シャコンヌによせてvol.4 ~バッハとイザイ 二人の巨匠、時代を超えた融合とヴァイオリンの歴史書〜
4つのテーマにわけてお送りしてきた“シャコンヌによせて“。今回の記事でいよいよ最終回となりました。
シャコンヌにちなんだテーマに沿って、
第二回 シャコンヌ 演奏解釈、聴き比べ (part1,2)
第三回 バッハの宇宙と神のメッセージ
と綴ってきたこのシリーズ、
バッハの無伴奏ヴァイオリン作品は
|イザイのバッハ演奏|
今日のヴァイオリニストにとって必要不可欠なレパートリーとなっている曲を作り、
バッハとは関係なく余談になりますが、ベートーベンのコンチェルトを演奏する際も、聴衆の前で弾くまでに10年練習して温めたそうです。
こんな巨匠でも、すぐに何でも弾けてしまうわけではなく、こんなに時間をかけることもあるのか、、、。と驚きますが、それだけ作品に敬意を持って向き合っていたんですね。
その後、バッハの作品は生涯イザイの重要なレパートリーとなり、特にシャコンヌはずっと手放すことのない十八番となりました。
“ヨアヒム以外にここまでの完璧さをこのソナタに与えることのできるヴァイオリニストは今の時代にはこのイザイしか存在しない“
(1894年 音楽評論誌 l‘ouest artistique : Gazette artiste de Nantes)
“モーツアルトの世界とは違い、寛大な思想でメランコリック、強く硬い形式の中の驚異的に混じり合う世界。
イザイの弾いたコンチェルトのAdagioよりも深い悲劇的なものは何があるのだろうか。
泣かせ、巨大な魂へと結合させる、著名な建築家のように繊細で慎重であり、また大きなカテドラルともろい宝石を混ぜたものを創造する能力のある演奏家である。“(1899年 音楽評論誌 Gazette des beaux-arts )
このようなイザイの卓越したバッハ演奏に関する音楽評論記事がたくさん残っていて、
この時代を代表するバッハの名手だったことが窺えます。
バッハ。この崇高な巨匠はあまり知られていない。
聴衆は、彼の思想に入り込むよりも
その印象を観察することに興味を沸かせていた。まるで、新しい未知の音楽を聴きように。
最も心を引き裂くような部分の表現では涙を沸き起こすイザイの演奏(協奏曲の緩徐楽章 Adagio)に聴衆は驚いていた。
この古いバッハという、ただ歴史の中の化石のように聞いたことしかなかった作曲家が、
若々しく生きているようで全てにおいて類稀のないものだということに。“
(1899年 音楽評論誌 Le Ménestrel )
当時、19世紀後半のフランスでは、マタイ受難が入ってきたばかりで
バッハという作曲家は歴史の中の名であり、聴衆にはまださほど浸透していなかったのです。
忘れ去られたバッハの音楽を聴くということは、未知との出会い、新しい体験であり、
イザイが、コンサートでバッハを常に演奏していくことで、この“化石“と化した巨匠の真価を広めることに貢献しました。
また、イザイが無伴奏ソナタを演奏したあるコンサートの記事では、
“全てのヴァイオリニストの望みであるこの壮大な楽曲を、全く伴奏なしに弾いたイザイは偉大だった“
(1897年 音楽評論誌 La Vie Théâtrale)
というのも、19世紀初めは、無伴奏の曲は基本的に練習曲と捉えられており、
バッハの無伴奏ソナタ&パルティータもその価値が評価されながらも、“ヴァイオリンのテクニックを習得するための素晴らしい練習曲だ“とバッハ研究者の書物に評されていました。
コンサートで演奏できるように、メンデルスゾーンやシューマンがシャコンヌのピアノ伴奏を書いた背景を持つなど、伴奏なしにコンサートでこのような曲を演奏することは珍しかった時代の流れにあった当時。
このように無伴奏のまま、コンサートのレパートリーに取り入れていったという側面からも、イザイのバッハ演奏の普及の功績が垣間見ることができます。
イザイの録音が残っていないのが残念ですが、
20世紀後半以前は、今のようにピリオド奏法などのバロック研究が進んでいなく、資料や録音というリソースも少なかった背景から当時のバッハ演奏解釈は現代とは少し違います。
(この時代背景やバッハ演奏解釈の歴史については、vol.1 にて詳しく述べています。)
