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古池に飛び込んだ蛙-芭蕉庵を訪ねて

2018.02.20 04:19

http://www.kaeruclub.jp/report/huruike/huruike2.html 【蛙 合】 より

少々脱線が過ぎました。古池蛙に戻りましょう。

古池の芭蕉の句は、貞亨三年(1686年)、西吟という人が編んだ「庵桜」という句集に、登場します。ただし、この時の句は、 古池や蛙飛ンだる水の音 という形になっています。「飛んだる」ではなくて「飛び込む」になった最初の本は、同じ年に出た「蛙合」という句合の本です。

 句合というのは、左右に分かれた詠み手が、同じテーマで句を詠み、判者が勝敗を決める、俳句対決なわけですが、そうだとすると、「蛙合」は、蛙の句ばっかり集めた、俳句勝負ものだということになります。「古池や~」が入っているのはいいとして、残り、誰がどんな句を詠んでいるのか気になるのが、我らかえるクラブのかえるクラブたる存在証明。

 今回は、その「蛙合」に載っている句を一覧にしてみました。表の中で「判詞」とあるのは、勝敗を決めた理由を書いたところです。何となく現代語にしてみましたが、分らなかったところも多いので、あまり信用しないでください。

 (略)

蛙合 貞享三年閏三月 青蟾堂仙化編 新日本古典文学大系71 元禄俳諧集 岩波書店

 どうでした?第十九番の判詞が「どうしてそう決めたか忘れてしまったけど、左の勝」としているところが大らかで好みです。でも、俳句バトルというのも、審判の判断基準がよくわからないフィギアスケートの自由演技の採点のようで、ピンとこないなあ、というのが正直なところ。知識不足なんでしょうな。

 とにかく「蛙哉(かはづかな)」で終わる句の多いこと多いこと。20番×2+追加1=41の蛙の句のうち、半分以上の22句が「かはづかな」。確かに落ち着きはよさそうですが、何かもうちょっと変化があっても・・・。


http://www.kaeruclub.jp/report/huruike/huruike3.html 【古池蛙句をもう少し】 より

俳家書画狂題 ちょっと、退屈な話がつづくかもしれませんので、ここらで一休み。三代豊国の錦絵「俳家書画狂題」です。俳句と役者の見立絵を組み合わせたもので、ここに描かれているのは、尾上菊五良。古池の句が記された短冊に、折り紙の蛙の絵が描かれているのがなかなか。

 古池蛙の句が成立した経緯については、様々な説があり、極端なものでは禅僧との禅問答の中からできた、というものまでありますが、大体、まず、「蛙飛こむ水の音」という七五ができた後、「古池や」の五をつけた、という流れになっています。

 芭蕉存命中に弟子の支考が書いた『葛の松原』という俳論書には、

「春を武江の北に閉給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落る事おそし。弥生も名残をしき此にやありけむ。蛙の水に落る音しば/\ならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛こむ水の音、といへる七五は得玉へりけり。晋子が傍に侍りて、山吹といふ五文字を冠らしめむかと、およずけ侍るに、唯、古池とはさだまりぬ。」

(復本一郎『芭蕉古池伝説』1988.4.25 大修館書店 から孫引き)

とあって、上の五文字をつけるときに、晋子(先ほど正岡子規の引用の中で、悪い例に挙げられていた芭蕉の弟子、其角のこと)が、「山吹というのはどうでしょう」とでしゃばったところ、「いや、古池だ」と決めたようです。

 あっちでもこっちでも駄目出しされている其角も可哀想ですが、其角が提案した「山吹」というのは、古典の中でのお約束のように、決まりきった一語だったところが、「古池」の新しさを強調させることになって、今まで伝えられているのでしょう。

なぜ、「山吹」が決まりきった一語だったかというと、これは和歌の世界の話になります。

 現在の京都府井手町は、古くから和歌の名所で、井手を流れる玉川の蛙(河鹿蛙)の鳴き声と、山吹が名物でした。井手-蛙-山吹というのは、和歌の黄金パターンだったわけです。ちょっと和歌集をみるだけで、いくつも実例を見ることができます。

【古今和歌集】

  かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を (よみ人しらず )

【後撰和歌集】

  都人きてもをらなむ蛙なくあがたのゐどの山ぶきのはな(橘公平女)

  忍びかねなきて蛙の惜むをもしらずうつろふ山吹のはな(讀人しらず)

