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笈の小文

2018.02.18 11:40

http://www.basho-bp.jp/?page_id=24  【笈の小文】

貞享4年(1687)10月25日〜貞享5年(1688)4月23日 芭蕉44歳〜45歳

 貞享4年(1687)10月25日、芭蕉は江戸を発ち、東海道を上り尾張の鳴海・熱田へ。門人越人を伴い、伊良湖岬で杜国を見舞う。再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて連日句会に出席。歳末に伊賀上野へ帰郷して越年。伊勢で杜国に会い、再度伊賀上野へ帰郷し父の33回忌を営む。春、杜国と連れ立ち、花の吉野へと向かう。和歌の浦・奈良・大坂・須磨に至り、4月23日に京都に入るまでの6か月の旅。

 芭蕉は旅から数年を経た頃に、この紀行文の成立に向け力を注いだが、未定稿のまま門人乙州に預けて江戸に戻る。芭蕉没後15年を経た宝永6年(1709)に乙州が刊行する。『笈の小文』や、卯年(貞享4年)から辰年(同5年)に至るので『卯辰紀行』とも称する。序文で、芭蕉の「道すがらの小記を集め」たものと述べているように、風雅論、紀行論、旅論等が収載されており、必ずしもまとまった紀行文ではないが、長編よりも短編紀行文的な発想や、発句を一まとめにして作品に発表されたことが注目される。

https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/kokugo/kyouzai/2018/bungakushiryoukan/oi-no-kobumi1.htm 【笈の小文(おいのこぶみ)】 より

  貞享4年(1687)10月から翌年にかけての上方旅行記である。芭蕉がこの旅で志したのは、吉野の春に花を探り、更に進んで和歌浦、須磨、明石に名所旧蹟を訪ねることであった。また亡父の三十三回忌が近くあり、その法要に列席するために帰郷したいという思いもあったようだ。一方で芭蕉の文名が広く高まる中で、各地の俳人衆からの度重なる招きにこたえるという目的も少なからぬ比重を占めていた。

 芭蕉は10月25日に江戸を発ち、東海道を経て故郷伊賀上野へ帰郷し、翌年の正月を故郷で迎えた後、門人杜国を供に吉野・高野山・和歌浦・奈良・大阪・須磨・明石と遊歴し、4月23日に京に入った。芭蕉は旅行後数年を経た元禄3、4年ごろ、この紀行の成立に尽力したが、結局未定稿のまま大津の乙州に預けて、4年秋に同地を去り江戸に戻った。未定稿のまま死後に残されたものを、芭蕉没後15年後を経た宝永6年(1709)に、乙州が刊行し、世に知られるに至った。したがって「笈の小文」という書名も乙州の命名によるものかも知れず、この他に大和紀行・卯辰紀行・芳野紀行・大和後の行記、などの呼称がある。


http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1782652.html【第36回古文書勉強会】より

一昨日の7月19日、36回目の古文書勉強会をしました。今回はその大部分の時間を松尾芭蕉の『笈の小文』に費やしました。貞享4(1687)年10月25日に江戸を出発し、西行して故郷の伊賀へ戻り、そこで年を越し、伊勢、吉野、須磨、明石を巡り、4月23日に京に入るまでを綴ったものです。その成立は元禄4(1691)年頃と考えられていますが、未定稿のまま乙州に預けられていました。乙州によって刊行されたのは芭蕉が亡くなって15年後の宝永6(1709)年のこと。

19日は「旧(ふる)里や臍(へそ)の緒(お)に泣(なく)としの暮」まで勉強しました。久しぶりに故郷の生家に戻った芭蕉は、自分の臍の緒を手にして、亡き父母のことを思い出し、込み上げる懐かしさに胸がいっぱいになっています。折から老いの年をまた一つ重ねる年の暮れ…。

勉強で一番盛り上がったのは「伊良湖鷹」の箇所。秋に鷹が渡りをするとき、上昇気流に乗ってたくさんの鷹が竜巻状に旋回上昇していくそうです。その様子が柱のように見えることから「鷹柱」というそうです。会員の中には、三重県の神島まで行ってバードウォッチングに挑戦した人もいて、好奇心しかない私は「見たい」という気持ち全開。『笈の小文』を手に取らなければ、「鷹柱」という現象も言葉も知ることがなかったでしょう。

