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凸と凹マガジン

凸と凹「登録先の志」No.9:池田光巳さん(社会福祉法人いぶき福祉会 法人理事・法人事業部長)

2021.02.08 07:30


障害のある子がいるだけで、こんなに大変なんだ


いぶき福祉会(以下、いぶき)に入って約10年になります。31歳の時に生まれた娘に障害があるとわかって、福祉の世界へ進もうと決めました。ただ、障害者福祉は福祉業界の中でもマイノリティで、求人も当時はほとんどなくて、まずは高齢者福祉の方へ進むことになりました。それまでは結婚式場でカメラマンをやっていたので、福祉の分野はまったくの畑違いで、初めてのことばかりでした。そこで10年ほど勤めた後に、いぶきの求人をたまたま見つけてここに来ました。今思えば40歳までとなっていた求人で、その3か月後には41歳になるところだったので、ギリギリの転職でした。

障害のある子を持つ親になると、同じ境遇の親同士のネットワークと自然に関わることになります。娘は特別支援学校に通うことになり、そこでたくさんの人からいろいろな話を聴きましたが、みんな同じように大変な思いをしていることがわかりました。

また、すべての人が、将来に対してとてつもなく不安を抱えている状況でした。思い返せば、私もいろいろと大変だった記憶がほとんどですし、明るい未来なんて想像もできませんでした。「障害のある子を持つだけでこんなに大変なんだ。この子たちの将来に対してこんなに希望が持てない社会なんだ。これは何とかしなきゃ。このままではこの子だけじゃなく、弟や妹といった他の子どもたちも困ってしまう」と痛感しました。とにかく、これから社会を変えていかないといけないと思いました。

いぶきは雰囲気がすごくよいです。「こういうことに困っているから、そこをなんとかしたい」と思ったことをカタチにすることができ、ここに入ってよかったと思います。いぶきに入って3年目の時に障害のある子どもたちの活動の幅を広げたいと思い、放課後等デイサービスを始めたのもそのひとつです。

実のところ3年経ったらいぶきを退職して、NPOを立ち上げてこの事業を始めるつもりでした。当時はまだ児童デイサービスと呼ばれていて、岐阜市内でも事業所が1か所しかありませんでした。障害のある子どもたちが、放課後に活動する場所がまったくありませんでした。家と学校を往復するだけで、お母さんたちは普通に働くこともできない状況でした。保護者の方の就労にもなるし、子どもたちの療育活動の場所にもなる。学校と家以外の第三の居場所ができることで、障害のある子どもたちの自立にもつながるし、本当によかったと満足しています。

事業がスタートした頃、「障害のある子がいると、どうしてもその子が中心となってしまうけど、他の子どもたちとの時間が増えてよかった」という話もありました。この時、娘は特別支援学校の中学部になっていました。自分自身が持っていた困りごとは、みんなが持っている困りごとだったんです。裏を返せば、みんなの困りごとを解決していけば、将来的に起こりうる自分自身の困りごとも減ることになります。

私の好きな映画で『ペイ・フォワード』という映画がありますが、それに似た感じでした。今の私に解決できることやできることをやっておけば、将来の子どもたちに必ず返ってくるはず。娘も20歳を過ぎたので、また次の問題を解決しないといけないと思っているところです。


家で暮らしたくても、家で暮らし続ける方法は限りなくゼロ


今も障害のある娘と暮らしています。障害のある娘本人に常にスポットライトを当てて暮らしていけたらと願っていますが、親である私の生活状況にすごく影響されてしまうのが現実です。それでも本人の望む暮らしを、いつか実現できればと思っています。

言語を発することができないのではっきりとはわかりませんが、おそらく彼女は家でずっと暮らしていきたいと思っているはずです。でもこの先、親が居なくなって、もし一人になったら、家で暮らし続ける方法は今のところ限りなくゼロに近い。彼女には弟と妹がいますが、それぞれも成長とともに一緒にいることはできない可能性が高い。そうなると、誰かの助けを受ける方法しかないけれど、そういった部分を埋めるサービスが今はほとんどありません。

幼少の頃から難病の筋ジストロフィーを患い、首と手だけしか動かせない障害のある方の人生を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』という映画でもありましたが、重度の障害のある人が自宅で一人暮らしをする現状はかなり厳しい。障害のある方が地域で一人で暮らしていくためには、社会全体を変えていかないといけない。社会を変えていくためには、理想として思っていることを、「こういう世の中にしていきたい」と伝えていく役割がすごく重要だと思っています。

