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平知盛 威張らない武士だった!

2021.02.05 06:52

終焉 編集

自決を前に船を掃除する知盛。月岡芳年画

寿永3年(1184年)8月、鎌倉から源範頼を総大将とする平氏追討の大軍が派遣される。一ノ谷で大きな打撃を受けるも、平氏軍は讃岐国屋島に城郭を築いて再起を図り、二箇所に陣を結び、宗盛が屋島にあり、知盛は彦島に軍営を置いた。知盛は九州の兵を率いて門司関を固め[1]、半年に渡って追討軍の九州・四国上陸を阻止する。しかし、知盛が彦島に釘付けとなっている間の寿永4年(1185年)2月19日、屋島の戦いで源義経の急襲を受け、動揺した宗盛はほとんど戦闘を行う事なく安徳天皇と共に海上へ逃れ、平氏は瀬戸内海の制海権掌握に重要な拠点であった屋島を失う致命的な敗北を喫する。

さらに源範頼軍が1月末に在地武士の緒方氏・臼杵氏の協力を得て九州・豊後国に上陸し、2月1日には平氏方であった原田種直を討ち取っており、彦島に追い詰められた平氏一門は海上で孤立する事になる。

寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。

妻の治部卿局は東宮として同行していた守貞親王と共に生き残り、都へ戻った。壇ノ浦から36年後、承久の乱によって後鳥羽院が鎌倉幕府に敗れて配流となり、幕府によって守貞親王の皇子が後堀河天皇として擁立され、父である守貞親王は後高倉院として院政を行う治天の君となっている。

碇知盛 編集

みもすそ川公園の平知盛像

歌川国芳による浮世絵。ヘイケガニに平氏の亡霊が乗り移ったという伝承を描いている。右端で薙刀を持った人物が平知盛。

知盛の亡霊を描いた浮世絵(『新形三十六怪撰』より。月岡芳年画)

最寄JR門司港駅、甲宗八幡神社境内、右裏側侵入不可

三重県伊勢市矢持町菖蒲127久昌寺こちらにも伝承あり

福岡県久留米市田主丸町中尾1528‐1最寄JR筑後草野駅

自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。

これに想を得た文楽及び歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。

官歴 編集

※日付=旧暦

保元4年(1159年)(8歳)

正月7日:蔵人

正月21日:従五位下

永暦元年(1160年)2月28日:武蔵守(9歳)

応保2年(1162年)9月28日:左兵衛権佐(11歳)

長寛2年(1164年)正月5日:従五位上(13歳)

仁安元年(1166年)(15歳)

8月27日:正五位下

10月10日:春宮大進(東宮・憲仁親王)

10月21日:中務権大輔。春宮大進・武蔵守如元

月日不詳:右近衛権少将

仁安2年(1167年)

2月11日:従四位下。武蔵守如元

12月30日:武蔵守を辞任(後任・平知重)

仁安3年(1168年)

正月6日:従四位上(平盛子御給)

2月19日:新帝(高倉天皇)昇殿

3月23日:左近衛権中将

8月4日:正四位下(後白河上皇御給)

安元3年(1177年)正月24日:従三位。左中将如元(26歳)

治承2年(1178年)正月28日:丹波権守兼任(27歳)

治承3年(1179年)(28歳)

正月19日:春宮権大夫。右兵衛督

8月:春宮権大夫を辞任(重盛の死去)

9月5日:正三位。春宮権大夫に復任

10月9日:左兵衛督

治承4年(1180年)(29歳)

2月21日:春宮権大夫を辞任(安徳天皇践祚)

2月25日:新院(高倉上皇)別当。御厩別当

治承5年(1181年)(30歳)

2月:左兵衛督を辞任

3月26日:参議に補任。左兵衛督に復任

改元して養和元年9月23日:参議を辞任

養和2年(1182年)(31歳)

3月8日:左兵衛督を辞任

改元して寿永元年10月3日:権中納言

10月6日:帯剣を許される

11月23日:従二位(建礼門院御給)

寿永2年(1183年)8月6日:解官(32歳