Okinawa 沖縄 #2 Day 79 (07/02/21) 旧真壁村 (2) Maehira Hamlet 真栄平集落
旧真壁村 真栄平集落 (まえひら、メーデーラ)
- 松毛 (マツーモー)、松小堀 (マツーグムイ) ⓫ ⓭
- 前道 (メーミチ) ?
- 前の井泉 (メーンカー) ➌
- 前の井泉小 (メーンカーグヮー) ➍
- 祝女殿内 (ヌンドウンチ) 2⃣
- 村屋跡 (ムラヤー)
- 中道 (ナカミチ) ?
- 東の遊び庭 (アガリヌアシビマー) 1⃣
- 西の遊び庭 (イリヌアシビマー) 2⃣
- 真栄平公民館
- 大殿 (ウフトゥン) 5⃣
- 謝名 (ジャナ) の神屋、カミアサギ、祝女井泉 (ヌルガー) 3⃣ 4⃣ ❶
- 東井泉 (アガリガー) ❺
- 左風水 (ヒゲープンシ) 9⃣
- 右風水 (ニギリプンシ)、龕屋 (ガンヤー) 🔟
- 真栄平グスク (マエヒラグスク、メェダイラグスク)
- 宮里嶽 (ナーザトウダキ)
- 按司墓 (アジバカ)
- 謝名 (ジャナ) 腹門中の墓
- 地墓 (ジーバカ)
- 頭 (カシラ) 腹門中の墓
- 下茂 (スム) 腹門中の墓
- 地頭火の神 (ジトゥービヌカン)
- 大屋 (ウフヤ) 腹門中の墓
- 武士墓 (ブシバカ)
- ブリ原グスク
- 童墓 (ワラビバカ) [未訪問]
- 南北之塔
- 喜納井泉 (キナーガー) [2月10日 訪問]
旧真壁村 真栄平集落 (まえひら、メーデーラ)
真栄平集落は与座岳南麓の標高約75mから100mぐらいの緩傾斜面に位置し、南西方向に向けて造られている。字の北は先日訪れた新垣、西は真壁、南は宇江城、東は八重瀬町の仲座に接している。真栄平 (まえひら、メーデーラ) とは集落の前が開けて平坦な地形であることから来ているそうで、ほとんどが農地で、集落から東部は自衛隊南与座分屯地とゴルフ場がかなりの敷地を占めている。
集落には幾つかの沖縄赤瓦の平屋の民家が残っている。
旧真壁村の人口の情報に関しては糸満市のホームページには2001年からの分しか掲載されてらず、それ以前の人口のデータは色々な資料から集めたのだが集計の基準がそれぞれで異なっているようだ。実際に集落に住んでいる人数のものや、県外屋移民の数まで足したもので比較は正確ではない。下のグラフも2001年になって人口が40%も減少している。この数字は少し疑わしい。マクロ的に考えると明治時代以降は緩やかに自然増が続き、沖縄戦で減少、本土復帰以降増加するといった沖縄の集落人口の共通の傾向があっただろう。本土復帰以降人口が増えたことは確かだろう。その背景について説明しているものはないのだが、一つ考えられるのは与座岳には多くの自衛隊駐屯地ができの宿舎が建設され急激に人口が増えていることも考えられる。その後は人口は緩やかに減少しており、現在の人口は明治時代のレベルと変わらない程だ。これは旧真壁村、旧摩文仁村、旧喜屋武村の三和地区共通の課題だ。
真栄平集落は旧真壁村では真壁集落に次いで常に二番目に大きな集落だ。
旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の真栄平集落の文化財
今日は旧真壁村にあった真栄平集落を訪れる。国場から那覇糸満線沿いを走り、奥武山米須線を通り、大里村から先日訪れた旧真壁村の新垣集落を通り真栄里集落の西側に入る。
松毛 (マツーモー)、松小堀 (マツーグムイ) ⓫ ⓭
標高80-90mにある新垣集落から、少し下りになる。先に集落が見えてきた。
集落南西側に松毛 (マツーモー) と呼ばれた丘があったそうだ。フンシモー (風水モー) だといわれていたが、現在はほとんどが平坦な農地となって丘は姿を消している。戦前まで松木が生い茂っていたのでこの名が付いたという。十五夜 (ジューグャー) の綱引きの御願で拝み、棒術も披露されたというので、拝所などがあるかと探してみたが見当たらない。資料にも拝所があるとは書かれていないので、ないのかもしれない。この松毛 (マツーモー) の側に明治30年代に造られた農業用水池の松小堀 (マツーグムイ) があり、綱引きの御願ではマツーモーと一緒に拝むとある。この松小堀 (マツーグムイ) は残っている。比較的大きな溜池だ。この池の周りに拝所があるか探したが、見当たらなかった。この近辺に松毛があったのだろう。松小堀 (マツーグムイ) の場所に農地改良の記念碑が建っている。この場所は集落の西の端でこれより南はほとんどが農地になっている。サトウキビ畑もあるが、野菜畑が多いように思えた。
前道 (メーミチ) ?
