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芭蕉の年表 ⑧

2018.02.16 13:12

http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html  【芭蕉の年表】 より

8月5日 今の石川県小松市にある那谷(なた)寺観音に北枝同道で詣でた折の作。境内は全山白っぽい石英粗面岩の奇岩怪石・洞窟から成り、奇勝清閑で知られる古い霊場。

   石山の石より白し秋の風  (おくのほそ道)(真蹟懐紙)  

  8月5日   那谷寺を経て小松を再訪。北枝同伴。金沢以来腹の病気に悩まされていた曽良は、ここで芭蕉と別れ、伊勢長島大智院の叔父の許に急ぐことになる。

   今日よりや書付消さん笠の露   (おくのほそ道)

   行々てたふれ伏しとも萩の原(曾良)  

  8月上旬   曽良は芭蕉と別れてから加賀大聖寺城下の全昌寺に一泊。この寺は曹洞宗で、山中温泉で宿った和泉屋の菩提寺である。現住職月印和尚は、和泉屋久米之助の叔父にあたる。

   終宵秋風聞やうらの山    曽良

芭蕉も曽良と同じ秋風を聞きながら、修道僧の寮舎にやすんだ

   庭掃いて出でばや寺に散る柳   (おくのほそ道)   

  加賀と越前との国境にある吉崎(福井県金津町)の入江を舟で渡り、汐越の松を訪ねる。

   夜もすがら嵐に波を運ばせて

       月を垂れたる汐越の松  西行

この歌は、蓮華上人(室町時代、浄土真宗中興の祖。文明3年(1471)吉崎に赴き、地方を教化)の歌である。西行の歌と芭蕉の誤聞。芭蕉は西行を尊崇していた。  

  8月上中旬   松岡で北枝と別れる。

   物書いて扇引き裂く余波哉    (おくのほそ道)    

      曹洞宗の総本山永平寺を訪ねる。  

  8月中旬   福井に等栽を訪ねて二泊。10年前等栽は江戸にやってきて芭蕉を訪ねた。

   名月の見所問はん旅寝せん(芭蕉翁月一夜十五句)  

      燧が城(福井県今庄町)、木曽義仲の軍が平維盛勢に攻め落とされた古戦場。湯尾峠の向い側、燧山にあった。

   義仲の寝覚めの山か月悲し(芭蕉翁月一夜十五句)  

   8月14日   洞哉同道で敦賀に着く。滞在中、『芭蕉翁月一夜十五句』等成る。

   月清し遊行の持てる砂の上 (猿蓑)(真蹟懐紙・芭蕉翁月一夜十五句・おくのほそ道)  

  8月15日   雨降り

   名月や北国日和定なき(おくのほそ道・芭蕉翁月一夜十五句)  

  8月16日   天屋五郎右衛門の案内で種の浜に遊ぶ。本隆寺に休息。

   寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋  (おくのほそ道)

   浪の間や小貝にまじる萩の塵   (おくのほそ道)  

      敦賀逗留の間に、路通が迎えにやってきた。  

  9月   挙泊撰『四季千句』に五句入集  

  9月3日   曽良随行日記によるとこの日夕刻大垣に到着。

美濃の大垣に至って近藤如行の宅に滞在。曽良も伊勢より来て、越人も馬をとばせて如行(元大垣藩士、蘇門)の家に集まる。『奥の細道』の旅は当地大垣が終点となる。歩行距離は概略六百里。所要全日数百五十五日

翁行脚のふるき衾をあたへらる。記あり。之を略す。

    首出してはつ雪見ばや此の衾    竹戸(猿蓑)

如行亭に入った芭蕉は、如行の門人で貧しい鍜工の竹戸が身のまはりの世話をしてくれたので、記念として、行脚中携えた紙衾を与えたのであった。記ありとは芭蕉の記のことである。     

  9月6日   木因に送られ、曽良、路通を伴って伊勢大神宮の遷宮式奉拝のため大垣を出発。「奥のほそ道」の旅を終り又新しいたびに出るのである。見送りの大垣連衆に示した留別吟。

   蛤のふたみに別れ行く秋ぞ (おくのほそ道)(真蹟懐紙)

