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Okinawa 沖縄 #2 Day 82 (15/02/21) 旧真壁村 (5) Makabe Hamlet 真壁集落

2021.02.17 07:03

旧真壁村 真壁集落 (まかべ、マカビ)


旧真壁村 真壁集落 (まかべ、マカビ)

旧真壁村の行政の中心地で、役所・学校・郵便局が置かれた。テラヤマと呼ばれる石灰岩の丘陵を背に南西向きに集落が広がる。かって真壁・名嘉真・田島の3つのムラが合併してできたといわれている。

旧真壁村の中心地あっただけあり、人口は一番多い。これは間切が造られてから続いている。

しかし、旧真壁村の他の集落と同様、近年の人口減少が課題になっている。現在の人口は明治時代の人口に比べ20%ほどしか増えていない。ここ20年では12%もの人口の減少。

民家の分布については1994年まではほとんどの民家が元の集落内にあり、その周りにだけに拡張されているが、2000年以降は集落から離れた場所に民家が増えている。その反面集落内の民家 (世帯) は減少の傾向。集落内のすべての路地を走り、その状況を見ると、この集落も空き地や空き家が見だっていた。

集落内の沖縄赤瓦の平屋


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の真壁集落の文化財


文化財訪問ログ


真壁集落へは奥武米須線で大里集落を抜け、東に新垣集落、西に真栄里集落を過ぎたところの丘陵地の南斜面に向かう。文化財はこの奥武米須線沿いにあるものから巡る。


工ーシマシ

真壁集落の似たの外側に井戸跡がある。畑の一角にある湧水で草木に覆われて、すぐにはわからない。サトウキビ畑の中にある。かつては集落北の丘陵にあった真壁グスクの人々が生活用水に使ったと伝わっている。現在は字内外の人から拝まれているそうだ。

ここに着いたときに、道路沿いに蛇が死んでいるのに遭遇した。車にはねられたのだろう。色鮮やかな模様なのでハブではなさそうだ。文化財巡りでは鬱蒼とした林の中に入ることが多いので、事前にハブに関しては事前に調べて、注意はしており、沖縄県が配布しているハブ注意と対応方法のパンフレットはスマートフォンに入れている。沖縄では年間に50-60件程ハブ咬症被害があるが死者は出ていない。この蛇はハブではないのだが、この光景を見るとハブに対して再度注意せねばと気を引き締めた。そろそろ暖かくなってきているので、ハブはじめ蛇の行動が活発化し始めているのだろう。この蛇は沖縄や奄美諸島に生息するアカマタという蛇で毒は持っていない。ペットとして8,000~10,000円で取引されているそうだ。


按司墓 (アジバカ)

工ーシマシから未舗装の農道を行くと集落のはずれ南東部分に雑木林がある。ここに勝連から移ってきたといわれる初代から5代目の真壁按司が葬られていると伝わる古墓がある。確かに御願用の5セットの茶碗がそれぞれの墓の前に置かれている。ここに葬られている真壁按司がどの時代の按司の事なのかは調べられなかった。三山時代には真壁按司は南山に属し、八重瀬按司であった汪英紫 (1388 - 1402年) の家臣として同盟関係にあったと思われる。汪英紫が南山王であった承察度を追放し、実質上南山王となった際、八重瀬按司を長男の達勃期に譲り、真壁按司も達勃期に仕えたと考えられる。汪英紫が亡くなった後、長男の達勃期と次男の汪応祖の間で王位を争うが、1407年に真壁按司は米須按司、具志頭按司、伊敷按司、与座按司、玻名按司と共に達勃期を裏切り、汪応祖側に味方した。この時の真壁按司は具志頭按司の娘を娶っており、その娘は伊敷按司に嫁いでおり、この真壁按司、具志頭按司、伊敷按司はお互いに親戚関係で強いつながりがあったのが共に汪応祖への寝返りの行動になったのだろう。この墓が歴代真壁按司のものであれば、この三山時代の按司のものではないだろうか?