前回の勉強会で、指導者が「芭蕉の文章は中世に近いので、『給る』『侍る』などの言葉が出てくる。江戸時代に無くなった言葉が、出てくるので面白い。芭蕉は凄く文字に拘っているので、その点でも勉強になる。芭蕉の文章を書写(現在私達がテキストにしているもの)した人は、男性であろう。男の人が書いているひらがなを読む力をつけると、村方文書が読める。特に村の争論を読むときにその能力が活かされる」と話したのが印象に残りました。「それでは女性の書いたものは?」と聞きましたら、「公家、武家の妻、花魁クラスは書けたであろうが、滅多に残らず目に触れることもない」との返事。「それならば」と輪違屋で見た太夫が客に宛てて書いた恋文の下書きを用意していきました。

輪違屋・文書1A輪違屋・文書2例えばこのような。早速「面白い」と読む会員もおられました。とても美しい文字ですね。『角屋案内記』によれば、慶安〜明暦期(1649〜1658)に名を成した八千代太夫(諱は尊子)の書は、女手の規範とされたそうです。会員の皆さんには、「自分が太夫になったつもりで、或いは太夫から貰った武家になったつもりで、関心があれば読んでみて下さい」と配りました。

それから、このブログを読んで下さった東京の人から、南山城地方に関するテキスト提供の連絡があったそうです(間接的に聞きました)。思いがけない知らせにビックリしています。指導者は「似たようなものばかり読むと気がつかない。いろんなものを読むと気付きも多くある」と言います。こなしていけるのか心配ですが、せっかくの機会なのでやってみることにしました。ゆっくりボチボチやっていけば、それで良いのかも。8月の古文書勉強会は諸般の事情で休み、次回は9月20日の予定です。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/oinokobumi/oino01.htm 【笈の小文】 より

(貞亨4年10月25日~貞亨5年4月23日)

(芭蕉44、5歳) 

 『笈の小文』は、貞亨4年10月、伊賀への4度目の帰郷に際して創作された作品を集めて一巻としたものであるが、『奥の細道』のように芭蕉自身が書いた旅行記ではない。これは、その後芭蕉自身が書いた真蹟短冊や書簡などをもとに、芭蕉死後大津の門人川井乙州によって編集されて成ったものである。しかし、この集はまた実によくできていて、『奥の細道』にも十分に匹敵する文芸作品となっている。これは、集内の句を別にすれば芭蕉が『奥の細道』以後も、詞書などの句文等に推考しておいたためである。

 この旅は、亡父三十三回忌の法要に参列するためであったが、それ以上に売れっ子芭蕉にとって名古屋・大垣などの門人の招請をもだしがたく、彼らの要求に従って行った面が多分にある。それだけに自信と希望に満ちた旅でもあった。「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の気分は、『野ざらし紀行』の「野ざらしを心に風のしむ身かな」のそれとは雲泥の差であった 。

 この旅そのものは、貞亨4年10月25日に江戸深川を出発し、貞亨5年8月末に江戸に戻るまでの1年半に及ぶ長期のものであった。 (ただし、旅の最後木曽街道から北国街道までの間は『更科紀行』と呼ばれている。これも、乙州の編集の結果である。) 

 なお、本集には、『笈の小文』の他さまざまな呼称がつけられている。 『大和紀行』・『卯辰紀行』・『芳野紀行』・『大和後の行記』・『須磨紀行』・『庚午紀行』(支考編)など多数にのぼる。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/otokuni.htm 【川井乙州

かわい おとくに】より

(~享保5年(1720)1月3日、享年64歳)

 大津蕉門の重鎮、川井又七。大津藩伝馬役。芭蕉とは、『奥の細道』旅中金沢で邂逅し入門した。乙州もまた役目柄旅を住み処とする生活であった。『ひさご』の連衆の一人。

 芭蕉の名句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」は、乙州が江戸に公務で出発する時に詠んだ餞の吟。芭蕉晩期に提唱する「軽み」をよく理解していた門人の一人。また、職業柄、蕉風普及にも貢献した。『笈の小文』は、芭蕉の死後乙州が編纂して成ったものである。

 芭蕉の身辺を生活面で配慮してくれた智月尼は乙州の姉であるが、家業運送業を受け継ぐために養嗣子となったため母である。


https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000271603 【レファレンス事例詳細】 より