揖斐川下りで伊勢に向かう。越人、船乗場まで送る。  

  9月7日    伊勢長島の大智院に三泊。後、津・久居に各一泊。

   憂きわれを寂しがらせよ秋の寺  (真蹟色紙)  

  9月10日   貝増卓袋(市兵衛)宛書簡

  9月11日   伊勢山田に到着。  

  9月12日   同西河原の島崎又玄方を宿所とす。  

  9月13日   外宮遷宮式を奉排。

   尊さに皆おしあひぬ御遷宮 (真蹟懐紙)(泊船集)

   御子良子の一もと床し梅の花         (猿蓑)  

  9月中旬   (明智が妻の話)

   月さびよ明智がつまの話せむ (俳諧勧進牒)(真蹟懐紙)  

  9月中下旬頃   二見浦を見物

   硯かと拾ふやくぼき石の露 (杉風宛真蹟書簡)(芭蕉句選)  

  9月下旬   李下を伴い、久居の知人を訪ねて2,3日泊る。芭蕉の姉の嫁ぎ先が久居であったとする説もある。李下は一宿後去る。  

  9月末~11月末   伊勢より伊賀上野に帰郷。山越えの途中『猿も小蓑』の吟あり。約2ヶ月郷里に逗留。

   初時雨猿も小蓑を欲しげなり (猿蓑)(真蹟懐紙・色紙)

「猿蓑」の巻頭に据える。

   こがらしや頬腫痛む人の顔          (猿蓑)  

  10月   曽良江戸に戻る  

  10~11月   配力亭で『人々を』以下の表六句あり

西島百歳以下、式之・夢牛・村鼓・槐市・梅額らと七吟歌仙を巻く。

   人々をしぐれよ宿は寒くとも     (蕉翁全伝)  

  11月1日   良品亭で六吟歌仙興行  

  冬      雪の中に兎の皮の髭作れ    (いつを昔)(万菊丸宛書簡)(土芳本蕉翁全伝)  

  11月3日   半残亭で沢雉・卓袋・木白・松久・氷固・配力・一夢・梅額・尾頭・猿雖・式之・土芳・梅軒ら伊賀蕉門大寄せの十五吟五十韻俳諧あり。

   冬庭や月もいとなる虫の吟  

  11月22日   土芳の蓑虫庵で九吟五十韻俳諧あり。園風・梅額・半残・良品・風麦・木博・配力らと一座。  

  11月末   郷里を出立。路通同道で奈良へ出、春日若宮の御祭りを見物。

   初雪やいつ大仏の柱立て (真蹟懐紙)(笈日記)  

  12月24日   京都去来宅(落柿舎)で鉢叩きを聞く。去来に不易流行論を説く。(「去来抄」修業)

   長嘯の墓もめぐるか鉢叩き(真蹟自画賛)(いつを昔)  

  12月末   大津に赴き膳所義仲寺の草庵で越年

   霰せば網代の氷魚を煮て出さん     (花摘)

曲翠、芭蕉が膳所を訪れて以来親交を結び、新風の伴侶として期待される。  

      苛兮撰『あら野』に発句35・歌仙1、

   月花もなくて酒のむ独り哉   (曠野)

「芭蕉句選」には雑の部に入っている。  

      等躬撰『葱摺』に発句5・歌仙1・三物2・端物1入集  

      名古屋横船撰『続阿波手集』に一句入集  

      歳暮吟

   何にこの師走の市に行く烏         (花摘)  

 「江戸惣鹿子」なる。「江戸鹿子」に加えて蝶蝶子・山夕・嵐雪・沾徳らを付加している。  

1690年元禄3年

(庚午)   47歳 歳旦吟

   薦を着て誰人います花の春 (其袋集)(真蹟草稿)

   誰人か薦着ています花の春  

  正月3日~3月中旬   膳所から伊賀上野に帰り約3ヶ月間滞在。「ほそ道」敦賀以来共にした路通は膳所に留する。諸門人と唱和。

支考近江国で芭蕉に入門。 契沖『万葉集代匠記』成る

3月20日杜国没

  1月4日夜   藤堂探丸方から招きを受ける。  

  正月17日   万菊丸(杜国)宛書簡

   初雪に兎の皮の髭つくれ  

  3月2日   伊賀蕉門の小川風麦の宅で花見の宴その折の即吟発句は『軽み』を発揮したと自認。早速、連句においても『軽み』を試みるべく、同席の門人を相手に苦吟するが、不成功に終る。

