芭蕉の年表 ⑨
http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
珍碩撰『ひさご』をはじめ蕉門の選集ようやく数を加え、諸俳書への入集句とみにふえる。
秋風撰『吐綬鶏』に4句入集。
杜国死す。
嵐雪、「其袋」を刊行し雪門の勢力を世に誇る。其角と並ぶ江戸蕉門の双璧として、他門からも重視された。のち、杉風らとの軋轢を生じ、点取俳諧にも手を染め、師の怒りを買う。
文月や六日も常の夜には似ず
1690年頃 千那、乙州らの新進の台頭に押され、また「忘梅」の序をめぐり師と確執を生じ蕉門から離反した。
「俳諧物見車」に武江(江戸)の桃青、今は粟津の辺に住みて世の俳諧を批判せずとなんと記されている。芭蕉は俳諧師なら当然するはずの点をしない、きわめてユニークな人物であった。
「いつを昔」其角撰
1691年元禄4年
(辛未) 48歳 木曽塚で新年を迎える。
大津絵の筆のはじめは何仏 (俳諧勧進牒)
正月5日 曲水宛書簡
住つかぬ旅のこころや置火燵 (猿蓑)(元禄四年京蕉門歳旦帳)
書簡は湖南にあって認められたものであるが、この句は湖南に移る前に京都にあっての吟らしい。
1月中 藤堂修理長定次男屋敷で句会あり。
山里は万歳おそし梅の花 (真蹟懐紙)(蕉翁全伝) 万歳は年頭京都から始めて町々を祝い歩く門付け芸人。
1月7日 乙州江戸下向の餞別俳諧興行。「丸子」は府中と岡部の間に位置する東海道の宿駅で現在の静岡市丸子町。そのとろろ汁は街道屈指の名物。
梅若菜丸子の宿のとろろ汁 (猿蓑)
1月上旬 同じ頃膳所義仲寺の草庵で「木曽塚」を題とする句会あり。
木曽の情雪や生えぬく春の草 (芭蕉庵小文庫)
正月19日 水田正秀(孫右衛門)宛書簡
正月29日 「月次(つきなみ)興行通題梅」に参加している面々は露沾・岩翁・岩泉・且水・キ翁・岩松・横几・探泉・沾荷・コ谷・沾徳そして其角であった。この集まりは露沾亭での[月次興行」なので芭蕉は江戸を留守にすることが多かった関係上露沾サロンの固定客ではなかった。
尚白、「忘梅」の編集をめぐり師と確執を生じて疎遠となる。
1月上旬~3月末
(4月上旬とも) 大津から伊賀上野に帰郷し約三ヶ月間逗留
不精さや掻き起されし春の雨 (猿蓑)
不精さや抱き起さるる春の雨 (珍碩宛書簡) 林信篤、大学頭に叙せられる
橋木亭句会。卓袋亭月待句会
1月末 大津へ出て乙州の江戸行き餞別句会を催し上野へ帰る。
2月9日 菅沼外記(曲水)宛書簡
から鮭も空也の痩も寒の内 (猿蓑)(真蹟懐紙)(元禄四年俳諧物尽)
2月上中旬頃 興福寺の薪能見物などで奈良に赴き、ふたたび伊賀に帰る。 熊沢蕃山没73歳
2月22日 珍夕宛書簡
梅が香や砂利敷流す谷の奥
3月16日 順水撰「渡し舟」に3句入集
3月春 「元四未、尾張の人より淡酒一樽木曽のうど茶一種得られしをひろむると、門人集ての時也」
呑明て花生にせん二升樽
3月23日 伊賀万乎亭で半歌仙
3月末 奈良経由、京もしくは大津に出る。
住つかぬ旅のこころや置火燵 (猿蓑) 西鶴石車を著し、可休撰「物見車」の批難を反駁する。
春 松笛撰『帆懸船』に1句入集
春 江水撰『元禄百人一句』に一句入集
