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Pink Rebooorn Story

第2章 その9:「意思決定」

2016.10.10 14:25




 PETの検査結果がどのようなものであったとしても、乳がん患者である以上は、化学療法やホルモン療法など、副作用を受け入れるほかないと覚悟をしていたはずだった。

 でも、今になって、抗がん剤投与後に、月経が戻ってこなかった場合の「子どもが持てなくなる」という未来を、どうしても受け入れたくなかった。




 尾田平先生は、迷う私に対して、こう言った。

「他の患者さんが順番待っとるけん、決めてから来て。一か月後でも、いつでも、平西さんのタイミングで構わんけん。」

 尾田平先生は、患者さんに対してあくまで公平だった。わたしだけ特別扱いをするということがないのは、誰に対しても毅然としてそうしているということだろう。




 乳腺外科の診察室を出ると、

「平西さん、」と、私を呼ぶ声がした。振り返ると、白衣を着た50歳くらいの女性だった。

「あの先生はさ、いっつもああいう言い方しかできないんだけどさ、気にしないでね。」

 と、その人は、明るくにこやかに話しかけてきた。ネームタグに「乳がん認定看護士」と書いてあった。

「私、乳腺外科のナースで、路武(みちたけ)っていいます。」

「平西杏莉です。」

「尾田平先生の患者さんだよね。」

「はい。」




 路武さんは、乳がん認定看護士として、治療方針を決定した患者をフォローする役目であることなど、簡単に自己紹介をしてくれた。

 医学的なこと以外、主に患者のメンタル面がフォローの範疇というのだから、そうとう幅広く、いろいろなことに関わっておられるに違いなかった。

 肝っ玉母ちゃんみたいな明るさに満ちていて、この人に話しかけられたら、どんな人でも、警戒心なんてものは、一瞬でふっとんでいきそうだった。




「私、いろんな乳がん患者さんと接する機会があって、沢山のケースを見てきとるけん、もしかしたら平西さんの知りたいことに答えられることもあるかもしれんわ。何かあったらいつでも声かけてね。」

「ありがとうございます。」

 私は、自分がトリプルネガティブ乳がんであることや、診療室でさきほど尾田平先生に言われたこと、これから産婦人科に行くことなどを話した。




「…ちょっとこっちに来て、座りね。」

 路武さんは、ナース室の一角に私たちの椅子を用意してくれた。

「迷ってるんです。」と私は言った。 

「そりゃ迷うよね。ほかの乳がん患者さん、同じようにみんな悩んどるよ。平西さんだけじゃないよ。…とはいっても、平西さんは平西さんよね。」

 路武さんは、私の心に寄り添うべく、その距離を慎重に見定めながら、話をしてくれていた。




「あのねえ、尾田平先生は、やっぱり患者さんの命というのが、何より大事なんよ。患者として心の葛藤はいろいろあると思うけど、医師にとっては、そういうのも命あってのこと、っていう信念が強いんよね。強すぎるんかもしれんけど。だから、今、平西さんがそこに専念するというのは、悪いことじゃないんよ。」

「……。」




「私もね、平西さん。子どもおらんのんよ。今、夫婦ふたりで、人生楽しんどるよ!」

 路武さんは、笑顔のまま、明るくそう言った。




 産婦人科の方も予約の患者さんでいっぱいだったけれど、順番待ちは、あっという間だった。

 産婦人科の先生は、私たちに、今できることとして、「受精卵凍結」というものを紹介してくれた。いわゆる不妊治療の一つとされているもので、卵子をからだから取り出し、受精・発育させて凍結するというものだ。

 それなりに知識はあると思っていたものの、「受精卵」として凍結するためには様々なタイミングや成功要素が必要なのだということなど、改めて認識することばかりで、びっくりした。

 それに、金額のこと。

 こんなにお金がかかるんだ…。




 乳腺外科での状況を説明し、今のからだの状態をチェックしてもらったところ、「採卵ができるタイミングは約一か月後」とのことだった。

 一か月後。採卵ができても、受精卵として成功まで進むことができなければ、また次の一か月を待つ必要が生じる。成功する保証があるわけではない。

 正直なところ、自分自身がそこまで待つことに耐えられそうになかった。




 (どうしよう。)と私は思った。泣きたかった。泣けばどうにかなるわけじゃないのは、頭ではわかっていたけれど、心が追いつかなかった。

 産婦人科の先生も、「もちろん、平西さんの意思を尊重しますので、よくお考えになられて、決められてください。」と言った。




 尾田平先生の言った、「決めるのはあなたなんよ。」という言葉がそこに、重なった。




 私は、しんみりと、そして明確に、「お医者さんは、意思決定に関わってはくれないんだ」と実感した。彼らは医療のプロとして、病気を治したり、命を救ったりすることに最善の努力を尽くされているけれど、人生の決断に参加するわけではない。

 考えてみれば当然なことだ。だけど、私は、ひとりぼっちになった気がした。




 暗い闇が、繭のように私を包んでいった。