Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

『三冊子さんぞうし』  服部土芳

2018.02.07 07:38

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/3zousi.html 【服部土芳『三冊子』(土芳著)服部土芳の俳論書。】より

元禄15年(1702年)成立、安永5年(1776年)刊。闌更序。

「白冊子」「赤冊子」「忘れ水(黒冊子)」の3部からなる。

赤冊子

あかさうし

 松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のお(あ)りしも、私意をはなれよといふ事也。この習へといふ所をおのがまゝにとりて、終に習はざる也。習へと云は、物に入て、その微の顕て情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二つになりて、其情誠にいたらず。私意のなす作意也。

 功者に病あり。師の詞にも「俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ」などゝたびたび云ひ出られしも、皆功者の病を示されし也。実に入に気を養ふところすあり。気先をころせば句気にのらず。先師も「俳諧は気にのせてすべし」と有。相槌あしく拍子をそこなふ」ともいへり。気をそこなひころす事也。又ある時は「我が気をだまして句をしたるよし」ともいへり。みな気をすかし生て養の教也。門人功者にはまりて、たゞ能句せんと私意を立て、分別門に口を閉て案じ草臥る也。おのが習気をしらず。心のおろかなる所也。

 新みは俳句の花也。ふるきは花なくて木立ものふりたる心地せらる。亡師常に願にやせ給ふも新みの匂ひ也。その端を見しれる人を悦て、我も人もせめられし所也。せめて流行せざれば新みなし。新みは常にせむるがゆへ(ゑ)に一歩自然にすゝむ地より顕るゝ也。「名月に梺の霧や田のくもり」と云は姿不易なり。「花かと見へ(え)て綿畠」とありしは新み也。

 師のいはく「体格は先優美にして、一曲有は上品也。又、たくみを取、珍しき物によるはその次也。中品にして多くは地句也」。師の句をあげて、そのより所をいさゝか顕す。

   何の木の花とはしらず匂ひかな

 此句は本哥也。西行「何事のおはしますとはしらねどもかたじけなさの涙こぼるゝ」とあるを俤にして云出せる句なるべし。

   ほとゝぎすなくや五尺のあやめぐさ

 此句は「ほとゝぎすなくや五月のあやめぐさ」といふ哥の詞を取ての句なるべし。

花のうへこぐとよみ給ひける古きさくらも、いまだ蚶満寺のしりへに残りて、影、波を浸せる夕ばへいと涼しければ、

   夕ばれやさくらに涼む浪の華

 此句は古哥を前書にして、其心を見せる作なるべし

   ほとゝぎす声横たふや水の上

 此句は「させる事もなけれども、白露横(よこたふ)といふ奇文を味合たる」と也。一たびは「声や横たふ」とも、「一声の江に横たふや」とも句作有。人にも判させて後、江の字抜て、「水の上」とくつろげて、句の匂ひよろしき方に定る。「「水光接天白露横江」の「横」、句眼なるべし」と也。

   観音のいらか見やりつはなの雲

 此句の事、或集にキ角云「「鐘は上野か浅草か」と聞べし。前のとしの吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句を呼て句とす」とあり。さもあるべし。

   早稲の香やわけ入右はありそ海

   一お(を)ねは時雨るゝ雲か雪の不二

 この句、師のいはく「若、大国に入て句をいふ時は、その心得あり。都方名ある人、かゞの国に行て、くんぜ川とかいふ川にて、「ごりふむ」と云句あり。たとへ佳句とても、其信をしらざれば也」。有そもその心遣ひを見るべし。又、不二の句も、山の姿是程の気にもなくては、異山とひとつに成べし。

   旅人と我名呼れん初しぐれ

 此句は、師、武江に旅出の日の吟也。心のいさましきを句のふりにふり出して、「よばれん初しぐれ」とは云しと也。いさましき心を顕す所、謡のはしを前書にして、書のごとく章さして門人に送られし也。一風情あるもの也。この珍らしき作意に出る師の心の出所を味べし。

