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造化随順(芭蕉)

2018.02.08 11:37

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6367699/   【造化随順(芭蕉)】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6372731  【芭蕉の精神形成  荘子と芭蕉】

http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda28.html【短歌の「伝統」について、その5】より「

>松尾芭蕉の紀行文「笈の小文」に、次の有名な一節がある。

西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道くわんだうする物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化ざうくわにしたがひて四時しいじを友とす。見る処ところ花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像かたち花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出いで、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。(『新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集2』小学館刊)

>「其の貫道する物は一なり。」という言葉は、「それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているのものは同一である」(全集訳)という意味である。芭蕉はこの言葉によって、すぐれた芸術家の系譜に、自分も俳諧により連なるという自負心を密かに内在させている。

>私はこの言葉に初めて触れたときに、「伝統」の本質を単純にこの言葉に仮託し、深く胸を打たれたことがある。しかし、改めてこの一節を読み直してみると、「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」という言葉から後の内容の方が寧ろ気になる。

>この言葉は「ところで、俳諧というものは、天地自然に則って、四季の移り変わりを友とするものである。」(全集訳)という意味であり、以下、見るものすべてが花であり、思うことすべてが月であるような生き方を実践し、「野蛮人や、鳥獣のような境涯から抜け出し、天地自然に従順になり、天地自然の根本のところに立ちかえ」(全集訳)ることを求めている。

>芭蕉の言うように俳諧が「天地自然に則って、四季の移り変わりを友とするものである」ならば、それは、和歌の精神にも合致する。また、冷泉貴実子さんが発言した、「季節感を共有するのが日本文化」であるという言葉にもリンクしよう。(本稿第27回参照)

>俳諧の「季語」はキーワードという言葉に単純化して語ることはできない。また、和歌の季節の言葉も同様であるだろう。それは、過去からの共同性と歴史性を内在化する精神性を象徴化した語彙である。

>芭蕉の言葉が図らずも語っているのは、俳諧の根本精神に、和歌の自然に対する詩性ポエジーが息づいていることではないだろうか。もちろん、それは、和歌と完全に一致するものではない。詩型の差異が自ずからもたらす、構造的な差異を勘案しなければならないものである。

>しかし、その差異を勘案したとしてもそこに貫流する精神には、自然に対する感応を「詩」に昇華する創作行為において、ある共通性が見出せるのではないか。また、そうであるならば、この側面から和歌と俳諧の「伝統」という問題を立てたとき、両者の「伝統」に関して、詩型の差異という事のみを殊更に特化することは良策ではない。いや、むしろ不毛であると言ってもいいだろう。

>短歌の「伝統」の問題は、和歌と短歌だけの問題として特化すべきではなく、和歌から派生した俳諧の問題としても同時に視野に入れておく必要があるのではないか。芭蕉という存在は、特にそのような思いを強く促す俳人である。

《補足》

>上に引用した一節に関しては、『荘子』の影響が指摘されている。特に、「其の貫道する物は一なり」は、『荘子』斉物論の思想、林註に基づくものとされる。また、この一節にはさらに、宋学の理一分殊の論理も働いていると考えられている。これは、「宋学にいう形而上的絶対者である太極は、それが何かのはたらきとして特殊な形をとるときはじめて認識できるのであり、逆にいえばすべての事象は一つの太極に帰一するとの思想である。」(『総合芭蕉事典』項目執筆、野々村勝英 雄山閣刊)。

>この思考法は当時よく知られていたものであり、芭蕉は芸術家のあるべき姿として、このような「造化随順」を説いたとされる。「(前略)すべての芸術を貫く精神を宇宙の創造力に帰一するところに認め、この創造力と一体となって四季の運行変化のごとく停滞することなく自己脱皮を遂げようというのが、造化随順の考えである」(同上)。

>以上のことを踏まえると、芭蕉の言葉は広義の芸術理念と根本精神を語ったことになるが、その内奥に和歌から俳諧へと継承された「伝統」をも内包していると考えたい。


自己脱皮とは 時々刻々死と再生を繰り返すということなのでしょうか?造化従順とは 固定観念から自由になり、自然に共鳴するということなのでしょうか??