松毛 (マツーモー) から道を進むと大通りがあり北側は民家、南側は農地にはっきりと分かれている。集落の前にあるので、多分この道はかつての前道 (メーミチ) だったと思う。この道の集落の西端と東端は綺麗に花壇が手入れされていた。この道路で十五夜 (旧暦7月15日) には綱引き、ガ-エー、棒術などが行われている。昨年は新型コロナの影響で中止になった。今年は行うのだろうか?現在は4年に一度の開催になっているので、去年の催しが今年二延期になるのか、次回2024年になるのだろうか?
前の井泉 (メーンカー) ➌
前道 (メーミチ ?) の南側の農地にある文化財から見ていく。簡易水道 (昭和30年代と思う) ができる前は集落住民の生活用水として使われたほか、真栄平全体のンブガー (産井) だったというので、正月の若水、赤ん坊が生まれたときの産湯に汲まれていたのだろう。また死者を清める湯灌のための水もここから汲んだという。周囲を石積みで囲った比較的規模の大きな貯水池が造られている。
前の井泉小 (メーンカーグヮー) ➍
前の井泉 (メーンカー) の西側にミーガー (新井泉) とも前の井泉小 (メーンカーグヮー) と呼ばれる井戸がかつてあったそうだ。前の井泉"小 (グヮー)" と呼ばれているので前の井泉 (メーンカー) の音音分のような小さな井戸だったのだろう。井戸があった所はは埋められ、真栄平バス停前の畑の一角の井戸跡地に小さな祠が建てられ祀られている。この場所にはかつては二つのサーターヤ―があったとなっている。
祝女殿内 (ヌンドウンチ) 2⃣
畑の一画にコンクリート造りの祠があり、内部が2つに仕切られ、それぞれ3個の石や香炉が置かれている。このうちいずれかは「琉球国由来記」の「真栄平巫火神」にあたるものだと考えられている。この場所は真栄平ヌル (ノロ、祝女) の住居であった場所だそうだ。真栄平ヌルは真栄平、新垣、真壁集落を管轄していた。真壁にもヌルはいたので、何か分担があったのかもしれない。新垣には首里王府から任命されたヌルがいたのかどうかはよくわからない、ある時期のヌルの管轄リストでは新垣ヌルは載っていないのだが、新垣集落にもヌル殿内ン拝所があり、その他の資料でも新垣ヌルが登場しているので、時期によってか、正式任命ではなくてもヌルはいたのかもしれない。このヌルについてはまだまだ勉強不足で知らないことのほうが多い。少し気になるのは、なぜヌル殿内が集落の外にあったのだろう。拝所は集落の北の丘陵の高いところにある。多くのケースでヌル殿内は聖域である拝所群の近く集落の北側にあるのだが、集落の外にあるのは珍しい。何か事情があったのだろうか? この一帯はかつてはサトウキビ畑になっており、祝女殿内 (ヌンドウンチ) がある周りはサーターヤー が10もあったそうだ。先ほど訪れた前の井泉小の近くにあった二つも含めると12ものサーターヤーがある。当時の人口は800人程なので、各家がそれぞれサーターヤーを持っていたように思える。多くん集落では、各家のサーターヤーを合わせて、効率化や機械化を進めたのだが、この集落ではどうだったのだろう?
