伊勢神宮の成り立ち
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12101116083.html 【籠神社と成相寺が伊勢神宮外宮のルーツ】 より
伊勢神宮外宮の元宮である宮津市の籠神社は天の橋立の付け根にある。明治維新後の神仏分離までは、近くの山上にある成相寺が神宮寺であった。現在、成相寺は神社と無関係の寺院となり、本尊も聖観世音菩薩となっており、今となっては由来も不明となっている。
しかし、ヒントは山の名前に残っていた。外宮の本尊だった妙見菩薩(天之御中主神=豊受大神)にまつわる山名の妙見山が神社の近くに隣接して二つもあったことである。しかも、二つの妙見山を結ぶ直線上の真ん中あたりに籠神社があった。
妙見山や妙見神社は日本全国、ポピュラーに存在しており、概して海岸沿いに見られ、航海の目印と目される。
伊勢神宮外宮は、元々は丹後半島の元伊勢と云われる籠神社と伊雑宮とを結ぶ直線上にあり、また豊受大神は籠神社から招かれたとの云われもある。すなわち、元々は沖ノ島、若狭湾、紀伊半島あたりが海人族安曇氏の根拠地であり、沖ノ島と真東に位置する伊雑宮と籠神社が海人族安曇氏の祀る神域であった。この籠神社の御神体が伊勢に移動して外宮として鎮座したのであろう(参考)。
(略)
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12101024341.html 【伊勢神宮の成り立ち】 より
伊勢神宮の原初の宮は日神、天照大神を遥拝する為に海人族安曇氏の一族の度会氏(磯部氏と同族)が設けた磯宮、すなわち伊雑宮であった。しかし、月や星を観測するには周りを山に囲まれた磯部町あたりより、現在の外宮のある伊勢市山田あたりの開けた地が適しており、原初、二ヶ所に磯宮があったと考えられる。
これに対し、後から朝廷(ヤマト政権)が荒木田氏を派遣して伊勢神宮内宮を創建した時、度会氏の磯宮を伊雑宮と伊勢神宮外宮に分割したと考えると腑に落ちる。
したがって外宮の祭神は妙見菩薩(天之御中主神)が本来の神であり、豊受大神は明治維新後の神仏分離時に定められた可能性が大きい。
南東部の伊雑宮は入江の最深部で山に囲まれ、北西部の外宮は開けた地にある。内宮は伊雑宮と外宮の線上にある。
この外宮について、元々は丹後半島の元伊勢と云われる籠神社と伊雑宮とを結ぶ直線上にあり、また豊受大神は籠神社から招かれたとの云われもある。すなわち、元々は沖ノ島、若狭湾、紀伊半島あたりが海人族安曇氏の根拠地であり、沖ノ島と真東に位置する伊雑宮と籠神社が海人族安曇氏の祀る神域であった。この籠神社の御神体が伊勢に移動して外宮として鎮座したのであろう(参考)。
参考
① 海人族の共同神「磯宮」が外宮となった(参考)
地方神であった伊勢神宮が、皇祖神を祭る神社に昇格したのは奈良時代前後である。昇格の契機としては、壬申の乱(672年)におけ大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、伊勢神宮になった、と普通は説かれている。
701年の大宝律令の制定にいたる七世紀後半は、五世紀前半に次いで日本の歴史が大きく動いた時代である。この時代におきた変革は、氏族国家から官僚制的中央集権国家(律令国家)へという、国家体制の変革である。
地方神のアマテラスが皇祖神の地位に就いた一つの理由が「壬申の乱(672年)に際し天武天皇が伊勢の皇大神宮を望拝し戦勝祈願をしたことに始まる。」とされている。
伊勢湾の沿岸は漁撈生活者いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」といったらしい。この磯の地一帯を支配していたのが漁撈生活集団の首長の度会氏である。この度会氏一海人族一の共同神が「磯宮」である。度会氏は「磯部」姓も名乗っていたことが『続日本紀』にも見える。度会氏は阿曇族である。
この「磯宮」は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれた山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市山田にあるのは古いかたち「磯宮」を示している。
内宮の神官に朝廷は度会氏と拮抗する土地の中豪族荒木田氏を任じた。荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流をつくっている。
度会氏は神宮ができたときから内宮・外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたいし、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみないが、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときからの神官とみるべきだろうという。
