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山地超えて

2018.02.07 13:15

http://www.hikarij.com/vision/hyakuninisyu/osakanoseki.html   【百人一首の風景  滋賀県大津市大谷町 逢坂の関 旅10蝉丸】 より

  これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

ここがまあ、あの東国へ行く者も、都へ帰る者もここで別れ、また知っている者も知らない者も、ここで会うという逢坂の関なのだなあ。

蝉丸

歌の背景

「出会いと別れ」は、人が生と死を繰り返すという仏教の考えであり、絶えず移り変わることにもつながる。

関所の賑わいだけでなく、別れの悲しさまでが感じられるようである。


http://www2.synapse.ne.jp/syouhukuji/bukkyou/055.htm 【愛する者との別れ】 より

朝早く見かけた人々のにも、夕方会うことができない人がいる。

夕方見かけた人々の中にも、朝早くで会うことができない人がいる。

出典:「ジャータカ」

ひとりの賢者がヒマラヤ山中で弟妹と質素な生活をおくっていた。あるとき、かれらは自分たちの父が他界したことを知らされた。弟妹は悲しみのあまり、泣き伏してしまったが、兄の賢者だけは少しも嘆くことがなかった。不思議に思った弟がわけをたずねると、賢者はこの世のすべてのものが無常であることをやさしく説き示した。上記の言葉はすなわち、そのときの教示の一節である。

「会うは別れのはじめ」ということばがある。私たちは生涯の間に実にたくさんの人々と出会う。そして出会いの数だけ別れがある。別れは親しい人であればあるほど悲しみが深い。なかでも辛い別れは、家族や親友と行った、一番愛する人との別れである。

仏教ではこの苦しみを、「愛別離苦」といっている。

ちなみにこの苦は人生の四苦八苦のひとつで、生・老・病・死の四苦に、「怨憎会苦(怨み憎む者と会わねばならない苦)」「求不得苦(求めても得られない苦)」「五蘊盛苦(人の心身を構成する五つの色素ー色・受・想・行・識ーから生じる苦)」にこの愛別離苦をあわせたものをいう。

私たちの社会は、人と人とのかかわりあいによって成り立っている。その社会のただなかにいる私たちは、いわば人と人との出会いの連続のなかでくらしているともいえる。だからこそ、出会いや別れによって生じる喜びや悲しみを乗り越えて生きてゆかねばならない。同時に「一期一会」という言葉にも表されているように、一つひとつの出会いと別れを大切にすることを忘れてはならない。そうすることがすなわち、自分自身の人生を充実したものとすることにつながってゆくのだろう。

※四苦八苦

非常な苦しみをしたという意味で、「四苦八苦した」などとよくいうが、この「四苦八苦」とはそもそも仏教語。苦を苦とはっきり認識するのはつらいことであるが、仏教ではその認識を出発点として人間を考え抜く宗教である。


「山路超えて」 日本基督教団賛美歌404番

作詞:西村清雄

作曲:アーロン・チャビン


1山路越えて ひとり行けど

 主の手にすがれる 身は安けし

2松の嵐 谷のながれ

 み使いの歌も かくやありなん

3峰の雪と 心きよく

 雲なきみ空と 胸は澄みぬ

4道険しく 行くて通し

 志す方に いつか着くらん

5されど主よ われ祈らじ

 旅路の終りの 近かれとは

5日も暮れなば 石の枕

 仮寝の夢にも 御国 偲ばん

https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202005/202005_13_jp.html 【神々の山の五重塔】 より

山形県の出羽三山は古くから修験道の霊山として信仰を集めてきた。その山中、約650年前に建立された木造建築の羽黒山五重塔は、杉の老木に囲まれてそびえ立ち、自然と一体になった素朴な美しさで訪れる者に安らぎを与えている。

山地が国土の4分の3を占める日本では、山を神々が宿る神聖な場所として崇拝する山岳信仰が古くから行われてきた。平安時代になると、山岳信仰と大陸伝来の仏教や道教などの宗教が結びついた「修験道(しゅげんどう)」が成立し、全国各地に広がっていく。修験道の霊山とされる山々では、修験道の行者である「山伏」が厳しい修行を行った。

山形県の中央部に連なる出羽三山は、代表的な霊山の一つである。出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山、という3つの山の総称で、その歴史は6世紀末に崇峻天皇の皇子である蜂子(はちこ)皇子が修行したことに始まると伝えられる。出羽三山では、羽黒山で現世利益を得て、月山で死後の世界を体験し、湯殿山で新たな命を得て生まれ変わるという信仰が形作られていった。こうした信仰は諸国を巡る山伏を通じ人々に広がり、江戸時代には全国から多くの参拝者が出羽三山を詣でるようになった。17世紀の名高い俳人、松尾芭蕉もその一人で、芭蕉は「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」という句を残している。

その羽黒山の麓に立つのが、東北にある仏塔で唯一国宝に指定されている羽黒山五重塔である。仏塔は、6世紀に中国から仏教が伝来すると、当時の都があった奈良や京都で建てられるようになり、仏教とともにやがて各地に広がった。

伝承によれば、羽黒山五重塔は10世紀に創建され、現在の塔は1372年の再建と考えられている。五重塔は、出羽三山の入口となる随神門を通り、かつて参拝者が身を清めた秡川(はらいがわ)を渡り、羽黒山の頂上へと向かう参道の脇、樹齢300年以上の杉並木の中に立っている。その高さは約29メートル、建物に色彩や装飾を施さない「素木造り」が大きな特徴である。

「杉に囲まれた五重塔は、まさに自然と一体化しています。長い年月にわたって風雪にさらされた白い木肌が、素朴な美しさを生み出しています」と出羽三山神社歴史博物館の学芸員、渡部幸さんは話す。

塔は杉と欅の木で組み立てられており、木材と木材のつなぎ目には、時間が経ち乾燥するほど、しっかり縛り上げる性質を持つ藤蔓で固定されている。金属のくぎは一本も使われていない。五層の屋根は、杉の薄い板を何層にも重ねる「杮葺(こけらぶき)」という技法で葺かれている。屋根の四隅が微妙に上方に反り、軒が深く造られている。この五重塔は、風雪から柱や壁を守る深い軒を支える「組物」も特徴的である。幾つもの木材が複雑に組み合わされた組物は、塔を強固にするだけではなく、装飾的な美しさも見せている。

羽黒山周辺は冬には1メートル以上の雪が積もる。そうした厳しい自然環境に立ち続ける五重塔は、繰り返し補修が行われ、今に受け継がれている。

「山伏、そして、人々の厚い信仰心があったからこそ、長い間にわたって五重塔が守られてきたのだと思います」と渡部さんは話す。「観光客の方の中にも、五重塔の前でじっと、長い時間を過ごす人もいらっしゃいます。自然に包まれてたたずむ五重塔を見ると心が落ち着くと多くの方が言います」

神々が宿る山に静かに立つ五重塔は、自然と深くつながってきた出羽三山の信仰とその歴史を表すシンボルと言える。