芭蕉の年表 ⑥
http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
3月 吉野見物、
西河
ほろほろと山吹散るか滝の音 (曠野)(笈の小文)(真蹟自画賛・画賛・懐紙))
奈良県吉野にある西河の滝を訪れた折の作。
日は花に暮れてさびしやあすならう (笈の小文)
「あすならう」は「翌檜」とも。ヒノキ科の常緑高木で樹姿も檜に似る。檜をねたみ、明日は檜になろうなろうと言い続けて、ついに何にもなれずに老いたあわれな木といわれ、上をねたみ下をあなどる者の蔑称ともなる。
吉野から高野へ向かう折、葛城山の麓を過る
なほ見たし花に明け行く神の顔 (笈の小文)(猿蓑)
3月 高野山参詣
ちちははのしきりにこひし雉子の声 (曠野)(笈の小文)
(笈の小文)
ほととぎす宿かる此や藤の花
春雨の木下にかかるしづく哉 (笈の小文)
去来の「一昨日ハあの山越ツ花盛り」の句を称賛している。
3月末 和歌浦に至る。奈良、大坂、須磨、明石を巡る。
行く春に和歌の浦にて追ひ付きたり
紀伊路から奈良に向かう途中の吟
ひとつ脱いで後におひぬ衣がへ (曠野)(笈の小文)(真蹟懐紙)
笈の小文に杜國の
芳野出て布子賣たし衣がへ と併記されている。
春 嵐雪撰『若水』に2句入集。
4月8日 奈良で唐招提寺など見物。伊賀から来り合した猿睢、卓袋らの饗応を受ける。
若葉して御めの雫ぬぐはばや (笈の小文)
御目は御影堂に安置される鑑真和上の乾漆像の目。唐僧鑑真が天平勝宝六年(754)唐の揚州から来朝、四年後、唐招提寺を創建。来朝の際、渡海の難に遭って幾度も引き返し、十一年目に目的を達したが困苦のため失明。国宝。
灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 (曠野)(笈の小文)
4月11日 芭蕉と杜国は伊賀連衆に別れて南下し在原寺や業平ゆかりの「井筒の井」などを見て八木に泊った。
4月11日 草臥れて宿借るころや藤の花 (笈の小文)
初案は大和八木(橿原市内)に泊るころの作
ほととぎす宿借るころの藤の花 (猿雖宛書簡)
その後二人は、河内に入って、太子・藤井寺などをめぐり、今市、当麻寺、南河内を経て、
鹿の角まづ一節の別れかな (笈の小文)
4月13日 大坂に入る。大坂では八軒屋の久左衛門方に入り6泊。郷里の旧友保川一笑を訪問。杜国と三吟二十四句興行。
杜若語るも旅のひとつ哉 (笈の小文)
4月19日 大坂を発足、尼崎より海路、兵庫(神戸市)に至る。
月見ても物たらはずや須磨の夏 (笈の小文)
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月 (猿蓑) (笈の小文)(真蹟懐紙)
「笈日記」の中の「瓜畑集」
埋火もきゆやなみだの烹る音 (曠野)
4月20日 兵庫より須磨・明石と名所旧跡(須磨寺・忠度塚等)を巡覧。鉄拐が峰に登って源平合戦の地を俯瞰し、平家滅亡の往時を遠く偲んで涙をそそいだ。笈の小文はこの滅びゆくものへの悲愁で幕が閉じられる。須磨にて1泊『笈の小文』の記事はここまで。但し、寄稿作品としての『笈の小文』は芭蕉の草稿の断篇を芭蕉没後に門人が編成したもの。杜国(万菊丸)との旅『笈の小文』の旅の後、芭蕉は京都、近江、美濃を経て尾張に出た。
月はあれど留守のやうなり須磨の夏
4月21日 兵庫布引の滝に上る。次いで山崎街道を京へ向い途中、乙女塚・箕面の滝・能因塚・か・山崎宗鑑屋敷など名所旧跡を見物。
有難き姿拝まんかきつばた (猿雖宛書簡)
4月23日 京に入りしばらく逗留去来を訪れる。杜国は京から伊賀に立ち寄ったのち伊良湖から畑村の隠宅に帰った。
花あやめ一夜に枯れし求馬哉 (蕉翁句集)
4月23日~6月6日 京都・湖南の間に滞在
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 (曠野)(真蹟短冊)
