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Baby教室シオ

偉人『ダーウィンの父ロバートの子育て』

2021.02.12 00:00

今回は異例だが偉人の父、自然科学者チャールズ・ダーウィンを育てたロバートの親としての行動について取上げ考えてみる。なぜ彼を取上げるのか、それは親としてのやりすぎな一面と社会的立場のある人物としての先見の明と、何百年経とうと親としての思いは変わらない愛情の一面から学ぶべきものがあると感じたからである。

父ロバートはかなりの凄腕の医者でありながら、先見の明と決断力があり投資で富を増やした人物である。尚且つとても面倒見がよく地元の人々からは信望を集めていたとされる一方、ダーウィンの目には自分の意見を聞かずになんでも決めてしまう横柄な態度をとるワンマンな父と写っていた時代がある。がしかし後々それは親の愛情から来るものであったと考えを改め理解と厚い感謝を示しており、自分こそが兄弟の中で一番可愛がられたという自負もあったようだ。

手がかかる子、できが悪い子ほど可愛いと言う言葉があるようにどの時代も親として子供の将来を考えたときに気になる子には気持ちや思いが持っていかれるのだろう。

息子ダーウィンが劣等性として通った公立学校を退学させた父は、次に自らの病院で下積みをさせた後医学学校へ入学をさせた。しかし息子は麻酔のない手術情景に耐えられずその場から逃げ出し医学の道を断念した。

ロバートからすれば自分の居る場所に息子を導けば、生活の糧の見出し方も人生も苦労せずに歩めると考えてのことだろう。その気持ちはよく分かる。これは子供の将来が不安で仕方ない場合にどうにか安住の道へ子を導こうとする今世に見掛ける親のあるある行動だ。この行動は純粋に子供を案じる親の愛情に他ならないのだ。


その後ロバートは医学の道を断念した息子に何が重要で何に適しているのかを考えた。そして今度は英国教会の聖職者の道へ進ませたのである。当時の聖職者は良い家柄の出身者が多く、聖職の傍ら博物学の研究者が多くいた。父は息子の就職と趣味の一挙両得で安定した生活を得る人生があるのではないかとの考えに舵をきったのである。

息子はそれもいいかと父の進めに従いケンブリッジ大学の神学部に入学する。この時息子は牧師として田舎で働きながら、好きな博物学に没頭できると判断していた。しかしそこで出会ったのは神学を遥かに上回る植物学への関心だった。そう昔母が教えてくれた植物についてだ。彼の人生で最も大きな影響を与えた植物学者ジョン・へローズとの出会いで自然科学に目覚め学内でも評判となり、人生の進路を決めた大航海へのチャンスが巡ってきたのである。

ロバートは神学の道へ進んだ息子に安堵していたのもつかの間、そうやすやすと父の思いが実現することにはならず、ついにイギリス海軍の観測船に乗車する話が息子からもたらされた。

父は息子の話を聞き8つもの理由を挙げ反対の立場を示した。

計画が無謀であること、打診された博物学者全てが辞退したこと、待遇が悪すぎること、将来聖職者となったとき無謀な冒険に参加したことが悪評になるなどの論理的根拠ををあげた。がしかし父ロバートはさすがな人である。

父は自らの反対意見に対し意見を述べる良識のある人物が登場したら、航海を認めるという条件を息子に出した。またこのときにこの良識ある人物とは母方叔父のウエッジウッド2世であることを間接的に伝え、息子がそのことに気付き叔父に意見を求めたらその話の決着がつくことを織り込み済みだったのである。

息子ダーウィンもこれまでの父の言動から想像し父を説得するのは叔父しかいないと助けを求めた。叔父はダーウィンの話を聞き父ロバートへ静かなる説得を行った。

父はこうなることを予見し、息子とウエッジウッド2世が最終の説得に訪れた時には既に決断をし、笑顔で航海に出る許可を出したのである。

この時代飛行機で行くのとは違い、もしかすると生きて帰れる保障が限りなく低い時代である。説得され「はいそうですか」とはいかないはずだ。親としての不安はいかばかりか。

またこれまでの息子の生い立ちや個性をを考え、親として息子の博物学への好奇心の深さを理解し、反対はするが息子の生き方を尊重するロバートの覚悟と度量の大きさを感じずにはいられない。果たして私ならその決断を下せるだろうか・・・

彼は何を持って息子を送り出す決断にいたったのか・・・これは親の思いや感情ではなく『子供が幸せならそれでいい』という愛情しかない。無謀なことに挑もうとする子供の思いが真剣で揺るぎの無いものだと感じたときに親としてできる最善の策なのかもしれない。

息子ダーウィンが大航海からの帰国後、研究に没頭し学術的記録に熱中しその生活を支えたのも父であった。結婚し家庭を持つ健康上の理由から思うように働けずその家庭を支えたのも父である。

裕福の成せる業といえばそれまでだが、我が子の幸せを願う純粋な親心が無ければ名家で裕福であってもできることではない。またその親心の根底には打算的な考えは無く、子供の個性を見極め、親としての感情や立場をも捨てることができたことは同じ親として敬服すべき存在である。

真の親とは何であろうか。

いかなる状況下に於いても子供が子供らしく生きていくことを、その幸せを、子供の尺度で応援し、その子が自分の人生を歩んでいく幸せを願うだけの存在なのかもしれない。

そう考えると我が親は立派だったと思う。わがままを言った自分の行動を親に謝罪したくなる。そして感謝を込めて長寿を祈る。