   木のもとに汁も膾も桜かな (ひさご)(真蹟懐紙・短冊・扇面)「ひさご」の巻頭吟で「花見」と前書きする。  

  3月上旬   実家に在って次の句を得る。

   種芋や花のさかりに売ありく  

  3月   洒堂は芭蕉を自宅に招き「洒落堂記」を与えられる。

   四方より花吹き入れて鳰の波 (白馬集)(真蹟短冊)  

  3月10日    杉風宛書簡

   種芋や花のさかりに売ありく (己が光)(真蹟草稿)  

  3月下旬   伊賀より膳所へ出る。途中吟あり。

   蛇食ふと聞けばおそろし雉子の声    (花摘)  

3月 膳所に出、

   木のもとに汁も膾も桜かな         (ひさご)

を立句とする翁・珍碩・曲水の三吟歌仙を巻く。この句に関して(花見の句のかかりを少し心得て、軽みをしたり)(「三冊子」赤)との芭蕉の言葉がある。

   3月下旬   膳所に赴き、近江蕉門の浜田珍碩、菅沼曲水を相手に「花見」の三吟歌仙を興行。『軽み』の発揮されたのを喜び「ひさご」(「俳諧七部集」中の第四集)の巻頭に飾る。

   行春を近江の人と惜しみける       (猿蓑)

越人、ひさごでは序文を請われるなどしたが、次第に師風の進展に従えず離反、消息を絶つ。

洒堂は「ひさご」の編者として急速に頭角を現す。

曲翠は幻住庵を提供するなど芭蕉の信頼厚く、芭蕉書簡では曲翠宛が最も多い。  

      このころ各務支考(26)が近江で芭蕉に入門  

  4月6日~7月23日   近江石山の奥、国分山にある幻住庵に入る。幻住庵は芭蕉の門人菅沼曲水の伯父幻住老人が建てたもの。在庵中に『幻住庵の記』の稿の推敲を重ね、出庵の後に完成。前年の旅の疲労から、健康すぐれず。

   病雁の夜さむに落て旅ね哉

と詠む。

「・・・・やがて草庵の記念となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の檜笠、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。・・・・

   まづ頼む椎の木もあり夏木立 (猿蓑・短冊・懐紙))(真蹟短冊)」  

  4月上旬   杜国の死(3月20日)を知る。  

  4月10日   怒誰宛書簡

   君やてふ我や荘子が夢心   (怒誰宛書簡)  

  4月10日   此筋・千川宛書簡  

  4月16日   洒堂宛書簡

   夏草や我先達て蛇からむ    (洒堂宛書簡)  

  5月6日   彦根藩士森川許六は江戸勤番の機に芭蕉に入門していたが帰国の途に就いた。以後、彦根蕉門の開拓者となる。

      許六が木曽路に赴く時

   旅人の心にも似よ椎の花

   椎の花の心にも似よ木曾の旅

   憂き人の旅にも習へ木曾の蠅  

      凡兆、自宅にしばしば芭蕉を迎え、妻羽紅とともに親炙した。  

  6月初めより18日まで   一時上洛し凡兆、去来と歌仙「夏の月の巻き」を巻く。この間去来・凡兆と『猿蓑』の撰に着手。在京の間、凡兆宅を定宿とする。

   陽炎や柴胡の糸の薄曇り        (猿蓑)     

6月上旬ころ   大坂より東湖(後、之道)、大坂本町の商家伏見屋久右衛門上京して入門。

   我に似な二ツにわれし真桑瓜  

  6月上旬   京都に滞在していた間に「四条の河原涼み」を執筆

   川風や薄柿着たる夕涼み (己が光)(曲水宛真蹟書簡)  

  6月20日   (小春宛書簡)

   京にても京なつかしやほととぎす (己が光)(小春宛真蹟書簡)  

   6月下旬    膳所の珍碩方に逗留。

   四方より花吹き入れて鳰の波(白馬集)(真蹟短冊)  