② 伊雑宮が磯宮(参考)
日本書紀:垂仁天皇記より、「そのほこらを伊勢の国に立てる。よって斎宮を五十鈴の川上におこつ。これを磯宮といふ。すなわち天照大神の始めて天より降りますところなり」と記述されています。
これの意味は、天照太御神が初めて神界より降臨した場所が、伊勢の地域だったとされています。その場所は、五十鈴川の上流をさかのぼった所に在り、磯宮(いそのみや)と呼んだとのことです。
伊勢神宮の伊雑宮の在る場所は、磯部町(いそべちょう)です。地名の磯部とは、神代の大昔から使用されている名前です。つまり、磯宮=伊雑宮のことです。日本書紀にもハッキリと、天照太御神が初めて神界から降りて祭られた場所が、伊雑宮だと明記されているのです。
③ 伊勢神宮外宮は内宮と成り立ちが異なっており、月・星を見る海人族安曇氏の宮だった(参考)
④ 沖ノ島を通る東西線に伊雑宮がもっと近く、天照大神(日神)を遥拝する海人族安曇氏の神社だった(参考)
⑤ 京都市山科区の日向神社は京の伊勢と呼ばれるが、分析すると伊勢神宮内宮と矛盾する由来と祭神になっている(参考)。強いて言えば外宮の度会神道に近い。
⑥ 皇大神宮(伊勢神宮内宮)が国家祭祀の最高神社となったのは明治維新後であった(参考)
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12100908165.html 【伊勢神宮外宮は内宮と全く異なるルーツを持つ様だ!】 より
江戸時代まで伊勢神道を主唱した度会氏は伊勢神宮外宮の禰宜で、祭神の豊受大神は本体は実は天之御中主神と言う記紀にある原初神であり、内宮の天照大神より格上であると主張し、内宮と争ったと云われている。
しかし、どおも明治維新後の廃仏毀釈運動の時の策略であったような気がする。真実は、伊勢神宮外宮は豊受大神を祀っているが、江戸時代までは妙見菩薩を本尊とする神宮寺として常明寺があり、禰宜の度会氏は実は常明寺の僧侶であったと推測すると腑に落ちる。
すなわち、度会氏は妙見菩薩(北極星=天之御中主神)を信仰する陰陽師(天文博士)の僧侶であり、伊勢神宮外宮は内宮より古く、太陽を信仰する伊雑宮と同じルーツ(航海術や測量術を得意とする海人族安曇氏、参考1、参考2)にあると思われる。
(略)
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11996729825.html 【海人族安曇氏や宗像氏が宗像あたりを基地にした理由】 より
北の空に北斗七星が見え、北極星を中心に回転します。北斗七星のヒシャクが丁度水を汲み上げる様に見えるのは宗像市の海岸だそうです。この様な場所は確かに他には有りませんね!後は地中海の南海岸か?
海人族が拠点にした理由の一つかも知れませんね!すなわち、天測航法を熟知していたのでしょう!航海の目印、北極星の神様である天之御中主命を祀る妙見神社が神湊にある他、宗像市内に妙見の地名などもありました。
航海には目標となる島や山、例えば沖ノ島、大島、地島、湯川山、対馬見山などを目標にするであろうが、島や陸地の山が見えない遠い海上や夜間は星の位置の方が役に立つと思われます。
星の位置は一日周期の他、一年周期で変化します。すなわち海人族には太陽暦が必要であり、航海の吉凶と太陽暦による占いに関係がありそうです。季節の変化は太陽暦であり、季節風の風向きの変化、台風の時期の予測などが代表的です。
もちろん、漁場としても対馬海峡を中心として東シナ海から日本海は絶好の海域であり、鯷(カタクチイワシ)は当時、無尽蔵に獲れたと思われる(参考)。
参考
① 「北斗七星が水をくむ」とは どんなことが起こるのですか?
私たちの北の空を観察すると星たちは北極星の周りを毎日、反時計回りにぐるっと1回まわります。北斗七星もその例外ではありません。
そこで、この北斗七星の動きを注意深く観察すると秋の夜半には北斗七星が北極星と水平線の間を西から東にくぐり、右の絵のような姿になります。
これが見えるのが宗像市あたりです。
ちょうど都合の良い位置にくる北斗七星を観察できるのは年中でも秋の夜半だけになります。時刻は9月20日なら午後10時頃、星座は毎日約4分早く昇るので、10月20日になると夜8時頃になります(引用)。
② 航海と三角縁神獣鏡
③ 津屋崎金刀比羅神社
宗像市から西に一山越えて、福津市の津屋崎地区で行われる津屋崎金刀比羅神社の御神幸祭は 秋の大祭(在自放生会)で、五穀豊穣を祈念し、毎年9月9日に行われ、県内の秋祭りで最も早く行われる祭りです。金刀比羅神社は農業、漁業(航海)の神様で、四国の琴平宮が有名です。祭神の一柱に大海津美命があり、海人族安曇氏の領域であったことが再確認できる(参考)。
④ 航海の守り神、金毘羅さん
⑤ 海人族安曇氏は星をたよりに大洋を航海していた(参考)