Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか本無料ダウンロードpdf

2020.11.10 06:30

西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか

strong>本, 池田 善昭


西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか本無料ダウンロードpdf

によって 池田 善昭

3.9 5つ星のうち5 人の読者

ファイル名 : 西田幾多郎の実在論-ai-アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか.pdf

ファイルサイズ : 29.94 MB

内容紹介 それはAIが時間の本質を決して理解できないから。答えは本書の中に ー―福岡伸一氏推薦! (『福岡伸一、西田哲学を読む』著者) それでも世界は実在する! 思弁的実在論、新実在論とも異なる西田の「無の形而下」の実在論。 「包まれつつ包む」池田哲学の真髄。 世界は存在するのか、しないのか。生命とは、人間とは何か――西田幾多郎の哲学は世界のあり方を根源から問う実在論であった。行為的直観、自覚、絶対無の場所、絶対現在、永遠の今、絶対矛盾的自己同一といった西田独自の概念を、生命論を手がかりに考察することを通して西田哲学と一体化しつつ、自身の思索を深化させる池田哲学の真骨頂が展開する。ピュシス(自然)の発する声に耳を傾けた、『福岡伸一、西田哲学を読む』の続編。 【「あとがき」より】 西田を、特に西田の実在論を理解しようと思えば、「無」を理解しなければ何にもならない。西洋哲学が存在の形而上だとすれば、西田哲学は無の形而下とも言える本質を持っているからだ。 ハイデガーの存在論でさえ気づいていない「実在」概念は、「無」を含むから難しいのである。「存在」ないし「有」は、当然、「無」を含まない。つまり、存在していない「無」を論ずることは出来なかったわけである。だから、カントをはじめとする伝統的な西洋哲学では、絶えず「メメントモリ」を別枠で論じなければならなかった。 然るに、「有・無」の絶対矛盾の自己同一こそ、西田哲学のスタートアップであったにもかかわらず、従来の西洋哲学では、「無」の問題は常に存在していないので、その論理が分からないままだったのである。そういうわけで、西洋哲学の最大のアポリアは「実在」(Dasein) の無明にあったとも言える。西洋の哲学者たちは、結局、「無」を知らなかったのだ。これまで、わたしが「実在論的差異」と言ってきたのは、このことであった。 【もくじ】 まえがき 第1章 西田幾多郎の根本的思想――実在、時間、宇宙意識 第2章 西田幾多郎の実在論――アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか 第3章 生命と場所――福岡伸一と西田幾多郎 第4章 カントにおける近代科学の論理をどう乗り越えるか 第5章 愛と時――他者問題をめぐる西田幾多郎の思想について あとがき 内容(「BOOK」データベースより) 世界は存在するのか、しないのか。生命とは、人間とは何か―西田幾多郎の哲学は世界のあり方を根源から問う実在論であった。行為的直観、自覚、絶対無の場所、絶対現在、永遠の今、絶対矛盾的自己同一といった西田独自の概念を、生命論を手がかりに考察することを通して西田哲学と一体化しつつ、自身の思索を深化させる池田哲学の真骨頂が展開する。ピュシス(自然)の発する声に耳を傾けた、『福岡伸一、西田哲学を読む』の続編。 商品の説明をすべて表示する

以下は、西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのかに関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。

前作『福岡伸一、西田哲学を読む』の続編であり、本書を理解するには前作を読んでおくことが必要である。前作で、福岡伸一氏の生命理論と西田の生命哲学とが共鳴し合うように巧みにナビゲートしたのは本書の著者池田善昭氏であった。本書は著者による西田の生命哲学を一著にまとめたものである。では著者が説く西田の生命哲学とは何か?これがなかなか難解であり、前著を読まないでいきなり本書を読まれた読者は理解出来ないであろうと予想される。記述が比較的簡潔で抽象的であるだけになおさら分かりにくい。結論として導き出されるのは「絶対矛盾的自己同一」の概念である。これだけでもおぼろげながら何かのイメージが残るなら、本書を読んだ価値はあると思う。著者は、近年の年輪年代学の知見を取り入れ、成長輪の形成に着目し、一例として、年輪に刻まれている樹木を取り巻く「環境」が、樹木の外部に存在しながらも年輪の中に(樹木の内部に)〈包み込まれている〉存在から、「環境」は自己の中に「樹木」を〈包み込んでいる〉と同時に、樹木の年輪を見れば分かるように、樹木に「包み込まれている」存在である。一方、「樹木」は、年輪において環境を〈包み込んでいる〉と同時に、環境の一部を構成するという点において環境に〈包み込まれている〉存在である。要するに「環境」と「樹木」は、互いが互いを〈包み込んでいる〉と同時に互いが互いによって〈包み込まれている〉存在なのである。これを西田の生命哲学の観点から見ると、「環境」と「樹木」は互いに同一の関係を示しながらも、互いに別個の存在である。相手を〈包み込む〉者が同時に相手によって〈包み込まれる〉ということは絶対に起こり得ない(絶対矛盾)。しかも両者の〈包み込み〉・〈包み込まれる〉という関係は同一であるので、両者の関係を「絶対矛盾的自己同一」と西田は考えたと著者は指摘する。これにヘーゲル弁証法を適用すれば、「環境」と「樹木」の関係は互いに「正」(テーゼ)と「反」(アンチテーゼ)の関係にあり、両者を止揚(アウフヘーベン)する「合」(ジンテーゼ)が西田の生命哲学には本来存在し得ないと著者は考える。結論とし「環境」と「樹木」は互いに異なる存在でありながらも、すべてを包み込む「生命」にとっては自己同一的な形態である。これが著者が説く西田の「絶対矛盾的自己同一」の概念であり、生命哲学の核心である。ヘーゲルは『精神現象学』序文で「つぼみ→花→果実」の事例をあげて弁証法の論理を正→反→合の発展形態として生命を論じた。ヘーゲルと西田の生命哲学の異なる点は西田の生命哲学には「合」に当たる完成態が欠けていることである。正と反の関係は否定の関係があるのみである。西田の場合には正と反が、互いが互いを否定し合うも両者を生命から見れば同一の関係を示す存在であることを意味することになる。そして西田にとって生命は、〈自覚〉と一致する。このように、西田の生命哲学は、ヘーゲル弁証法から見るともはや弁証法的関係は成立しないというに等しい。そして西田の生命哲学には、ベルクソンが『創造的進化』で説いた〈エラン・ヴィタール(生命の飛躍)〉、すなわち多方向に拡散し、予測不可能な生命の発展の契機が欠けている。ヘーゲルとベルクソンに見られた生命の発展の契機が西田に欠けていたのはなぜか。西田が生命を捉える立場というものが、主観と客観を包括する〈自覚〉の立場であり、自覚は主観でもなければ、客観でもなく、それ自体は実体をもたない〈無〉=超越者である。この無によって自覚的に限定されたものが主観と客観である(『自覚に於ける直観と反省』参照。アマゾンに電子版あり)。西田の生命哲学に不案内な者がこれ以上何か言うのは不可能である。しかし、本書(著者の思考)に徹底的に付き合うことで西田の生命哲学理解への道が拓かれることは間違いない。お勧めの一冊だ。