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Okinawa 沖縄 #2 Day 80 (10/02/21) 旧真壁村 (3) Uegusuku Hamlet 宇江城集落

2021.02.11 02:23

旧真壁村 宇江城集落 (うえぐすく、東江 アガリ―)

旧真壁村 宇江城集落 (うえぐすく、東江 アガリ―)


行政名は字宇江城だが地元では旧名で東江と呼ぶことが多い。東西に長い字で集落は北西部に位置し、東部には琉球石灰岩の鉱山が複数ある。現在の集落の南側の南原にかっての集落 (古島) があったといわれている。

人口については、元々少ない字であったが、ほとんど増えることなく、明治時代と同じ人口が続いている。一方世帯数は2倍に増えている。いい世帯当たりの人数がかなり低い。世帯当たり人数は1.9人になっている。昔からの集落があった地域は更に深刻な状況であることが推測できる。世帯数が多くはなってはいるが、核家族化が進んで、集落内は一人暮らしの老人が増えているのかも知れない。糸満市の中でも三和地区 (旧真壁村、旧喜屋武村、旧摩文仁村) は同じ問題を抱えている。

字宇江城は旧真壁村の中では二番目に人口の少ない小字になっている。三和地区に共通の問題は公営住宅が少ないという点。世帯数の90%が持ち家で、僅か6%が公営もしくは民間アパート住まい。民間の住宅業者も沖縄共通の先祖の土地は売らないといったこともあり用地の確保が難しい状況。この中で若者の流出が加速し、過疎化が一層進んでいる。三和地区内で65歳以上がいる世帯数は60%近くあり、糸満市平均の33%を大きく超えている状況だ。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の宇江城集落の文化財

集落内には文化財はあまりなく、古島があった南原に散らばっている。


文化財訪問ログ


出発し、アパートの近くの川沿いに桜が咲いている。本土のような川沿いに桜並木が永遠と続くような場所はないのだが、これぐらいの小規模の桜並木もそれほど多くないようだ。沖縄の桜は色が濃いように思える。本土の桜のように種類も多くないようで、淡いピンク色の桜はあまり見かけない。


先日訪れた真栄平集落から南への道に入る。宇江城はすぐのところにある小さな集落だ。真栄平集落に近い場所から文化財を見ていく。


神井泉 (カミガー)

真栄平集落から西南に道を下った所、集落の境界線のところに井戸跡がある。神井泉 (カミガー) と呼ばれている。今は水はなく、小さな祠の拝所がありそこに形式保存されている。正月のハチウガミ (初拝み) などで拝まれている。


西之井泉 (イリーンカー)

神井泉 (カミガー) の前のあぜ道を進んだすぐ近くにはもう一つ井戸があり、集落北西部の人々が生活用水として使った水量豊かなカーで、周囲の住民のンブガー (産井泉) だったといわれている。地図で示された場所がここで、水があるようだが、草木で深く覆われて、井戸の形は全く分からない。


カッチン

神井泉 (カミガー) から集落の北の端に当たる道を少し進むと拝所がある。雑木林の中にあり、草や枝を払いながら中に入ると祠が建っていた。この祠は伝説の超人であるアガリープシ (東江武士) を祀っている。かつてはウィーサマドー付近にあったが、火事などよくないことが続いたため現在地に移された。アガリープシ (東江武士) は宇江城集落に伝わる伝説に登場する人物で「東江武士と呼ばれる。このアガリープシ (東江武士) は怪力な上に武芸や忍術に優れ、体が小さくなったり大きくなったり、また子供の顔になったり老人の顔になったりしたという。薩摩から来た相良一郎という武士との対決では、アガリークラガー(東江暗井泉)に追い込み倒したと伝わっている。アガリー (東江) はこの宇江城集落を地元の人が読んでいる名称なので、アガリープシ (東江武士) はこの集落の人だったことが想像できる。この拝所がカッチンと呼ぶのはなぜだろうか?カッチンとは勝連の事を指しているところがある。勝連と関連はあるのだろうか?


ヌン殿内のアサギ

カッチンの道を更に進むと代々ノロを輩出していたヌン殿内のアサギがあるのだが、現在の人が住んでいる民家の敷地内にある。アサギは門を入った右にあるのだが、中に入って見学は失礼なので、道路からの写真にとどめた。現在ウマチーはムラ行事として行われていないが、ヌン殿内がおかゆを供えて拝んでいる。


後風水 (クシブンシ)

ヌン殿内のアサギの前の道を進み、途中に真栄平集落へ通じる道があるのだが、その道に後風水 (クシブンシ) という拝所がある。集落の境界に置かれ、疫病や災害を防ぐ魔除けとしての風水 (フンシ) で、「後」とあるのでここは集落の奥と考えられていたのだろう。


