リー・クアンユー回想録 (上)
シンガポールの初代首相、リー・クアンユー氏が自ら書き上げた自伝です。自らの自伝に「ザ・シンガポール・ストーリー」という副題をつけているところに自らがシンガポールの歴史を作ってきた、という強い自負を感じます。
本書の「序文」においてリー氏は本書を上梓した理由を次のように話しています。「現在の国の安定と繁栄、成長しか知らないシンガポールの若い世代が、明らかに自信過剰になっていることが気になっていた。シンガポールは、過去も現在も脆弱な基盤の上に乗っていて、我々を取り巻く危険、国づくりが失敗しそうになったことなどを肝に銘じるべきだと考える。誠実で効率的な政府、秩序ある社会、安全な個人生活、発展した経済・社会など、シンガポールの現在が自然にもたらされたものではないことを認識して欲しい。」 少し前に同氏の「未来への提言」という本を紹介しましたが、その本を書き上げた動機も、「シンガポールの若い世代に、今世界から経済成長のお手本のように言われる同国は、建国時からの国民の努力の賜物なのだ。」というメッセージを伝えることでした。世代間のギャップというのはどこの国にもあると思いますが、やはり建国時からの艱難辛苦を書いて後世に残したい、という強い思いがあるのでしょう。
そして、本書日本語版を上梓するにあたり、日本の読者には次のようにメッセージを伝えています。「私が学んできた最も重要な教訓の一つは、人も国家も逆境や悲劇に立ち向かう時に、未来への工夫が生まれるということである。(中略)私はこの四十年もの間、度々日本を訪れたが、そのたびに日本の人々の困難に打ち勝とうとする不屈の精神、工夫する力、結束力に感銘を受けた。私が日本人に確信するのは、日本人は恐るべき人たちであり、逆境に打ち勝つため国全体が努力せねばならないときには、思い切った決断をすることができるということである。」(「日本版の序文」)
リー氏は1923年9月16日生まれ。シンガポール移民の客家系華人(*1)の4世にあたります。(客家というのは、中華文化の発祥地である、黄河中下流域の平原 や 中国東北部に住んでいた客家語を話す漢民族で、移住、定住を繰り返していたため多民族から “客家” と呼ばれた。Wikipediaより。ちなみに、「クアンユー」というのは中国語で「光」「輝き」を意味します。) 祖父が資産家として成功したことで、リー氏の家庭も比較的裕福な環境にあったようです。しかし、リー氏のお父さんは、自分のお父さん(つまり、リー氏の祖父)が資産家として成功していたので、自らは経済的な成功には興味がなく、勉学も熱心ではありませんでした。 そのため、大恐慌が起きた当時は、大会社の就職口(石油会社の倉庫管理)を探したりと苦労したようです。そのため、御両親はリー氏の勉学に対しては熱心でした。
この「回顧録」(上巻)では、そのリー氏が幼い頃を過ごした英国植民地時代、戦争の始まりから日本統治下での苦難、英国の再植民地化の弱まり、共産主義と共産主義者達による反社会活動の台頭、マレーシア連合結成の協議、マレーシア連合の決裂、そして、不本意なシンガポールの独立までを語っていきます。 本書を一読して感じたのは、シンガポールが経験した時代時代を詳細に語っている点です。おそらく、現存する当時の資料にできる限りあたり、綿密なリサーチをしたのだと推測しますが、後世のためにできる限り詳細に書き残したい、というリー氏の強い姿勢を感じました。しかし、詳細に語っている分、当時を知らない外国人である日本人には、わかりにくいところもあります。例えば、第二次世界大戦後のシンガポールにおける共産主義の台頭です。戦後、中国では毛沢東による共産主義による国家建設が強まりますが、その影響は、シンガポールの多数派民族である華人社会にも及びます。