   何に此師走の市に行烏

 此句、師のいはく「五文字の意気込に有」と也。

   春立や新年ふるき米五升

 此句、師の曰「「似合しや」とはじめ上五文字あり。口惜事也」といへり。其後は「春立や」と直りて短冊にも残り侍る也。

   ばせを野分盥(たらい)に雨を聞夜かな

   いざゝらば雪見にころぶところまで

   木がらしの身は竹齋に似たるかな

   山路来て何やら床しすみれ草

   家はみな杖に白髪のはか参り

   灌仏や皺手合る珠数(数珠)の音

 此「野分」、はじめは「野分して」と二字余り也。「雪見」、はじめは「いざゆかん」と五文字有。「木枯」、初は「狂句木がらしの」と余して云へり。「すみれ草」は初は「何となく何やら床し」と有。「家はみな」、「一家みな」と有。「灌仏」も初は「ねはん会や」と聞へ(え)し。後なしかへられ侍るか。此類猶あるべし。皆師の心のうごき也。味べし。

   草臥て宿かる比や藤のはな

 此句、始は「ほとゝぎすやどかる比や」と有。後直る也。

   鞍つほに小坊主のるや大根引

 此句、師のいはく「のるや大根引」と小坊主のよく目に立つ処、句作ありとなり。

   六月や峯に雲を(お)くあらし山

 この句、落柿舎の句也。「「雲置嵐山」といふ句作、骨折たる処」といへり。

   雲雀鳴中の拍子や雉子の声

 此句、ひばりの鳴つゞけたる中に、雉子折々鳴入るけしきをいひて、長閑なる味をとらんと、いろいろして是を(に)究(きはまる)

   蛇くふときけばおそろし雉子の声

 此の句、師のいはく「「うつくしき皃かく雉子の蹴爪かな」といふは、其角が句也。「蛇くふ」といふは老吟也」と也。

   木のもとは汁も鱠もさくら哉

 この句の時、師のいはく「花見の句のかゝりを少し得て、かるみをしたり」と也。

   丈六のかげろふ高し石の上

   かげろふに俤つくれ石のうへ

 此句、当国大仏の句也。人にも吟じ聞せて、自も再吟有て、丈六の方に定る也。

   明ぼのや白魚白きこと一寸

 この句、はじめ「雪薄し」、「無念の事也」といへり。

   馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

 此句、はじめは「夏馬ぼくぼく我を繪に見る心かな」と有。後直る也。

       旅 懐

   此秋は何ンでとしよる雲に鳥

 此句、難波にての句也。此日、朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也

   明月や座にうつくしき皃もなし

 此句、湖水の名月也。「名月や児達双ぶ堂の縁」としていまだならず。「名月や海にむかへば七小町」にもあらで「座にうつくしき」といふに定る。

   皃に似ぬ発句も出よはつ桜

 此句は、下のさくらいろいろ置かへ侍りて、風与(ふと)初さくらに当り、是、初の字の位よろしとて究(きはま)る也。

   朝露によごれて涼し瓜の泥

 此句は、「瓜の土」とはじめあり。涼しきといふに活(はたらき)たる見て、泥とはなしかへられ侍るか。

   人声や此道かへる秋のくれ

   此道や行人なしに秋の暮

 此二句、いづれかと人にもいひ侍り、後「行人なし」といふ方に究(きはま)り、「所思」といふ題をつけて出たり。

   清滝や浪にちり込青松葉

 此はじめは「大井川浪にちりなし夏の月」と有。「その女が方にての白菊のちり」にまぎらはし」とてなしかへられ侍る也。

   朝よさを誰松しまの片心

 此句は、季なし。師の詞にも「名所のみ雜の句にもありたし。季をとりあはせ、哥枕を用る十七文字には、いさゝか心ざし述がたし」といへる事も侍る也。さの心にて、この句もありけるか。「杖つき坂」の句有。

   市人にいで是うらん雪の笠

    酒の戸たゝく鞭のかれ梅

   朝がほに先だつ母衣を引づ(ず)りて

 此第三は、門人杜国が句也。此第三せんと人々さまざまいひ出侍るに、師のいはく「此第三の附かた、あまたあるべからず。鞭にて酒屋をたゝくといふものは、風狂の詩人ならずば、さもあるまじ。枯梅の風流に思ひ入ては、武者の外に此第三あるべからず」と也。

   歩行ならば杖つき坂を落馬哉

    角のとがらぬ牛もあるもの

 此句は、門人土芳が句也。先師「此句を風与(ふと)仕たり。季なし。皆脇して見るべし」とあり。おのおのさまざまつけて見侍れども、こゝろにのらずして、ふと此句を見せ侍れば、「よろし」とて、その儘取て付られ侍る。師の心味ふべし。