大井泉 (ウフカー)

按司墓 (アジバカ) から農道を進み、真壁集落の西の入り口に着く。ここにかつて井戸があった。大井泉 (ウフカー) ト呼ばれていたが現在は井戸は埋められてしまい小さな祠が造られている。この場所にはちょうど細い川が流れており、そのほとりにあったのではないだろうか。かつては数段の石段を下りたところに水場があり、首里から来た人が作った香炉もあったそうだが、詳細は不明。


ナマンガー

大井泉 (ウフカー) から、数十メートル西側にもいどがあったそうだ。ナマンガーと呼ばれ、かつて四角く掘られた水場があったが、現在は埋められている。


手登根井泉 (ティルクンガー)

大井泉 (ウフカー) の場所からもう一つ井戸跡が見える。(写真右下) 手登根井泉 (ティルクンガー) と呼ばれ、当時の井戸の形が今でもわかるが、井戸自体は埋められてしまっている。埋められた井戸の場所には御願用の香炉があった。(写真下中)  当時は周辺の人々の生活用水として利用されていたが、水量は少なかったという。


真壁馬場跡、前道 (メーミチ)、真壁村役場

大井泉 (ウフカー) と手登根井泉 (ティルクンガー) がある道路は県道54号線で、集落の南側に沿って伸びている。この道路はかつての前道 (メーミチ) で、古くは競馬が行われた馬場 (ウマーィ) があり、明治時代には運動会や集会が行われ、今は十五夜 (ジューグャー) の綱引きが行われている。馬場には真壁村役場が隣接していたが、現在はその場所は郵便局が建っている。かつての真壁村役場は石垣で囲まれており、役人が馬場で行われる行事を見るための物見台としても使われたという。


新井泉 (ミーガー)

真壁馬場跡を越えたところ、集落の南に別の井戸跡がある。新井泉 (ミーガー) と呼ばれ生活用水として使われた井泉だ。新井泉 (ミーガー) と呼ばれているので比較的新しい井戸なのだろう。かつて、水場は現在の地表より数m下ったところに作られており、この井戸の少し東にあるシラカーと地下で繋がっているといわれる。


サータヤー跡

旧真壁村には12のサーターヤーがあった。3つは先ほどの大井泉 (ウフカー) と手登根井泉 (ティルクンガー) の間にあり、更に3つは集落の北にあり、残りの6つは前道 (メーミチ) の南にあった。この一番大きなサーターヤー跡は現在は真壁児童公園になっている。


鍛冶屋小堀 (カンジャーヤーグムイ)

サータヤー跡の西には鍛冶屋が仕事に使ったことからその名がついたと考えられるクムイ (溜池) があり、湯灌や野辺送りの帰りに手足を洗うためにも使われたそうだ。戦後は糸満市立三和中学校の敷地となり、大部分が埋められている。この三和中学校は昭和21年に旧真壁村、旧喜屋武村、旧摩文仁村が合併し三和村が始まった2年後の昭和23年に開校下。現在でも旧三和地区 の唯一の中学校で、学校区がかなり広域にわたっており、喜屋武や摩文仁からは4-5kmの距離があり、以前は徒歩であったろうから通学は大変だっただろう。 


白井泉 (シラカー)

サータヤー跡の東には集落東部の人々が飲料水などに使った、清らかで水量豊富な白井泉 (シラカー) がある。現在でも農業用水として使われている。水不足の時は西部の住人も水を汲みに来たそうだ。戦後間もなくまでガマ (洞穴) があり、真壁住民避難壕として使われていた。水を汲みに来て米軍の砲撃を受けて多数の犠牲者が出たという証言がある。老朽化が進んでいるのか、井戸へは立ち入りが禁止されていた。


万歳井泉 (バンザイガー)

