菫草は偲草??
https://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_04/zakki0402.htm 【「歌言葉雑記」抄ムラサキグサなど】 より
のっけから拙作を持ち出すのは甚だ気が引けるが、「紫草とふ日本語はなしとけふの歌会に語気強くして言ひたまひたり」という私の歌を、今月は話の枕といたしたい。土屋文明先生の月々出席される東京歌会に提出される詠草のなかで、先生が詠まれると快く思われない用語が幾つかある。その一つがムラサキグサである。ムラサキグサではない、紫草と書いてムラサキと読むのだときつい調子でいつも言われる。もっとも紫草という植物は今は稀有な存在であり、近頃は歌にして歌会場に持ち込む作者も少なくなったから、詠草中ムラサキグサにお目にかかって、こちらが気を揉むということもあまりなくなった。
万葉集巻一にある「紫のにほへる妹を憎くあらば」の歌の初句の原文は「紫草能」であり、当時は紫の色と紫色の原料の紫草とが一つのものと考えられていたことが分る。正倉院の古文書等を見ても染料のムラサキになる植物は、紫草と記されている。それも無論ムラサキと読むべきものだ。しかし紫草とあれば、後世ではムラサキグサと発音する人の出て来るのも、自然の勢と言うべきかも知れない。今井邦子歌集の「紫草」は、その巻末記に「紫草(むらさきぐさ)の名は自分が古代紫の色を好むからで」と、その読み方もはっきり示している。辞典類も、今のぞくと広辞苑ではムラサキの説明のなかに「むらさきそう」という呼び名も紹介しているし、新潮国語辞典を見ても「紫草(ムラサキグサ)の根で染めた色」などと説明している始末だ。こういう現象は、土屋先生は苦々しく思われるのに違いないのである。
芭蕉の「山路来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)」のスミレグサも、本来はおかしい言葉であろう。スミレにグサをつける必要はない。しかしここは「菫かな」とか「つぼ菫」とかやることもできないので「菫草」としたものと思われる。芭蕉には「当帰よりあはれは塚の菫草」という句もある。なお鬼貫とかほかの江戸時代の俳人もスミレグサ使用の例はある。未木和歌抄という鎌倉時代の末頃成立した類題別の和歌集を見ると、菫の歌が四十五首ほど集められているが、そのなかに「いざや君袖ふりはへてすみれ草紫野ゆきしめ野ゆきみむ」という家隆の歌があるのに気づいた。言葉というものは、単純に割り切るわけには行かない。アヤメ、アヤメグサのようにどちらを使ってもいいものも勿論ある。
そう言えば、ヲシ、ヲシドリ・ニホ、ニホドリは、両方言うがカモに対するカモドリはどうか。茂吉が「鴨どりは沼(ぬ)の上(へ)に浮けど或るときに飛びてさわげり争ふらしも」(寒雲)などと詠んだのは、万葉に「鴨鳥の遊ぶこの池に」(七一一)という一例があるため安心して作ったのだろうと思う。(昭和61・10)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、
https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/e/adedfe491b8db7eb83d875f8d9e1f65e【熱田逍遥】より
五月のある日、熱田文化小劇場でのコンサートのチケットを、友人からもらったので出かけました。
コンサートは、名フィルトランペット奏者四人の演奏会で、久しぶりに華やかなブラスの音色を堪能。
少年時代、ブラスバンドに熱中した頃のことを思い出しました。
また、トランペット、少しずつ練習しようかなあ。
コンサートが、終わって、名鉄熱田駅前。名物「きよめ餅」を、買ってと・・・・。
駅口から、熱田神宮参道へ。途中に「信長塀」が、あります。桶狭間合戦の戦勝御礼だそうです。
熱田さん本宮・・・・。
今日はここから一礼して、本参道を南に左折します。途中に、「宮きしめん」の茶屋。
樹齢一千年以上といわれ、弘法大師、お手植えと伝えられるクスノキの大木。
本参道を出たところにある、「ひつまぶし」で有名な蓬莱軒。今日も、お客さんが並んでいます。
蓬莱軒と並んで、すぐ右、南側に、桐葉亭の跡があります。
ここは、芭蕉の有力弟子の「林桐葉」の邸宅址。
芭蕉は、この地で、貞享二年(1685年)三月に、熱田三歌仙を巻き、そこに、叩端、桐葉との三吟歌仙を納めている。
その発句として・・・。
白鳥山
何とはなしに なにやら床し 菫草 芭蕉 (皺筥物語)
土芳の三冊子には・・・。
何となく なにやら床し 菫草 芭蕉 (三冊子)
があるが、後の有名な句の「初出」とみられている。
(これは、嵐山光三郎氏説によれば、林桐葉が、先に愛娘を亡くしており、それを悼みながらの挨拶句としている。)
大津に出る道、山路をこえて
山路来て 何やらゆかし すみれ草 芭蕉 (甲子吟行)
ちなみに、同じく芭蕉の有力弟子の、鳴海の「知足」・下里(郷)知足は、この林桐葉が芭蕉に引き合わせたそうだ。
https://white.ap.teacup.com/syumoku/538.html 【322 林桐葉宅跡」 名古屋なんでも情報】 より
熱田神宮南の交差点で国道1号線を跨ぐ歩道橋を渡り、神宮の正門(南門)に向うとひつまぶしの蓬莱軒のすぐ南側に「林桐葉宅跡」の案内標識が立っている。道路を挟んだ西側は蔵福寺という寺である(ここはかって熱田の「時の鐘」が設置されていたところである)。
さて、林桐葉(はやしとうよう)と芭蕉について記そう。桐葉の本名は林七左衛門という。若いときには木而・木示(もくじ)という俳号を使い、後に桐葉を名乗った。
貞享元年(1684)冬、「野ざらし紀行」の旅をしていた芭蕉が、熱田の桐葉宅に滞在した。このことが縁で桐葉は、芭蕉の門人となる。こののち芭蕉も桐葉への信頼を厚くし、何度も熱田の桐葉宅を訪れることになる。なお、芭蕉から桐葉に宛てた書簡が3通現存している。
芭蕉が、貞享元年に熱田で詠んだ句が
この海に草鞋捨てん笠時雨
である。この句碑については、以前、「妙安寺の時雨塚」で紹介したので参照にして欲しい。
http://white.ap.teacup.com/syumoku/191.html
翌年3月、再び来訪した芭蕉は、現在の宮中学校の運動場付近にあった白鳥山法持寺に参詣し、この折に、芭蕉、叩端、桐葉を連衆とする三吟歌仙が催された。
何とはなしに何やら床し菫草 芭蕉
編笠敷きて蛙聴居る 叩端
田螺割る賤の童の暖かに 桐葉
公家に宿貸す竹の中道 芭蕉 (以下略)
(三吟歌仙 「熱田三歌仙」)
このときの芭蕉の発句は、推敲を経て、「野ざらし紀行」では
山路来て何やらゆかしすみれ草
と改作されている。