次は集落内にある文化財を巡る。
村屋跡 (ムラヤー)
集落のほぼ中心に村屋があった、現在は空き地になっている。村屋であったという名残を見つけた。この一角に戦後時の鐘として使われた酸素ボンベが吊るされていた。
中道 (ナカミチ) ?
旧村屋跡の南北の道路は少し幅が広くなっている。多分、この道は中道だったのではないだろうか?この道を境にして東村渠 (アガリンダカリ) と西村渠 (イリーンダカリ) で組を作り、綱引きで競っていたそうだ。
集落内の道路はこの中道よりも狭く、車が一台通れるぐらいの幅でそれが東西南北に綺麗に区画整理されている。その道路の所々に、地図では載っていないのだが、南北方向に人が一人通れるぐらいのかなり狭い路地がいくつもある。
東の遊び庭 (アガリヌアシビマー) 1⃣
村屋跡の目の東西に走る道の東と西にそれぞれの渠の遊び庭 (アシビマー) がある。こちらはアガリンダカリ側 (東村渠、集落東の地域) の人たちがチナウチ (綱作り) をする場所だ。他の集落の遊び庭 (アシビナー) とは少し異なる。他の集落では十五夜などで若い男女が踊りなどをする出会いの場所で広場になっているが、この真栄平では単に道が交差する辻のこと。この場所に住んでいるおばあがチナウチ (綱作り) について強い沖縄訛りで説明してくれた。鉛が強く理解するのが難しかったのだが、道の脇の植え込みにイシバーヤ (石柱) に藁をひっかけてだんだんと長く綱引きの綱を編んでいくと言っている様だった。
西の遊び庭 (イリヌアシビマー) 2⃣
道の西側にもイリーンダカリ (西村渠、集落西 側の地域) の人たちがチナウチをする場所がある。こちらも広場ではなく単なる道が交差する辻だ。
真栄平公民館
村屋跡 (ムラヤー) から中道 (ナカミチ) ?を北側に上ると新しい公民館が建っている。比較的新しい建物だ。数年ほど前に建てられたように思える。公民館の裏手はグラウンドになっている。この公民館は集落の北にあり、この一帯は集落の聖域で拝所地区だった。多くの拝所がこの近辺に点在していた。
大殿 (ウフトゥン) 5⃣
集落の聖域に点在していた数々の拝所はこの大殿 (ウフトゥン) に集められている。大殿の御嶽 (ウフトゥンヌウタキ) をはじめ、謝名之殿 (ジャナヌトゥン) や大屋之殿 (ウフヤヌトゥン)、各門中の殿 (トゥン) など複数の拝所や遥拝所があり、古くから重要な聖地だった。いつ頃、各拝所がここに集められたのかは分からなかったが、拝所の聖域は綺麗に整地がなされて、真栄平公民館とグラウンドや広場になっているので、その時なのかもしれない。
大殿の奥の方にもまだまだ拝所群がある。
大殿の隣の広場にも一つだけだが、拝所があった。
謝名 (ジャナ) の神屋、カミアサギ、祝女井泉 (ヌルガー) 3⃣ 4⃣ ❶
公民館と大殿 (ウフトゥン) の間には、真栄平の草分け筋の家だといわれる謝名の神屋 (写真中) があり、神屋の中にはヒヌカンと神棚に数々の香炉が置かれている。ムラ行事で拝まれている。謝名の屋敷内、神屋に向かって右には、ムラガミ (村神) ともハタジョー (旗場) ともいわれるカミアサギ (写真下) があり、中には香炉があり何かが祀られている。その側にはジューグャー (十五夜) 行事で使う旗頭の骨組みや竿などが保管されていた。ハタジョー (旗場) とも呼ばれているので、昔から旗頭などの保管場所になっていたのだろう。
この謝名の屋敷内には、チーガーとも呼ばれる祝女井泉 (ヌルガー) があり、かっては5月のアガリカタウマーイ (東方御廻り) に巡拝するカー (井泉) で水を汲み、このヌルガーに注いだという。
東井泉 (アガリガー) ❺
