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Okinawa 沖縄 #2 Day 81 (12/02/21) 旧真壁村 (4) Kohagura Hamlet 小波蔵集落

2021.02.13 14:50

旧真壁村 波蔵集落 (こはぐら、クヮングヮ)

今日は2月12日、旧暦でいえば1月1日で旧正月 (ソーグヮチ)。沖縄は旧暦による風習がまだまだ根強いので、正月のイベントがどのようなものなのか知りたく、先日糸満の白銀堂でであった大城さんから教えられた糸満漁船の大漁旗を見に行く。その後、今巡っている旧真壁村の小波蔵集落を訪れることにした。昨日は台風並みの天候で大雨だった。今日も天候が不安であったのだが、今朝は小雨。天気予報は曇りなので、そのうち雨は上がるだろうと出発。


糸満漁船大漁旗

糸満港に停泊している漁船の多くが大漁旗を掲げ、今年の豊漁を願っている。漁港の場所にある公民館前では漁師たちが集まり御願をしたのだろうが、ここに到着した時には既に終了した後だった。


白銀堂御願

糸満の人は初拝みは白銀堂に行く。白銀堂の威部 (イビ)、御嶽 (ウタキ)、中之御川 (ナカヌウカー)、子之御川 (ニーヌウカー) を決められた作法で拝む。今日は次から次へと車が境内に入ってくる。車から降りてきた人たちは重箱詰めたお供え物のウサンミ (御三味) を携えて、この4つの拝所を順番に拝んで帰っていく。テレビ局が来てこの御願をとっていた。多分今日のニュースで流されるのだろう。


門中正月御願

街中に門中の名前が書かれたのぼりを見かけた。旧正月では門中がその本家にあいさつに行き先祖を拝む。その本家にのぼりがたてられているのだろう。ここにもテレビ局が取材をしていた。帰りには登りはかたずけられていた。


旧真壁村 小波蔵集落 (こはぐら、クヮングヮ)

もともとは字名城の集落南の海辺にあり、古い時代に現在の場所に移ってきたといわれている集落。サトウキビや野菜などを中心に生産してきた農村で、現在ではキクなどの花きの栽培が盛んだそうだ。

旧真壁村の字小波蔵の人口は5番目に多い字になっている。明治時代に比べれば1.7倍で字糸洲に次いで2番目に高い率を示している。


字小波蔵の人口推移のデータはまとまったものは糸満市のホームページにある2004年以降のものしか見当たらなかった。その他、とぎれとぎれのものはあるのだが、集計基準が異なっているようで比較するには不適切なものだった。このデータか見ると明治時代から沖縄本土復帰 (1976年) までは人口は微増し、その後、増加率は上昇し2000年以降は徐々に減少している。世帯数についても人口推移と同じような傾向だが、本土復帰以降は単身や核家族が著しく増加し、世帯当たりの家族数は1.4人と糸満市では最も低い数字になっている。これは何度も糸満市のデータをチェックしたがこうなっている。何が原因なのかは分からないのだが、興味深い数字だ。

民家の状態を表している地図があるのだがそれを見ると、1919年 (大正8年) のものは民家は昔からの集落地区に限定され民家も多くあることがわかる。1975年の沖縄本土復帰直後の地図では集落内の民家が少なくなっている。特に集落の北側は民家が減っているのがわかる。この傾向は1994年の地図では変化が見られない。2015年の地図では昔からの集落の南側に民家が増えている。これが戸数、そして人口が増えたことを示している。

昔からの集落内は隅から隅まで走ったのだが、多くの空き地や空き家が目立っている。文化財マップに出ていた屋号地図と比較しても、北側は民家もなく道路もなくなっていた。一部ではあるが写真を撮ってみた。これ以上空き地あることは確かだ。1919年には43戸だったとあるので、集落内はかなりの過疎化が進んでいる。これは日本全土で起きている現象だ。人口が増えている行政区であっても、昔ながらの集落では過疎化が進んでいる。特に沖縄は門中意識が強く、外部の人がその集落への流入を阻害している。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の小波蔵集落の文化財