左風水 (ヒザイブンシ) [未訪問]

後風水 (クシブンシ) から集落の道に戻り、集落の一番外側にある道を東南に行き集落の東の端に別の風水 (フンシ) があると書かれていたが、草が生い茂っておりどこに拝所があるか、探すも結局見つからなかった。与座岳を背にして南を向いたときに、左手にあたるので左風水 (ヒザイブンシ) と呼ばれ、村を守る拝所だ。


西リ殿内のアサギ

国元だといわれている屋号 西リ殿内の屋敷の一角にある神屋で、かっては首里など、遠方から拝みに来る人もいたという。現在も人が住んでいるので、道路から撮影。


村屋後 (ムラヤー、宇江城公民館)

集落のほぼ中心部に村屋 (ムラヤー) 跡があり、現在は宇江城公民館が建っている。

集落は小さく、戸数も少ない。その中で何件かは沖縄伝統の赤瓦の平屋がある。


アブガマ、サマドー、ムヤギ [未訪問]

集落のほぼ東南の端に二つの文化財が紹介されていたので、現場に行き探すが、ここも草木が生い茂っている。、思い切って中まで入ったのだが、探し当てることができなかった。ガイドブックでは、ガマ、拝所、墓があると書かれているのだが、それらしきものは見当たらない。インターネットで探すが、唯一アブガマが現存するとだけあり、実際にそこに行った記事は見つからなかった。ガイドブックでも写真も掲載されておらず。確かめようがない。地元の住民に聞かないとわからないだろうが、この後ある文化財を探して、畑で働いている人に聞くも知らないという。この宇江城集落では、村で行う祭祀行事は他の集落に比べ、非常に少なく、おじい、おばあしかわからないだろう。アブガマは自然壕で、この後行くクラガーと地下水で繋がっているそうだ。沖縄戦では住民の避難壕として使用されていた。地サマドーはアブガマ洞穴の出人り口付近に拝所になっており、上下に分かれ、それぞれウィーサマドー、シチャサマドーと呼ばれていると書かれていた。サマドーのすぐ側にあるムヤギは、かつて乳幼児が亡くなった時に仮に葬むるワラビグワーウクイ (童グワー送り、竃墓) だそうだ。


拝所

ガイドブックには掲載されていないのだが、集落の空き地に拝所がある。(この集落でも、空き地や空き家が多くあった。) 中には火の神が祀られ幾つかの香炉がある。典型的な神屋の形式だ。村の拝所ではなく、おそらくこの地に住んでいた家が何らかの理由で絶えたか、移動したかで、元々住んでいた場所に神屋として建てているのではないだろうか


サータヤー跡

宇江城集落にはサーターヤーが二つあったそうだ。明治時代、沖縄戦前後では30世帯の小さな集落だったので、他の集落に比べて数は少ない。それぞれが集落の東と西の端にあった。現在は両方とも公園になっているのだが、草も伸び放題であまり利用されていないようだ。

東のサーターヤーは先ほど見つからなかったサマドー、ムヤギの近くにある。

西のサーターヤーは集落から山雨の塔や宇江城グスクに向かう道路沿いにある。


山雨の塔

集落内の文化財は見終わり、集落の西のサーターヤーから南の方に移動する。道端に慰霊塔がある。山雨の塔と呼ばれている。沖縄戦に於いて、ここで「山部隊」と呼ばれた旧日本軍第24師団の雨宮巽中将以下幕僚が、昭和20年 (1945年) 6月28日に潜んでいた東江暗井泉 (アガリークラガー) の陣地壕が米軍の馬乗り攻撃をかけられ退路を断たれ、30日に歩兵第89連隊や22連隊の連隊旗を奉焼し、青酸カリや手榴弾で最期を遂げている。遺体は壕に放置されていたが、数年もたった昭和27年 (1952年) に師団兵士の生き残りの兵士によって、発掘され、遺骨を遺族の元に送ったそうだ。その時に「雨宮中将戦没の跡」の木柱を慰霊碑として建てていた。その後、昭和37年 (1962年) に沖縄遺族連合会沖縄協会により、現在の塔に改修され、山部隊の「山」と雨宮巽中将の「雨」をとり、山雨の塔と命名し、500柱が慰霊されている。この慰霊塔は旧軍関係者によって建てられたもので、地元住民が建てた慰霊塔ではない。沖縄の慰霊塔には大きく分けて2種類ある。旧日本軍の奮闘に敬意を表したものと、平和を祈願する地元住民が建てたものだ。この第24師団が使っていた陣地壕は元々はここの宇江城住民の井戸で、避難壕でもあったが、住民を追い出し,食糧を強奪,更には住民を虐殺という証言も残っている。

この宇江城集落では、総世帯数の3分の一が一家全滅で、犠牲者は集落住民の半数にまで及んでいる。新垣、真栄平と同じように、住民は避難していたガマから追い出され、戦野をさまよわなければならなかった。特に陣地があった地域への攻撃はすさまじく大きな犠牲となった。生き残った住民はこの慰霊碑をどの様な心境で見つめていたのだろう?