4月25日 惣七(猿雖)宛書簡
ほととぎす宿かる頃の藤の花
5月 己白に誘われ岐阜を訪問
5月下旬 大津に至る
海は晴れて比叡降り残す五月哉 (真蹟懐紙写)
木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、まづ瀬田の螢を見に出でて
草の葉を落つるより飛ぶ蛍哉 (いつを昔)
この螢田毎の月にくらべみん (三つの顔)
ほたる見や船頭酔ておぼつかな(猿蓑)
6月 岐阜を経て尾張に入る
笈日記尾張の部に「大曽根成就院の歸るさに」と前書きがあって「有とあるたとへにも似ず」となっている。
何事の見たてにも似ず三かの月(曠野)
6月5日 大津、奇香亭で『鼓子花の』十吟歌仙興行。尚白、千那ら一座。
鼓子花の短夜眠る昼間哉
6月6日 大津出立。
6月7日 大堀を通過。
昼顔に昼寝せうもの床の山 (韻塞)
6月8日~6月末 岐阜に滞在。岐阜に名古屋の苛兮・越人らが来り、ともに滞在。長良川の鵜飼を見物する。その間に、落梧、己百、鴎歩、関の素牛(後号惟然)らの入門あり。岐阜蕉門が成立。
又やたぐひ長良の川の鮎膾
6月 (十八桜の記)
このあたり目に見ゆるものは皆涼し
6月 (鵜舟)
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな (曠野)(真蹟懐紙)
去来の妹千子が亡くなったのは元禄元年五月15日であった。芭蕉は旅にあって美濃路でその事を知り次の句を洛の去来のもとに贈った。
無き人の小袖も今や土用干 (猿蓑)
山路にて(稲葉山のこと)
なつ来てもただひとつ葉の一つ哉 (曠野)
なつ来てもただひとつ葉の一葉かな(附記)(笈日記)(泊船集)(真蹟懐紙)
7月3日 名古屋城西、円頓寺に滞在。
何事の見立てにも似ず三日の月 (阿羅野)
7月上旬~8月上旬 名古屋・鳴海の間に滞在
7月7日~7月13日 名古屋より鳴海の知足亭に移り滞在。諸所に唱和を重ねた。
よき家や雀よろこぶ背戸の粟 (俳諧千鳥掛)(真蹟懐紙・草稿)
夕がほや秋はいろいろの瓢かな (曠野)
7月11日 知足るの案内で鳴海東宮社見物
7月14日~8月上旬 鳴海より馬で再び名古屋に移り更科の月見に備えて逗留
隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子 (猫の耳)
名古屋滞在中、上方に赴く野水に与えた送別句
見送りのうしろや寂し秋の風
越人を伴なって更科に向かう途中の吟
送られつ送りつ果ては木曽の秋(阿羅野)(笈日記)
送られつ別れつ果ては木曽の秋 (更科紀行)
8月上旬 越人同伴岐阜に移る。
朝皃は酒盛りしらぬさかりかな(曠野)
8月11日~8月末 越人と更科の月を称し、善光寺に参詣して江戸に帰るべく岐阜を出立。美濃の国から信濃路の旅に出立するときの留別吟
送られつ送りつ果ては木曽の秋
月末江戸に帰着。その約20日間の旅の記を『更科紀行』という。②紀行の地の分は千字ほどの短さで十三句(うち越人は二句)が詠まれた。越人は俳人野水(名古屋呉服商で芭蕉を自宅へ泊めた俳人の紹介で芭蕉に入門し『春の日』以降『猿蓑』にいたるまで芭蕉に親炙した。この年芭蕉は45歳越人は34歳である。越人のほか苛兮(名古屋の医者)が[木曽路は山深く、道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、苛兮子が奴僕をして送らす。]と世話役の従者を一人つけてくれて三人旅であった。芭蕉が木曽路を歩くのは二度目であった。貞享2年の『野ざらし紀行』(42歳)の帰路は名古屋から馬籠、寝覚ノ床を通って洗馬経由で江戸へ向かったと推測される。
8月中旬 木曽路に入る。寝覚の床、木曽の桟、立峠、猿が馬場峠を経る。
紀行の一節に