http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-change.html 【荘子に見られる「変化」について】

「荘子」に見られる「変化」全般に関する見方を整理してみたいと思います。

まず最初に、私たちの生活に見られる変化を見てみますと、自然環境変化には、周期的な変化、突発的な変化、生物の種の生長と生き残りのための諸変化が見られます。

一方、 人間社会の歴史には諸革命や諸事変などが挙げられます。

個人・人間生活の変化には、 毎日の成長変化、生病老死による変化、また、 人間の意識や思いや認識に関する精神面の変化も見られます。

変化の例           一般的な変化の内容

周期的な変化     昼夜の変化、月の満ち欠け、四季の変化など

突発的な変化     天気・気候変動、干ばつや水害、噴火や地震など自然災害

生物の生長変化    変身、脱皮、変態、羽化など

自然・社会環境変化  産業・文化革命、戦争・事故、温暖化、高齢化、造化、風化

人間の成長変化    諸技術の修得・目標達成の過程に見られる向上変化、教化、同化

人間の身体変化    生病老死による変化・変身、化身、化粧

人間の精神変化    夢、悟り、生き方、信条、人生観における変化

以上、様々な事例を挙げましたが、そこには、予測できる変化と予測できない変化があります。予測や予知できる変化に対しては、変化への肯定・拒否の反応が見られます。

私たちは事前に準備したり、予防したり、学習したり、遊んで楽しむことができます。

しかし、予測困難で、不可避な自然災害や人災や、生涯に出会う生病老死による変化、即ち、戦争や事故や病による身体や精神の変化、あるいは死の接近などは重大で深刻な課題となります。

このとき、どのように変化していくか分らない変化の途中においては不安感が伴い、その変化を受け入れる過程には、因循、覚悟、解脱、達観が見られます。

さて、本題に入ります。

「荘子」には、化、造化、物化、死生観に関する人間模様の「変化」が描かれています。

それでは、まず、荘子に見られる「変化」に対する二人の学者コメント例を紹介します。

前田利鎌「臨済・荘子 」より

自生自滅していく変化ないしは作用だけが真実、・・・。この生滅変化の道のみが永遠である。この永遠の流転たる道を、荘子はまた大槐、天籟、大通、造化、命、物化、化、時、陰陽、天とも呼んでいる。しかし結局この道は渾沌なる言葉が語っているように、何の秩序も統一もない非合理極まる流転である。(p176)

 南伯子葵との問答に見られる悟りの変化を語り、万物流転の純粋観照であるに触れ、この一如の境が同時にかの道を全体的に把握しながら、しかもその変化と冥合しつつ転じているの立場なのである。・・・そしてこの達者の境地が「化に順う」ところの解脱である。この解脱を荘子は独特の言葉で、「懸解」と呼ぶ。懸解とは、個体的迷想によって自ら首をくくっている紐を解きほぐす意味である。(p192)

 方生方死方死方生というように、彼は確かに死は更に新しい生の初めであると考えていたのである。しかし、その死後の生たるや決して、いわゆる霊魂不滅とか永生とかいうのではなく、この現実の世界に生命の種々相が分散離合しつつ、果てしなく変化を続けていくという意味に外ならない。 養生主篇の結句は、・・・火とも言うべき道の不断流動を指すのである。一見したところ、仏門にいう輪廻転生と類似するが、同一ではない。・・・善悪の彼岸に立つ荘子には、何らの罪悪感も介在していないし、個体的に持続する魂などというものは更にない。形体も心も、悉くの存在が、時々刻々に変化して止むところがないのである。(p216-217)

 「これ遊ぶところのみ」である。一切は刻々に変化していく火の戯れであって、一としてわれわれに楽しみを与えないものはない。道は平等に一切の変化を摂取している。われわれもこの道に順って、摂取不捨の雅量を持たねばならない。(p218)