私自身は発信力をそれほど持っていません。人の力を借りながら、今の困りごとや苦労していることを人づてで伝えていくしかないのかなと考えています。自分の思いを少しずつでも広げていきたいと思います。身近なところからしか、うまく伝えられる自信もありません。時間はかかるけれど、そこからどんどん広がっていけばよいと思います。

障害のある子を持つ親は、自分の働く事業所に我が子を通わせることが多いのですが、私自身は娘と関係のないところの方が働きやすいと思い、娘はいぶきとは別の事業所に通っていて、いぶきを利用していません。昨年度、いぶきでグループホームを建てるための寄付募集をしましたが、娘が違うところにいるので、親という立場ではなく、障害者福祉全体をよくしていきたいという思いで自分も動いていました。

数年前から障害者団体の全国組織「きょうされん」の岐阜支部の事務局長をやっています。いぶきの活動だけでなく、岐阜市などの県内で作業所を新たに作りたいという方のさまざまな相談に乗り、新規事業の立ち上げにも積極的に協力しています。私と同じように親の立場でNPOを立ち上げて、事業所を始めた方もいらっしゃいます。私としては、いぶきで新しく事業を始めることも、別の法人で新たな福祉サービスを増やしていくことも、障害者福祉全体で見ているので同じです。障害福祉に関わる方が増えれば増えるほど発信力が増え、社会を変えていく流れにつながっていくと信じています。


障害のある方と接点のない人にも協力してもらわない限り、活動はひろがらない


いぶきでは、障害のある人の意思決定支援に基づいた暮らしが実現できるように、本人にとことん寄り添う「いぶき寄り添いひろがるプロジェクト」を立ち上げて、寄付集めもしています。同じ状況の人には共感してもらいやすいですが、障害のある方と接点のない人たちにどれだけ共感してもらえるかが大事だと思っています。こういった活動はいろんな人に協力してもらわないと、プロジェクト名の通りひろがっていきません。どうやって活動をひろめていくのがよいか、効果的な伝え方がまだ見つからず、今も悩んでいるところです。

私自身も娘が生まれるまでは、障害のある人の暮らしについて考えたこともありませんでした。障害のある方は、年齢によって困りごとが変わっていきます。それらすべてをカバーするのは、ものすごく大変です。ライフステージによって変化する困りごとを、今後も自分自身の困りごととして解決していきたいと思います。

障害のある方が暮らしやすい社会になれば、自分たちも必ず生活しやすくなるはずです。社会的弱者と呼ばれる人が暮らしやすい社会は、みんなが暮らしやすい社会なんです。そんな社会づくりにぜひ参加してもらいたいです。


取材者の感想


実はもともと、市長になろうと思っていたという池田さん。政治から変えた方が早いのではと考えていたそうです。

「もし市長になったらやりたい政策は?」と尋ねてみると、「障害のある子が特別支援学校を卒業した後の行き先が本当にないので、受け皿をまず増やさないといけない。岐阜市の地域によっては受け皿の整備がされていないところもある。」との答えが返ってきました。

障害のある子どもの親である池田さんだからこそ気づける視点があり、それがいぶきの当事者意識にもつながっているのではないかと感じました。

池田さん自身も「限りなくゼロ」と話していた、障害のある娘さんのこれからの人生。当事者の方だけに任せるのではなく、どうしたら一緒に考えていけるのか。すごく大切な問いを投げかけていただいたインタビューでした。(長谷川)


池田光巳さん:プロフィール


社会福祉法人いぶき福祉会 理事・法人事業部長(施設長)

1968年、三重県白山町(現・津市)生まれ。大阪学院大学商学部卒。大学在学中は年間400本を超える映画を観ていたほどの映画好き。卒業後、フリーターを経て、結婚式場のカメラマンとなる。第1子誕生をきっかけに福祉業界へ転職。介護保険制度の混乱の中、社会福祉法人サンライフで介護職、事務職、生活相談員を経験し、2009年に社会福祉法人いぶき福祉会へ事務員として入職。経理、総務等を担当する傍ら、児童デイの立ち上げに携わる。18年より岐阜県社会就労センター協議会会長、きょうされん岐阜支部事務局長。




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