前道 (メーミチ) を東の端まで走ると、道の南側に出島のように民家が集まっている一角がある。そこに真壁集落の一部で、万歳井泉 (バンザイガー) と名付けられた比較的新しい井戸がある。これは自然の井泉ではなく、1905年 (明治38年) に造られたもので、かなり深く掘り下げられている。水は崖の下から湧き出ているため、汲むには西と東の二つある階段を上り下りしなければならず、苦労したという。給水パイプが敷かれているので現在も使用している。この南側は一面農地になっており、農業用水として使われているのだろう。


村屋、村屋ヌグムイグヮー

次は集落内の文化財を見ていく。なぜかはわからないのだが真壁集落内には文化財はほとんどない。殿 (トゥン)、風水 ()、石獅子など他の集落ではよく見かけるものはなく、門中の神屋だけだ。この真壁村については村史などは編集されておらず、村の成り立ちを紹介している文献などは見当たらず、その理由はわからなかった。 真壁集落は真壁、名嘉真、田島の3つのムラが合併してできたといわれているので、それが理由の一つではないかとも思える。かつての村屋は真壁コミュニティ センター (公民館) となっている。公民科の前は広場になっているが、この場所には溜池のあった。かつてはこの溜池で水浴び、洗濯などが行われ、住民が集まる場所だったのではないだろうか。公民館の前の南北の道は綱引きで東西の組を分ける線になっている。


上長尾 (ウィーナゴー) の神屋

村屋の前の道を北に丘陵側に向かうと集落の北側にガイドブックで紹介されている神屋がある。神屋はどこの門中でも設けているので珍しくはないのだが、北には集落の有力門中が屋敷を構えていることが多い。この神屋は上長尾 (ウィーナゴー) 腹のもので、根神 (二ーガン) と根人 (ニーチュ) を出したというので、集落のリーダー的な家であった。現在屋敷跡は空き家になって神屋だけが建っている。


新屋 (ニーヤ)

上長尾 (ウィーナゴー) の神屋の近くに真壁ノロを出した家の神屋がある。1990年代末にノロの継承が途絶えた後、2000年代にノロや先祖を祀る神屋が建てられた。この場所も空き地になって神屋だけが建っている。


アンガー

上長尾 (ウィーナゴー) の神屋から1ブロック東に井戸跡がある。初代真壁按司が勝連から真壁に移ったとき、初めて居を構えた場所と伝わる。この井戸はガマの中にある湧水で、石の階段をガマの中に降りていく、天井からは水がしたたり落ちて、階段は濡れて滑りやすい。注意しながらゆっくりと降りると、底に井戸がある。井戸から更に奥にガマは通じている。約250mも続いているそうだ。井戸からこの通路に水が流れ出ており、暗く足場が非常に悪いのでこれ以上中に入ることは断念。沖縄戦当時はは避難壕などとして使われていたが、第24師団野戦病院 (山3487) の分院として使われた。ここでも日本兵によって赤ちゃんが絞め殺されたなど、日本兵の住民の虐待の証言が多く残っている。米軍によって火焔放射の攻撃を受けたそうだ。


宇江 (ウィー) の神屋

アンガーの場所から宇江 (ウィー) の神屋が見えている。宇江 (ウィー) 腹は真壁按司の子孫で、真壁の国元 (クニムトゥ) といわれている。初代真壁按司は勝連から来たといわれ、勝連の先祖と真壁ムラができたころの先祖を祀っている。ここには人が住んでいるので道路からの撮影。


法衣屋 (ホーイヤー)

王国時代に真壁宮の住持となった僧侶が住んでいた場所に建つ拝所で、ホーイは袈裟 (法衣) のことといわれる。僧侶が兼元 (カリムトゥ) の娘を妻にした縁で、兼元が管理している。と架設されているのだが、ここで僧侶とはどの宗教の僧侶なのかは書かれていない。琉球王朝時代と言われているので仏教の僧侶であったのだろう。ただこの後に訪れる真壁宮はどうも明治以降は神道に強制的に変えられてしまい仏教色は全く感じられない。