高山奇峰頭の上におほひ重なりて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。桟はし・寝覚めなど過ぎ、猿が馬場たち峠などなどは四十八曲りとかや。九折重りて雲路にたどる心地せらる。
とある。昔の木曽路の旅は容易ならぬものであったろう。それ故にこそ苛兮は案内知る僕を従えさせたのであった。
ひょろひょろとなほ露けしや女郎花
(曠野)(更科紀行)(真蹟画賛)
あの中に蒔絵書きたし宿の月 (更科紀行)
桟や命をからむ蔦葛 (更科紀行)
桟やまづ思ひ出づ駒迎へ (更科紀行)
霧晴れて桟橋は目もふさがれず
身にしみて大根からし秋の風 (更科紀行)
木曽の橡浮世の人の土産哉 (更科紀行)
送られつ別れつ果ては木曽の秋
8月15日 更科到着。姨捨から名月を鑑賞する。
俤や姥ひとり泣く月の友 (更科紀行)
「姨捨山」は信濃の歌枕中もっとも著名なもので、「古今集」「大和物語」の
わが心なぐさめかねつさらしなや
姨捨山にてる月を見て
の古歌以来「姨捨山」や「更科の月」を詠んだ詩歌は数えきれない。いまは姨捨駅に近い長楽寺(更埴市八幡)境内の大岩を姨を捨てたところと言い伝え、芭蕉も「姨捨山は、八幡といふ里より1里ばかり南に、西南に横をれて、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、ただあはれ深き山のすがたなり」と説明している。
しなぬの國、更科といふ處に男住みけり。若き時に、親は死にければ、姨なん親の如くに相添へてあるに、其妻の心さがなくて、姑の老かがまり居たるを、悪みつつかき抱きて、深き山に捨てたまへてよ、とのみ責めければ、男、月のあかき夜、かき負ひて高き山にはるばる登り、そこに捨て置きて逃れ來ぬ。さて家に來て思ふに、年頃、親の如くに、養ひつつ相添ひてありければ、いと悲しく覺えけり。此山の上より、月いとあかく出でたるを眺めつつ、夜ひとよいも寐られず、かなしく覺えければ、
我が心なぐさめかねつ更科や
姨捨山に照る月を見て。
と詠みてなん又ゆきて迎へ返して來にけり云云。(大和物語)
あひにあひぬ姨捨山に秋の月 宗祇
8月16日 坂城に宿る。
いざよひもまだ更科の郡哉 (曠野)(真蹟短冊)(更科紀行)
8月中旬 長野の善光寺に参詣後、浅間山麓を通過
月影や四門四宗もただ一つ (更科紀行)
8月下旬ころ 吹き飛ばす石は浅間の野分哉
8月下旬 越人同道で江戸の芭蕉庵に帰る。(8月尾張から更科の月を賞する旅の紀行として「更科紀行」が成る。)
素堂『芭蕉翁、庵に帰るを喜びて寄する詞』を綴って無事帰庵を賀す。
9月10日 素堂亭で残菊の宴。
9月13日 芭蕉庵に後の月見の会を催す
木曽の痩せもまだなほらぬに後の月 (笈日記)
(木曽の谷集)(芭蕉庵十三夜)
仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて、詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。これ、才士・文人の風雅を加ふるなるや。閑人のもてあそぶべき者といひ、且つは山野の旅寝も忘れがたうて(木曽路の山野の旅寝で見た月も忘れがたくて)、人々を招き、瓢をたたき、峰の笹栗を白鴉と誇る(木曽路の山から持ち帰った小粒の栗を白あの栗と仮称し興じて客にすすめる)。
五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏哉 (茶の草子)
「茶の草子」に、「木曽の秋に痩せ細り、芭蕉庵に籠り居給ひし冬」と路通の文がある。
集続の原
花に遊ぶ虻な食ひそ友雀
1688年 元禄元年 9月30日 改元
何事の見たてにも似ず三かの月 (曠野)
あの雲は稲妻を待つたより哉 (曠野)
12月3日 益光宛書簡
冬籠り又よりそはん此はしら (曠野)(尚白宛真蹟書簡)
襟巻に首引入て冬の月 杉風
12月5日 其角宛書簡の中で芭蕉は俳諧の楽しさを述べた後
