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辛崎の松は花より朧にて

2018.02.05 12:14

https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519944183.html【辛崎の松は花より朧にて】 より

○前回、「山路来て何やらゆかし菫草」句について案内したのに引き続き、今回は、「辛崎の松は花より朧にて」句について言及してみたい。

○「芭蕉翁の大津での句~八十九句~」は、

  /漂蠅両召肋町の身の朧

  ⊃漂蠅両召箴町が身の朧

  辛崎の松は花より朧かな

  た漂蠅両召浪屬茲袢阿砲

の四つの句形を載せるわけであるが、やはり、初案は、「/漂蠅両召肋町の身の朧」か、「⊃漂蠅両召箴町が身の朧」の形であったのであろう。「/漂蠅両召蓮廚任△譴弌◆嵜漂蠅両勝廚髻係助詞「は」によって特記することに眼目はある。それに対して、「⊃漂蠅両召筺廚任△譴弌⊇助詞「や」は完全に切れ字であろうから、一旦、ここで言い切る形となる。どちらにしたところで、「辛崎の松」が句の眼目となっていることに代わりはない。

○芭蕉がこの句で問題としているのは、それを「小町の身の朧」としている点にある。唐崎の松自体は、近江八景の一つで、近衛信尹(このえのぶただ)公(1564~1614)の画賛では、

  唐崎夜雨[からさき の やう] 夜の雨に音をゆづりて夕風を よそにぞ立てる唐崎の松

と詠じている。「唐崎の松」で、芭蕉が最も気にしたのは、当然「唐崎夜雨」であることは言うまでもない。それを俳諧として、芭蕉は、「/漂蠅両召肋町の身の朧」か、「⊃漂蠅両召箴町が身の朧」の形で詠んだに違いない。それでは、芭蕉が言う『小町の身の朧』とは、一体何なのだろうか。

○おそらく、芭蕉が詠む「小町の身の朧」とは、次の和歌を元にしているものと思われる。

      文集、嘉陵春夜詩、不明不暗朧々月といへることを、よみ侍りける

  照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜に如くものぞなき

                 (「新古今和歌集」巻一:春上:大江千里:55)

それはまた、「源氏物語」の朧月夜に直結するものでもあろう。

○さらに、芭蕉は、それを「関寺小町」の老女に擬える。

花は雨の過ぐるによつて、紅まさに老いたり。柳は風に欺かれて、緑やうやく低れたり。

そうすることによって、「唐崎の松」は、老松から老女へと変貌し、衰老落魄説話へと姿を変えることが出来たのである。

○要するに、芭蕉が『辛崎の松』を『小町の身の朧』と詠むのは、嘗て絶世の美女であった小町が、年を経て、その名は世に広く知れ渡っているけれども、今となっては、その老醜を春爛漫の風光明媚な琵琶湖畔に朦朧と晒していると見立て、風諭する。確かに立派な唐崎の松は年を経た年代物の天然記念物であることは間違いない。

○初案である「/漂蠅両召肋町の身の朧」か、「⊃漂蠅両召箴町が身の朧」句は、そういう壮大な古典世界に遊ぶ句となっている。しかし、それだけでは、芭蕉は飽き足らず、さらに、「辛崎の松は花より朧かな」「た漂蠅両召浪屬茲袢阿砲董弑腓悗閥膩舛鯤冤討気擦襦

○そのあたりについて、「去来抄」には、

      辛崎の松は花より朧にて    芭蕉

伏見の作者、にて留の難あり。其角曰く「『にて』は『哉(かな)』に通ふ。この故、哉どめの発句に、にて留めの第三を嫌ふ。哉と言へば句切れ迫なれば、にてとは侍るなり」。呂丸曰く「にて留めの事は、已に其角が解あり。又、此は第三の句なり。いかで、発句とは為し給ふや」。去来曰く「是は即興感偶にて、発句たる事疑ひなし。第三は句案に渡る。もし句案に渡らば、第二等にくだらん。先師重ねて曰く「角・來が辨皆理屈なり。我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」となり。

と書いている。芭蕉が『小町の身の朧』を捨て、『花より朧にて』を選んだのは、和歌の風雅を捨て、俳諧の風雅を選んだことにある。『小町の身の朧』表現は、確かな古典に依拠し、かつ優雅である。それでも、芭蕉が尊重するのは、『花より朧かな』と言う感慨ではなくて、あくまで『花より朧にて』と言う表現の直截性にある。もっと言うと、それには『朧かな』などと言う不確かな感情ではなくて、『朧にて』と言う観点でなくてはならなかった。芭蕉が去来に、そのことを、『我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ』と告げていることからも、それは明らかであろう。