法衣屋 (ホーイヤー) 腹の墓

先日、訪れた宇江城グスクがある丘陵の北側斜面に法衣屋 (ホーイヤー) 腹の墓がある。トーシー (当世) 以外にも丘陵の崖にはムトゥト―シー (元当世) やアジバカ (按司墓) が残っている。 


東仲間 (アガリナカマ)

真壁集落の前に存在した名嘉真ムラのノロである名嘉真ノロが、ウマチーなどの祭祀を行った拝所。名嘉真ムラがどこにあったのかは書かれていないのだが、拝所の正面右の祠は、名嘉真ムラの跡にある拝所を遥拝するためのものと書かれていたので、この場所は名嘉真ムラが合併で真壁集落になった後に設けられたのだろう。


金城増治家住宅

明治時代に沖縄の伝統的な形式を踏襲して建てられた屋号 喜納 (チナー) の住宅で、沖縄戦でも奇跡的に焼けずに残った貴重な家屋で、国の有形文化財に登録されている。ここは当時の三和村長の金城増太郎宅で戦後はしばらくの間役場として使用し、戦後復興の拠点となった。1996年にこの家に住んでいる方がカフェレストランとして開業し、この住宅を構成にも残そうとされている。このカフェは沖縄では有名で、糸満の観光案内には必ず出てくるグルメポイントだ。中に入って沖縄そばでもと思ったのだが、生憎、今日、月曜日は定休日だった。


龕屋

集落が終わる北の端、真壁市営住宅 (全12戸) の横に倉庫のような建物があるが、ここは龕屋だそうだ。 この中にはかつて使っていた龕が保管されているのだろうか? 真壁集落では旧暦8月8日には龕甲祭 (龕屋祭) が今でも続いている。旧真壁村で今でも続いているのはこの真壁集落だけだ。この日はこの場所に集まり無病息災や地域の発展の御願を行っている。


ターチューグムイ

龕屋がある裏側がかつてはムラの溜池 (グムイ) があった。現在は溜池の形は残っていないが水は溜まっていた。


真壁国民学校、国民学校農場

真壁集落の北西の端には国民学校の跡地がある。国民学校の隣には国民学校農場の併設されていた。1941年 (昭和16年) に教育方針が個人主義から国家主義的な皇国民の練成に変わり、それまでの尋常小学校から国民学校に変更された。これは1947年 (昭和22年) に小学校に戻るまで続いた。戦時下になると隣接された国民学校農場には農作物が生産され軍部に協力体制が強くなった。


萬華之塔

集落を北の外れに沖縄戦の慰霊碑の萬華之塔が建てられている。沖縄戦後、真壁集落に戻った住民が共同作業で周囲に散乱していた遺骨を集め、1951年 (昭和26年) に建立した納骨堂に安置して、萬華之塔と名付けられた。納骨堂の中には現在も無名の戦没者が眠り、毎年6月22日に字主催の慰霊祭が行われている。ここには1万9200人余が祀られており、このあたりでの犠牲がいかに大きかったがわかる。

この塔の周りは、非常に多くの旧日本軍、兵士の慰霊碑が建っている。萬華之塔が建てらえた後、この地を訪れた遺族たちが、各々、自分たちに関係ある隊や兵士の慰霊碑を建てたのだろう。この真壁集落でも旧日本兵による住民の虐待が発生しており、地元住民の日本軍に対する感情は決して良いものではなかったので、複雑な思いを抱く県民がいるのも確かだ。萬華之塔の周りに旧日本軍に係わる慰霊碑が建てられたことには異論をはさむ人もいる。ただ、虐待を行ったのはすべての日本兵ではなく一部の兵士たちでもある。この地で戦い死んでいった日本兵も好んで戦地に来たのではなく、同じく戦争の被害者で、その遺族は沖縄で生き残った遺族と同じ無念を抱いている。その遺族が、父や兄弟や息子が散っていったと場所に永眠を願い慰霊碑を建てた気持ちも理解できる。沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑、独立重砲兵第百大隊 (球一八八〇四部隊) 鎮魂碑、砲兵山吹之塔 (野戦重砲兵第一連隊)、鎮魂 山3480部隊 (野砲兵第42聠隊) 終焉之地碑、馬魂碑 (軍馬の慰霊碑) などの日本軍の部隊慰霊碑のほか、個人軍人の慰霊碑や墓が多くたっている。