 荘子の精神の最後の帰一点は彼のいわゆる「道」である。結局「その尭(ぎょう)を誉め、桀(けつ)を誹らんよりは、両つながら相忘れて、その道に化するに若かず」というのが『荘子』の一巻の結論である。 物として可ならざるなく、物として然らざるものなきが故に、随時、随所にその変化を楽しむ―--荘子はこれを「物化を楽しむ」という。(p231)

大濱晧「荘子の哲学」より(p27)

 変化こそ不変の真理、流転こそ万物の真相で、これが荘子のいう「化」の思想である。

 変化は時々刻々におこる。それは「将らず迎えざる」現在における変化である。現在の事物の変化以外に現在はない。現在は変化そのものである。「化」の思想にもとづく死生観こそ荘子独特の思想であった。

結語より抜粋(p429-433)

 荘子において、生死は自然必然の「化」のあらわれである。 化は一気の聚散(しゅうさん)、つまり生死は循環する。・・・生死は因果関係にあるのではなく、生と死は別個のものとして分離することはできない。生といい死というのは渾然とした生命現象の半面を抽象化したものである。死は生とともに実存の一部をなす。このような意味で、生と死とは一つである。・・・生死をともに肯定するというのも斉物論の斉同の理に基底がある。(天道篇、刻意篇に見られる)死するや物化なりというのは、斉物論篇の胡蝶の夢における夢覚を物化といったことと通じる。死生も夢覚も自然必然の化に統一されるのである。

 荘子は養生を説く。生物がその生を全うするには「養う」ことが必要。生物はそれぞれ養う方法も異なるが、養う方法は生の理にもとづくもので、それには一貫する不変の道がある。無心に自然必然の理にしたがい、化にしたがうとき、純粋な精気が発動し、それがさらに発動を生み、不断に生の根源に帰って、日々に新たなる生命を生む。そのとき生はむだな消耗をさけることができる。これが養生である。人間がその生を養うには、虚心無心と、本来性の保持と、自然の理、必然の化への随順ということが必要である、と。

 荘子は、時を無限に循環する流れと見、運命的なものと見る。そして、時の構造を現在・過去・未来と考える。時は荘子において空間とむすびつき、それは計量され測定されるような時間でもなく、知覚の対象になるような時間でもなく、等質化された時間でもなく、それは行為と一体になっている時間であった。ところで荘子は、生死を自然必然の「化」のあらわれと考え、生と死を分離できないものと考え、また人間として生まれることは必然の化の中の偶然に過ぎない、と考えた。人間生命の貴さを語り、養生を説くのは、生死の偶然性を重視しているからである。それは、現在時を重視することに通ずる。

 荘子は「来世は待つべからず。往世は追うべからず」(人間世篇)という。たのむべきは現在以外にない。「将らず、迎えず」(応帝王篇)という。これは、現在に立ちながら現在を超える立場である。現在に立って過去にも未来にも拘束されない自由の立場である。この充実した現在に立つ自由な立場から「時を心に生ず」(徳充符篇)という主体的行動的な時間の創造ということがでてくる。それは現在における自らの世界の創造にほかならない。

 時を無限に循環する流れとみること、運命的なものとみることは、斉物論篇の「化」の思想につながる。時はすべてをおし流す自然必然の推移であり、そして自然必然の推移こそ「化」にほかならないからである。ところで、荘子は、斉物論篇で「化」への因循、自然必然の変化への随順を説く。しかるに一方では主体的な時間の創造、自己の世界の創造をいう。因循と創造とは一見矛盾するように思われるが、矛盾ではない。因循は盲目的な服従でもなく、消極的な自己否定でもない。絶対知にささえられた、主体的な自己制御である。

 「化」に因循し、「化」と一体になるとき、そこには何の障碍もなく消耗もない。この充実した自由の境地にこそ、自己の世界の創造が可能であった、と。

さらに、荘子の万物斉同と因循主義についての2つの記事を紹介します。

荘子の万物斉同と因循主義について

金谷治:荘子;岩波文庫;内篇解説より抜粋

 荘子の人生哲学は因循主義で一貫している。それを基礎づけるものが万物斉同の哲学であった。

 因循というのは、因り循うということ。斉物論篇の「是に因る」、養生主篇の「そのもとより然るものに因る」徳充符篇の「常に自ずから然るものに因る」などというのがそれで、「座忘」とか「喪我」ともあるように、自己を放ち棄てて絶対的なものに心身をまかせきるのである。死んで生きかえるという、宗教的な解脱の境地がここにはある。

