トランスジェンダーの子を与えられて
(寺田ひとみ 60代/留架の母)
1987年11月下旬、私は東京都保谷市(現西東京市)の自宅から富山県小矢部市の実家に里帰りした。12月17日が予定日の最初の出産を控えてのことだった。村の道を散歩していると、近所のおばさんやおばあさんが、口々に「その腹の出方は男の子やね」と言った。腹の出方がとがっていると男の子で、丸いと女の子なんだそうだ。私はすっかり信じて、お腹の子に向かって「勇士君」と呼びかけていた。旧約聖書 詩篇103篇20節の「みことば(神のことば)の声に聞き従い みことばを行う 力ある勇士たちよ」からとった名だ。主人と2人で決めた。
子供は予定日を1週間過ぎても生まれて来なかった。大体初産は遅れることが多いので、さほど焦りはしなかった。がとうとう24日に陣痛がやってきて入院した。東京にいる主人が電車でかけつけてくれたが、夜には陣痛は収まっていた。外からは近くの教会の人たちが歌うクリスマスのキャロリングが聞こえてきて心が慰められた。
次の25日、ようやく生まれた。難産だった。原因は私の太りすぎだった。つわりが終わってからの食欲がものすごく、食べられるだけ食べていたら、普段の体重は52kgなのに、67kgにまで太っていたのだ。太ると産道に肉が付き、赤ちゃんが出にくくなる。赤ちゃんは頭が半分まで出たところで動きが止まってしまい、医師も助産師も焦った。最終的に医師が私のお腹を強く押し、ようやく出てきた。
女の子だった。アレ? しかも頭がピーナッツの形をしていた。途中で止まったからだ。しかもオギャーと泣かない。医師が背中を叩いたり色んなことをして、ようやくオギャーと泣いた。私は万が一女の子だったら留架にしようと決めていたので、「留架ちゃん、お疲れ様。ようやく出てきたね」と心の中で声をかけた。
なぜ留架にしようと決めたかと言うと、私は大学時代バレーボール部に所属していたのだが、2年の時、1年に留香という長身で美しい帰国子女が入って来たからだ。名前を聞いた瞬間、「すてきな名前だな」と思った。彼女もご家族もカトリックだったので、新約聖書ルカの福音書からとったのだ。ルカはギリシャ人の男性で医者だ。留香のご両親が彼女を医者にさせたかったかどうかはわからないが、実際彼女は医学部保健学科に進んだ。卒業してからはシンクタンクに入った。この名前をいただいたわけだが、漢字を留架にしたのは、新約聖書ガラテヤ人への手紙6章14節の「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」からとったのだ。「いつまでも十字架に留まって欲しい」という思いをこめた。主人もまた、知り合いの牧師先生の娘さんがるかという名だと知って、「良い名前だな」と思っていたので、2人で一致した。
留架は体重は3280g、身長50cmだった。ほぼ平均的体形だが、体重の割に頭が大きい。それも難産の原因のひとつだった。心配したピーナッツ形の頭は、日が経つにつれ正常になっていった。赤ちゃんの頭がい骨は柔らかいのだ。ホッとした。よく飲んでよく寝る子だった。真冬に真夜中に起きて授乳するのは大変ではあったが、それも人並みの苦労と言えよう。
それから留架は女の子らしい女の子に育った。動物のぬいぐるみを好み、積み木やレゴブロックで遊ぶのが大好きで、絵や工作がうまかった。ピンクや黄色の女の子らしい服がよく似合った。ひとつ印象に残っているのは幼稚園時代のことだ。近くのキリスト教主義の幼稚園に年中から入ったのだが、年中か年長の時、夏の夕涼み会があり、留架に「みんな浴衣を着るみたいだけど、どうする?」と聞くと、「いや。ミンキーモモのTシャツに赤いスカートにする」ときっぱりと言った。赤いスカートは短かめでふわふわしていて白い水玉模様があり、留架のお気に入りだ。周囲に流されずに自分の意志を通す彼女を私は誇りに思った。夕涼み会に出てみると、浴衣でない子は男女どちらもかなり少数だったが、留架も私も満足した。嬉しそうに踊っている姿が今も目に浮かぶ。
ところが小学校に入ると留架は一変した。スカートをはかなくなった。地味な色のズボンにうす茶色や緑色の上着を着るようになった。ショートヘアなので、見たところ中性的だ。遊び仲間は女の子も男の子もいた。5年生になる時にうちが引越したため留架は転校した。因みに、留架が3歳5か月の時、1991年5月27日に二卵性双生児が生まれたが、この2人は1年生になる時に引越したので、転校しないですんだ。
転校した留架は主に男の子たちと遊ぶようになった。女の子たちは既に仲良しグループができていて入りづらかったということもあるが、男の子と遊ぶ方が話が合って楽しいようだった。この頃私は自宅で英語教室を開いたのだが、留架の入ったグループレッスンも、他は男の子だった。レッスン中は皆でわいわいしゃべりながら楽しく過ごしていた。
地元の市立中学に入ってから「異変」は起きた。毎朝制服のスカートをはくのを嫌がるようになったのだ。「頼むからスカートをはいて学校に行ってちょうだい」と私は言い、留架はしぶしぶはいて行った。この頃から私は「この子は性同一性障害ではないか」と思い始めた。ただ、小学校時代も中学校時代も好きになる相手は男の子だったので、「やっぱり女の子かなあ。ボーイッシュな女の子かな」と思った。
留架はスカートがはきたくない一心で、制服のない都立高校に受かるように勉強をがんばった。そして合格した。嬉しそうに男の格好をして毎日学校に自転車で通う姿を見て、私は心から神様に感謝した。留架は軽音部に入り、男の子たちとロックバンドを組み、ドラムを叩いてストレスを発散していた。ただ、いくら本人が男になりたくても、周りの男の子たちからは女の子扱いされていたようで、ジレンマがあったようだ。
大学は自転車で通える国立大学に行き、芸術課程を専攻した。そこでも軽音楽のサークルに入り、ドラムを叩いた。好きなことを好きなようにしているように見えたが、本人は体と心の性が一致しないことに深い悩みを抱えていた。保健室の先生に相談し、埼玉医科大学付属病院のジェンダークリニック(現在はこのクリニックはない)に行くことを勧められた。主人はしぶった。目に入れても痛くないほどかわいがってきた長女が男だということを受け入れたくないようだったが、私はすぐに賛成した。後に主人も受け入れるようになった。行った結果、「性同一性障害です」というお墨付きをもらい、本人も私もホッとした。長年の葛藤にようやく名前が付いたという気持ちだった。
それから大学を卒業した留架は「庭師になりたい」と言って都の職業訓練校に行った。半年の勉強を終え、地元の有名な造園会社に入った。が、半年で体をこわして辞めてしまった。その後神様からの「召し」を感じ、都内の神学校に入った。この神学校では性同一性障害の人を受け入れるのは初めてだったが、男子寮にも女子寮にも入れずに家族寮に入れてくださった。その他は男子と同じ扱いだった。有難かった。
そして在学中にLGBTのための働きをするように神様に促され、卒業後に「約束の虹ミニストリー」を立ち上げ、代表として今日に至っている。留架でなければできない大切な使命を神様は与えてくださっている。私たちは夫婦そろって応援している。このようにユニークな子を与えてくださった神様に、私たちは心から感謝している。