  


アンティラガマ (真壁千人壕)

萬華之塔から奥に通じる道があり、その突き当りには自然涸穴のアンティラガマ (真壁千人壕) がある。当時、ガマ内部は全長約250mもあり、地元民や他の地域の住民も多数避難し、その中には日本兵もいた雑居壕だった。しかし、戦況が悪化するにつれ、日本軍の命令により住民は追い出され、砲兵部隊の陣地となった。1945年6月20日に、アメリカ軍に包囲され、ガマにいた部隊は全滅。その後、再度住民と敗走日本兵の雑居避難壕となったが、アンティラガマには水源が無く、近くのターチューグムイやアンガーから水を汲んでいた。隠れていた住民は、砲撃の止んでいる間をみて、水汲みに行くのだが、そのまま犠牲になった人が多くいた。戦況の悪化により避難民が多くなり、(1000人以上にもなったとの証言もある。当時の集落住民が529人と記録されているので、集落外から逃げてきた人たちが多くいたことがわかる) ガマの奥へと避難区域を広げた際にガマの奥に湧水を発見したそうだ。1945年7月にはアメリカ軍の火炎放射により、入口付近で多くの犠牲者が出てしまった。この真壁集落には日本軍が陣地を築いていたので、米軍の攻撃目標となり、住民の犠牲者は住民の45%の高い率になってしまった。犠牲者の比率は日本軍がいたかどうかで随分と異なっている。

ガマへの道には当時の日本軍が造ったのだろう物が見られる。

ガマへ入ると、比較的広く天井の高いところになっている。ここにはここに避難していた住民か日本兵の遺留品と思われる食器のかけらが残されている。

この広場から更に奥へと通じる狭い通路があるのだが、その入り口には立ち入り禁止の札がかかっていた。この場所からライトで中を照らしたところ、蝙蝠が一匹飛び出してきた。それほど大きな蝙蝠ではなかったようだ。以前に沖縄固有種のオオコウモリを見たが、それではないようだ。


ノロ殿内 (ヌルドウンチ)

真壁グスクがある真壁公園ン入り口前は、かつての真壁ノロの居住地だったそうだ。今はこの辺りは民家はなく、かつての屋敷跡地にコンクリート造りの拝所だけが建っている。戦前は瓦葺きの建物だったそうだ。ここにノロ殿内 (ヌルドウンチ) があったということから想像するに、現在の集落形成の前はこの辺りから以前の集落が始まったのでh内科とも想像できる。


真壁公園

真壁集落を抜け北の丘陵への坂道を登り切ったところに真壁公園がある。ここは真壁グスクがあったところで、現在は公園になっている。公園内には真壁宮、真壁殿、真和の塔、満霊之塔がある。


真和の塔

真壁公園に入るとすぐに慰霊塔が目に付く。沖縄戦の戦没者の慰霊碑で真和の塔と呼ばれている。第24師団の野砲兵第42連隊や第62師団の野戦高射砲第81大隊の戦没者慰霊碑で、この真壁城跡の岩山を地域住民を投入し砲台を築き砲兵隊の陣地としていた。しかし、1945年6月中旬、米軍の圧倒的優勢な砲爆により手持ちの火砲全てを破壊され、動ける兵士全てが白兵斬り込みを敢行し玉砕したとつたわっている。祀られている150余名の犠牲者の中には沖縄の学徒隊も含まれている。

