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F.CHOPIN、マルリア二夫人とショパンが一緒に観たポンサール。。。

2021.02.04 08:31

ショパンは生粋のパリジャンのように、パリの上流階級の夫人の間で流行っていた高価な品をサンドに贈っていた。それは高価なチーズの時もあればお肉の時もあった。ショパンも同じ物を食べていたのかはわからないが、

ショパンはパリの食べ物があまり好きになれなかった。ポーランドのスープが恋しかったショパンは、パリに来た頃は使用人にポーランドのスープを作らせていたがこの頃は目と鼻の先に住むマルリアニ夫人の家で食事をしていたためショパンが身体に合う食事が出来たかはわからないが、マルリア二夫人と食事をして美味しかったといった言葉は少なくともショパンからはいつも聞こえて来ないのだ。

そして、化粧品はパリの貴夫人の間でしか手に入らない高価な品をパリの社交界の有名貴夫人から入手していたといったところだ。

ショパンはサンドにパリの近況を続けて伝えた。

「 私は昨日、マルリアニ夫人と食事をしました。その後

アニェス・デ・メラニーを観るためのオデオン座へ行きました。

ドラクロワは私に良い席を送ってくれましたので、私はマルリア二夫人を招待する機会を得ました。

あなたにお伝えしたいのは、

実のところ、私はそれをあまり楽しめませんでした。

そして私はポンサールが脚本したシェイクスピアの悲劇の方が好きです。

しかし私はそのようなことの評論家ではありませんので。

アラゴは私に会いに来ました。

彼は痩せていて声がかすれていましたが、相変わらず親切で魅力的でした。

天候は、寒いですが、散歩に出かけることができる人には快適です。

私はあなたが片頭痛は治り、いつものように庭を歩き回って幸せでおられることを願っています。

そして来年も皆さんが幸せになりますように。あなたのお時間のある時にでも、あなたが元気だと知らせてください。あなたに忠誠なショパンより」

ショパンは劇作家ポンサールの作品をオデオン座で観劇をした。自身の作曲のインスピレーションを受けるような作品ではなかったようだが、ポンサールには興味があったことが伺える。劇場はパリの貴族の社交の場であったためショパンは様々な有名人と面会した可能性があるか、サンドへの書簡には多くは語らなかったショパンだった。




フランソワ・ポンサール

(1814年6月1日ウィーン– 1867年7月7日パリ)

フランスの劇作家、詩人、アカデミーフランセーズのメンバーでした。(アカデミーフランセーズは、1635年にルイ13世の首相であるリシュリュー枢機卿によって設立。フランス革命中の1793年に制圧され、1803年にナポレオンボナパルトによってフランス学士院の一部門として復元された)

ポンサールは1814年ウィーンで生まれ、弁護士になるための教育を受けました。彼は詩の世界に惹かれて最初にバイロンのマンフレッド(1837)を翻訳しました。それは文学のロマン派の歴史の中で注目されました。

彼の戯曲 「ルクレース」 は、1843年4月1日にテアテ・フランセで初演されました。この日は、アレクサンドル・デュマ、ペール、ヴィクトル・ユーゴのロマン派に対する反動として、文学や演劇史では有名です。

ポンサールは時間と場所の不平等に関してロマン派の自由を採用したが、以前のフランスドラマのもっと地味なスタイルに戻した。当時最大の悲劇女優、レイチェルの趣味と才能は彼の手法に合っており、それが彼自身の人気に大きく貢献した。

彼は、アニェス・デ・メラニー(1846) で成功を収めることが出来なかったが、続いてシャーロット・コルデイ (1850) などを発表した。ポンサールはフランス国から上院の司書の職を与えられたが、彼はすぐに辞職した。彼の最も成功した戯曲の一つである「名誉とお金」は、1853年に上演された。活動を休止の後1866年には革命時代を扱った別の戯曲「恋するライオン」で成功を収めました。次に発表した戯曲1867年の「聖職者側の大きな反対に興奮した」は17世紀の偉大なイタリアの物理学者で天文学者、ガリレオ・ガリレイの生涯からのストーリーはロマン派的で世間から注目を集めたが批評家からは酷評された。

彼の故郷のウィーンには、1872年に記念碑が建てられた。


※※※その時ショパンは※※※

ショパンは劇作家ポンサールの書いたアニェス・デ・メラニーを1846年パリのオデオン劇場でドラクロアの招待でマルリア二夫人と一緒にロイヤルボックス席で観劇しました。

ショパンがポンサールと面会したかは

不明ですが、ショパンはポンサールに面会した可能性が高い。