集落の東の端に大きな井戸がある。アガリ (東) にあることからアガリガーと呼ばれる。水量豊かなカーで、水質も良く、集落の飲用水源として使われてた。現在も字の簡易水道の水源となっているそうで、井戸には給水パイプがひかれ、施錠され中には入れないのだが、そこには管理小屋もあった。
左風水 (ヒゲープンシ) 9⃣
東井泉 (アガリガー) の近く、前道 (メーミチ ?) 沿い東村渠 (アガリンダカリ) 側にムラをヤナカジ (悪い風。悪病を運んだり、火事を起こしたりする邪気の意) から守るために設けられた拝所がある。左風水 (ヒゲープンシ) で、大岩の下にあるのでウフヤマ (大山) とも呼ばれている。大岩の下部に香炉が三つ置かれていた。この集落では村を守るために石獅子ではなく風水 (プンシ) が置かれている。沖縄で風水が入ってきたのは14世紀頃で、石獅子が造られ始めたのは17世紀といわれている。石獅子がヒケーシとして村の守りとして置かれる前は、この真栄平村のように、風水 (プンシ) の拝所が置かれていたのだろうか?
右風水 (ニギリプンシ)、龕屋 (ガンヤー) 🔟
西村渠 (イリーンダカリ) 側にも左風水 (ヒゲープンシ) と対をなすものがある。集落の北西の外れ、龕屋 (ガンヤー) の前にあり、フカマヤシキ (外間屋敷) とも呼ばれる小さな丘の一角を拝むと書かれていた。龕屋 (ガンヤー) はすぐにわかったのだが、その前あたりに拝所があるかと探すが、祠や香炉などは見つからなかった。
真栄平グスク (マエヒラグスク、メェダイラグスク)
真栄平集落の北東、後原と呼ばれる石灰岩丘陵に位置するグスクで、グスクとしての城郭遺構は見当たらず、拝所や古墓等があり聖域的な性格をもつグスクと考えられている。
宮里嶽 (ナーザトウダキ)
真栄平グスクへは階段があり、そこを上ると広場になっており、宮里嶽 (ナーザトウダキ) がある。琉球国由来記や球陽にも記述がある拝所で、真栄平最高の聖地とされて真栄平集落の守護神が祀られている。イビ、イビヤマとも呼ばれ、祠にはビジュンガナシーという霊石が祀られている。
祠の裏手には2基の墓があり、向かって左の墓は首里のクンダグスク (腓城) から移した尚徳王の世子や妃など3柱の遺骨が納められていると伝わる。
第一尚氏王統最後の王である第七代尚徳王が1469年に29歳で薨去した (尚円に殺害されたとの説もある) 後に起こった金丸 (後の第二尚氏初代尚円王) のクデーターの際に、尚徳王の世子は殺害されされ首里グスクの崖下 (腓城 クンダグスク) に捨てられたという。後に首里の士族に奉公していた真栄平の男の人が、仕事上で罪に問われ、殺害された世子の墓所に詣でたところ、霊験があって罪が許されたという。この男は粗末に扱われていた墓所から密かに遺骨を持ち出し、 郷里の「宮里御嶽」に持ち帰り手厚く葬ったと伝わっている。更に伝承では遺骨を持ち帰る際にクンダ (腓・こむら・ふくらはぎ) の骨だけを残してしまったので、クンダだけが埋葬されている墓であることから、クンダグスクの名で呼ばれるようになったという。この宮里御嶽には、今でも、その男の子孫である門中の参詣が続いているそうだ。尚徳王の墓の成り立ちについてもこれと同じような言い伝えがある。那覇の識名に尚徳王の墓がある。
按司墓 (アジバカ)
真栄平集落の国元 (クニムトゥ) の謝名の祖先とされる按司の墓だといわれている拝所が真栄平グスクのある丘の斜面の崖にある。崖の岩陰を利用した古墓で、3つの墓口がある。
謝名 (ジャナ) 腹門中の墓
この按司墓 (アジバカ) の近くに、ここに葬られている人を祖先としている謝名門中のトーシー (当世) がある。亀甲墓で造られている。
地墓 (ジーバカ)
