冬の始まり、告げる弟
アルバートの朝は早い。
ショートスリーパーではあるが生活リズムが整っているからこそ、よほどのことがなければ毎朝同じ時間に自然と目が覚めてしまう。
そして、そのアルバート以上にルイスの朝は早かった。
何故ならモリアーティ家の当主たるアルバートの目覚めに合わせ、モーニングティーを用意することがルイスが担う大切な役割の一つなのだから。
アルバートが指示したわけではないのだが、ロックウェル伯爵家の世話になっていたときに使用人から教わったらしい。
アルバート好みの紅茶を淹れられるよう懸命に努力を重ね、ようやく合格をもらえたと喜ぶ姿はとても愛らしかったことを、二人の兄はよく覚えている。
あまり他人を部屋に入れたがらない気質のアルバートは、そもそもベッドサイドで堪能するアーリーモーニングティーの用意を頼んだことすらない。
だから初めてルイスが朝早くにアルバートの寝室を訪ね、緊張した面持ちでモーニングティーを差し出してきたときは驚いてしまった。
「アルバート兄様、おはようございます」
「…おはよう、ルイス。何か用かい?」
「目覚めの紅茶を用意してまいりました」
「……」
起きたばかりのアルバートの目の前には大きな瞳を期待に染め、けれども初めてモーニングティーを用意するという状況に緊張した末の弟がいる。
他人の気配に敏感だからこそ、ルイスが部屋の扉をノックするよりも前にその存在に気が付いていた。
相手がルイスだと気付いたからこそ警戒を薄くしたのだが、まさか淹れたての温かい紅茶を差し出されるとは思わなかった。
貴族として生まれ落ちたアルバートだが、アーリーモーニングティーを経験したことは一度だってないのだから。
「…兄様?お飲みにならないのですか?」
「あぁ、いや…いただくよ、ありがとう」
張り切って用意してくれたであろうルイスを追い返すわけにもいかず、アルバートはアーリーモーニングティーなる貴族としてありふれた習慣をこのとき初めて体験した。
まだ温もりの残るベッドの中、淹れたてで香り高いダージリンをストレートで口に含む。
渇いていた喉を潤してくれる液体はとても美味しくて、渋みはないがすっきりとした風味に脳がはっきり覚醒する心地がした。
「うん、美味しいね」
「…今日も良い一日でありますように、アルバート兄様」
アルバートのすぐそばで佇んでいたルイスを見上げて感想を伝えれば、ようやく安堵したようにルイスが笑ってくれた。
初めての行動だから粗相がないか心配だったのかもしれないが、アルバートもモーニングティーは初めての経験だ。
何が正解かも知らないが、少なくともルイスの気持ちはとても嬉しい。
朝からルイスが淹れた自分好みの紅茶を飲めたことは良い一日を予感させてくれるようで、なるほど、アーリーモーニングティーは悪くない習慣だなと、アルバートははにかんだように笑うルイスを見て笑みを返した。
それからというもの、アルバートの目覚めにはルイスが淹れたモーニングティーがともにあることがほとんどである。
大事な弟をまるで召使いとして扱っているようで始めは慣れなかったが、それとなく用意しなくても構わないと伝えたところ、途端に悲しそうに大きな瞳を潤ませるのだから言及することも無くなった。
ウィリアム曰く、ルイスはアルバート兄さんのために紅茶を淹れたいんですよ、ということらしい。
恥ずかしそうに、けれども否定せずに頷くルイスを見て、アルバートは無性に愛おしさが増したことをよく覚えている。
今では先に目覚めることなく、ルイスが持ってきた紅茶の香りをきっかけに覚醒するようにもなった。
温かいベッドで温かい紅茶とともにすっきりとした目覚めを迎える。
そんな優雅な朝を迎えることにも慣れてしまい、ルイスがいない日はどこか物足りないと思うほどだった。
だが、アルバートのそんな優雅な朝はある時を境に一時的にお休みになってしまうのだ。
「…もう朝か」
分厚いカーテンの隙間から陽の光がうっすらと漏れている。
そうは言っても季節柄まだ薄暗いため、もう少し後にならないと陽が昇りきらないのだろう。
ひやりとした空気を感じたアルバートは思わず毛布を握りしめてしまったけれど、我に帰りすぐさまベッドから出ては乱れた髪を掻き上げた。
薄暗い室内に明かりを取り入れようとカーテンを開け、肌寒さを凌ぐために置いてあったナイトガウンを羽織り寝室を出ていく。
ルイスのモーニングティーが差し出されなかったことに驚くでも残念に思うでもない。
アルバートは軽く顔を洗ってから勝手知ったる厨房の中へと入り、慣れた手付きで湯を沸かして茶葉を計量していった。
生粋の貴族たるアルバートではあるが、弟達と離れて過ごす時間が長かったために一通りのことは器用にこなせてしまう。