この慰霊碑がある場所には寺山壕と呼ばれた陣地壕がつくられたのだが、現在は崩落してしまっている。何かその遺構があるかと慰霊碑の奥にはいっていくと、ガマの口之ようなものがあり、墓跡なのか祠が造られた拝所と岩の前には香炉が置かれていた。


満霊之塔

満霊之塔は、大東亜戦争終結50周年にあたり、1996年3月に糸満市遺族会により建立され、明治以降、アジア・南方諸地域及び沖縄戦における糸満市出身の戦没者11,700柱以上が祭られており、毎年11月に慰霊祭を開いている。満霊之塔は高嶺、三和、糸満、兼城の4支部で構成されている遺族会が管理していたが、遺族の高齢化で清掃など管理が難しくなり、2015年以降は糸満市で管理されている。


真壁グスク

真壁グスクは南山城の出城として築かれ、真壁按司の居城とされている。今日前半で訪れた按司墓で触れたが、勝連から移ってきた人が初代真壁按司といわれる。八重瀬按司であった汪英紫 (1388 - 1402年) の家臣として同盟関係にあったと思われる。汪英紫が南山王であった承察度を追放し、実質上南山王となった際、八重瀬按司を長男の達勃期に譲り、真壁按司も達勃期に仕えたと考えられる。汪英紫が亡くなった後、長男の達勃期と次男の汪応祖の間で王位を争うが、1407年に真壁按司は米須按司、具志頭按司、伊敷按司、与座按司、玻名按司と共に達勃期を裏切り、汪応祖側に味方した。この時の真壁按司は具志頭按司の娘を娶っており、その娘は伊敷按司に嫁いでおり、この真壁按司、具志頭按司、伊敷按司はお互いに親戚関係で強いつながりがあったのが共に汪応祖への寝返りの行動になったのだろう。汪応祖が達勃期に殺害された後は達勃期側に寝返っている。汪応祖の嫡男の他魯毎が達勃期を滅ぼした後、達勃期側に着いた按司の居城を攻め、この真壁グスクも他魯毎に攻められ真壁按司は投降し開城となった。真壁按司は処刑され、他魯毎の妹婿の若按司が跡を継いでいる。

この真壁グスクには伝承が残っている。「真壁按司は愛馬の白馬を飼っていたが、その白馬の評判は近隣に広まり、国頭按司が譲ってほしいと頼んだのだが、真壁按司がそれを断ったことから国頭按司との間に争いが起こり、弟である垣花按司に救援を依頼し迎え撃つも真壁按司は戦いに敗れた。忠義心の厚い白馬も主人の後を追って死んでしまったという」


真壁宮

真壁グスクは三つの郭で、構成されており、三の郭には真壁宮や真壁之殿が建っている。真壁宮は琉球王国時代に真壁按司の子孫が建立した拝所で、9月にティランメーといって、家族の健康祈願や、ムラの人が生まれたり亡くなったりした報告をするほか、県内各地から多くの人が参拝に訪れる。もともとはは真壁宮のカー (井泉) の前に瓦葺きの建物の社殿があったが、昭和50年代に現在の場所に移されている。先に訪れた法衣屋 (ホーイヤー) 腹の祖先が僧侶で真壁宮の住持だったとある。琉球王朝時代は仏教を国家仏教としてを保護していた。第一尚氏第一尚氏の六代尚泰久王や第二尚氏三代尚真王は非常に熱心に仏教に帰依していた。当時の仏教は一般人の宗教ではなく王家など特権階級の宗教であった。それだけ、寺を建立することは社会的に特別なものであっただろう。ここに説明板が二つあるが、書かれていることは同じではない。この二つを合わせると、この宮が造られたのは三山時代で、真壁按司の子孫の首里大屋子が、国頭按司に敗れ戦死した場所で霊石を見つけ、祠を建立し、弁財天と真壁按司の霊石を祀ったと伝わっている。この時には小さな祠だったのではないだろうか。まだ琉球古来の祖先崇拝が主であったと思われる。その後、17世紀末に臨海時頼久和尚が熊野権現を合祀し、村人が社殿を寄進したとある。この時代は神仏習合の時代で、熊野権現自体、神道の神と仏教の観音、如来、菩薩を同一視していた。この時かその後、琉球八社の沖宮の末社となっている。現在は、真壁宮は天照大神を祀っている神道になっている。明治以降琉球王朝の後ろ盾を失った仏教寺院は多くが廃寺となっている事や、明治政府は神仏分離を行い、国家神道の普及に力を入れていたので、ここにあった寺が神道に変わっていったのではないだろうか。天照大神を祀った神道のお宮がある理由は琉球八社の末社となった事が理由と考えられる。末社でなかったなら、他の拝所と同じく霊石や火の神など、琉球古代宗教のものであったろう。