イザイの録音の代わりに、同じ時代に活躍したヴァイオリニスト、サラサーテの弾くバッハのプレリュード(パルティータ3番より)が視聴可能です。
超絶技巧曲的な弾き飛ばすような奏法でなかなかびっくり(!)なバッハ。
今このようにバッハを演奏する人はほとんどいないと思いますが、この時代に“新しく“広められたバッハの演奏の参考として載せておきます。
|イザイ 6つの無伴奏ソナタ|
イザイとその友人であるピアニストPugnoは
Sonate ancienne et moderne(=昔と現代のソナタ) という演奏会シリーズを行っていました。
これは、バッハやベートーベンなど過去の時代の作曲家の作品と、その当時活躍していたフランク、ショーソン、ダンディといった作曲家の作品を
二部に分けて演奏するというコンサートシリーズです。
いまの時代、私たちがフランクやショーソンを弾く聞いても、彼らもバッハなどと同じように歴史上の作曲家なのでピンときませんが、
作曲専攻の友人や現代音楽と言われる作曲家の初演などをするような感覚でしょうか。
このほかにも、コンサートではバッハを積極的にレパートリーに取り入れていました。
同時代を生きた作曲家とのコラボレーションが残した、フランス音楽のヴァイオリン作品への功績に加えて、
先代の作曲家、歴史を大切に受け継ぎ広めていくことにも力を入れていたイザイ。
歴史と現代、縦と横の軸を大切にし、それが演奏活動にも作曲活動にも表れていたのだと思います。
その集大成となるのが、6つの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタです。
この作品はバッハの無伴奏パルティータとソナタに影響を受けて書かれ、
作中にはバッハのスタイルやモチーフなどが使われています。
それに加えて、当時活躍していた6人ヴァイオリニストに捧げらたこのソナタ、それぞれに彼らの特性も反映されていたり、
印象派、象徴派といったフランス音楽界の新しい流れも同時に練り込まれていたりすることから、この6つの無伴奏ソナタ様々な音楽家の感性や時代の融合を表現した傑作であると言えます。
イザイのヴァイオリニストとして、芸術家としての姿が一つの作品に詰め込まれているのです。
イザイの音楽家としての在り方、彼の生きた環境と時代がどのように作中に反映されているか、3つにまとめてみると...
・彼が大切にしたバッハというレパートリー、Sonate anciennes et modernes などのコンサートシリーズ
→ この作品に取り入れられたバッハ要素、作曲スタイルの模倣
・同時代の音楽家に与えて生み出されたヴァイオリン作品、
そして与えられた影響
→ 6人のヴァイオリニストへの献呈、彼らの音楽性や得意なテクニックなどの特徴の反映
・イザイの生きた時代。印象派や象徴派の芸術やドビュッシーの音楽など、フランスに吹いた新しい風
→ 5番のソナタに見られるドビュッシー、印象派の要素
このように捉えることができます。
|バッハから受けた影響|
さて、この無伴奏ソナタ。シゲティの演奏するバッハの無伴奏パルティータとソナタに感銘を受け、イザイはこの作品の作曲を決めたと言われています。
シゲティは、作品の持つ歴史背景やその分析といった学術的な点を重要視して、曲と向き合うことを演奏家でした。
バッハのこの無伴奏作品という、当時まだ単独にサラバンドやシャコンヌといった楽章が技巧曲として取り上げられるのが主流だった時代に、
コンサートにおいて、全曲通しの作品として演奏し、また録音した先駆者です。
このイザイのソナタには、バッハのソナタ&パルティータの構成やスタイルが様々な形で散りばめられ模倣されているのですが、
具体的にどのようにバッハの要素が顔を見せているのでしょうか。
いくつかのソナタを例に詳しく見てみましょう。
1番のソナタは重音が多用された重厚感のあるソナタで、Grave (グラーヴェ)やFugue (フーガ) といったバッハの無伴奏ソナタと同じスタイルを取り入れています。
【 1、前奏曲 2 、フーガ 3、緩徐楽章(間奏曲) 4、快速なプロローグ】
というバッハのソナタの4楽章の構成が模倣されています。
2番や4番に出てくるsarabande (サラバンド)もバッハのパルティータの舞曲が意識されたものです。
