病に愛を。死に花束を。
☆
ときどき、ママの夢を見る。
大体においてそれは、病気の頃のママの夢で、
夢の中で私は、恐れ、悩み、苦しんでいる。
そういう夢から覚めたとき、「ああ、良かった」と思う。
「ああ、良かった、もう死んでるから大丈夫だ」と思う。
死んでるから大丈夫というのは、おかしな話なのだけれど、
そういう夢から覚めたとき、私は必ずそう思うのだ。
何故、いまだにそんな夢を見るのだろう。
私が思うにそれは、その頃の記憶や苦しみが強烈だったので、
それが私の潜在意識だかどこかに残っていて、時々、夢として浮上してくるのだと思う。
多くの人は、ママが亡くなったあとの私を心配してくれたけれど、
私が一番苦しみを感じたのは、死のあとではない。
私が一番苦しみを感じたとき、それは、
癌が発覚したとき、またその生存率を聞いたとき、
「最善」の治療を探しているとき、またその「最善」の治療が分からなかったとき、
手術をしたとき、またその手術のあとに摘出された胃を見たとき、
一人でお見舞いに行ったとき、また一人でお見舞いから帰ってきたとき、
抗癌剤の治療が始まったとき、またそのあとに出た副作用を見たとき、
ステージが4になったとき、またそれを知って祖母が電話越しに泣いていたとき、
徐々に痩せ細っていく身体を見たとき、またそれを見て死の恐怖を感じたとき。
私の苦しみはこれらであって、「死」そのものではなかった。
「死」そのものは皮肉にも、それが起きることによって、
それらの苦しみから私を解放したのだった。
あの頃の私は、病をそして死を、許すことができなかった。
何故ならそれは、許すべきものではなかったから。治すべきものであったから。
健康は良いことで、病は悪いことだったから。
生きることは良いことで、死ぬことは悪いことだったから。
治るべきで、生きるべきであったから。
愛する人を失うことは悲しいことかもしれない。
けれど、病が愛していいものであったのなら、死が許していいものであったのなら、
私はあの頃、あれほど苦しまなかったと思う。
あの頃の私にこの言葉を祈りたい。
これから先、あなたの人生に何が起ころうと、
また愛する人の人生に何が起ころうと、
それが起きることを許せますように。
健康を許すように、病を許せますように。
生を許すように、死を許せますように。
治ることを許すように、治らないことを許せますように。
愛さなくてもいいけれど、
ただただ、それが起きることを許せますように。
それでもやっぱり、許せないかもしれないね。
それでは、その許せない自分すらも、
許すことができますように。