【拾遺和歌集】

  澤水に蛙なくなり山吹のうつらふかげやそこにみゆらむ(よみ人志らず)

【後拾遺和歌集】

  みがくれてすだく蛙の諸聲に騒ぎぞわたる井手のうき草(良暹法師)

  沼水に蛙なくなりむべしこそきしの山吹さかりなりけれ(大貳高遠)

【千載和歌集】

  山吹の花咲きにけり蛙なく井手のさと人いまやとはまし(藤原基俊)

  九重に八重やまぶきをうつしては井手の蛙の心をぞくむ(二條太皇太后宮肥後)

  山吹の花のつまとはきかねども移ろふなべになく蛙かな(藤原清輔朝臣)

【新古今和歌集】

  かはづなくかみなびがはにかげみえていまかさくらん山ぶきの花(厚見王)

  あしびきの山ぶきの花ちりにけり井でのかはづはいまやなくらん(藤原興風)

 山吹と蛙がいかに強固に結びついた連想であるかよくわかるでしょう。ご丁寧に「井手-蛙-山吹」三つ全部入っている歌も結構あります。

 また、井手の蛙がいかに歌の題材として珍重されたかを示すエピソードが12世紀の歌学書『袋草子』(藤原清輔)の中にあります。歌人である能因法師と藤原節信との説話ですが、二人が始めて出会ったとき、引出物だといって、能因法師が「長柄の橋の鉋屑」を、藤原節信が「井手の蛙の干物」を見せ合うというもの(増田繁夫『能因の歌道と求道』(後期摂関時代史の研究 1990.3.31 吉川弘文館))。「長柄の橋」というのもよく歌に詠まれる題材です。歌人が干物にして大切に持ち歩くほど、「井手の蛙」は歌の題材として有名だったわけです。蛙の干物が宝物・・・蛙好きでも(というより蛙好きなら余計)ひいてしまうな。

 其角は、この伝統にのっとって、実に常識的に「山吹」を挙げていることになります。「蛙といえば山吹でしょう」という発想。これを破って「古池」という、それまであまり使われたことのなかった言葉を置いたのが、この句の「新しさ」だということができます。

 其角は芭蕉の斬新さを引き立たせる役を負わされてしまったわけです。

 もう一つ。例で挙げた歌を見るとわかるとおり、蛙といえば、「鳴く」。紀貫之の「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの いづれかうたをよまざりける」という古今和歌集の序文をみれば、鳴き声を鑑賞するのが古くからの定番であることがわかります。

 しかし、古池蛙は鳴きません。水に飛びこむだけです。この視点からも、古池蛙の句は斬新でした。今では、蛙は飛びこむもの、という別の定番ができあがっているので、当時の衝撃はよくわかりませんが。

One Hundred Frogs 古典から一線を画して、新たな境地を開いたこの一句、それが理由かどうかはわかりませんが、盛んに英訳されているようです。

 Hiroaki Sato著の「One Hundred Frogs」という本の第7章には、タイトルどおり、百種以上の古池蛙の英訳が載せてあります。この7章部分だけを独立させて、ペーパーバックにした廉価版もあります。うちではこちらの方を持っています。各ページの挿絵がパラパラ漫画になっていて、めくってくと、蛙が池に飛びこむという趣向つきですので、蛙好きの皆様におすすめ。

どんな訳があるかというと、例えば・・・

【オーソドックスな訳】

R.H.Blyth

    The old pond;

   A frog jumps in,―

   The sound of the water.

【え?一匹じゃないの?】

Lafcadio Hearn(小泉八雲!)

   Old pond―frogs jumped in―sound of water

【変化球】

Fumiko Saisho

Fu-ru(old)i-ke(pond)ya,ka-wa-zu(frog)to-bi-ko-mu(jumping into)mi-zu(water)no o-to(sound)

【何があった?】

Clare Nikt

Hear the lively song

of the frog in

BrrrBrrrBrrptyBrrrBrrrrrrrrrrIp

Plash!