按司墓 (アジバカ) のすぐ側、宮里嶽 (ナーザトウダキ) の南麓にあり、古い時代のムラ墓だと考えられているが、ムラの地組 (設計) をした役人の墓だという伝承もある。ジーワイバカ (地割墓) とも呼ばれる。
頭 (カシラ) 腹門中の墓
この真栄平グスクの南麓には幾つかの墓があり、その一つに頭 (カシラ) 腹門中の亀甲墓があり、そこにはその祖に関しての説明があった。それによると尚徳王の五男の与那城王子だという。宮里嶽 (ナーザトウダキ) の裏にある墓は尚徳王の世子というから尚志義 (中和、佐敷王子) だろう。そうすると頭腹門中の祖の与那城王子とは兄弟になる。尚志義の遺骨を持ち帰った男とこの与那城王子とはどのような関係なのだろう?与那城王子とこの男は同一人物ではないだろうか? 第二尚氏の時代には公には兄の遺骨を持ち帰ったとは言えず、伝承のような話となったのかもしれない。
この祖先の古墓がトーシー (当世) の上にある。 (写真左下) そこにも説明板があり、ここに納められている与那城王子の妻がこの隣にある謝名門中の人という。謝名門中と頭門中とは古い親戚関係になる。
下茂 (スム) 腹門中の墓
ついこの間に糸満市の山巓毛に下茂 (スム) 腹・茂太 (ムテー) 腹墓を見たことを覚えていた。この糸満の下茂 (スム) 腹は南山王他魯毎の子孫という伝承がある。この真栄平の下茂 (スム) 腹とは関係があるのだろうか? (資料を調べたがわからなかった)
地頭火の神 (ジトゥービヌカン)
宮里嶽 (ナーザトウダキ) から集落へ下る道沿いの畑の一角に地頭火の神 (ジトゥービヌカン) があるとガイドブックには書かれていたので探したが、祠や香炉らしきものを見つけることができなかった。石が積み上げられたところにブロックが置かれている場所があった。沖縄の拝所では、よくこのブロックを香炉の代用としているのでここかもしれない。この地頭火の神 (ジトゥービヌカン) は、琉球王朝時代に首里から来た役人が拝んでいたという。
大屋 (ウフヤ) 腹門中の墓
真栄平グスク、宮里嶽 (ナーザトウダキ) の道路を挟んだところにもう一つ門中墓がある。この墓も亀甲墓だ。トーシーの上には先祖を祀ったフィンチャー形式の按司墓 (アジバカ) もあった。次に武士墓 (ブシバカ) 見たいのだが、地図では場所がはっきりとは書かれておらず、解説ではこの大屋腹門中墓の奥の雑木林にあるとだけだ。そこでこの場所にいた男性に聞いてみた。この大屋腹の人で、すぐに教えてくれた。この男性は自分の大屋の成り立ちや集落にある墓など文化財に興味があるという。今は七つ墓を探しているという。詳しくは聞かなかったのだが、今までも幾つかの集落で七つ墓があった。集落の始まりの時代の有力門中の七つの祖先を祀った古い合同墓だ。探しているということは何らかの言い伝えがあるのだろう。いつか見つ刈ることを期待している。この男性が調べているという大屋腹門中は幾つかの集落にいる。すべてが関係しているのかは分からないが、那覇の小禄、具志頭の港川、南風原の兼城、豊見城の真玉橋などで見かけた。
武士墓 (ブシバカ)
大屋の男性に聞いた道を行く。男性によれば十五夜の時にはきれいに草がかられているのだが、今は草が生え放題で中にはいれるかどうかと言っていた。ハブに気を付けるようにと言われた。ここ一年間はグスクや御嶽巡りでほとんどの場合、雑木林に入っていくのだが、今までのところ幸いにハブには遭遇していない。しかし、気を付けるにこしたことない。確かに草が腰のあたりまで伸びており、それをかき分けて先に進む、中の方は道があり、その沖の岩に掘られた墓があった。この墓は、大昔の戦いで真栄平を助けた武士が葬られているといわれる古墓。この人は優れた武人で死後も真栄平の人々を守っているという。この武士がどこから来たのか、いつの時代かは書かれていない。この真栄平の歴史について書かれているものは見つからないのだが、三山時代は南山国に属し、南山王の汪応祖を攻め落とした八重瀬按司であった達勃期の勢力下にあったと思われる。一時期南山国を勢力下におさめた達勃期の死後は、達勃期の後を継いだ摩文仁按司 (上里按司との説もある) に側につき、他魯毎との戦いで敗れた。この戦いには今帰仁から援軍が来ていた。ひょっとするとこの武士墓は今帰仁からの武士でこの時の戦いのときかもしれない。