俳諧のほかは心頭にかけず、句のほかは口にとなへず、儒仏神道の弁口、ともにいたづら事と閉口閉口。
と書いている。
12月17日 以水らと深川八貧の句を詠む。8誌のヒントは、芭蕉・依水・苔翠・泥芹・友菊・友五・曽良・路通である。
米買に雪の袋や投頭巾 (路通真蹟懐紙) (雪まるげ)
二人見し雪は今年も降りけるか (庭竃集) 11月柳沢吉保、側用人となる
12月 支考の「笈日記」
埋火もきゆや泪の煎る音 (阿羅野)
嵐雪撰『若水』に発句2
不卜撰『続の原』に発句4入集
丈草病気を理由に遁世
元禄元年 桃隣この年芭蕉に入門か。
凡兆このころ入門か
路通、江戸に出て芭蕉庵近くに住む。
1689年元禄2年
(己巳) 元日 46歳 元日は田毎の日こそ恋しけれ (木曽の谷集)(真蹟懐紙)(橋守)
この年洒堂、芭蕉に入門
閏正月ころ 伊賀の猿雖宛書簡にも木曽旅行の強烈な印象を記してこの句を示す。
元日は田毎の日こそ恋しけれ
正月早々 『去来文』所収の『夜伽の詞』(元禄3年春稿)によると去来にこの句を送って奥の細道の旅に出ることを婉曲に知らせたらしい。
おもしろや今年の春も旅の空 (去来文)
1月17日 兄半左衛門宛書簡に北国行脚の予定を告げる。
閏1月末頃 伊賀の猿雖宛書簡に三月節供過ぎ奥羽行脚発足の予定を告げる。
閏1月末頃 「更科紀行」の草稿成る。
2月 言水撰『俳諧前後園』に4句入集
2月15日 桐葉宛書簡
かげろふの我が肩に立帋子哉 (真蹟歌仙巻一)(雪まるげ)
陽炎の我肩にある紙子哉
3月初め 『奥の細道』の旅出立準備として、深川の芭蕉庵を平右衛門という人物に譲り、杉山杉風の別墅採荼庵(さいとあん)に移る。芭蕉が今度の旅で志したものは「耳にふれていまだめに見ぬさかひ」。同行の曽良は、それに備えて、奥羽・北陸の名所旧跡・歌枕・神社仏閣などのメモを作っている。
草の戸も住み替る代ぞ雛の家 (おくのほそ道) 季吟、幕府に召される。
京俳壇を中心に景気の句を標榜する新気運が興隆する。
採荼庵(さいとあん)の正確な地点は明らかではないが仙台堀川にかかる海辺橋付近という。海辺橋の南詰めに採荼庵跡碑と平成三年に造られた「芭蕉旅たち」のブロンズ像がある。芭蕉像の後から仙台堀川の南岸に沿った小径には「おくのほそ道」で詠んだ十八句の板の碑がある。
島崎藤村の長男島崎楠雄さんの緑屋の二階には二枚折りの枕屏風がありそれには藤村の筆になる四枚の色紙が貼られてあった。
山はしづかにして性をやしなひ水は動いて情をなくさむ(洒ゃ落堂之記)
古人のあとを求めず古人の求めたるところを求めよと南山大師のふてのあとにも見えたり(芝門之辞)
行きかふ年もまた旅人なり(奥の細道)
あさをおもひ又ゆふをおもふへし 藤村
右はせを之ことをしるして楠雄のもとにおくる 印
「藤村が如何に芭蕉を敬慕したかも判るしそれがそのまま父より子に贈る人生へのはなむけであることも判った」と野田宇太郎は「馬籠手帳」の中で書いている。
3月中旬 山本苛兮撰『阿羅野』(『俳諧七部集』中の第三集)に序文を書き与える。
枯れ柴やまだかげろふの一二寸 (曠野)
花の陰謡に似たる旅寝かな (曠野)
月花もなくて酒のむひとり哉 (曠野)
橿の木のはなにかまはぬすがた哉 (曠野)
3月20日 曽良を伴い奥羽行脚の途に就く。この日、深川より隅田川を舟で千住に至る。
鮎の子の白魚送る別れ哉
3月23日 落梧宛書簡
草の戸も住みかはる世や雛の家 この初案を「奥のほそ道」へ収めるに際し、中七を「住み替はる代ぞ」に改めた。
旧暦3月27日~9月6日 曽良を伴い『奥の細道』の旅へと江戸を出立。白河・松島・平泉・羽黒・象潟・山中・と風吟を重ねる約6ヶ月間の旅。この旅中において『不易流行』の思索が始まり、最晩年の『軽み』の芸境へと深化発展することになる。
草の戸も住替る代ぞひなの家
行く春や鳥啼き魚の目は涙 (おくのほそ道)千住での見送りの人々に対する留別吟。