文化財訪問ログ


糸満港から名城バイパスを南に走ると前方に丘陵が見えてきた。小波蔵集落はこの丘陵を上ったところにある。丘陵の小波蔵地区には二つのグスクがあり、一つはチャチャマグスク、もう一つは仲間グスク。まずはチャチャマグスクから見ていく。



チチャマグスク ⓭

小波蔵集落北西端で名城との境目の標高約45mのウィーンヤマと呼ばれる丘陵の上にあるグスクだが、石垣などの遺構やグスクとしての言い伝えなどは残っておらず城塞ではなく聖域の拝所としてのグスクと思われる。別名、チケヤマグスクとかムトゥヤマグスク (元山城) とも呼ばれている。築城者や築城年代は不明であるが、この近くにあるフェンサグスク同年代と考えられている。仲間グスクも近くにあり、この二つのグスクと何か関係があるのかもしれない。

このグスクが小波蔵集落発祥の地と考えられている。別の資料では、名城集落の南の海岸に元々の集落があったともあるので、二段階に分けて現在の集落に移動してきたのだろう。集落を移した時に、元の集落のあった場所を聖域として拝所地区にすることは多いが、ここもその例の一つかもしれない。

このグスク内には数多くの配所があり、綺麗に整備されている。伝承では、古い時代に仲間グスクで戦があった時に加勢に来て敗れた上里グスク (旧喜屋武村束里) などの兵士が多く葬られているという。昔は今の様な形ではなかったかもしれないが、この集落の人たちがこの拝所を大切にして信仰している事は整備が行き届いていること事からもよく分かる。


西之井泉 (イリーンカー) ④

西側から集落に入ると、三つの井戸跡がある。一つは西之井泉 (イリーンカー) で、文字通り、集落の西の端に位置している。水もなく、井戸自体もなくなって、建材は形式保存で拝所となっている。かつては、簡単な石囲いでジーシル (地汁、地面から浸出する水) を溜めた井戸で、主に農作業の帰りに手足や農具を洗うのに利用されたので、この井戸は住民の主要な生活用水ではなかったようだ。


村井泉 (ムラガー) / 親井戸 (ウヤガー)  

西之井泉 (イリーンカー) のすぐ北側に別の井戸がある。18世紀末の間切図にも記されている。資料では村井泉 (ムラガー) と紹介されていたが、現場では親井戸 (ウヤガー) と書かれている。この井戸は、水道が整備されるまでは小波蔵の主な水源だった。

村井泉 (ムラガー) の場所には、道路から見て手前にも井戸があり、これは産井泉 (ンブガー) で、さらに6 mほど奥の井戸は、産井泉 (ンブガー) から流れ込む湧水を溜めたカーで、水浴びや洗濯、死者の湯灌の水に使われたそうだ。



新井泉 (ミーガー) ⑥

村井泉 (ムラガー) の近くにもう一つ、戦後、生活用水の確保のために、共同作業で設けられた新しい井泉の新井泉 (ミーガー) が記載されていたが、その場所は草木で覆われて井戸跡のようなものは見当たらず、断念して継ぐ位に向かおうとしていたら、ここの住民の方が自動車から降りてきた。この人に聞くと、丁寧ン場所を教えてくれた。草木で覆われて入るが、石灰岩の切石積みで半円形の枠を設けているのが見える。


按司井泉 (アジガー) ③

新井泉 (ミーガー) から少し東に道ウィ進むと、チチャマグスクの按司が用いた井戸と伝わる井戸跡がある。石囲いのカー跡が残っている。チチャマグスクは聖域としてのグスクで、按司の居城ではなかったと考えられているので、ここでいう按司とは仲間按司のことか、集落の有力人物の事ではないかと思う。この井戸はノロ井泉 (ヌルガー) と呼ばれることもあり、古い時代には小波蔵にもヌルがいたのではないかと考える人もいる。琉球王朝時代の18世紀初頭にノロの管轄地域を取り決めた記録では糸洲ノロがこの小波蔵も管轄していたとあるので、三山時代以前の事だろう。