そして2番のソナタには、バッハの3番のパルティータからプレリュードの冒頭のテーマが引用され、16分音符で構成された書法もプレリュードを模倣して書かれています。
この“執念“という副題がつけられた2番のソナタですが、
プレリュードの軽快なパッセージが出てきた後に、まるでそのバッハという崇高な存在を消し去るかのように、
楽譜に殴り書きするような勢いのパッセージが出てきます。
・バッハ P、leggier (軽やかに)
⇅
・イザイ FF、brutalement (乱暴に、荒々しく)
というように、バッハとイザイそれぞれのパッセージにコントラストが付けられています。
▼イザイ ソナタ2番 冒頭 バッハの引用とイザイの対比
また、グレゴリオ聖歌の“ディエス・イレ“というキリスト終末思想で怒りの日を表す旋律が引用されていて、
バッハという偉大な存在に執われ撹乱するイザイの精神を象徴するかのような印象を与えています。
▼ イザイ ソナタ2番 怒りの日が使われたテーマ
またこの6作品全体の調性ですが、バッハの6つのソナタ&プレリュードは前半4つが短調、後半2つが長調ですが、
イザイの6つのソナタも同様に1、2、3、4番が長調、5、6番が長調となっているのも、バッハの模倣の一要素です。
このように、楽章の構成、パッセージの引用、舞曲スタイル、全体の調性の設定など各ソナタ異なる模倣の仕方をしているため、
一度聴いただけではバッハに基づいて作曲しているとは、あからさまにわからないこの作品。(それに対してラヴェルやストラヴィンスキーの作品には、古典のスタイルとはっきりわかる模倣をした作品がありますよね)
そのため、とても独創的で、形を変えて様々なバッハの顔をチラチラみる事ができるまるで創作料理のような、イザイの唯一無二の魅力が詰まっているのです。
|献呈者と当時のフランス音楽の風|
さて、このソナタが献呈された6人のヴァイオリニストは以下のようになっています。
1番 ジョゼフ・シゲティ(ハンガリーのヴァイオリニスト、バッハ演奏の先駆者)
2番 ジャック・ティボー(フランスを代表するヴァイオリニスト)
3番 ジョルジュ・エネスコ(ルーマニアのヴァイオリニスト、バッハ無伴奏作品収録)
4番 フリッツ・クライスラー(パリ音楽院で学んだのちアメリカに拠点を移したオーストリア人ヴァイオリニスト)
5番 マチュー・クリックボーン(ベルギーのヴァイオリニスト、イザイカルテットのメンバー)
6番 マニュエル・キロガ (スペインのヴァイオリニスト)
このソナタにはバッハの要素に加え、献呈者の特徴も色濃く表れているのが興味深いです。
6つのソナタ、それぞれのヴァイオリニストたちの演奏スタイルや作曲スタイルの特徴が反映されています。
例えば、
エネスコに献呈された3番のソナタには、ルーマニアの情緒を連想させるアンニュイな、どこかエネスコのソナタに通じるような雰囲気があります。
またクライスラーに献呈された4番は、クライスラーのヴィルティオーソ曲のように16分音符の続く技巧が、
キロガに献呈された6番には、ハバネラのスペインの舞曲のリズム要素が散りばめれています。
ここでこの中でもとりわけ面白いのは5番。私のお気に入りの一曲です。
(5番のソナタについてはこちらの記事でより詳しく触れているので、ご参照ください。)
この作品が献呈されたマチュー・クリックボーンは、クライスラーやエネスコといったヴァイオリニストに比べると、知名度はかなり低くあまりピンとこないですよね。
ベルギー人のヴァイオリニストで、イザイの愛弟子兼イザイカルテットの2nd ヴァイオリン奏者でした。
なので、この6人の中ではイザイと最も多くの時間を共にしたと思われる、実はイザイにとってとても身近な存在だった人です。
クリックボーンは、演奏者としてだけでなく教育にも情熱を注ぎ、ヴァイオリン・メソッドに関する教本やエチュードの本をいくつか出しています。
この5番のソナタには、フラジオレット、左手ピチカート、アルペジオ、重音など、小技のような様々な種類のテクニックが散りばめられています。
そして、このイザイのパッセージと、クリックボーンのエチュード教本の中のパッセージには、テクニックの類似点が見られ、それはクリックボーンの教育者としての顔を反映させた要素といえます。
▼イザイ 無伴奏ソナタ5番より