黒左宇志

くろさうし

 発句の事は、行て帰る心の味也。たとへば「山里は万歳おそし梅の花」といふ類なり。「山里は万歳おそし」といひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに、行て帰る心発句也。山里は万歳おそしといふ斗のひとへは、平句の位なり。先師も「発句は取合ものと知るべし」と云るよし、ある俳書にも侍る也。題の中より出る事すくなき也。もし出ても大様ふるしと也。


http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/sanzoshi.html  【『三冊子さんぞうし』 より不易ふえきと変化 服部土芳】

不易

師の風雅に万代ばんだい不易あり、一時の変化あり。この二つにきはまり、その本もと一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり。

不易

 師の風雅に万代ばんだい不易あり、一時の変化あり。この二つにきはまり、その本もと一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり。

 不易を知らざれば、まことに知れるにあらず。不易といふは新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたる姿なり。代々よよの歌人の歌を見るに、代々その変化あり。また、新古にもわたらず、今見るところ、昔見しに変はらず、あはれなる歌多し。これまづ不易と心得うべし。

変化

 また、千変万化するものは、自然じねんの理ことはりなり。変化に移らざれば、風あらたまらず。これにおし移らずといふは、一旦の流行に口質くちぐせ時を得たるばかりにて、その誠を責めざるゆゑなり。責めず、心をこらさざる者、誠の変化を知るといふことなし。ただ人にあやかりて行くのみなり。責むる者は、その地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理なり。行くすゑ幾千変万化するとも、誠の変化はみな師の俳諧なり。

 「かりにも古人の涎をなむることなかれ。四時しいじのおし移るごとくものあらたまる、みなかくのごとし。」

 とも言へり。

 師末期の枕に、門人この後の風雅を問ふ。師の曰はく、

 「この道の我に出でて百変百化す。しかれどもその境、真草行の三つをはなれず。その三つが中に、いまだ一二をも尽くさず。」

 となり。生前折々のたはむれに、

 「俳諧いまだ俵口をとかず。」

 とも云ひ出られしこと度々なり。

現代語訳

不易

 師(=松尾芭蕉)の文芸(=俳諧)には、永久に不易な(普遍的な価値のある)ものがあり、またその時々に変化するものがある。(師の俳諧は)この二つにすべてが帰着し、その根本は一つである。その一つというのは、風雅の真実である。

 不易を知らなければ、本当に(蕉風の俳諧のことを)知ったということにはならない。不易というのは、(作品が)新しいか古いかによらず、作風の変化や流行にも関係なく、誠の上にしっかりと立った姿のことである。色々な時代の歌人の歌を見ると、時代によって作風の変化がある。しかしまた、時代の新しい古いに関わりなく、今(の我々が)見るところも、昔(の人々が)見たのと変わらず、しみじみと心を打つ歌は多い。これをまず不易と考えるとよい。

変化

 また、色々な物が変化することは、自然の道理だ。(俳諧も)変化していかなければ、俳風は新しくならない。これに従って移らないというのは、一時期の流行で詠みぶりが時流に乗ってもてはやされるだけで、その(俳諧の)誠を極めようとしていないからである。(俳諧を)極めようとせず、心を凝らして考えようとしない者は、誠の変化を知るということはない。ただ他人の真似をしていくだけだ。(俳諧を)極めようとする者は、現在の境地にとどまってはいられず、一歩自然に前進するのが道理だ。将来(俳諧が)進化してゆく先はどれだけ変化していくといっても、誠の変化流行は、すべて師の(志す)俳諧である。

 「仮にも昔の人がやったことを真似するだけではいけない。四季が移り変わってゆくように物が変化していくのは、(俳諧も)まったく同じことだ。」

 とも言った。

 師の最期の枕元で、門人がこれから俳諧の将来を問うた。師が言うことには、

 「この道(蕉風)が私から始まってたくさんの変化を重ねている。しかしその(変化の)範囲は、真・草・行の3つを離れていない。その3つの中で、いまだに1,2も尽くしてはいない。」と。(師は)生前折々冗談で、

「俳諧はまだ俵口を解いていない。(奥深くて、まだスタートラインにもついていない)」

 ともおっしゃることが度々であった。