ガジマラー ⓮

按司井泉 (アジガー) のすぐ近く、2ブロック南側にガジマラーと呼ばれる広場があり、そこが拝所となっている。西隣の集落の名城ハーリーが行われる5月4日の早朝に区長が広場にある大きなガジュマルの根元に酒と御香を供えて拝む。かって小波蔵の人々はクワングワウミ (今の名城ビーチ付近) でハーリーを行っていたといわれるが、現在は単独ではなく、区長の拝みの後、名城の招待ハーリーに参加しているそうだ。


西の殿 (イリーヌトゥン) ➌

按司井泉 (アジガー) から丘陵に向かう道がある。舗装もされていないが、草もきれいに刈られている。このようなところは拝所とか墓へ通じる道であることが多い。この道の行き止まりには林の中が広場になっており、自然石と切石を積んで造った祠の中がある。かって字行事としてウマチーなどが行われていたころまでは、必ず拝む拝所であったそうだ。祠には虫よけか動物除けなのか網がかけられているので、今でも供え物をして拝まれていることがわかる。


ビンジャナの神屋 ❶

西の殿 (イリーヌトゥン)  への道の途中に東側に細い道が出ている。戦前まではこの道まで集落があったのだが、現在はかつての集落の北側には民家は消えてしまい畑か荒れ地になっている。この道の脇に、小波蔵の村元 (ムラムトゥ) ともいわれ、集落の成立に関わる旧家のビンジャナの神屋がある。先ほどの西の殿 (イリーヌトゥン) とは何らかの関係があると考えられている。現在小波蔵に子孫は在住していないが、八重瀬町仲座の仲本門中が拝みに来ているそうだ。


大盛 (ウームイ) ❺

ビンジャナの神屋の近く、集落後方に、字小波蔵の綱引きの由来にかかわる旧家の大盛門中の屋敷があった。現在は空き地になっており、この屋敷跡の一角に神屋が建てられている。屋敷の北側の一角に道路に面して造られた石積みの拝所は、ウームイともムイヌハナとも呼ばれ、ここでも綱作りをしたそうだ。


マタンジャナの神屋 ❷

大盛 (ウームイ) の東に小波蔵集落の成立に関わる旧家の神屋が、屋号 殿内の屋敷の一角にある。ここは人が住んでいるので、道路から写真を撮った。ここでは龕の修繕も行われ、香炉のうちの1つは龕に関するものともいわれる。かつては龕屋も集落の東の端にあったのだが、今は龕屋もなくなっており、龕輿 (ガンゴー) 祭も行われていない。現在でも続いている十五夜 (ジューグャー) の綱引きに使う綱もふだんはここに保管されているそうだ。


東の殿 (アガリヌトウン) ➍

マタンジャナの神屋の東の畑の中に杜がある。畑の中の杜は拝所ンケースが多い。林の中には空間ができており、大きなガジュマルの木の根元に自然石と切石を積んで造った祠が設けられている。中にはいくつかの自然石、新旧2個の石製の香炉がある。旧家であるマタンジャナと関わりの深い拝所とされる。かって綱引きの綱はこのトウンの祠の前の広場で作られたという。


仲問の御嶽 (ウタキ) ❻

東の殿 (アガリヌトウン) の南にも畑の中に杜がある。そこは嶽元 (タキムトゥ) とされる仲間の屋敷の東隣で、仲間腹が拝んでいる御嶽 (ウタキ) あるいは東の御嶽 (アガリヌウタキ) と呼ばれている拝所だ。


中之殿 (ナカントウン) ❼ [未訪問]

