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『笈の小文』以外の句集では、「上にやすらふ」

2018.02.17 15:02

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/oinokobumi/oino26.htm 【笈の小文(多武峰)三輪 多武 峯】より

臍峠* 多武峠より龍門へ越道 也

雲雀より空にやすらふ峠哉(ひばりより そらにやすろう とうげかな)

 3月21日頃の作と推定される。ここを通って吉野に出る。峠から見れば雲雀が下に舞っている。「上に」と言わずに「空に」と言っているのが峠の高さを誇張している。だから、『笈の小文』以外の句集では、「上にやすらふ」としている。

多武峠より龍門へ越える峠道にあった句碑(牛久市森田武さん提供)

細(臍)峠(同上)

三輪:奈良県桜井市にある山。標高467.1m。

多武峯:<とおのみね>と読む。談山神社がある。桜井市。

臍峠:<ほそとうげ>とよむ。現在の「細峠」のこと。


http://www.basho.jp/senjin/s1203-1/index.html 【雲雀より空にやすらふ峠哉】より

芭蕉(笈の小文)

 貞享五年『笈の小文』の旅の途中、吉野での作。「臍峠 多武峰ヨリ竜門ヘ越道也」の前書きがある。細峠、「竜門の茶屋より一里。上下共に竣坂なり」(和州巡覧記)。

  嶮しい山道を登りきって峠に一休みしていると、遙か麓の方から雲雀の囀る声が聞こえてくる。これまで雲雀は高い雲間に鳴く鳥と思っていたが、今日は自分の方が雲雀より高い峠にいるではないか、という感動の句。達成感と安堵感が感じられ、眼下に広がる眺望も目に見えるようで、読む度に心が晴々とする句である。

  貞享五年二月、伊賀上野で父の三十三回忌法要を済ませた芭蕉は、三月十九日、杜国を伴い出発。花の吉野山、高野山、和歌浦、須磨、明石と巡覧し、四月二十三日京に入っている。

「笈の小文」の旅は、一見、悠々閑々たる風流三昧の文学散歩のように映るが、実はそのような安易なものではなかった。(中略)自分の発見した〈天真〉と、過去の先人が発見した〈まこと〉は、はたして重なり合うのか合わないのか、その一点に思いを凝らす真実一路の旅だったのである(堀信夫・新編古典文学全集『松尾芭蕉集』[全発句]解説)。

 神奈川県伊勢原市の「大山」に、『諸国翁墳記』にも登載された掲出句があるらしいと聞いて出掛けてみた。「大山ケーブル駅バス終点」の向かい側にある観光案内所を訪ねると、手書きの「大山まちなみ案内図」で丁寧に説明してくれる。それによると「大山」には五基の芭蕉句碑がある。

花盛り山は日ごろの朝ぼらけ        とうふ坂

観音の甍見やりつ花の雲          来迎院前

雲折々人を休める月見かな         大山寺前

山寒し心の底や水の月(存擬)       無明橋上

  この四基は参道や境内にあるが、「雲雀」の句碑は秦野に抜ける山道の「いより峠」という所にあるらしい。しかもかなりの急坂で、標識も看板もなく、何度も行って見つけられない人もいた由。そこは古い大山街道の一部でもあると言う。

大山街道は関東一円に発達した大山参詣への道筋。現在でも多くの道標や各種の石仏などに「大山道・大山街道」という記録が残されている。主な道筋は、田村通り大山道(藤沢四ッ谷から平塚田村の渡しを経由)、矢倉沢往還(赤坂見附から大山へ、現在の国道二四六号)(以下省略)などがある。(案内所掲示)。

あいにく雨が降り出したので、その日はあきらめ、二日後に再チャレンジする。

「大山」参道「来迎院」の前から「浅間山林道」に入る。薄暗い高木の林を切り開いた九十九折りの道であるが、思いがけなく舗装されていて歩きやすい。道は曲がりくねりながらどんどん登りになるが、標識もなく、見晴らしもきかず、人にも会わないので不安になる。一時間余でようやく「大山寺」方面との分岐についた。遙か眼下に伊勢原の市街が見える。ここのゲートをすり抜けさらに四〇分程登ってようやく辿りついた峠に句碑をみつけた。

雲雀より上にやすらふ峠かな     芭蕉

高さ一メートル余、ほぼ菱形の自然石で、道標の趣に風情がある。大概の古い芭蕉句碑は墓石のイメージであるが、この句碑は自然と呼応するような爽やかさがある。右側面に「寛政七年卯弥生」、左に「惣連」とある。中七が「空に」ではなく「上に」と刻まれている。後日手にした昭和二十七年刊の『神奈川県下芭蕉句碑』(飯田九一)によれば、場所は「伊與利嶺」と表記され「句碑は二つに折れて地上に横たはって居ります」とあるが、現在は補修され建てられている。帰途、旧道の急坂を苦心惨憺下りながら、ふと思った。大山道のひとつ「中原街道」は平塚から江戸虎ノ門に至る、東海道の脇往還として、より短距離であった。芭蕉は何度も東海道を往き来しながら一度も歩いたことはなかったのだろうかと。