4月18日~5月4日 京都洛西嵯峨落柿舎(向井去来の別宅)に滞在この間の日記を「嵯峨日記」という。嵯峨日記は文芸としての推敲を重ねた作品ではないが、芭蕉の日々の動静、俳交、心情などが如実にうかがえる。このころまでに未定稿笈の小文の執筆と整理を行う。
4月19日 臨川寺に参詣。小督(高倉天皇の寵姫)屋敷を見る。
憂き節や竹の子となる人の果て (嵯峨日記)
4月20日 凡兆・羽紅夫婦、去来が訪れる。同宿。暁方まで語る。去来の兄元端夫人より菓子・副食物が届く。
柚の花や昔しのばん料理の間 (嵯峨日記)
ほととぎす大竹藪を漏る月夜 (嵯峨日記)
4月21日 朝、凡兆・羽紅夫婦帰京。夕方去来も帰京。
4月22日 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 (猿蓑) (嵯峨日記)
4月23日 竹の子や稚時の絵のすさみ (嵯峨日記)
竹の子や稚時の絵のすさび (猿蓑)
4月25日 史邦・丈草の訪問が続く。
4月28日 去春3月死亡した杜国を夢に見る。
4月29日 高館は天に聳えて星甲に似たり
5月2日 曽良が来て、江戸の話に花が咲いた。去来・曽良とともに大井川の舟遊びを楽しむ。
5月4日 夕刻、曽良去る。明日落柿舎を出る名残りに舎内を見まわり、吟あり。
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 (嵯峨日記)
5月5日 落柿舎を出て、洛中小川椹木町上るの凡兆宅に移る。
5月5日~
6月19日 おおむね京都の野沢凡兆の宅(凡兆亭)に滞在。その間に「猿蓑」(「俳諧七部集」中の第五集)の編集に監修者として参加したものと推定される。
鶯の笠落したる椿かな (猿蓑)
陽炎や柴胡の原の薄曇り (猿蓑)
一里はみな花守の子孫かや (猿蓑)
5月10日 半残宛書簡
鑓持や猶ふり立る時雨かな
5月17日 去来、凡兆夫婦、曽良、丈草、史邦らと芝居見物。
5月23日 再び芝居見物
正秀宛書簡
月まつや海をしりめに夕涼
5月26日 深更まで「猿蓑」編集会議
北枝撰北陸蕉門俳書の嚆矢「卯辰集」に19句入集
路通撰「俳諧勧進牒」に発句12歌仙1入集
5月29日 曽良、丈草、史邦、芦文らと八坂神社御輿洗いの神事を見物
6月1日 曽良、丈草、去来と洛北一乗寺村の石川丈山詩仙堂を見物
風薫る羽織は襟もつくろはず (芭蕉庵小文庫)
6月8日 病気甚だしく吐瀉あり
水無月は腹病やみの暑さかな (葛の松原)
6月16日 琴風撰「瓜作」に3句入集
6月25日 曽らと別れた芭蕉は、京より大津に出、のち新築なった膳所の義仲寺無名庵に移る。
轍士撰「我が庵」に1句入集
6月25日~
9月28日 大津に移りおおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住。但しその間に一時京都に出向く。
米くるる友を今宵の月の客 (笈日記)
7月3日 人生象徴的な作風に蕉風の円熟境を示す。芭蕉の監修のもと、去来、凡兆撰「猿蓑」刊其角の序、杉風の跋。発句40歌仙4『幻住庵記』『几右日記』等入集凡兆の客観的で印象鮮明な叙景句は、集中最多の入集句を誇り、一躍蕉門の代表作家となる。
丈草「猿蓑」の跋を書く。許六は「俳諧の古今集」と評した。