仲間腹が拝んでいる拝所の中之殿 (ナカントウン) が仲問の御嶽 (ウタキ) の近くにあるように地図には書かれている。敷地の周囲に自然石の低い石積みがあり、コンクリート製の小さな祠が置があるとなっているとなっているのだが、それらしきものを探すのだが、結局見つからなかった。隣の名城集落を訪問する際にもう一度探してみよう。



後之殿 (クシントウン) ❽

東の殿 (アガリヌトウン) の東にも畑の中に杜がある。ここも仲問の御嶽 (ウタキ)、中之殿 (ナカントウン) と同じく仲間腹の拝所だ。かつては雑木が生い茂った一角の木のを拝んでいたがが、今はコンクリート製の小さな祠が置かれ、そこを拝んでいる。


国番御嶽 (クニバンウタキ) ❾

東の殿 (アガリヌトウン) から北に集落を抜け丘陵の麓にある小高い雑木林の中に、コンクリート製の国番御嶽 (クニバンウタキ) の祠があり、祠の中には石製の香炉が3個祀られている。詞の屋根の上の石碑があり、「国番御タキ玉井世始拝所」と書かれている。玉井腹の始祖に関わる拝所だ。


ミサマ ❿

国番御嶽 (クニバンウタキ) の祠に向かって左隣、ガジュマルの根元にある3基のチンマーサー (石を積み回した古墓)。そのうちの1つは、三山時代に玉城グスクからやってきて玉井腹の祖となった玉城本ヌルの墓とされる。


後之井泉 (クシヌカー) ②

東の殿 (アガリヌトウン) から国番御嶽 (クニバンウタキ) に向かう道の側に井戸がある。かつての集落の北の端にあったので、後之井泉 (クシヌカー) と呼ばれている。井戸は石段を下った所にあり、周りは石灰岩の切石積みで半円形の枠が設けられている。戦前まで飲料水に利用され、神井泉 (カミガー) とも呼ばれていた。


これで集落の北半分にある文化財を巡った。ほとんどの文化財は北側に集中しているが、南側にもいくつかあるので、次は南側を見学する。



村屋跡 (公民館)

雨が強くなってきたので、村屋跡に建っている小波蔵公民館の広場にある東屋で雨宿りをする。この集落を見学中に何度か雨が強くなり、その度にこの東屋で雨宿りをした。公民館広場の傍らには村屋恒例の酸素ボンベの鐘が木に架けられていた。


字神 (アザガミ)

村屋跡 (公民館) の脇には字神 (アザガミ) と書かれた拝所があり、石柱には表側に『クガニイシ』、裏側には『子宝石』と書かれている。


前之井泉 (メーンカー) ⑤

集落の外側の南東に前之井泉 (メーンカー) がある。戦前までは飲料水にも使っていたが、現在は農業用水として使用している。井戸の下流には溜池 (クムイ) があり、農具を洗ったり、牛や馬を水浴びさせたりしていたそうだ。


龕之墓 (コーヌハカ) ⓫

集落の北にある丘陵の仲間グスクへの登り口のところに古墓がある。ウフゴー、ガンゴーとも呼ばれ、小波蔵の龕 (コーともいう) の由来に関わる首里のサムレーを葬った墓と伝わり、龕之墓 (コーヌハカ) と呼ばれている。那覇士族の鄭姓一門では元祖の父親である松本壹岐重次の墓とされ、一門が寄進したと思われる香炉がある。この松本壹岐重次なる人物はトカラ列島 (七島) 口之島住人で、薩摩の琉球侵攻の計画を知り、琉球に伝えたとされる。新興実行前の16世紀後半に琉球に移住し、李氏船越子喜元の女武金との間に生まれた子が琉球王国に鄭明恵 照喜名親雲上重時として出仕していたと伝わっている。当時、トカラは琉球と薩摩の間の隠れ蓑的な立場でトカラ住民の中でも親薩摩派と新琉球派が混在していた。