 ただ、その絶対的なものとは、ふつうの意味の神ではない。「もとより然る」とか「自ら然る」といわれている因るべき対象は、確かに人間のはたらきを超越して存在するものではあるが、むしろ万物の存在をつらぬく理法としての性格が強い。万物はそれぞれがあるがままにあり、・・・「自ら然る」ことによって、人間にとってどうしようもない必然的なものになっているのである。・・・・・

 さて、この因循主義をささえるものとして、万物斉同の哲学がある。それは、主として斉物論篇にみえるもので、この現実世界の対立差別のすがたをすべて虚妄としてしりぞける立場であった。・・・・・・・ 人としての生き方は、従って、現象にとらわれて相対的な価値を追求することをやめて、絶対的な「自ら然る」道理に身をまかせてゆくばかり、それこそが因循主義であった。・・・

 有限な存在としての微小な人間は、それによってその有限性を脱出する。現実のわずらいから解放され、とらわれのない自由な精神で世界を飛翔することが可能になる。逍遥遊篇で語られる大鵬の飛翔という美しい比喩こそ、そうした境涯をのべたものにほかならない。

大濱晧:荘子の哲学 より 再度抜粋

 ところで、荘子は、斉物論篇で「化」への因循、自然必然の変化への随順を説く。しかるに一方では主体的な時間の創造、自己の世界の創造をいう。因循と創造とは一見矛盾するように思われるが、矛盾ではない。因循は盲目的な服従でもなく、消極的な自己否定でもない。絶対知にささえられた、主体的な自己制御である。「化」に因循し、「化」と一体になるとき、そこには何の障碍もなく消耗もない。この充実した自由の境地にこそ、自己の世界の創造が可能であった、と。

以上を総括して、

「荘子」に出てくる変化に関わる表現形について

 自然の営みの中には、刻々に流れる時間とともに生滅変化をくり返していく自然の本性、真実の道のはたらきがある(天運篇)。道とは大いなる渾沌(大宗師篇)であり、万物の生成流転する大いなる変化の流れ(田子方篇)である。そして、それは、変化転生循環の作用をもち、無窮の変化を生み出すはたらきをもつ。この「道」に関わる同類語として、「化」、「物化」、「造化」「時」などが挙げられる。そして、変化こそ不変の真理、流転こそ万物の真相。現在は変化そのものである。

 悟りの過程に見られる変化、道と一体になる「道に化する」境地、自然の変化や運命に随順する境地、「道に順う」、「化に順う」ところの解脱が「懸解」と呼ばれる。そして、「死生」も「夢覚」も自然必然の「化」のあらわれとしてともに肯定される。

 時の構造を現在・過去・未来と考える。時は荘子において空間とむすびつき、それは計量され測定されるような時間でもなく、知覚の対象になるような時間でもなく、等質化された時間でもなく、それは行為と一体になっている時間であった。

 荘子は、たのむべきは現在以外にないという。「将らず、迎えず」という。これは現在に立ちながら現在を超える立場である。過去にも未来にも拘束されない自由の立場である。それは現在における自らの世界の創造にほかならない。

 さらに、随時、随所に「物化を楽しむ」境地、「化」に因循し、「化」と一体になる「自由の境地」にこそ、「自己の世界の創造」が可能となる。

 因循と創造とは一見矛盾するように思われるが、矛盾ではない。因循は盲目的な服従でもなく、消極的な自己否定でもない。絶対知にささえられた、主体的な自己制御であるからである。

 以上を見てくると、「変化」という大きな概念は、「道」と一体になって、そこには、遊の思想、斉同の思想、養生の思想、生き方と死生観の思想が複合しているように思われます。(以下略)