粽結ふ片手にはさむ額髪 (猿蓑)
7月中旬~
7月下旬 一時出京
友琴撰「色杉原」に1句入集
和及撰『ひこばえ」に1句入集
8月14日 大津、楚江亭で松宵の句会。
8月15日 義仲寺木曽塚草庵(無名庵)で仲秋の観月句会を主催。
三井寺の門敲かばや今日の月 (真蹟懐紙)(自画賛・西の雲)
8月16日 人々と舟で堅田に遊び、成秀亭の既望の観月句会に臨む。
十六夜や海老煮るほどの宵の闇 (笈日記)
8月16日 (堅田十六夜の弁)
錠明けて月さし入れよ浮御堂 (芭蕉庵小文庫)
8月25日 好春撰『新花鳥』に1句入集
閏8月15日 江水撰『柏原集』に1句入集
閏8月18日 支考らと石山寺参詣
名月はふたつ過ぎても勢田の月 (西の雲)
閏8月20日 賀子撰『蓮の実』に4句入集
閏8月 只丸撰『こまつばら』に1句入集
9月9日 凡兆(推定)宛書簡
見るからに粟津の名もやきくの月
9月12日 羽紅(推定)宛書簡
初しもやきくひえそむるこしのわた
9月13日 之道らと石山寺参詣
橋桁の忍は月の名残り哉
秋 曲水亭で『夜寒』の題句会
煮麺の下焚きたつる夜寒哉 (葛の松原)
秋 句空宛書簡
秋の色ぬか味噌つぼもなかりけり
9月28日 義仲寺無名庵を発って天野桃隣を同伴、帰東の途につく。この夜、大津の智月・乙州母子方に一泊。『幻住庵記』と自画像を贈る。
10月初め 彦根平田の明照寺に李由を訪う。その後、美濃垂井の規外亭・大垣の千川亭を歴訪。大垣で連衆と旧交を温めたが木因の出座はなかった。
百歳の気色を庭の落葉哉
10月20日頃 尾張熱田に三泊。熱田の梅人亭を歴訪。湘南を遅れて出発した支考とここで合流、以後支考・東隣を同道。
10月下旬 三河新城に大田白雪を訪い鳳来寺に参詣。
その匂い桃より白し水仙花 (笈日記)
駿河島田宿に塚本孫兵衛(大井川の川庄屋。蕉門俳人。俳号、如舟)を訪う。惟然、湘南滞在中の芭蕉に随従し、蕉門の人々と交流する。如舟宅に泊まった折に「島田の時雨」を執筆
宿借りて名を名乗らする時雨哉 (続猿蓑)
沼津に一宿。宿の亭主に望まれ、句文を与える。
都出て神も旅寝の日数哉 (俳諧雨の日数)(曲水宛真蹟書簡)
10月29日 各務支考を同道し湘南出発後32日目で江戸に到着。日本橋橘町(現在の中央区日本橋浜町付近)、彦右衛門方の借家を当分の仮寓とする。
ともかくもならでや雪の枯尾花
桃隣はそのまま江戸に定住。俳諧点者として身を立てたが、芭蕉はしばしば激励と戒めの言葉を寄せている。
留すのまにあれたる神の落葉哉 (芭蕉庵小文庫)
11月上旬 江戸着後、相次ぐ旧友門人らの様子見舞いに応えて句あり。「雪の枯れ尾花」を執筆。
ともかくもならでや雪の枯尾花 (雪の尾花)
11月5日 曲水宛書簡
百年の気色を庭の落葉哉 (真蹟画賛)(韻塞)
11月11日 べっ松撰『西の雲』に七句入集
11月13日 曲水宛書簡
都出て神も旅寝の日数哉 (俳諧雨の日数)(曲水宛真蹟書簡)
11月21日 文十撰『よるひる』に一句入集
歳末 素堂亭の忘年句会に嵐蘭・支考と列席
魚鳥の心は知らず年忘れ (流川集)
路通、観音の霊夢を得て「俳諧勧進牒」を上梓。
常陸国笠間藩主牧野越中守茂儀(しげのり)の子成貞は父の志を継いで、下屋敷であった現在地を喜捨し、これを中興開基した。茂儀の法号「要津院殿壁立鈍鉄居士」から要津寺と号した。