河合乙州(おとくに)について知りたい。

(1)乙州の家「観桂坂」の読み方や場所。大津宿の宿場の家並図(江戸と現代の位置)や、問屋のわかるもの。

(2)芭蕉の幻住庵に住んでいた時期。

回答(Answer)

(1)乙州の家「観桂坂」の読み方や場所について

「観桂坂」の読み方は、田尻紀子氏が論文「乙州・智月の生没年」のなかで、「江南観桂坂」の観桂を「つきみ」とルビをふっています。

 乙州の住居については、すでに荒滝雅俊氏による先行研究論文『乙州が新宅』考」があります。その要旨によれば、乙州の住居の場所は、現在の大津市松本にあたる松本村にあったと想定されています。以下、同論文から引用します。

 「(大津の――引用者註)松本村は、乙州とは無縁の場所ではなかった。乙州は……(中略)自らを「江南観桂坂の散人」と記している。/「観桂坂」であるが、元禄二年刊『京羽二重織留』巻六に「月見坂 松本山にあり。むかし天智天皇月見の為に御幸ありし所なり。今は田畑となれり。又、東三條院も月見に御幸ありしおり車かへしの坂とも云へり。古歌に行末は秋やたつらん月見坂やすらふそでにむすぶ白露」とあるので、松本村にあった名所と考えられる。したがって、乙州の隠居所が松本村にあったことになる。(後略)」

 上記「『乙州が新宅』考」の考察に基づくならば、「観桂坂」が大津市松本にあるであろうことは想定できても、現在のどこに位置するかの特定もできず、その名自体が伝承されていない以上、当時、どのように読まれていたかは不明です。

 次に、大津の宿場町の地図については、インターネットを使って、当館HP内の「近江デジタル歴史街道」にて、デジタル画像を御覧いただけます。(2019年10月4日現在)

http://www.shiga-pref-library.jp/wp-content/libfiles/da_img/1001248.djvu?djvuopts&navpane=thumbnails,left&zoom=page

 なお、『能勢朝次著作集 第7巻』月報に、宗政五十緒氏による「智月の夫、佐右衛門のこと」という論考が掲載されており、それによれば、乙州の姉(のちに乙州が彼女の養嗣子になるため母)である智月の夫、佐右衛門は大津の問屋役・伝馬役であり、大津市史編さん室にある元禄8年10月に作成された古絵図を確認したところ、「大津市の中ノ京町(中京町)に確かに佐右衛門という人の家があることが知られた。/……(略)延宝五年四月作成の古絵図の写真版もあった。この絵図にも亦、同じ場所に佐右衛門という人の家が記されている」とあります。文章はその後、この佐右衛門が智月の夫と確定できるかどうかの論証を行い、次のように結論づけています。

「この佐右衛門は多分、天和三年六月から元禄八年十月までの間に死没したのであろう、と一応考えられる。/……(略)そして延宝五年の古絵図に記されている佐右衛門は智月の夫のことであり、その後、乙州が佐右衛門の通称を襲ったのが、元禄八年に見える佐右衛門であろうと考えるのである」。

 乙州の家については、佐右衛門の家と同一であり、場所については、大津市史編さん室所蔵の上記地図で確認できます。

 大津市史編さん室は、現在、大津市政策調整部 市政情報課が窓口となっており、電話番号は077-528-2718、ホームページのURLは下記の通りです。(2019年10月4日現在)

https://www.city.otsu.lg.jp/shisei/tokei/corner/1390533253782.html

 

(2)芭蕉の幻住庵に住んでいた時期

 吉江久弥氏編による『おくのほそ道』解説によれば、芭蕉が幻住庵に滞在したのは元禄3年(1690年)4月6日から7月23日までとありました。

 そこで『芭蕉年譜大成』で確認したところ、「四月六日 国分山の幻住庵に入る。前日までは義仲寺の草庵を主宿としていた。……(中略)/七月二三日 幻住庵を引き払い、一旦大津に出る」とあり、裏付けがとれました。

 なお、以後の年譜を辿りましたが、芭蕉が亡くなる元禄7年(1694年)10月10日まで、近江国(滋賀県)内の滞在記録はありますが、幻住庵に住んだ事実は確認できませんでした。