても2005年に埼玉スタジアムで行われた『2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 日本代表戦 』は在日同胞の脳裏に焼き付いていますが、やはりあの舞台は格別でしたか。


:「おそらく他の何にも代えることの出来ない、他のどの試合とも比較することの出来ない、自分のキャリアを振り返った中でも一番の思い出かもしれないですね」


ーーその舞台に至るまでにも様々な苦労があったと思います。

 

:「そうですね。チームはその前にアジア2次予選と3次予選を勝ち抜いて、そこまで辿り着くことが出来ました。当時平壌で行われたタイ戦で、安英学先輩がミドルシュートを含めた2得点を記録しスタメンとして定着されました。その後に僕がアジア3次予選のイエメン戦に招集されたのですが、当時の監督であり、私の恩師であるユン・ジョンス監督からは"チームを勝たせる目に見える結果"を求められていました。当時は既にディフェンシブなバランサータイプの選手になっていましたが『絶対に点を決めてやる。もうやるしかない』と自信と覚悟を持って試合に臨みました。その結果、開始一分でキャリア初となるヘディングからのゴールを記録し、そこから全てが始まった感覚がありましたね」


ーー自らの結果で最終予選で日本代表と戦う場を勝ち取ったんですね。埼玉スタジアムの大観衆のなかでピッチの上に立った時はどのようなお気持ちになりましたか?

 

:「エグッカ(愛国歌/朝鮮の国歌)が流れた時は込み上げてくるものが凄すぎて、涙を堪えるのが必死でした。その瞬間の為にこれまで頑張ってきたと言っていいくらいですから。しかも、バックスタンドを見渡せば、在日同胞の方々が応援してくれている。それを見た時にはアドレナリンが出まくって、緊張を通り越して、最高潮まで高ぶったことを覚えていますね。試合では肉離れを起こしている中、持てる全ての力を出し切ったと思っています。ただ、87分に交代し最後の瞬間までピッチに立てなかったこと、そして勝てなかったことが悔しくて、悲しくて、試合終了後は永遠と泣いてました。それくらい気持ちを込めて闘いました」


ーー誰もが出来ない貴重な経験を多くされてきました。そのような経験を踏まえて次世代に伝えたいことは。


:「私は『今の子達は』という話はあまり好みませんが、敢えて言うなら『やってもらって当たり前』『与えてもらって当たり前』という感覚は非常に良くないと思うんですよね。僕達の学生時代からもそうですが、朝鮮学校のサッカー部が各地域に遠征で行く度に在日同胞の方々が焼き肉をもてなしくれたりして、熱く迎えてくれていました。いま振り返ってみると、それが出来るって相当凄い事だと思うんですよ。それを当たり前だと感じないで欲しい。自分がその立場になった時には次世代の子達にもそうしてあげたいという想いがありますが、時代が変わっていくなかで大事な部分を忘れてはいけないんじゃないかと。もちろん考え方を新しく更新しなきゃいけない側面もありますし、そうして新しい価値観を取り入れることも大事ですが、その中でも本当に良い部分、大事な部分は引き続き残していく。そういった想いも必要なんだということを伝えていきたいですね」

 

ーー時代の変化と共に考えを更新する事と、これまで大事にしてきた良い部分を守っていくというバランスが難しくなってきてると思います。与えられるものへの感謝の基準値が高くなってきているように思えます。

 

:「私はプロサッカー選手だったということで『プロサッカー選手になる為には』という質問をよく受けるんですよ。その中で一つだけ明確に言えることは、その為に最も大事な要素は『環境のせいにしない』ということです。例えば、環境が整っていたらその環境に甘えたり、やらなくてはいけない事を明確に定める事が出来なくなるかもしれないですよね。もちろん環境が良いに越したことはありませんが、良い監督が居て、良いグラウンドがあって、だからこそ良い選手が生まれる。という発想では駄目なんです。結局は自分次第であり、自分にベクトルを合わせないといけない。出来る子はどんな環境でも出来るし『環境が』ということすら口に出さない。私もそうしてきましたし、どんな環境でも出来るんだということを証明してきました。感謝の基準としては、あくまでもベクトルは自分に向けて自分は何をすべきなのかという事を明確にすること。そういった姿勢で毎日を過ごしていると、与えられた環境に対しての感謝の気持ちというものは、自然に芽生えてくるんじゃないですかね」

 

 これまでに積み上げてきた全ての結果は周囲の人達の支えがあり、本当の最後の岐路に立たされた時には常に自身の“意志”と“魂”で未来を切り開いてきた。20年間プロサッカー選手として夢を与え、朝鮮代表としての矜持を胸に感動を与えてきたのだ。

 だからこそ「今ある環境を当たり前と思わないで欲しい」「常にベクトルは自分に。全ては自分次第だ」と、李漢宰氏が自身の人生を通して証明してきたように、次世代にメッセージを伝える。

 

 最後に、現役引退を決断した李漢宰氏は、今後どのようなビジョンをもって歩んでいくのか聞いてみた。

 「FC町田ゼルビア以外のユニフォームを着てピッチに立つことが想像出来ず、現役を引退することを決断させて頂きました。そしてクラブのフロント『クラブナビゲーター・J1昇格への案内人』として新たな役職をクラブのご厚意もあり用意して頂きました。正直、強い気持ちで20年間という長いキャリアを歩んできたからこそ、現役選手としての感覚は取り切れていないが、だからといって『無理に想像して創る』のではなく、ちょっとずつ自然に自分の気持ちが感じたままに、新たな仕事に従事していきたい。そして、選手として果たすことの出来なかった『町田ゼルビア・J1昇格』という目標を叶える為、支えていきたいです」

 

 “李漢宰”は、FC町田ゼルビアをJ1へ“案内”することが出来るのか。

 そして、次世代に"新たなる魂の漢"が生まれるのを期待したい。