『君の名は。』と名曲『赤黄色の金木犀』の美しき共通性
10月に入りました。ようやく涼しくなってきたようで、束の間の秋を感じます。
そんな中、映画『君の名は。』の勢いはとどまるところを知りません。つくづく恐ろしい映画です。
さて、秋ということで、フジファブリックというバンドの名曲『赤黄色の金木犀』を聴いていたのですが、ピーンとくるものがありました。
この曲、まさに『君の名は。』なのでは!?
ちょっとしたアハ体験でした。まさか、なんの関連性もない2つの名作がこんなところで繋がるとは。
というわけで今回の記事では、フジファブリックの曲『赤黄色の金木犀』の解釈をするのですが、単なる曲の解釈記事では終わらせません。そこからさらに、私の感じ取った『君の名は。』との共通性に触れていきたいと思います。
曲の解釈と映画の解釈を融合させるという当ブログ始まって以来の試みです。頑張って書きます。
(『君の名は。』のネタバレをふんわりと含んでいます。注意)
1.『君の名は。』の本質とは
何はともあれ、まず私が『君の名は。』をどう観たかということをここで端的に書いておかなければなりません。
わりと多くの方が、あの映画を「震災後映画」の文脈で語っており、実際私もその観点から映画を捉えてみたことがあります。それが以下の記事です。
長い記事なので一言で結論を述べてしまいますと、「『君の名は。』を単なる震災映画として捉えるのはよくない」ということでした。確かに震災を意識したような描写・展開はありますが、それはあくまでも時代の流れから自然に浮かんだモチーフを取り入れた、というだけのことでしょう(それはそれでどうなのとも思いますが)。
この作品が伝えてくれることは、もっと大きなメッセージです。それは、「忘れてしまった過去の記憶や体験が、現在の我々の行動や選択、更には『想い』に強く作用していて、それによって自らの運命を切り拓くことができる」ということです。長いですが、一文でまとめようとするとこうなります。
(※詳しくは以下のリンク先で)
↓「想い」による理不尽な距離の乗り越え、という観点から作品を解釈した記事
↓忘れてしまった過去の記憶や体験、という観点から作品を解釈した方のツイート
糸守町を救えたこと。その根底にあるのは、お互いの名前を探し求め合う瀧と三葉のエモーショナルな「想い」です。
ずっと誰かを探しているような感覚、何かが抜け落ちてしまった感覚、今はもうない街の風景に心を奪われること......。そんな正体不明の記憶や体験が、彼らに糸守町を救わせ、そして最終的に彼らを結びつけたわけです。
あなたがさっき歩道橋ですれ違った人は、もしかするとあなたの一生の相手かもしれない。現在の刹那的な体験、日常的な風景も、知らぬうちにあなたにとってかけがえのないものになるかもしれない。
それを決めるのは、これからのあなたの行動と選択なのです。
言ってしまえば、瀧と三葉は俗に言う「運命のカップル」でもなんでもありません。三葉はともかく、瀧が入れ替わり対象に選抜されたのは、まったくの偶然なのです。重要なのは、それから彼らが互いの名前を求めることを選択し、行動したことでした。それによって、物理的距離、記憶の距離、生死の距離を乗り越え、ついに互いの名を問うに至り、「結果的に」運命の相手になったという物語。これこそが『君の名は。』の本質だったわけです。
2.『赤黄色の金木犀』の解釈
前準備が終わったところで、やっと本題に入ります。
『赤黄色の金木犀』は、フジファブリックというバンドの秋のシングル曲で、2004年に制作されたものです。当ブログのドメイン名からも察せると思いますが、私の大好きな曲で、名曲です。
まずは聴いてみて下さい。
さて、どうでしょうか。
秋らしい感傷的な曲です。イントロから物悲しさがあります。「もしも過ぎ去りしあなたに〜」と入っているので、サラッと聴くと、過去の想い人を回想して感傷的になる、というようなありがちな曲に思えるかもしれません。
しかしながら、実はただ単に感傷に浸っているわけではありません。むしろ、構造が『君の名は。』と似ている非常にユニークな曲なのです。
どういうことでしょうか? それでは具体的に歌詞を見ていきましょう。
■Aメロ:未練と忘却
もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば
それは 叶えられないとしても
心の中 準備をしていた
まず、主人公の未練がましい思いからこの曲が始まります。対象となる想い人は、もう「過ぎ去」ってしまった人です。なにか伝えたいことがあったのに、それは今ではもう「叶えられない」ほど、距離的にも、時間的にも離れてしまいました。それでも、思い起こさずにはいられない、未練がましい執着を押さえつけることが出来ないでいます。
冷夏が続いたせいか今年は
なんだか時が進むのが早い
僕は残りの月にする事を
決めて歩くスピードを上げた
ここでは一転して、前述のような「未練」をかかえた「僕」からは離れた視点が書かれています。
主人公の内面描写ではなく、「冷夏のせいで時が進むのが早く感じるなぁ」という客観的な事実描写。あるいは「残りの月にする事を決めよう」という、過去への執着をいったん忘れ、現在を見据えようとする姿勢。
いずれにせよ、「歩くスピードを上げ」ることで、「僕」の心情のベクトルが過去から現在へとシフトしたことがわかります。「時の流れが早まる」というのがキーワードです。
■サビ1:抑えきれない感傷
赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって
何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道
前の部分で、「歩くスピードを上げた」と言ったのち、曲のテンポも上がります。過去の想い人への未練を抱えながらも、いやいやと頭を振って歩く速さを速め、自分の中で止まった時計の針を進めようとします。
しかしながら、そこで金木犀の香りが漂ってくるわけです。すると、抑えていた気持ちが再び流れ出てきます。「胸が騒いでしまう」わけです。恐らく秋になにかあったのでしょう。再びあの未練がましい気持ちで胸が一杯になってしまう。そんな帰り道を急いでいます。
ここまでの解釈だと、美しく叙情的な曲ではありながらも、やはりなんだかありがちな内容だと思われてしまうかもしれません。結局、「昔の想い人への未練を忘れられない」というだけの曲なのではないかと。
しかし、次の転調部分によって、物語の色が変わってきます。まさに「転調」するわけです。
■Bメロ:明かされる構造
期待外れな程 感傷的にはなりきれず
目を閉じるたびに あの日の言葉が消えてゆく
これがこの曲の「核」です。
あれだけ感傷に浸っていたかのように見えた「僕」は、ここで「感傷的にはなりきれず」と言っています。これはどういうことでしょうか。
答えはその後の一文にあります。
目を閉じるたびに あの日の言葉が消えてゆく
つまり、忘れてしまうわけです。
今までさんざん未練がましいと言ってきた秋の日の出来事も、日が経つにつれ、忘れていってしまいます。感傷的にはなっているんです。ただ、「なりきれない」のです。
それでも、依然として未練がましいという感覚は残っています。秋の日に何かがあった。そして、その日に何かを伝えたかった。それなのに、時間の経過とともに、思い出の具体的な内容を忘れてゆく自分。もしかすると、想い人が誰だったのかすら覚えていないのかもしれません。
そんな遠い日の出来事に対し、ただ「何かを伝えたい」「未練がましい」という感覚・想いだけが残っている状態なのです......なんだか、『君の名は。』に近づいてきましたね。
つまり、ここでこの曲の一つの構造が明らかになったわけです。それは、この主人公の感傷の力点が、過去への未練それ自体ではなく、その過去の未練の理由や思い出を忘れてゆく自分だった、ということ。感傷的になりきれないことに感傷的になっているという、いわばメタな構造になっているということなのです。
■サビ2:メタな感傷
いつの間にか地面に映った
影が伸びて解らなくなった
月日が立つと、日の長さが変わってきます。影の長さが伸びたということに、月日の経過を感じ取っているわけです。ここでも「時の流れが早まる」というあのキーワードに関連した描写が入ってきたわけですが、さきほどとは意味がだいぶ変わってきます。