  7月   幻住庵に在住中の芭蕉が京都の北向雲竹(東寺観智院の僧。大師流の書家。芭蕉の書の師)の求めに応じて来送した雲竹の自画像に讃す。

   こちら向け我もさびしき秋の暮    (蕉翁句集)  

      幻住庵滞在中の作。

   やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  (猿蓑)(真蹟句切)  

  7月17日   立花牧童(彦三郎)宛書簡  

  7月下旬   「幻住庵記」再稿を改稿して第三稿を完成。  

  7月23日   幻住庵を引き払い大津・膳所に遊び、膳所義仲寺の無名庵を居所とする。 

 膳所(現在の滋賀県大津市膳所)の正秀たちが義仲寺にあった草庵を芭蕉のために改築することを計画した。  

7月下旬   大津滞在中「幻住庵記」第三稿をさらに改稿、第四稿を得る。  

 7月下旬~9月末   湖南の地に滞在、おおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住。大津・膳所・京・堅田の間を転々する。

   京にても京なつかしやほととぎす (小春宛真蹟書簡) (己が光)  

8月4日   千那宛書簡

   猪もともに吹るる野分かな       (江鮭子)  

  8月初め   義仲寺の草庵に入り以後約2箇月閑居。

「木曽塚草庵、墓所近き心

   玉祭り今日も焼き場の煙哉      (蕉翁句集) 」  

  8月13日   『ひさご』出版。芭蕉監修。珍碩撰『ひさご』に歌仙1入集。     

  8月15日   義仲寺草庵で門人らと月見の会を催す。この頃持病に苦しむ。

   月見する座に美しき顔もなし    (夕顔の歌)  

  8月中旬   『幻住庵記』定稿成る。猿蓑に公表される。

   先たのむ椎の木も有り夏木立  

  8月18日   加生(凡兆)宛書簡。義仲寺でかく。

   川風やうす柿着たる夕すずみ  

  9月6日    曲水宛書簡

   甘塩の鰯かぞふる秋のきて   

  9月12日   曽良宛書簡

   桐の木にうづら鳴くなる塀の内       (猿蓑)  

  9月13日   堅田に赴き25日帰庵

   海士の屋は小海老にまじるいとど哉 (猿蓑)(真蹟句切)  

  9月20日   「真蹟懐紙」の前書には「堅田にやみ伏して」とある。芭蕉自身も漁家で風邪を引いたらしい。

   病雁の夜寒に落て旅寝哉          (猿蓑)     

  9月26日   茶屋与次兵衛(昌房)宛書簡。堅田で風邪を引き病臥したことを述べてこの句を報じている。木曽塚より芭蕉とある。

   病雁の夜寒に落て旅寝哉  

          ひごろ憎き烏も雪の朝哉     (俳諧薦獅子集)

袈裟東雲のころ、木曽寺の鐘の音枕に響き、起きいでて見れば、白妙の花の樹に咲きておもしろく

   つね憎き烏も雪のあした哉     (真蹟自画賛)」  

  9月27日   京に出る。怒誰宛書簡

   雁聞に京の秋におもむかむ   (怒誰宛書簡)  

  9月28日   帰庵。幻住庵を捨てて粟津の無名庵に移る。  

  9月下旬   伊賀上野に帰る。12月末まで約三ヶ月間滞在。その間に、京都・湖南に出向く。  

  10月10日   之道撰『江鮭子』に1句入集。  

  10月21日   嵐蘭宛書簡

   子や啼む其子の母も蚊の喰ワン  

         木枯らしや頬腫れ痛む人の顔      (猿蓑)  

         干鮭も空也の痩せも寒の内   (猿蓑)(真蹟懐紙)(元禄四年俳諧物尽)  「空也」は「空也僧」すなわち「鉢叩き」のこと。十一月十三日の空也忌から四十八夜の間、洛中洛外の墓所を瓢をたたき高声念仏を唱え勧進して回る。  

  11月14日   曲水宛書簡

   初雪やひじり小僧が笈の色    (俳諧勧進牒)  

      京都に仮寓していた折の作。  

    住つかぬ旅のこころや置火燵     

  12月末   京より大津に移り、一時乙州新宅に滞在

   人に家を買はせて我は年忘れ (猿蓑)(真蹟懐紙・短冊)  

  大晦ごろ   木曽塚に移る