元々潔癖かつ完璧主義なアルバートのこと、他人に世話を焼かれるよりも自分で行動した方が安全かつ早いのだ。
ルイスだけが例外というだけで、基本的にアルバートは今も昔も使用人の世話を受けることを嫌っている。
気に入っている三分計の砂時計を頼りに熱い湯で茶葉を蒸らし、濃いめに抽出した紅茶に同じく熱く沸かしたミルクを注ぐ。
アルバートはすっきりとした風味を感じられるストレートの紅茶を気に入っているが、今朝は敢えてのミルクティーを用意した。
「ウィリアム、ルイス。入るよ」
律儀にもノックを三回届けてから、アルバートはウィリアムの寝室として機能している部屋に入る。
その手には湯気の立ったカップが三つ乗っているトレイがあった。
「ん、んん…」
「……」
毛布がもぞもぞ動いている塊と、びくともしない塊。
窓際に置かれたベッドには大きな山が二つほど塊として乗っていた。
アルバートがそれに驚くことはなく、ごくごく自然に足を進めてベッドサイドに置かれている小さな机にトレイを置いてベッドの中を覗き込む。
「おはよう、ウィリアム、ルイス」
「ん…ん、ぅ…」
「……」
先程からむずがるように小さな声を出しているのはルイスで、一切の反応なくすぅすぅと寝息を立てているのがウィリアムだ。
もはや見慣れた光景、戸惑うこともない。
アルバートは覚醒間近のルイスの髪に指を添え、ふわりと柔らかく流れる感触を楽しんだ。
「…ふ、…んん」
アルバートが撫でるように髪に触れていると、ルイスの頭はゆっくりと上を向いて長い睫毛を震わせていた。
ウィリアムにしっかりと抱きしめられるようにして眠っていたルイスはその腕を払うことなく、顔だけで自分に触れた人間の気配を探る。
実際は探るまでもなく、気配に敏感なルイスが穏やかに眠っているという事実だけで、その対象は二人だけに絞られてしまうのだけれど。
ルイスは自分を抱きしめる腕に指を添え、必死に眠気を追いやるようにその紅茶色の瞳を覗かせた。
「…ぁ、アルバート、兄様っ…!?」
「おはよう、ルイス。今日も随分とお寝坊さんだね」
「〜〜〜っ!」
今日も、と嫌味のような強調なのに、そうは感じさせないほどアルバートの口調は優しく甘い。
むしろからかうようなその声にルイスが気付かないはずもなく、ルイスは慌てて目を見開いては横たえていた体を起き上がらせようとする。
けれどウィリアムの腕がしかとルイスの体に絡まっていて、起きることは叶わなかった。
「そのままで構わないよ。ウィルもじきに起きるだろう」
「…も、申し訳ありません…兄様にモーニングティーの用意をさせてしまうなんて…」
「ウィルが起きたらここで飲もうか。ミルクをたっぷり注いできたからルイスの喉にも優しいだろう」
「…お心遣いありがとうございます、アルバート兄様」
ルイスが起き上がろうとした瞬間、穏やかに眠っていたはずのウィリアムの眉間に皺が寄る。
完全に寝入っているはずなのに決して離そうとしないその執念には恐れ入るが、それでこそウィリアムだとも思う。
アルバートはベッドサイドに腰掛けて、起き上がれないルイスの髪を撫でながら覚醒しきれていないウィリアムを見た。
その寝顔は至極穏やかで、ルイスを腕の中に置いている安堵感でいっぱいのようだ。
彼の覚醒までに紅茶は多少冷めてしまうかもしれないが、それはそれで良いだろう。
「最近寒くなってきたからね。昨夜はよく眠れたのかい?」
「…はい。暖かく眠れました」
「それは良かったね」
起きたばかりの人間の体温は下がっているという。
けれど今のルイスの頬はうっすら赤みがかっており、彼が低い体温ではないことを教えてくれている。
アルバートは安心したように微笑みかけ、寝起きだろうと薄れることのない整った美貌を真上から見下ろした。
兄弟の中ではルイスが一番早起きだ。
朝食の準備だけでなく、アルバートへのモーニングティーを用意するという役割があるのだから当然である。
夜更かしをせず早めに眠っては次の日に備えているルイスなのだから、滅多なことでは寝過ごすことなどない。
けれど今この時期、寒さが厳しくなる直前の頃には連続して寝過ごすことが多かった。
「ルイスが寝過ごすのを見ると冬が来たと感じるな」
「…申し訳ありません」
「謝ることはないよ。おまえ達のためにモーニングティーを淹れるというのも風情があるじゃないか。私は気に入っている」
「兄様…」
寒くなるとどうしても起きるのがつらくなる。
その気持ちはアルバートも今朝実感したばかりなのだからよくよく分かるものだった。
特にルイスは体温が低めであるせいか、寒い冬の日には目に見えて体の動きが鈍くなる。
