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芭蕉の年表 ⑦

2018.02.05 13:05

http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html  【芭蕉の年表】 より

3月27日   千住を発足。粕壁泊り。  

  仲春      疑ふな湖のはなも浦の春  (眞蹟集)  

  4月1日   正午頃日光着。東照宮参拝。芭蕉は「空海開基」とあるが実際は延暦年間勝道上人開基といわれる。

   あらたふと青葉若葉の日の光   (おくのほそ道)  

  4月2日   裏見の滝・含満ヶ淵など見物。昼、那須黒羽を目指して日光を発つ。

   暫時は滝に籠るや夏の初め    (おくのほそ道)  

  4月3日   那須野・黒羽に翠桃を訪ねる。13泊。  

  4月4から~

4月16日   那須余瀬・黒羽逗留。して、付近の名所を巡遊す。

   秣負ふ人を枝折の夏野哉     (曽良書簡)  

      下野国(栃木県)の雲巌寺の奥にある芭蕉禅の師である仏頂和尚の山居の跡を訪ねた。

   木啄も庵は破らず夏木立 (真蹟懐紙)(おくのほそ道)  

      湯本で湯泉神社参詣。

   湯をむすぶ誓ひも同じ石清水  (曽良旅日記)

殺生石を見物。黒羽の城代家老が馬をつけてくれた。途中「短冊をください」と頼む馬子に

   野を横に馬牽きむけよほととぎす(猿蓑)(おくのほそ道) (真蹟短冊)(句切)  

  4月16日   那須高久の庄屋角左衛門方に泊まる。  

  4月20日   芦野で遊行の柳を見物。遊行柳はかつて西行が

「道のべに清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠んだと伝えられる柳。

   田一枚植て立去る柳かな      (おくのほそ道)

   西か東かまづ早苗にも風の音(何云宛真蹟書簡)(俳諧葱摺)

細道の旅立ちは、尊敬する西行没後五百年目に当たる。西行や能因ゆかりの地を探索することが一つの目的であった。

         (都留市博物館)

平成8年に奥の細道の芭蕉の自筆本が発見された。   

  4月22日   白河の関を越えて奥羽に入る。

   風流のはじめや奥の田植うた      (猿蓑)  

  4月下旬   何云宛書簡                      

   関守の宿を水鶏にとはふもの(何云宛真蹟書簡)(俳諧伊達衣)   

  4月22日~4月28日   影沼を見物し、須賀川に等躬(須賀川の駅長芭蕉と旧知の間柄)を訪ねて7泊

   風流の初めや奥の田植歌         (猿蓑)白河の関越えの感慨を須賀川の等躬亭で披露した。  

  4月29日   須賀川を発つ。  

  5月1日   浅香山・浅香沼などを見物して、福島に泊まる。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺   (おくのほそ道)  

  5月2日   佐藤庄司(藤原秀衡の臣)の旧跡を経て、飯坂温泉に一浴。

   笈も太刀も五月に飾れ紙幟    (おくのほそ道)  

  5月3日   白石泊

   笠島はいづこ五月のぬかり道   (おくのほそ道)  

  5月4日~

5月7日   武隈の松を見て仙台に到着。仙台泊。「壺の碑」に「羇旅の労をわすれ」るほど感涙を催す。

   あやめ草足に結ばん草鞋の緒   (おくのほそ道)  

  5月8日   末の松山を見て、塩竈に1泊。塩釜神社に参詣。  

  5月9日   「松島の月先心にかかり」と旅立つ前から待望の松島にわたる。島まわりをして、松島に着いたのは正午ごろ。渡月橋を渡り雄島・雲居禅師の座禅堂を見たり、草庵に暮らす道心と話をしたりして、その夜は松島に宿る。

   島々や千々に砕きて夏の海   (蕉翁全伝附録)  

  5月10日   石巻  

  5月11日   登米。瑞巌寺(元、松島円福寺を政宗が瑞巌寺に改める)に詣ず。  

  5月12日   平泉へと急ぐ。一ノ関泊。  

  5月13日   一ノ関から平泉見物に出かける。。高館(義経の居館だった所)に上り、衣川・衣が関・中尊寺・光堂・秀衡屋敷等を巡覧した。藤原氏三代(藤原清衡・基衡・秀衡)の栄華を偲ぶ。一ノ関泊り

