29冊目『鬼滅の刃』論
この文章は漫画『鬼滅の刃』を読破した人もしくは今後一切何事があろうと読まない人に向けた個人的な鬼滅論になります。
未読の方にはネタバレになりますのでご注意ください。
昨年ちょうど自粛期間中にアマゾンプライムで観始めたアニメ『鬼滅の刃』
流行り物ではあるが、馬鹿にできない奥行きがある。
すっかりハマって漫画も全巻読んでしまった。
衝撃的な第一話、山奥に住む炭焼きの一家、竈門家。長男炭治郎(たんじろう)が山から町に炭を売りに出た間に、一家を襲った鬼により家族は惨殺、妹が一人だけ生き残るも鬼とされてしまう。
そして主人公兄妹は過酷な運命に巻き込まれていく。
一人の少年が鬼にされた妹を人間に戻し、家族の敵を討つ鬼退治の物語。
大正時代という、明治と昭和のあわいの時代を描く本作、単なるエンタメとしても十分面白いが、ストーリー中に散りばめられた本質を突くような要素が非常に示唆に富む。
少年達の成長、持ち主の属性毎に色が変わる刀と、各々が思い出と共に身に纏う和柄の羽織、呼吸という剣術の型と技の体系、鬼が敬遠する要素としての植物、十干を元に作った階級で運営される鬼殺隊という組織・・・
考えれば考えるほどエンタメとしても刺さる要素が多い。王道の構成で描かれる成長物語の中に、古き良き日本をアーカイブしていくような、日本の伝統の要素が混ざり合う。
敬遠されてきた日本の要素も入ってくる。炭治郎が口にする「長男だから我慢できた」という台詞を令和に聞くことになろうとは。しかし圧倒的に我慢強く、優しい主人公が口にすると嫌味な感じはしない。日本の伝統故の欠点は、美点と表裏一体でもある。
主人公達に対峙する鬼という存在。妹の禰豆子(ねずこ)もそうであるように、鬼は元々人間である。鬼の首を切り、消滅していく最中、鬼達は人間だった頃の記憶を思い出す。
彼らもまた、救われず報われない現実から鬼の道に引き込まれた存在である。被害者が次の被害者を生んでいく、なんとも救われない連鎖。
そして自分が注目したのは、主人公の成長のステップが、人間を本質へと誘う入り口になっているのではないかという部分である。
・鬼を狩る者達が習得する基本技術、全集中の呼吸
呼吸は無意識下に継続される人体の生理機能ではあるが、呼吸をコントロールする事で自律神経のバランスを整えたり、丹田に気を静めて感情を落ち着かせることが出来る。
戦闘技術ではないが、呼吸法を活かした合氣道の流派は存在する。心身統一合氣道という。
次に、主人公達の世代は一人一種類ずつ、五感のどれかに特化している。
五感は身体と世界を繋ぐ境目にある。情報過多による思考優位で、昨今では身体のメッセージを無視しがちである。現代人は五感に目を向ける機会が少なくなっており、身体と精神の不具合を生じやすくなっている。
太陽の光、雨の匂い、鳥のさえずり、風の感触、旬の味など、五感を意識することが多忙さに押しやられ浮いた思考を大地に接続する。
『五感の力』はそんな五感を思い出し取り戻すガイドとなる一冊。
そして、炭治郎が戦いを通じて成長していく毎に、感覚は研ぎ澄まされていく。
自分の身体の状態を把握し、内面の感覚にも目を向けていく。
五感は身体の外と自分を繋ぐ感覚であるが、内臓感覚・固有感覚という身体のモニタリングのための感覚は自分の内側と心をつなぐ。
流行の漫画全てを知っているわけではないが、鬼滅の刃といい、呪術廻戦といい心の側面という視座が織り込まれた漫画は面白い。
そして、決戦前の修行で、主人公は「反復動作」と言われる感情と行動のセットをルーティン化し、自身のポテンシャルを最大限まで引き出す技を身につける。
五感と、それを利用しての記憶と体感覚の再現。力を出すためだけではなく、ストレスを感じる日々の中で、自分が最大限機嫌良く生きるためにこのエッセンスはとても有用である。ヨガのプラクティスでも、瞑想の中で記憶を思い起こし、体感覚を再現するガイドが至福の時間をもたらす。
さらに、炭治郎は戦いの最中、殺気に反応し反撃してくる敵の隙を掻い潜るため、殺気を放たず敵を討つ境地を模索する。
そのヒントは幼少期、静かに人食い熊を屠った父の姿にあった。
殺気を抱いて拳銃を撃てば弾がどのような軌道で来るか見えると喝破したのは植芝盛平だったように記憶している。
たぶんこの本↓
一方、殺気を放たない、ではないが炭治郎の先祖炭吉のように、野生の動物が近寄ってくる境地になる人間は存在する。
1日2日どころか信じられないくらいの長期間断食を続ける行者の北川八郎先生が、著書の中で、「山の中で断食を続けていると、鹿や野うさぎなど、動物が目の前に来る」と書いていた。
最近脱肉食ブームの波が徐々にきているが、動物食をやめると人間臭のようなものが薄らいでいくのかもしれない。
そして人間の体が透けて見えるという境地、透き通る世界
これに近いものは早すぎる天才として様々な症状を治した治療家、野口晴哉が到達している。
この本もいいが、『風邪の効用』は屈指の名著であり、医療者が嫉妬する一冊だと思っている。
さらに極め付けは全集中の呼吸の元祖、日の呼吸を編み出した始まりの剣士、継国縁壱の台詞に現れる
「道を極めた者が辿り着く場所はいつも同じだ」
途絶えかけの、鬼を倒す奥義の継承を案ずる言葉に対しての返答としては壮大すぎる
どのような道を選んでも、それぞれの道を邁進していく中で人は必ず同じ真理に到達する。というメッセージを、作者は込めたのではなかろうか。
上記のことから、作者は何かを感じている人なのではないかと、勝手に想像している。
名作の漫画、映画、歴史、博物学、古典など様々な知恵を凝縮して一つの作品にしてある。
そして最終巻の結末
一旦倒したと思われた無惨が炭治郎に力を受け継がせ鬼化させる。
人間に戻った禰豆子をはじめとする仲間達の協力で炭治郎を押さえ込み、カナヲの持っていた鬼を人間に戻す薬で炭治郎はようやく人間に戻る。
作者はなぜ、無惨をそのまま死なせなかったか
主人公サイドが陽、無惨サイドが陰とすると、東洋的思想では、片方を完全に滅ぼしても問題は解決しない。
陰陽の和合、すなわち陰と陽を一つにすることでしか、物事は整わない。
だから一度無惨を倒したかに見せて、その要素を炭治郎の中に取り込ませ、その上で克服させるという終末を迎えさせたのではなかろうか。
なんて事を読んでから考えてきた。
深読みに過ぎるかも知れない。そうした意図ではなかったかもしれない。
けれど、この作品は、エンタメとしても面白いのであるが、同時に人間の深層意識のレベルを何段階か進める仕掛けが施されている、ということは確かである。
優れた作品は娯楽性とメッセージ性の両面を持つと言われる。
それならば鬼滅の刃もまた、優れた作品であると思う。