ブリ原グスク
真栄平集落の東側標高約100mの石灰岩丘陵にはもう一つグスクがある。ブリ原グスクと呼ばれている。築城時期や築城者も不明とあり、これ以上の詳細情報は無いようだ。グスク内には拝所がある。これ以外にも拝所があるようだが、雑木林が深くこれ以上中に入るのは断念した。
童墓 (ワラビバカ) [未訪問]
資料ではこのブリ原グスクの場所に童墓 (ワラビバカ) があるとあるが、写真は掲載されていないので、探したがそれらしきものは見当たらない。グスクの雑木林の中にでもあるのだろうか?童墓 (ワラビバカ) は数え6歳以下の乳幼児が亡くなった際、門中墓に入れる前に仮に葬ったムラの共同墓地で、ワラビグワーウクイ (童グワー送り) とも呼ぶ。現在は使用していないが、マサバタキという名の字有地として残っているそうだ。
南北之塔
ブリ原グスクの前の畑の中に沖縄戦での慰霊碑が建っている。沖縄戦では与座岳を制圧した米軍は真栄平に迫り、この真栄平も激戦地となった。
この真栄平住民の犠牲者は他の地域に比べかなり多く、三分の二近くにもなっている。新垣集落で起こった悲劇と同じように、この洞窟には住民約300名が避難していたが、首里の陥落後、南に移動してきた第24師団が陣地壕として使用するとして、住民は壕から出ることを強要された、住民の懇願の拒否され、ついには追い出され、行く場所もなく戦火の真っただ中をさまよい多くの人が犠牲になっている。
戦後1946年に、真栄平では、屋敷内や道路、田畑、山野に散在していた身元不明の遺骨数千体を住民が収集し、集落後方のアバタガマに納め、このガマを真栄平納骨堂と呼んでいた。1966年 (昭和41年) には寄付金によりこの場所に南北之塔を建立した。南北之塔の周りにはいくつもの慰霊碑が個別に建てられている。この地で亡くなった兵士の遺族が建てたのだろう。
喜納井泉 (キナーガー) [2月10日 訪問]
2月10日に宇江城集落を訪問した後の帰り道で偶然見かけた井戸。後で調べると、真栄平集落訪問時に見落としていた井戸だった。真栄平集落から新垣集落への道の途中に井戸があり、とムラでもっとも古い井泉だとされ、飲料水や生活用水として使われたといわれている。今でも水が農地の水路に流れていた。集落西側の地域の西村渠 (イリーンダカリ) の産井泉 (ンプガー) だそうだ。
これで真栄平集落の文化財巡りは終了。帰路に着くが、帰り道に先週訪れた八重瀬公園がある。その時はまだ桜が6分咲き、ぐらいだったが、情報では満開になっているとあったので、もう一度寄ってみた。今日は日曜日なので、多くの人がこの公園に来ていた。桜の方は満開とまでにはなっていないように見えるのだが、これで満開なのだろうか? 本土と比べれば少し見劣りがするのだが、それでもやはり桜は春を感じさせてくれるので、これでも十分にきれいだった。
参考文献
- 旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 戦時資料 (2013 糸満市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化センター)
- 尚巴志伝 (酔雲)