(注)【 】の言葉はかえるクラブで勝手につけました。

こんなのがいっぱい詰まって$7.95。楽しいですよ。


http://www.kaeruclub.jp/report/huruike/huruike4.html 【 芭蕉庵跡を訪れて】 より

 さて、では、芭蕉が古池蛙の句を詠んだのは、どこなんでしょうか。先ほど芭蕉の弟子支考の『葛の松原』から、「春を武江の北に閉給へば~」という部分を引用しましたが、この「武江の北」とは、深川の芭蕉庵を指しています。ということは、この句は芭蕉庵で詠まれたものだということになります。

 とすると、問題は、「芭蕉庵はどこにあったか」という点です。

江戸名所図会 「江戸名所図会」(斉藤長秋著、長谷川雪旦画、1834~1836刊行)という本の中に、「芭蕉庵」の画が出てきます。どっかで見たような画でしょ?この後に出る芭蕉庵の画はだいたいがこれを下敷きにしていて、どんどん記号のようになっていきますが、その原型がこれ。

 芭蕉が死んだのは1694年ですから、もう死んでから140年ぐらい経っています。芭蕉庵も当然なくなっているわけですが、この本の中に「芭蕉庵旧址」について述べた部分があります。

「芭蕉庵旧址

同じ橋の北詰松平遠州候の庭中にありて古池の形今猶存せりといふ 延宝の末桃青翁伊賀国より始て大江戸つり来り 杉風の家に入後剃髪して素宣と改む 又杉風子よくよく芭蕉庵の号成譲請夫々うつして後此地に庵を結ひ 泊船堂と号すと

杉風子俗称を鯉屋籐左衛門といふ 江戸小田原町の魚牙子たりし頃の生簀やしきなり 後此業をもださりしかば生州に魚もなく 自水面に水草覆ひしにより古池の如くになりしゆへに古池の口ずさミありしといへり」(江戸名所図会 巻之七 揺光之部 第十八冊)

活字でなかったので、読むに読めない部分が多く、嘘ばっかり書いているかもしれませんので、ここから引用しない方がいいですよ。恥をかきます。

 それはさておき、文中「同じ橋の北」と言っているのは、この前の項の「天王山霊雲院」が万年橋の南となっていたからで、万年橋の北の松平屋敷の中に、古池が残っているというわけです。「杉風(子)」というのは、杉山杉風(さんぷう)という芭蕉の弟子。この人俗称が、鯉屋籐左衛門といって、魚屋をやっていた頃につかっていた生簀が、かの「古池」だと言っていることになります。となると、古池は「魚屋のいけす」だったわけ?

 いずれにしても、江戸の頃からすでに芭蕉庵は武家屋敷の一部となって、場所が曖昧になっていたようです。

 現在はどうでしょう。深川だとすれば江東区。調べてみるとどうも、「芭蕉庵跡」というのがちゃんとあるようです。

 さらに(かえるクラブにとって)興味深いことには、江東区にある「芭蕉記念館」には、「芭蕉が愛好した石の蛙」があるというではありませんか!これは行って見てくるしかありません。

芭蕉稲荷神社 都営新宿線の森下から降り、万年橋に向かって歩いていると、右手に芭蕉記念館が見えてきます。今回は、とりあえず記念館を素通りし、先に、芭蕉庵跡の石碑がある「芭蕉稲荷神社」に向かいます。

 前に見た「江戸名所図会」とおり、万年橋のたもと、小名木川と隅田川の合流地点に「芭蕉稲荷神社」があります。写真には撮れませんでしたが、赤いのぼりの後には、古池蛙の句と蛙が描かれた板があります。

 狭い境内に入ると、蛙の置き物が目につきます(私だけかもしれません)。芭蕉庵跡の石碑に2体、奥の細道旅立ち300周年記念碑の横に1体、芭蕉生誕350周年記念石碑に1体。あまり珍しいタイプのものではありませんが・・・。

奥の細道旅立ち三百周年記念 芭蕉庵跡石碑 生誕三五〇周年記念

奥の細道旅立ち 芭蕉庵跡石碑 生誕三五〇周年

奥の細道旅立ち 芭蕉庵跡石碑 芭蕉庵跡石碑 生誕三五〇周年

 なぜ、ここが「芭蕉庵跡」となったのか、なかなかドラマチックな話が稲荷の由来記に載っていました。

由来

深川芭蕉庵旧地の由来

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。

 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。

 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。

 しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。

 昭和五十六年三月吉日

 芭蕉遺蹟保存会

 これを読む限りだと、芭蕉記念館にあるという「芭蕉が愛好した蛙」というのは、この大正六年の津波の後に発見された石蛙のようですが、うーん。何を根拠に「これが芭蕉庵の蛙」と判断したんだろうか??