○岩波古語辞典、基本助詞解説には、格助詞「にて」について、以下のように解説する。

  【にて】

格助詞「に」と接続助詞「て」との複合である。奈良時代の後半から平安時代にかけて生じた。「家にてもたゆたふ命」(万三六九五)のごとくである。これは、動作の場所をいうもので、動作の時・年齢・の意から進んで手段・方法・材料、原因・理由をいうように変わって行った。

この語は散文に多く使われ、歌ではあまり用いない。

判るように、本来、格助詞「にて」は歌語ですらなかった。そんなものが切れ字になるはずもない。そういう「にて」を芭蕉は切れ字として採用すると言うのである。常識的には、そんなものを受容出来るはずもない。芭蕉はとんでも無い革命家か無法者の孰れかである。

○結局、芭蕉が『辛崎の松』を、『小町の身の朧』から『花より朧にて』に変えて詠んだのは、強烈な風刺を避けて、春爛漫の琵琶湖上にふさわしい景色に変えたに過ぎない。その程度が『春を代表する櫻花より、湖上にあってもっと朧朧として、春らしい』と言う視点を重視したのであろう。結果、唐崎の松は近景から遠景へと随分変容している。

○個人的な感情を言わせてもらえるなら、

  辛崎の松は花より朧にて

より、遙かに、

  辛崎の松は小町の身の朧

の方が表現として面白いし、凝っている。それに断然「近江八景」としての『唐崎の松』に相応しい。しかし、芭蕉が追い求めたのは、あくまで俳諧であって、美学ではない。『不明不暗朧朧』たる『辛崎の松』は、琵琶湖上にあって、『不暖不寒慢慢風』を受けて、『好天氣』の中、『春意深』きさまを見せている。「辛崎の松は小町の身の朧」と吟じたいのを我慢して、「辛崎の松は花より朧にて」と詠む芭蕉の心中は、なかなか複雑なものがあったに違いない。


https://blog.ebipop.com/2015/11/spring-basyo6.html 【辛崎の松は花より朧にて】より

「辛崎」は地名。

現在では唐崎と表示。

唐崎は滋賀県大津市の北西部に位置し、琵琶湖西岸にある。

近江八景

この地には、唐崎神社が鎮座している。

その境内にある「唐崎の松」は、景勝地で、近江八景のひとつ。

また、「滋賀の唐崎」は歌枕としても有名である。

辛崎(からさき)の松は花より朧(おぼろ)にて

松尾芭蕉

貞享二年三月上旬頃、芭蕉四十二歳のときの作。

「湖水の眺望」と前書きにある。

「野晒紀行」の旅の途中、大津での句。

芭蕉は、湖面越しに「辛崎の松」を眺めたのだろう。

湖面に突き出た岬の先端に、琵琶湖を臨むような形で背の高い「辛崎の松」が立っているので、周囲の湖岸から、この景勝地を見渡すことができる。

湖面に浮かぶ靄のせいで、湖岸に立っている松が朧に見える情景を句にしているようである。「花」とは桜のこと。

水面に映る桜は朧で風雅なものだが、ここ「辛崎の松」は桜よりも朧であるというイメージ。

「より」と「にて」

「花より」の「より」は格助詞としていろんな意味を持っている。

この「より」と「にて」の組み合わせで、この句はいろんな「見え方」をしている。

経由点を表す「より」+「にて」:有名な辛崎の松を見物するなら、咲いている桜を通して、松が朧に見える場所が良い。

原因を表す「より」+「にて」:辛崎の松は、桜の花が咲いたために朧になってしまっている。

比較を表す「より」+「にて」:辛崎の松は、桜よりも朧な様子で。

あるいは「にて」が、そのときの状態を表す格助詞であるなら、「辛崎の松を見物するなら桜の花よりももっと朧に見える状態のときが良い。」というイメージにもなる。

さまざまな朧

いずれにしても「にて」で止めることは、「であるからどうなのだろう」という余韻を残す。

その「どうなのだろう」というところで、様々なシーンが思い浮かんで朧なのである。

結局「辛崎の松」は、湖面の霞で朧なのか、桜のせいで朧なのか、どういうわけで桜よりも朧なのか、それは不明である。

もし、この句を「哉」で止めたなら、松を見る視点は限られてくる。

本来なら緑濃い松のほうが、桜よりもくっきりと際立って見えるのに、「辛崎の松」はその逆で、桜よりも朧に見える。

桜と松を比較して、松のほうが朧であるから面白いという視点。

しかも、松の朧加減を題材にした句を「にて」で止めて、句そのものを朧にしたところが、より面白い。