   夏草や兵どもが夢の跡  (猿蓑)(おくのほそ道)  

      中尊寺金色堂を訪れての吟。元禄二年から五百六十五年前の天治元年、藤原秀衡の建立。

   五月雨の降り残してや光堂    (おくのほそ道)

初案

   五月雨や年年降るも五百たび  (曽良本おくのほそ道)  

  5月14日   一ノ関を発った。岩手の里・小黒崎・美豆の小島などの歌枕を見物。  

  5月15日   鳴子を経てしと前の関越えに出羽新庄領に入り、堺田の庄屋新右衛門の兄宅に泊まる。  

  5月16日   大雨のため同所滞留

   蚤虱馬の尿する枕もと      (おくのほそ道) シトはふつう、子供の小便。動物の小便はバリというが、ここでは尿前(しとまえ)の関にひっ掛けてシトと読ませ、人と同居するに等しい馬を人並みに扱ってユーモア化した。  

  5月17日~

5月26日   尾花沢着。鈴木清風(かれは富めるものなれども、志いやしからず)亭などに10日間逗留。鈴木清風は、紅花を商う豪商で京・江戸では芭蕉との交渉も少なくなかった。

   涼しさを我が宿にしてねまるなり (おくのほそ道)

   這出でよかひやが下のひきの声 (猿蓑)(おくのほそ道)

   眉掃を面顔にして紅粉の花 (猿蓑)(真蹟懐紙)(おくのほそ道)  

  5月27日   尾花沢を発ち清風の用意した馬で山形領の山寺(立石寺(りっしゃくじ))に参詣に赴く。宿坊に一泊

   閑かさや岩にしみ入る蝉の声   (おくのほそ道)   

  5月28日~

5月30日   大石田(山形県)着。高野一栄宅に三泊。四吟歌仙興行。

   五月雨をあつめて早し最上川   (おくのほそ道)  

5月29日 最上川の河港大石田の高野一栄亭で催された歌仙の発句

   五月雨を集めてすずし最上川(真蹟懐紙写し)(真蹟歌仙巻・曽良書留)     を改案したもの

  6月1日   大石田発。新庄着。渋谷風流亭に二泊。     

   水の奥氷室尋ぬる柳哉       (曽良書簡)  

  6月3日   図司左吉(俳号呂丸。俳諧は蘇門。)宅に着く。呂丸羽、山伏の衣を染める染物業を営んでいる。    

  6月4日   羽黒手向村近藤呂丸の手引きで、一栄の紹介状を持って、羽黒山別当代会覚阿闍梨を南谷別院に訪ねて六泊。八吟の俳諧興行。

   有難や雪をかほらす南谷     (おくのほそ道)  

  6月8日   月山に登り権現を拝す。

   涼しさやほの三日月の羽黒山  (おくのほそ道)

   雲の峰いくつ崩れて月の山 (おくのほそ道)(真蹟短冊)出羽三山巡礼の記念として詠んだ句  

  6月9日   湯殿山に下る。

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな (おくのほそ道)(真蹟短冊)  

  6月10日   羽黒山を下山、呂丸の案内で、鶴岡城下に藩士長山重行を訪問、三泊。

   めづらしや山を出で羽の初茄子    (曽良書簡)  

  6月13日   芭蕉と曽良は呂丸と別れ、最上川の支流を川舟で下り、酒田に至る。医師不玉(俳号玄順)宅を宿とする。二泊。  

   文月や六日も常の夜には似ず(猿蓑)(おくのほそ道) (真蹟懐紙)  

  6月14日   富商寺島安種の招きを受け、不玉ら土地の連衆も参加して歌仙が巻かれる。七吟連句一巡あり。

   暑き日を海に入れたり最上川  

  6月15日    酒田発、象潟に向かって、十余里の道を北上した。吹浦一泊  

  6月16日、17日    象潟見物

   象潟や雨に西施が合歓の花  (おくのほそ道)    