▼ クリックボーン 教本 Maître du études より
|19世紀後半から20世紀初頭のフランスの芸術の風|
また、このソナタにおいて最も印象的なのは、印象主義や象徴主義という、この時代のフランスの芸術界に浸透していた流行が反映されていることです。
イザイはドビュッシーととても親交が深く、お互いの芸術面において常に敬意を持ち影響しあいました。
共に象徴派の時代を生き、マラルメなどの詩人の作品を好んでいたイザイとドビュッシー。
またドビュッシーという作曲家は異国の音楽や響きに興味を持ち、作品に取り入れフランスの音楽界では
常に新しい風を吹かせてました。
ドビュッシーが多用した教会旋法や五音音階からなる和声を取り入れていること、
一楽章に“日の出“という題名を持つことから、自然を表現した詩的なキャラクターの強い作品です。
画家や詩人らが共鳴し発展していった、20世紀初頭のフランス音楽の流れが反映された作品で、6つの無伴奏ソナタにおける様々な要素の融合が、一際色濃く表れているのが5番です。
このように、イザイはバッハという歴史を軸に、
当時活躍したヴァイオリニストたちの特徴、そして印象派などフランス音楽の新しい時代の流れという様々な要素を融合させました。
つまり、“ヴァイオリンの歴史書“ のようなものをイザイの手で創造したのです。
|イザイにとって、演奏することとは...|
最後に、イザイにとって音楽人生で最も何だったのでしょうか
彼が晩年パリでマスタークラスを行った際に、エネスコが、自身に献呈された3番のソナタを弾きにきたようです。
その時エネスコに向けてイザイが語った言葉が残されています。
« 音楽のない超絶技巧は空虚だ。全ての音、全ての音色が生命を持ち、歌われ、痛みや喜びを表現しなければいけない。
たとえ、パッセージの中の大事な音に続く、短く早い音においても、画家のようになりなさい。
全てのことよりも先に、音楽がある。胸いっぱい呼吸をして。ヴァイオリンに対して塞ぎ込まず、解放し、
ヴァイオリンと音楽に話しかけるのだ。»
“La virtuosité, sans la musique, est vaine, déclare -t-il. Toute note, tout son, doivent vivre,chanter,exprimer la douleur ou la joie.
Soyez peintre, même dans les « traits » qui ne sont qu’une suite de notes qui chantent rapidement...
De la musique avant toute chose ! Respirez toujours a pleins poumons. N’enfermez point votre violon en vous , dégagez -vous en lui
,et parler parfois pour lui et pour la musique“
(1989 Maxime Benoît-Jeannin : Eugène Ysaye )
聴衆の胸に深く刺さった、世代を担う巨匠たちの間で交わされたこの言葉は
▼実際
実際、イザイの楽譜には
さて、歴史の中のバッハと、同時代の音楽家の中心のような存在であったイザイ。
そのつながりが少しでも伝わったでしょうか?
バッハやイザイの無伴奏作品の中には、
時代を超えたコラボレーション、インスピレーション、感性や才能の競演が宝物のように詰め込まれてます。
常に新たな発見や広がりが秘められているのではないか。と新鮮な気持ちで向き合わせてくれる、
私たちヴァイオリニストにとってのバイブルのような作品なのです。
« Ysaye est, en effet, non seulement le virtuose le plus complet du moment, mais c’est aussi un grand artiste dans toute l’acception du mot »
(1891, Gazettes Artistiques de Nantes)
今日において最も完璧な名手なだけでなく、芸術家という定義における全ての意味合いを併せ持った偉大な芸術家