東江暗井泉 (アガリークラガー)

山雨の塔の下に第24師団が使用していた壕がある。壕の入り口は湧泉となっていて、宇江城集落住民の生活用水だった。東江暗井泉 (アガリークラガー) または前之井泉 (メーンカー ) と呼ばれ、産井 (ンブガー) でもあった。この井泉があったために、集落が南原の古島から現在の場所に下りてきたと伝わっている。この井泉の奥はガマになっており、全長約400mにも及ぶ。この集落には多くのガマが地下にあり繋がっており、そこには水が流れていた。先ほど訪れた神井泉 (カミガー)、西之井泉 (イリーンカー) ともつながっていたそうだ。


宇江城馬場 (ウエグスクウマウィー)

集落から南に外れた農地の中に、かつてのンマウィー (馬追い) またはンマバ (馬場) がある。宇江城馬場は近隣集落の馬場の中では群を抜いて大規模で形も整っており、真壁村の運動会やハルスープ (原勝負 = 琉球王朝時代からの農業でのコンテスト) なども行われた。現在は大部分が畑となっているが、一部は農道として形跡を残している。


宇江城グスク

宇江城馬場 (ウエグスクウマウィー) の南側に丘が広がっている。ここが宇江城グスク”の森で、沖縄のキジムナー伝説発祥の地だそうだ。遺老説伝にかかれてある言い伝えでは、人間に化けた桑の精と仲良くなったサミドゥン(鮫殿)という男がその正体を知って住処である桑の老木を切り倒したため男の友人に化けた桑の精に報復を受け死んでいった。とある。桑の精がキジムナーというわけだ。グスクの遺構は残っていない、沖縄戦では木々はほとんど焼き払われハゲ山の様だたという。グスクのある丘を登った北側に入り口があり、入ると小さな広場がありそこに拝所がある。しかしそれ以上は木々が深く侵入を拒んでいる。


大殿 (ウフトウン)

宇江城グスクの入り口広場にある拝所で、プロックの祠と複数の香炉が並んでいる。戦前のウマチーはここで行われており、白い着物を着て勾玉を佩いたノロ を馬に乗せてここまで引いてきたという。宇江城集落には東江ノロが存在し、宇江城以外にも真壁での祭祀も手伝っていたようだ。


城井泉 (グシクカー)

宇江城グスクのウフトウンの正面に向かって左手にあるカー跡があり、城泉川と刻まれたコンクリートの標柱が建てられていると書かれていたが、見当たらない、周りは木々で覆われている。その中に入ると標柱があった。回りの草木をむしり取って初心を撮った。現在水は湧いていないと書かれていたので、実際にここにあったのだろう。ノロなど神人 (カミンチュ) が祭祀の前に身を清める井戸だったのだろう。


名幸腹門中の墓

これも宇江城集落の名幸腹門中の墓。


仲間腹門中の墓

宇江城グスクのある丘の斜面、特に北側には幾つかの門中の墓がある。(丘を登った南側は平地になって畑が広がっている。丘の斜面がないので門中墓は見当たらない) これも宇江城集落の仲間腹門中の墓。墓の周りには遙拝所がいくつかある。コンクリートに釘で何を遙拝するのかが書かれている。多くはこの宇江城集落にある拝所だ。宇江城集落の拝所は集落内にはあまりなく古島やグスクがある南原に多くあり少し距離がある。それで先祖の墓をお参りに来たこの場所からお通し (遙拝) していたのかもしれない。


温氏の墓

仲間腹門中の墓の奥に古墓がある。首里王府から宇江城へ派遣された役人を祀った墓だといわれている。戦前まで、首里からきれいな着物を着た子孫の一族が毎年墓参りに訪れたという話がある。


その他墓群

この付近には更に幾つかの古墓がある。ガイドブックには真壁集落の門原腹、真栄平集落の城間腹、新川小腹、宇江城集落の安谷屋腹、百佐腹、新大家腹の門中墓が記載されている。確かに幾つかの墓が集中している。写真もなく、墓には表示されて門中の名前も表示されていないのでどれがどの門中の墓なのかは不明。


黄金森 (クガニムイ) の拝所 [未訪問]