  6月18日   酒田に戻り、不玉亭に六泊。

   温海山や吹浦かけて夕涼み   (おくのほそ道)     

  6月23日   玉志亭会

   初真桑四つにや絶たん輪に切らん (真蹟懐紙)  

  6月25日   酒田発。  

      主従二人は加賀に向かい、羽前山形県の大部分街道を南下し、大山・温海・中村と泊りを重ねる。  

  7月2日   新潟一泊。  

  7月4日   新潟県三島郡出雲崎(佐渡を最も近く望む地)に泊まる。

   荒海や佐渡に横たふ天の河(真蹟短冊)(真蹟懐紙・おくのほそ道・色紙・草稿)

   文月や六日も常の夜には似ず (猿蓑)(おくのほそ道・真蹟懐紙)

佐渡には、万葉歌人穂積朝臣老が流されて以来中世までに、その数七十余人にのぼるといわれる。文覚上人・順徳天皇・日蓮上人・京極為兼・日野資朝・世阿弥等が有名である。  

  7月7日   直江津で上の句を披露  

  7月12日   市振に一泊。

   小鯛插す柳涼しや海士が家 (真蹟懐紙)(雪まるげ)

   一家に遊女もねたり萩と月   (おくのほそ道 )     

  7月13日   黒部川を渡って越中に入る。  

  7月15日   倶利伽羅峠(義仲が平家の軍勢を追い落した古戦場)越えで加賀に入り、金沢城下に至る。九泊。京屋吉兵衛方に宿をとる。

   早稲の香や分け入る右は有磯海(おくのほそ道)(真蹟懐紙)

乙州、商用で加賀の国金沢にある時芭蕉と邂逅する。以後、上方滞在中の芭蕉を自宅に迎えたり、無名庵や幻住庵に訪れ、智月とともに、師の経済生活を支えた。また、加賀・江戸への家業の旅を通じて、蕉風伝播者の役割も果たす。大坂商人何処にも会う。  

  7月17日       あかあかと日はつれなくも秋の風  (おくのほそ道)(真蹟自画賛・懐紙・画賛・竪幅 )金沢入りの途中吟。金沢源意庵における納涼句会で発表。

度の数年後に門人杉山杉風の所望により芭蕉が自ら書画共に筆を執り落日と萩の画を描いた「あかあかと」の発句画賛がある。

         (都留市博物館)  

      一笑(36歳で没した。蕉門俳人)の墓に詣でて

   「塚も動け我泣く声は秋の風」 (おくのほそ道)(真蹟懐紙)

と慟哭の句を詠んだ。芭蕉は小杉一笑に会うことを楽しみにしていて小杉一笑の元に到着を告げた。ところが、二人の使いがやってきて、一笑は去年12月6日死去の由を告げたのだ。  

  7月22日   追善句会

   塚も動け我泣く声は秋の風」  

  7月24日~

7月26日   金沢の北枝の案内で小松着近江屋に宿る。三泊。北枝芭蕉に入門。

   むざんやな甲の下のきりぎりす(猿蓑)(奥の細道)

小松の多田神社で平家の武将、斉藤別当実盛遺品の甲を拝観した折の作。「ほそ道」には、「実盛討死の後、木曽義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし樋口の二郎が使いせし事共、まのあたり縁起にみえたり」とある。実盛は、初め源義朝に仕えて、保元・平治の乱に従ったが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛に仕えた。木曽義仲追討の戦に、かつて義朝より拝領した甲を着用し、白髪を染めて奮戦したが、義仲の臣手塚太郎光盛の手にかかって討死。義仲は二歳で父を討たれたとき、実盛に7日間養われ、木曽へ送られ中原兼遠に育てられた。その恩に報いようとした義仲は首があらわれ白髪の実盛とわかった時涙を流したという。当地の太田(多田)神社に実盛の句を奉納。木曽義仲の願状(寺社に奉納する祈願状)も拝観。    

  7月27日~

8月4日   山中温泉に至り、八泊。和泉屋久米之助宅を宿とす。北枝同伴。

   山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ  (おくのほそ道)