まるで変温動物のようだと思うけれど、それならば温めてあげれば良いのだと全身もこもこに着せた上で兄に抱きしめられる姿は、モリアーティ家の冬にはよく見られる光景だ。
それは夜、眠るときにも欠かすことはない。
むしろいくら待ったところでルイス一人ではベッドが温まることはなく、寒さゆえに眠ることすら出来ないのだ。
それでもルイスは一人我慢して夜を凌ぐこともあるのだが、耐えきれなくなったときにはウィリアムかアルバートの寝室を訪ねている。
寒くて眠れないから一緒に眠ってほしいと、そう懇願する弟はとても可愛い。
けれどギリギリまでルイスは我慢してしまうから、ルイス自ら訪ねてくるのを待つよりも兄達から声をかけることの方が多かった。
昨夜はルイスから訪ねたのか、それともウィリアムがルイスを連れ込んだのか。
どちらでも良いことだが、どちらにしても愛しい弟達が仲睦まじいことを感じられてアルバートの心は明るくなる。
ルイスがモーニングティーを用意出来ない頃を境に季節の変わり目を感じるというのも、実に趣深いものだろう。
「ん、…ルイス…?」
「あ、兄さん起きましたか?おはようございます、兄様がお待ちですよ」
「にいさんが…?」
「おはよう、ウィリアム。君はいつも通りのお寝坊さんだな」
「…んん」
いつもは起き抜けでも隙なく完璧な振る舞いを見せるウィリアムだが、今はぐずるように目を閉じては腕の中のルイスに縋り付いている。
寝起きが悪いはずもないのだが、安全な環境と空間、信頼した兄弟の前だからこそ見せる姿なのだろう。
ルイスはその様子を見て可愛いなと一瞬だけ絆されそうになるけれど、アルバートを待たせている状況を思い出してはウィリアムを起こそうと背中を叩く。
ぽんぽんと優しいリズムで叩かれるその手は逆効果だろうとアルバートが思っていると、案の定ウィリアムはルイスの声と体温とその手つきでまたも瞳を閉じようとしてしまう。
「に、兄さん、アルバート兄様が紅茶を用意してくださっていますよ」
「…こうちゃ…?あぁ、モーニングティー…」
「はい。ミルクをたっぷり入れてくださったそうです。良い香りがします」
「これ以上待つと流石に冷め切ってしまうから、いい加減に起きてほしいんだが?」
「ウィリアム兄さん」
ルイスの肌に埋めていた鼻をずらして少しだけ香ってみれば、確かにミルクと茶葉の良い香りがウィリアムに届いてくる。
毎年冬の時期恒例となるアルバートによるモーニングティーを、ウィリアムはルイスとともにもう何度も味わっていた。
冷めてしまうのは確かに惜しい。
ウィリアムはようやく色鮮やかな瞳を見せ、ルイスの腰を抱いて一緒に体を起こして兄を見た。
「おはようございます、兄さん。おはよう、ルイス」
「おはよう、ウィル」
「おはようございます、兄さん」
ウィリアムはようやく覚醒し、ルイスとともにアルバートを見る。
やっと二人と目線が合ったことになんとなく安心しながらアルバートがカップを手渡せば、弟達はまだ温もりの残るそれに両手で触れていた。
丁度程よく温かいようで、むしろ淹れたての熱いものより飲みやすいのかもしれない。
二人はアルバートに礼を言ってからこくりとアルバートお手製のミルクティーを飲む。
ベッドの中で毛布に包まりながら、三人揃ってのアーリーモーニングティー。
アルバートは冬の初めにしか見られない光景に満たされたように瞳を細め、自らもカップを煽っていった。
久々にミルクティーを飲んだけれど、悪くはない味だろう。
「お味はどうだい?」
「とても美味しいです、兄様」
「兄さんのミルクティーを飲むと冬が来たと実感しますね」
アルバートと同じように冬の訪れを感じているウィリアムに視線をやり、冷えた空間に見合わない暖かな気配を感じ取る。
ルイスが寒さゆえに寝過ごすのは冬の始まりだけだ。
数回の寝坊を繰り返した後は気合いで乗り越えているらしく、以降は普段と同じ時間に目覚めることが出来る。
冷えることなくしっかりと眠るためにもウィリアムかアルバートのベッドで眠ることが条件にはなるのだけれど、それはそれでとても楽しみだ。
アルバートとウィリアムは冬の訪れを教えてくれる末っ子を見て、冷めかかっているけれどとても美味しいミルクティーをゆっくりと味わっていた。
(そういえば)
(どうかしたのかい?ルイス)
(アルバート兄様、おはようございます。起こしてくださってありがとうございました)
(…あぁ、おはよう。そういえば挨拶がまだだったね)
(遅くなってしまいすみません。驚きのあまり、つい…)
(もうここ数年の恒例なのに、いつまで経っても慣れないねルイスは)
(…不覚です)
(そう気にしなくても良いさ。カップ、飲み終えたのなら下げようか)
(いえ、それは僕が片付けます。兄様と兄さんは先に着替えを済ませてください)