英国からの帰国後、しばらく法律事務所で人種問題にかかわる案件を担当し、シンガポール社会の改革に目覚め、ついには人民行動党(PAP)を立ち上げるリー氏ですが、結党に際しては共産主義者をパートナーとします。リー氏は、英国大学で法律を学んだエリートとして、華人大衆層から人気がなく、また、中国語を話すのが苦手だったこともあり、選挙においてシンガポールの華人社会の票を取り込むことができなかったのが(共産主義者と手を結んだ)理由の一つでした。つまり、妥協の産物として共産主義者と手を組んだのです。この共産主義者と手を組んで政権運営を行うリー氏の立ち回り方については、当時の社会の共産主義への危機感とか、共産主義者の反社会的行為(制裁、粛清、ストライキ等)も含め、当時のシンガポール社会を学ばないとわかりにくいと思いました。
本書で、一番興味深かったエピソードは、マレーシア連合(マラヤ連邦、北ボルネオ、ブルネイ、サワラク、シンガポールを含む連邦構想)結成に関するところです。(この一種の共同体構想には紆余曲折があるのですが、)第二次世界大戦後の英国の植民地体制の弱まりなどを背景に、英国側がこの連邦構想についてリー氏に話をします。この英国側の構想を受け、1961年5月27日、マラヤ連邦のラーマン首相は「マラヤ連邦は英国並びにシンガポール、北ボルネオ、ブルネイ、サワラクの人々と話をまとめねばならないだろう。(中略)これら領土の政治的、経済的に密接な協力に向け一体化する案を考えることは避けられない。」と発表します。これにより「マレーシア連合」の話し合いが進むのですが、ラーマン首相は、華人はマレー人より商売上手だと考えていて、華人主体のシンガポールを取り込むと、マラヤ連邦のの多数派民族であるマレー人の地位が脅かされることを危惧します。しかし一方で、シンガポールをマラヤ連邦に取り込まないと、シンガポールが共産主義化してしまうことも恐れ、やむなくシンガポールを含んだ形の共同体構想を受け入れます。
この「マレーシア連合」に関してラーマン首相とリー氏のやり取りが語られる章(第26章「ラーマンとの親交」)がありますが、この章は私的にはとても興味深く感じられました。「ラーマンとの交渉には、特別な気遣いが必要だった。彼は、書類に目を通したうえで交渉の席に着き、面と向かって論争するのを好まなかった。飽き飽きする詳細はすべてラザク副首相に任せ、重大な意思決定や政策の方向性を決めることだけに集中するタイプだった。」 ラーマン首相という人は、国王の直系の人物なので周りのものに対し、ボス的な態度をとるような人物だったのでしょう。そのため、マラヤとの交渉が行き詰まると、いつも決まってリー氏側からラーマン首相の元へ馳せ参じなければなりませんでした。ラーマン首相は、昼食後午睡を取り、その後ゴルフをする習慣があったので、やむなくリー氏もそれに付き合い、ショットの合間やディナー前のラーマン首相が上機嫌な時に、質問を投げかけたのです。「こういうわけで、ひとつの問題で飲食、ゴルフ、ディナー・パーティーや結婚式へのお供など四日間を費やしかねなかった。」(P283) 国王の子孫であるラーマン氏に対しては、いくらやり手のリー氏とはいっても、相手の交渉方法に対し妥協せざるを得なかったのでしょう。このマレーシア連合結成に関するエピソードは、隣国でイスラムの大国インドネシアの干渉もあったりして興味深いエピソードになっています。
では、リー氏がシンガポールの指導者として成功することができた理由は何だったのでしょうか? 私的には二つあると思います。リー氏が華人(4世)であったことと、勉強熱心で国(国民)へ尽くす姿勢があったことです。 シンガポールという国はその地理的な特徴のため、歴史的に近隣諸国のマラヤ人、インド人や、ユーラシア大陸のヨーロッパ人、アジアからのアジア各国の民族グループの流入がありました。いろいろな文化、宗教の違いを持った人々の交流があったシンガポールにあって、「華人」という外国へ進出し商業を軸に進出先の文化的なギャップにもへこたれず、自らの文化を築くことのできるタフネス(忍耐性)さ、勤勉性、向上心、家族を大切に考える価値観、柔軟性(これは、リー氏が共産主義者と手を組んだところによくでていると思います。)、自分の将来を異国社会に投資する冒険心、異なる文化中で育まれる多様な価値観の肯定力、(その移民社会で生きるための)調整能力、交渉能力、したたかさ(このへんは、リー氏の弁護士としての能力かも知れません)、、そいうった、「華人」としての資質が、大きくリー氏の成功に寄与していると思います。