其角著「雑談集」
一時芭蕉に背いた門人の嵐雪が師に謝罪しその許しとして芭蕉が「葛の葉の表見せりけり」と詠んだ。和歌の世界ではしばしば「恨み」を葛の葉の裏を見せると表現するため芭蕉はその手法を借りた。
1692年 元禄5年
(壬申) 49歳 橘町の借家で新年を迎える。
人も見ぬ春や鏡の裏の梅 (己が光集)(続猿蓑集)
1月 尚白撰『忘梅』に五句入集。書名は其角の
「わすれ梅忘れぬ人の便り哉」による。
幸賢撰『河内羽二重』に一句入集
遠舟撰「すがた哉」に一句入集。
春色撰『移徙抄』に一句入集。
鷺水撰『春の物』に一句入集。
「芭蕉を移す詞」
1月末頃 『鶯や』歌仙を支考と両吟で巻く
2月7日 杉風宛書簡
鶯や餅に糞する縁の先 (葛の松原集)(杉風宛真蹟書簡)
手紙の中で芭蕉は「日頃工夫之処にて御座候ふ」と報じている。この「かるみ」の風を、江戸の重鎮其角・嵐雪は容易に受け入れようとしなかったため、芭蕉の期待は、杉風に注がれていったのである。
2月10日 支考奥羽行脚餞別の句会
この心推せよ花に五器一具 (葛の松原)
支考が奥の細道の旅の跡を慕って奥羽の松島・象潟に行脚して俳論書「葛の松原」を上梓。 雑俳集『咲くやこの花』刊前句付盛行。
2月15日 季範撰『きさらぎ』に二句入集。
2月18日 曲水宛に長文の書簡(いわゆる『風雅三等之文』)を執筆。定家・西行・楽天・杜甫らの心に入る事を最上級と諭す。
2月18日 去来宛書簡
鶯や餅に糞する縁の先
2月18日 浜田珍碩宛書簡「此地点取俳諧、家々町々ニ満ち満ち」
2月 俳文『栖居之弁』を草す
ここかしこうかれ歩きて、橘町といふ所に冬籠して、睦月如月になりぬ。風雅もよしや是までにして口を閉ぢんとすれば、風情胸中をさそひて物のちらめくや風雅の魔心なるべし。猶放下して栖を去り、腰にただ百銭を貯へて、柱状一鉢に命を結ぶ。なし得たり風情終に菰をかぶらんとは。
其角撰「雑談集」に十一句入集。
選者未詳『七瀬川』に二句入集。
3月23日 窪田意専(惣七郎)宛書簡
4月初め 杉風・枳風出資、曽良・岱水設計により、旧住深川に芭蕉庵再建工事始まる。
5月7日 向井去来(平次郎)宛書簡。芭蕉の留守の間に江戸俳壇は一変していた。芭蕉が志向する「新しみ」「軽み」の俳諧とは対照的な「点取俳諧」が大流行していた。
5月中旬 杉風ら門人たちの尽力で旧庵の近くに新築された芭蕉庵(第三次芭蕉庵)に橘町の借家から転居する。出資は杉風・枳風(きふう)、設計は曾良・岱水に負うところが多かった。
芭蕉葉を柱に懸けん庵の月
5月15日 句空撰『北の山』に二句入集。
うらやまし浮世の北の山桜
6月中下旬頃 支考奥羽行脚より戻り、芭蕉を訪う。『葛の松原』出版の相談にのる。
6月 轍士撰『俳諧白眼』に一句入集。
7月7日 素堂亭で、素堂の母77歳祝賀句会あり。杉風・嵐蘭・其角・曽良・沾徳と列席。
七株の萩の手本や星の秋
8月上旬 (芭蕉を移す詞』『芭蕉庵三日月日記』成る
名月や門に指し来る潮頭
8月9日 彦根藩士森川許六、参勤出府の折、桃隣の手引きにより入門。「かるみ」の伴侶として嘱望される。許六「俳諧問答」によると、許六の 十団子も小粒になりぬ秋の風が、芭蕉を感嘆させたという。