宇江城グスクの南側は南原という小字で畑が広がっている。ガイドブックには畑の中に琉球石灰岩のプリ (岩) があり、その周辺一帯がクガニムイと呼ばれており、ブリ (岩) を背にして2つの拝所があると紹介されている。ブリ (岩) を探すが、多分草木で覆われているのだろう、居当たらない。それらしき場所に草木をかき分けて探すも、結局見つけることはできなかった。


田尻ガマ (タージリガマ)

黄金森 (クガニムイ) の拝所があった畑の場所は、字宇江城と字真壁の境界にあたる。黄金森 (クガニムイ) の南側に沖縄戦当時は日本軍に使用されたガマ (洞穴) があるいう。そこは字真壁なのだが、宇江城集落の百佐腹門中から出たノロを祀った墓の跡だともいわれている拝所だそうだ。その場所の詳しい地図はなく大体の場所を検討をつけて探す。前の林がポツンとある。多分そこだろう。畑の中にこのように林が残っているところは、それなりの理由があって畑にしていない。入り口らしきものはないので強引に中にはいると広場になっている空間が現れる。ここに間違いない。広場の奥にガマがあった、香炉などは見当たらなかったが、このガマをノロの墓として使っていたのだろう。


新大屋の殿 (ミーウフヤヌトウン)

小字南原の畑を字宇江城に戻り南東に進むと、畑の中に耕作されていない一画にコンクリート製の拝所がある。新大屋腹の殿で、中の殿 (ナカントゥン) とも呼ばれる。


ヌン殿内の殿 (ヌンドウンチヌトゥン)

新大屋の殿 (ミーウフヤヌトウン) の奥に大きなガジュマルの気があり、その根元にも同じような拝所がある。ヌン殿内腹が拝む拝所で、単にヌン殿内とも呼ばれている。現在はプロック造りの祠だが、戦前は瓦葺きの建物だったという。


西リの殿 (イリーヌトゥン)

新大屋の殿とヌン殿内の殿の南側にもう一つコンクリート製の拝所があり、宇江城集落の国元 (クニムトゥ) である西リ殿内腹が拝んでいる西リの殿 (イリーヌトゥン) だ。


古島の井泉 (フルジマヌカー)

三つの殿 (トゥン) があるところには現在の宇江城集落以前に集落があった古島時代に集落住民の主な水源であったカーだといわれている古島の井泉 (フルジマヌカー) があったのだが、現在では水も湧いておらず、形跡も残っていないそうだ。


威部之殿 (イビヌトゥン)

西リの殿 (イリーヌトゥン) の北東側にイビとも呼ばれる拝所がある。9月9日のチクザキ (菊酒) に各家庭で拝む習慣がある。特に過去1年の間に子どもが生まれた家庭では必ず拝んでいるそうだ。


百佐之殿 (ハクサヌトゥン)

威部之殿 (イビヌトゥン) の前の道を渡り反対側にある畑の畦道を中に入ったところに百佐腹の拝所を見つけた。今まで見た拝所と同じようなコンクリート製で、ほぼ草木で覆われている。徳新地の殿 (トウクミージヌトウン) ともよばれている。


宇江城古島集落

宇江城グスクがある丘陵は東南にも続いており、その丘の麓で遺跡が発見され、学術的に検討され宇江城集落の古島であったと考えられている。いつ頃この古島から現在の集落に移ってきたのかは不明。


東ウンジョントー (アガリウンジョントー)

古島の丘陵地帯とその麓に広がる畑地をウンジョントーといい、その東端にある小山を東 (アガリ) ウンジョントーと呼んでムラ行事で遥拝しているそうだが、この場所に何があるのかは書かれていない。古島時代の聖域であったのだろう。御嶽があったのか、墓があったのだろうか?


ガックウの墓 [未訪問]

東ウンジョントーから更に南東に進み、旧摩文仁村の字大度との境辺りの雑木林の中の古墓があると書かかれていた。この雑木林の周りを入り口を探すが見当たらず断念。石を運ぶため、ガクという珍しい楽器を吹いて人を集めたという話があり、以来周辺はガックウと呼ばれるようになったという。

これで宇江城集落の文化財めぐりは終わったのだが、見つからなかったものが多い。見つかった文化財もほとんどが木々に覆われて見つけるのが大変だった。宇江城集落は120名ぐらいしか住民がおらず、老人之比率が高い、多くの拝所は集落から遠く離れ分散しているので、これらの拝所を定期的に手入れするのは難しいだろう。御願の行事も少なくなってきている。これも少子化、高齢化が原因の一つだろう。このように村だけでは維持が難しくなっていく文化財は行政の支援が必要だと感じる。

まだ4時にはなっていないのだが、これから帰路に着く。夕方から雨になる予報でだんだんと強くなり明日は台風並みだという。天気予報は前倒しになる確率が高いので、雨が降る前に家に到着できればいいのだが... (やはり途中で雨が降り出した)


参考文献