また、リー氏は、中学生のころから徐々に勉学における才能を発揮し、学校でトップの成績を収め、イギリスのケンブリッジ大学でも法学の勉強において優秀な成績で卒業します。こうした頭脳の明晰さ、勤勉性に加え、リー氏には、「国に奉仕する」という強い姿勢があります。以前、丹羽 宇一郎さん(元伊藤忠商事社長、会長)の書籍を紹介しましたが、丹羽さんはその本の中で、自らのエリート観について語っているところがあります。それは「ノブレス・オブリージュ」と表現されますが、これは、「昔の騎士道にも通じる考え方で、リーダーには『社会のためならわが身を投げ出すこともいとわない』覚悟を持つ」エリートのことで、優れた教育はもちろん、高潔な人格やしっかりした価値観を備えた指導者のことです。リー氏は、正に丹羽さんが言う「ノブレス・オブリージュ」を体現している指導者だと感じました。
それが具体的に表れているエピソードが本書にあります。シンガポールがマレーシア連邦へ加入するため、ラーマン首相が指導者となっている、UMNO(統一マレー国民組織)との交渉でクアラルンプールへ行った時のエピソードです。リー氏とリー氏に同行していた(PAPの同僚)ケンスイ氏は、UMNO側から、ある裕福な華人が経営するレストランに接待されたのですが、そこは実は男性専用のクラブで、高級料理や魅力的な女性のサービスやマージャンやポーカーなどで、要人を接待する場所だったのです。二人は、しかし、女性の接待が始まった時に、用事があるから、と言ってその席を立ったのです。「「PAP(人民行動党)指導者はマラヤ連邦の政治家とは違う。シンガポールの閣僚たちは快楽を追求せず私腹も肥やさない。UMNOは、『マラヤ連邦で華人やインド人閣僚を取り込む慣例』という、うまいわざを作り上げていた。(中略)危ない橋を渡ることはできない。彼らは我々を危険から逃げるのがうまく、かつ原則を大事にする扱いにくい人間だと思っていた。しかも、我々は法を守るので買収するのも難しかったのだ。」(P438)と、UMNOからの過剰接待を明確に拒否した経験を書いています。
毛沢東、スターリン、それに(本書における)マラヤのラーマン首相など、一国の指導者となると、皆さんそれなりに豪華、華奢な生活を嗜むようになりますが、リー氏にはそういった面の過剰な指向性はないように感じられます。おそらくは、シンガポールは、小国で、また周りの国が安全保障上の脅威となり得るという地政学的に見て常に、緊張を強いられる環境下での指導者であった厳しさが、自身に贅沢に耽るような生活を許さなかったのかも知れません。また、シンガポールにおける少数派(マレー人、インド人)からの厳しいクレームも予想していたのかもしれません。
国土も小さく、資源もない、また、人材(国民)も建国時には200万人未満(*2)と、無い無い尽くしの小国シンガポールがどのように隣国であるイスラム国家と伍して、存在感を示し、アジアの優等国に成りえたのか、そうした視点でシンガポールの成長期に独裁的な国家の指導者であったリー・クアンユー氏の本を読んでいくと、それは我が国、日本のこれからの成長にもとても参考になるようなヒントが隠されているように思いました。
(*1) 華人とは現地国籍のみを有する土着化した中国人。華僑とは中国国籍を保持したまま海外に長期的に暮らす中国人。(Wikipediaより)(*2)現在のシンガポールの人口は560万人超。