8月上旬 新庵訪問の人々の月の句を録して『芭蕉庵三日月日記』を編す。自句二・『芭蕉を移す詞』・素堂との両吟和漢俳諧を収める。
8月末頃 出羽の国司近藤呂丸が来訪。
8月 句空撰『柞原集』に3句入集。
助叟撰『釿始』に一句入集。
9月6日~
1693年 元禄6年
1月末 膳所の珍碩(洒堂)俳道修行のため来庵して食客となり滞在。洒堂、諸家と風交を重ね「深川」を編む。
9月8日 去来宛に、上京する呂丸の紹介状を書く。
9月上旬 膳所の浜田珍碩江戸に下り、芭蕉庵に翌1月末まで滞在。(珍碩、酒堂と改号)
9月上中旬 『青くても』以下、珍碩・嵐蘭・岱水と四吟歌仙を巻く。
青くてもあるべきものを唐辛子 (俳諧深川)
9月29日 珍碩と小名木沢の桐渓を訪ね、『秋に添うて』の主客三物あり。小名木川の舟遊びの時に詠む。
秋に添うて行かばや末は小松川
小名木川に架かる丸八橋北畔に大島稲荷神社がありその鳥居の傍らにこの句碑がある。初め愛宕神社境内に建てられていたが昭和20年3月10日の空襲で廃墟と化しこの句碑は路傍に転がっていたが亡失を配慮して近くの第2大島中学校校庭に移した。のち愛宕神社が大嶋稲荷神社に合併されたので同社にこの句碑が移されたのである。
9月下旬 沾徳撰『誹林一字幽蘭集』に8句入集。
数へ来ぬ屋敷屋敷の梅柳
9月 車庸撰「己が光」に発句十七歌仙一入集。
人も見ぬ春や鏡の裏の梅
9月末 羽黒の呂丸が草庵を訪ねる。
友琴撰「鶴来酒」に一句入集
秋 嵐蘭撰「罌粟合」に二句入集。
10月3日 赤坂御門外の彦根藩邸に許六を訪ね、珍碩・岱水・嵐蘭と「今日ばかり」の五吟歌仙を巻く。
今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを(続猿蓑)(韻塞)
野は仕付たる麦の新土 許六
10月中 「口切に」の八吟歌仙を興行
口切に堺の庭ぞなつかしき (俳諧深川)
11月 机の銘
塩鯛の歯茎も寒し魚の店(たな) (薦獅子集)
「句兄弟」には其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」を「兄」芭蕉のこの句を「弟」として提出する。
冬中 曲水を江戸藩邸に訪ねる。
埋火や壁には客の影法師 (続猿蓑)
12月3日 伊賀の猿雖宛書簡に、猿雖の別荘に東麓庵・西麓庵の号を与える旨を記す。
12月8日 許六宛書簡に、許六から指導を受けつつあった絵の件について記す。
12月15日 許六宛書簡
12月16日か 任口宛書簡
のたりのたりと田鶴のどか也
12月20日 彫棠亭で六吟歌仙興行。
打ち寄りて花入れ探れ梅椿 (句兄弟)
12月 馬指堂主人(曲水)宛書簡
中々に心おかしき臘月哉 (馬指堂宛書簡)
12月23日 許六宛書簡
12月末 素堂亭で忘年句会。
節季候を雀の笑う出立ちかな (俳諧深川)
12月28日 許六宛書簡
冬 許六は深川の草庵に芭蕉を訪ねての三つ物は
寒菊の隣もありや生け大根 許六
冬さし籠る北窓の煤 翁
月もなき宵から馬を連れて来て 嵐蘭
示右撰「俳諧八重桜集」に歌仙一入集
支考著「葛の松原」に一五句入集。
不玉撰「継尾集」に発句四・歌仙一・脇句一入集。
健康とみに衰えを加えた反面、仲秋以後諸門人との往来しげく、身辺多忙を極めた。