門中墓群

丘陵の南斜面には幾つかの門中墓があった。


仲間グスク ⓬

仲間グスクは小波蔵集落の北東側寄りで糸洲集落にまたがって石灰岩丘陵上に標高60mのところに位置している。この仲間グスクには昨年も来たのだが、グスクへの登り口が分からず、龕之墓 (コーヌハカ) を見ただけで終わってしまった。実は登り口はこの龕之墓 (コーヌハカ) の横にあったことがわかり、今度はグスク内まで入る。

仲間グスクと呼ばれるグスクは南風原町津嘉山にあるクニンドー遺跡を訪れたときに調べたら、このクニンドー遺跡は島尻にあったとされている仲間グスク比定地ともいわれている。この小波蔵のグスクとこのクニンドーのどちらかが仲間グスクということなのか、それとも仲間グスクが二つあったのかは調べ切れなかった。

多くの資料では、この仲間グスクは仲間按司の居城だったとされている。

やっと見つけた登り口を入ると、小路がある。倒木はあるもの、道は整備されている。


道が途中でわきみちがあり、それを進むと奥に墓がある4つの香炉が置かれている。ガイドブックには「仲間グスクでの戦で命を落とした人が葬られているとされる数基の古墓がある。そのうちの1つは別の場所から移してきたもので、これは玉井腹とも関わりのあるフニシン (骨神) という。」と紹介されている。この墓がそうなのか、この後、幾つか見つけた墓がそうなのかは写真は掲載されていないので不明。この「仲間グスクでの戦い」はチャチャマグスクの紹介でも出ている。この記述から見ると上里按司とは同盟関係にあったことがわかり、三山時代、上里按司は南山王の承察度と対立していたとされている。承察度を追放したのは八重瀬按司だった汪英紫だったので、上里按司、仲間按司も汪英紫と同盟関係だったので、汪英紫と承察度の間の争いの中での戦いの一つのことかもしれない。もう一つ考えられるのは、南山王の汪応祖を殺害した達勃期の死後、一時的に南山王になったのが上里按司 (摩文仁との説もある) との伊波普猷の説がある、この時にはこの上里按司は他魯毎と対立関係だったとされている。この時の他魯毎との戦いのことかもしれない。

元の道に戻り、そちらを進むと崖に通じていた崖の細くなった道を進むと、岩場には幾つかの古墓があった。この崖の上が頂上なのだが、道はここで途切れている。いつもならよじ登るのだが、昨日は大雨だったので、足場が悪く、これ以上進むのは断念した。


崖の下、丘陵に北側になるのだが、見通しがある平地が幾つかが階段状になっている。グスク時代からのものとは思わないのだが、広場の所々には石垣が残っており、人為的に造られたもののようだ。


その他拝所

集落にはいくつもの神屋があった。その中で写真が撮りやすく、面白そうなものは二つあった。一つは丘陵側集落の北側にあったもの。神屋の中には多くの香炉が置かれ、その一つ一つに祀られている対象の名前が書かれている。多くは玉井の名が見える。今日見た国番御嶽 (クニバンウタキ) はこの玉井門中の始祖を祀っていた。ここは玉井門中の神屋だろう。

もう一つは集落の南側の屋号 新棚腹の敷地跡にある。空き地にはなっているが二つ神屋が建っている。新棚腹に係わる門中の神屋だろう。ここで雨が強くなり雨宿りをした。小降りになり出発しようとすると、村のおばさんから声をかけられた。何かと思っていたら、「畑で仕事があるのだが、探しているなら仕事しないか」とアルバイトを探しているようだ。沖縄の農家で働くのも面白そうだと少し興味はあったのだが、家からここまでは一時間以上かかり、通うのは大変なので断った。


これで小波蔵集落の文化財巡りを終え、雨の中を変える。ここからは15km程あり、一時間程かかる。結局、帰り道はほとんど雨の中での走行だった。



参考文献