真壁の殿 (トウン)

公園となっているグスク跡の隣に屋敷があった真壁ノロがウマチーを行った場所がこの真壁の殿 (トウン) で、カミンチュ (神人) たちが、一緒に集まったムラの人々にミキ (神酒 )をふるまったそうだ。



真壁宮の井泉 (カー)

もともと真壁宮があった場所の奥に、石組で造られている井戸跡がある。9月に真壁按司の子孫が拝んでいるそうだ。

三の郭から二の郭へは階段で登る。階段の上には切り立った岩を削って作ったような入り口がある。ここは城門だったのかもしれない。

城門と思われる岩の間から中に入ると広場に出る。ここが二の郭と考えられている。

二の郭から一の郭へは更に階段を上るのだが、一の郭は積み上げられ石垣に囲まれてい多様で、その一部が残っているようだ。階段を上がると、長細い広い広場に出る。ここが一の郭だった場所で、奥には展望台が設けられている。

展望台からは真壁集落全体が南側に見えている。

北側には自衛隊のレーダーが建つ与座岳が見える。木々で覆われて見えなかったのだが、南山王の居城であった南山城方面も見通せる。出城としては格好の場所におかれていた。沖縄戦ではここは砲台陣地として使用されていたこともなるほどと思われる。ここから与座岳から信仰してくる米軍の動きが手に取るように分かっただろう。その反面、ここは米軍の猛攻撃の対象になり、多くの人が犠牲となった。

展望台の横には小口らしきものがあった。ただ、沖縄戦でこの地は米軍の猛攻撃を受けたので、かなり破壊されていたはずなので、これがグスクの一部かどうかはわからない。

展望台からは真壁の殿への別の長い階段があるのだがこれはグスク時代からのものかはわからない。

これで真壁グスクも含めて真壁集落を巡り終わったのだが、今まで巡ったグスクとは少し違った印象を持った。それはグスク内に拝所が見当たらないことが一つ。グスクにはそれを守るための拝所が必ず設けられていたはずで、それも数か所に造られているケースがほとんどだが、このグスクには見当たらない。もう一つは古墓がないこと。グスクの斜面には多くの古墓が存在していたが、これもここにはない。林の中にはあるのかもしれないが、その場合は必ず、そこに御願に行くための道があるが、それも見当たらない。グスクの二の郭への門の脇にそれらしき道があったので、入ってみたがすぐに道は途切れて前には進めなくなった。やはり古墓などはないのだろうか?想像するとしたら、日本軍がここを砲台陣地にした際に、かなりはかいした可能性もあるし、米軍の砲撃が激しく古墓や拝所はことごとく破壊されてしまったのかもしれない。これはあくまで個人的な推測だが...

グスクの公園でクロアゲハがいたので撮影した。近づいても逃げず、綺麗に班を広げたところが取れた。この後も逃げず周りをひらひらと飛び回っている。人懐っこい性格の蝶だった。


参考文献