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海暮れて 鴨の声ほのかに白し

2018.02.05 05:29

https://blog.goo.ne.jp/take10nbo/e/ed2b6b3514a4d3947d502121c9fcc357 【海暮れて 鴨の声ほのかに白し   芭蕉】 より

海暮れて 鴨の声ほのかに白し

「海辺に日暮して」と前書きがある。

芭蕉は、海辺に夕日が沈むのを眺めていたのだろう。

暮れて暗くなった海辺にたたずんでいたら、鴨の鳴き声が、うっすらと白く聞こえたというイメージ。

日が暮れても、残像のような鴨の姿がうっすらと白く見えた。

すると、その鳴き声までもが白く聞こえた。

YouTubeで鴨の鳴き声を聞くと、「ピュウルルピュウルル」と鳴くようである。

アヒルみたいに「ガーガー」とは鳴かない。笛の音のような鳴き声。

それを夕暮に聞けば、哀愁を感じるような「しらべ」となるかもしれない。

「黄色い声をあげる」という言い方があるように、声にも色がついている。

日が暮れるということは、だんだんあたりの白さ(明るさ)が消えていくということ。

したがって鴨の声も、白く見える鴨の姿と一緒に、闇のなかへ溶け込んでしまいそうだという情景なのだろう。


https://blog.ebipop.com/2015/11/winter-basyo.html 【仄かな命の存在感「海暮れて鴨の声ほのかに白し」】 より

海暮れて鴨の声ほのかに白し 松尾芭蕉

貞享元年十二月十九日、在熱田での発句。このとき芭蕉は四十一歳。「野晒紀行」の旅の途上での発句である。

句の前書きに「尾張国熱田にまかりける頃、人々師走の海見んとて船さしけるに」とある。

芭蕉一行は、船の上で、海に夕日が沈むのを眺めていたのだろう。

凪いでいたとしても、師走の海である。一抹の緊張感は、あったに違いない。

やがて、その緊張を忘れるほど景色に見入る。夕暮れの海の、色の変化を目で追っていたことだろう。

暮れて暗くなる前の、薄明るい白々とした海。

そんな海を眺めていたら、鴨の鳴き声が、うっすらと白く聞こえたというイメージ。

芭蕉は暮れていく海の景色に溶け込んでいく自身の心の風景を見つめていたのかも知れない。

心の中で、鴨の鳴き声が白く響いた。芭蕉は目で見、耳で聞いたものを心で感じる。

聴覚と視覚の、「ほのか」に混ざりあった感覚。

それが、白々と混ざりあった夕暮れの海風景の中に幻出しているようである。

前回の「明けぼのや白魚しろきこと一寸」とは対照的な句である。

「明けぼの」の白には死のイメージが感じられたが、夕暮れの海の白には安堵と不安の混ざりあったイメージが感じられる。

暗闇に溶け込む前に、鴨は白く鳴いて、お互いの存在を確かめているように感じられる。

そういう鴨の声から、芭蕉は安堵と不安を感じとったのだろう。

そこには「白魚しろきこと」のような死のイメージが感じられない。

安堵と不安の、命の営みとしての「鴨の声」なのだ。

その声を感じた芭蕉の心が、「ほのかに白し」だったのだろう。

それが、大自然のなかで仄かに生きている芭蕉自身の姿と重なったのではないだろうか。

芭蕉自身の姿とは「野ざらしを心に風のしむ身哉」なのである。

安堵と不安の命を営む身なのだ。

暮れていく冬の海という遠景の手前で、仄かな鴨の命の存在が感じられる。

広大な海と、ちいさな生命が、風景として溶け合いながら一日の終わりをむかえる。

死のイメージの句を作ったり、命の営みの句をつくったり。

「野ざらし紀行」の旅は、その名の通り、芭蕉が生死をかけた旅だったのだろう。


http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-5fce.html 【海くれて鴨のこゑほのかに白し(芭蕉)】より

【海くれて鴨のこゑほのかに白し】

今回は、甲子吟行(野ざらし紀行)にある芭蕉の句を通じて、当ブログの詩歌鑑賞法について述べてみます。

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この句がすばらしいのは、声を出して読み上げたときに、日本語の言葉の響きが美しいところです。私は、いつも次のように声に出して読みます。

「うみくれて かものこえほの~ かにしろし」

作者の主張は「ほの~ か」にあります。「仄か」でもなく、「ほのか」でも「ホノカ」でもなく、これ以上的確な『ほのかさ』の言い回しがあるでしょうか。それを十七文字の中で自然と表現しているところに芭蕉の偉大さがあります。作品の意図、思いがすべてこめられています。芭蕉の音感、技量に脱帽です。蕪村に

【更衣野路の人はつかに白し】(ころもがえ のじのひと はつかにしろし)

※はつかに=わずかに

という類句がありますが、いかがでしょう? 声に出して比べてみれば、「海くれて」の句が、いかに音感にすぐれているかがわかると思います。(とはいえ、蕪村の句がくだらないというわけではありません)

詩歌鑑賞においては、ことさら理詰めに考える必要はありません。百人いれば百通りの解釈があります。読者の感性・経験・気分によって千差万別です。そこに正解などありません。“何のために鑑賞するか”も重要です。国語の勉強? 文学の研究? 人生の道しるべ? 作句技量の向上? それぞれの立場によって、やはり解釈の仕方は違ってきます。

詩歌は各人各様に楽しむべきものです。書かれた字と声に出して読んだ印象、つまり視覚と聴覚によって、作者の心を想像し味わうべきものです。詩歌は音楽の一種です。だから解説本や解説サイトなんてあてになりません。また解説を必要とするような難解作品は、基本的にいい作品とはいえません。そのためにも、芭蕉が言うように

『舌頭に千転せよ(何度も何度も…、千回でも口づさんでみなさい)』

というのが、私の鑑賞法です。これは俳句に限らず、短歌でも漢詩でも同じです。おのずと作者と一体感が得られます。少なくとも一体感が得られたような気持になります。それこそが、詩歌鑑賞の醍醐味です。

ただし、

①使われている用語・用例がわからなくては話になりませんから、辞書・辞典のたぐいは必要です。

②ほかの人がどのように鑑賞しているか、自分のと比べることは重要です。鑑賞の幅が広がります。