 何となく眉唾な話。

 しかも、由来の最後には、「旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設」となっているところをみると、今の公式芭蕉庵跡は、さっき通り過ぎてきたあの「芭蕉記念館」ということでしょうか。結構簡単に動かすもんですな。

史跡展望庭園 芭蕉稲荷のすぐそばには、「芭蕉庵史跡展望庭園」というのがあって、大きめの芭蕉像が立っています。周りには、江戸時代の文書に出てきた芭蕉庵の絵が、出典の説明とともにパネルになって飾られており、見晴らしも、小名木川と隅田川の合流地点が一望できて、なかなか壮観。でも蛙度は0。

万年橋 何となく万年橋を渡ってみると、欄干のそばに古池蛙の句が書かれたパネルを見つけました。ついでに歩道を見てみると、なんと歩道に蛙の模様が。さすがは古池蛙の地、江東区。

歩道

 さて、寄り道はこれくらいにして芭蕉が愛した石蛙を見に行こう。


http://www.kaeruclub.jp/report/huruike/huruike5.html 【芭蕉愛好の石蛙】より

芭蕉記念館古池句碑 もと来た道を後戻りして「芭蕉記念館」へ。記念館には庭園があって、古池蛙の句碑もあります。その隣には「芭蕉庵を模した」(とパンフレットには書いてある)小さなほこらもありますが、全体的に中途半端という雰囲気。

 ざっと回って記念館の中に入ります。

 展示を見るには観覧料を払わなくてはいけません。100円。

 さて、展示室のある2階に上がると、部屋の一番奥のひときわ目立つガラスケースの中に、件の石蛙は鎮座していました。

 この「石蛙」ですが、かなり欠け落ちていてさすが出土品という雰囲気。紫の座布団に乗せられた姿はそれなりに神々しくみえなくもありません。

説明文を書き写してきました。

芭蕉遺愛の石の蛙(伝)

 芭蕉が深川芭蕉庵において愛好していたと伝えられる石の蛙。

 芭蕉没後深川芭蕉庵は武家屋敷となり、その場所は明確でない。大正六年(1917)の大津波のとき、この石の蛙が発見され、その場所が芭蕉庵の旧跡として大正十年(一九二一)東京府から指定をうけた。現在、当館の場所が都の旧跡として指定されている。

 「芭蕉稲荷」で読んだ説明とあまり変わりません。どの辺がどの芭蕉関連資料と結びついて、「芭蕉遺愛の」という決めがなされたのか、そこのところが今ひとつはっきりしないなあ。まあ、(伝)とすることで、説明を回避しているのかもしれませんが。

 後で、「江東区史」を開いてみたところ、芭蕉庵跡に関する記述は概ね稲荷の由来記と同じで、ただ、「発見された」ではなく、「流れついた」となっているところが、石蛙の信憑性をますます下げているような・・・。

 大正6年の津波は、同じく「江東区史」で見たところでは、かなり大規模なものだったようで、9月下旬の長雨に、台風にともなう記録的な豪雨で河川が増水していた所に、10月1日未明、津波が発生し、当時の東京府が纏めた被害状況によれば、死者555人、行方不明者31人、全壊家屋3,607戸、半壊家屋5,261戸、床上浸水134,945戸、床下浸水51,859戸というすざましさでした。

 この津波の記述の中に、芭蕉遺愛の石蛙発見について述べられた部分はありません。

 でも、この石蛙から「芭蕉愛好の」という形容詞を除くと、「小汚い壊れかけの石像」というほかなさそうな。信じるものは救われる。蛙が飛びこんで芭蕉が句を吟じた池のそばに置いてあった石蛙が、今自分の眼前にあるんだ、と信じてみれば、うん、見えてきた見えてきた。古池に石蛙を投げ落として、大きな水音とともに跳ね返る水しぶきに顔をしかめながら「古池や~」と詠む芭蕉の姿。(間違ってますか。そうですか。)

 館内は撮影禁止だったので、石蛙のスケッチを載せておきます。古池蛙の長いお話、この絵でお開き。ここまで読んで下さりありがとうざいました。

芭蕉遺愛の石蛙(伝)

石蛙スケッチ

古池のぽちゃんが末世迄ひヾき 柳多留

少なくとも私の人生の数日間には確かに響きましたな。お後がよろしいようで。