つまり、この曲でははじめから一貫して「時の流れが早まる」ことを強調していたわけですが、それによって真に強調されていたポイントは、別のところにあるのです。
すなわちそれは、「忘却の速さ」ではないでしょうか。
時が経つにつれ、過去の思い出の記憶も薄れてゆく。そのスピードも徐々に速くなっている。その事実を気に留めないように、「残りの月にすることを決め」、前を向いて歩こうとすると、一層忘却のスピードが早まってしまうというジレンマ......。
赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって
何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道
時が経てば経つほど、どうしていいか「解らなくな」る自分。そこに金木犀の香りが漂ってくると、「何故か」「たまらなくな」るような感情が湧き上がってくる。今となってはその感情の正体もわからない。「無駄に」という副詞の意味もここでようやく分かります。それは、金木犀の香りでわけも分からず過剰に反応してしまう自分を切なく評した表現だったわけです。
3.2つの名作が交錯する
いかがでしょう。
『赤黄色の金木犀』と『君の名は。』は、かなり構造が似ていることがお分かりになったかと思います。
そこでもう一歩踏み込んだ解釈をしてみますと、こんなことも言えるのではないでしょうか。すなわち、『赤黄色の金木犀』は、『君の名は。』において、ラストで瀧と三葉が階段で出会うまでの世界なのだと。
糸守町の災害から8年が経ち、就活に勤しむ瀧、東京で新たな生活を始めていた三葉。ふたりとも、入れ替わり事件のことはもう覚えていません。ただ、「ずっと何かを、誰かを探しているような」感覚だけが残っていました。これはまさに、『赤黄色の金木犀』の主人公の状態と一致します。
他にも、例えば金木犀の香りで正体不明の感傷が生じてしまう様子などは、今はもうない街の風景に「何故か」心を奪われてしまう瀧とパラレルです。また、就活に勤しむ瀧の姿は、自分の中で止まった時計の針を進めようとしている、なんとか現在を生きようとしている姿ともとれます。そのたびに、ますます5年前のことを忘却してゆくジレンマに悩んでいたのかもしれません。『赤黄色の金木犀』の主人公と同じように。
こんな妄想を広げてゆくと、『君の名は。』をより一層楽しめます。なにせ、ラストシーンに至るまでの瀧と三葉の心情を追体験できるのですから。
この「追体験できる」というのは、音楽ならではの力です。映画だと感情移入はできても、往々にして第三者の視点で物語が描かれるため、例えば登場人物の心情を自分のことのように体験することは難しいです。しかし、(優れた)音楽ならば、それを歌うことによって、歌われる主人公と同じような感情が湧いてくることが多々あります。当然ながら音楽には映像もないので、歌いながら自分の頭のなかで好きに場面を思い描き、自分の体験に重ねることが容易なのです。
映画『君の名は。』をご覧になった方、何度でもあの物語を体験したい方は、『赤黄色の金木犀』を聴いてみてはいかがでしょう。2度目を観に行く前に聴いてもよし、映画を観終わったあとに余韻に浸りながら聴くもよし、ふとあの物語が恋しくなったときに聴いて思い出すのもよしです。
あるいは、『赤黄色の金木犀』でなくとも、そして『君の名は。』でなくとも、「あっ、この曲はあの作品とリンクするな」と思う曲を、みなさんが思い思いに見つけてみるのも良いかもしれません。私が『赤黄色の金木犀』をチョイスしたのは、あくまでも私が普段からその曲を聴いていて、好きな曲だったからです。『君の名は。』をチョイスしたのは、あくまでもタイムリーな作品だったからです。
この記事で得られた知見としていちばん重要なことは、『赤黄色の金木犀』が『君の名は。』とリンクしているという私の勝手な解釈それ自体ではなく、何の関連性もない複数の作品が、互いの世界を広めあい、価値を高めあうことがある、という事実なのかもしれません。これもまた「ムスビ」なのでしょうか。
今度はみなさん自身が好きな曲を、いろんな作品とオーバーラップさせてみて下さい。作品の新たな味わい方が見つかるかもしれません。