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須磨

2018.02.18 12:30

http://kdskenkyu.saloon.jp/tale43bas.htm 【松尾芭蕉が辿った西国の文学・歴史の地、須磨(『笈の小文』『更科紀行』より)】より

松尾芭蕉が辿った西国の文学・歴史の地、須磨(『笈の小文』『更科紀行』より)

 日本史上最高の俳諧師、松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に伊賀國(現在の三重県伊賀市)に生まれました。寛文2年(1662年)に、京都の北村季吟に師事、俳諧の途を志します。(その頃の俳号は「宗房」)。

 その後季吟より俳諧作法書を伝授、延宝3年(1675年)に江戸へ移り住む。在江戸の俳人たちとの交流が続き、「桃青」の俳号を用い、延宝6年(1678年)に宗匠になって、職業としての俳諧師として江戸や京都の俳壇との交流を続け、多くの作品を生み出した。

 延宝8年(1680年)に、世俗から離れた静寂で孤独な生活ができる深川に居を移す。侘び寂びへの流れのなか、俳号を「芭蕉」とした。もって、深川の居は「芭蕉庵」と呼ばれるようになった。

 旅の傘に芭蕉庵と同じ侘び寂びの思いを込めて、貞享元年(1684年)に伊賀方面に『野ざらし紀行』の旅に出て、その後、貞享4年(1687年)の『鹿島詣』に続いて、10月に伊勢方面へ『笈(おい)の小文』の旅に出ます。その年は伊賀上野に入り、翌5年(1688年)に吉野・大和方面へ、そして足を伸ばして大阪・須磨・明石を旅して京都に入りました。

 有名な『奥の細道』の旅は、その翌年の元禄2年(1689年)3月に弟子の曾良と出かけた時の紀行です。 そして、元禄7年(1694年)9月に奈良・大阪方面の門人たちの不仲仲裁に来て病を得、10月に病中吟『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る』を詠み、4日後の12日に息を引き取りました。

 ひょうごの地を廻ったのは、このうち、『笈の小文』で往路の尼崎から須磨までを、『更科紀行』で帰路の須磨から東方京都への行程でしたためられています。既に、侘び寂びを詠んで芭蕉の全盛期にあるこの時に、芭蕉はひょうごをどのように眺めたでしょうか。両著及び芭蕉の友人への書簡等から、足跡を辿ってみよう。

 ※芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』のまとめを、次の旅である奥州・北陸方面の旅の後に手掛けていたために、『奥の細道』に比べて紀行文としては未定稿の状態で残されてしまったと思われています。

 この旅立ちに、芭蕉の多くの友人・門人たちが壮行餞別の俳席を用意しました。特に、貞享4年(1687年)10月11日の餞別會では、『旅人と 我名よばれん 初しぐれ』

と詠み、客観的に旅の楽しみを予感していることが窺えます。そして、江戸を発ったのは10月25日でした。『笈の小文』の書き出しで、芭蕉は 『百骸九竅(ひゃくがいきうけう=人の肉体のこと)の中に物有り、かりに名付けて風羅坊(風に翻る薄衣=芭蕉の葉を意味し、自分自身のこと)といふ。』と、この旅の雰囲気、すなわち世俗を離れた風雅、侘び寂びを標榜して表現しています。

 その後、尾張鳴海、伊良湖崎、熱田、名古屋、奈良、河内を辿って大阪に入ります。

 貞享5年(1688年)4月19日、大阪を発って、尼崎から船で兵庫津へ。

 平清盛、福原京ゆかりの「経の島」、「清盛石塔」、「和田の笠松」、「遠矢の浜」、平忠度の「腕塚」、会下山の東方、東尻池の松林にあったとされる「内裏屋敷」などを見て、兵庫で宿をとります。                                     

(在原行平ゆかりの松風村雨堂)  この方面への旅は、「須磨」が目的であったようです。『笈の小文』も、奈良・大阪から一気に飛んで須磨を取上げています。翌4月20日、芭蕉は念願の西国における万葉歌人や源氏物語などの文学や、源平合戦など歴史の地、須磨にやって来ます。

 『「月はあれど 留主のやう也 須磨の夏」

  「月見ても 物たらはずや 須磨の夏」

卯月中此の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴き出づべきしのゝめも、山はわか葉にくろかみかゝりて、・・・

 「海士(あま)の顔 先(まず)見らるゝや けしの花」

東須磨、西須磨、浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするともみえず。「藻塩たれつゝ」(須磨に流されていた時に詠んだ在原行平の歌。源氏物語にも引用されている)など歌にもきこへ侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。・・・』

(須磨の関跡の碑)

 けれども芭蕉は、また、紫式部の『源氏物語』の須磨の巻を引用して、やはり須磨は秋の季節がいい、と心を残している。

 『「かゝる所の秋なりけり」(源氏物語より)とかや。此の浦の実(まこと)は秋をむねとするなるべし。かなしささびしさいはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、・・・』

 謡曲で有名な「松風村雨堂」、「須磨の関屋跡」、源義経の逆落しと平家との激戦地「一ノ谷」や 「鐘懸松」、念願だった「鉄拐山」に地元の童子(16歳と言った里の子の4つばかり弟)の道案内で登山を敢行。

(鉢伏山に登る須磨浦ロープウェイ)  『猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。・・・羊腸険阻の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべきことあまたたびなりけるを、つつじ・根ざさにとりつき、息をきらし、汗をひたして・・・』

 『淡路島、手にとるやうに見えて、すま・あかしの海、左右にわかる。・・・又、後の方に山を隔てて、田井の畑といふ所。松風村雨ふるさとといへり。尾上につづき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ残で、鐘懸松より見下に、一の谷内裏やしき、めの下に見ゆ。』

(一の谷の古戦場跡の碑)  源平合戦の古戦場に立って、滅亡に向けて敗走を余儀なくされた平家一門、二位の尼(清盛の妻)と皇子(安徳天皇)の悲劇に思いを馳せている。

 『其の時のさはぎ、さながら心にうかび俤につどひて、二位のあま君皇子を抱き奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、・・・千歳のかなしび此の浦にとどまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁ひ多く侍るぞや。』

(平家の悲劇を語る敦盛塚)  『須磨のあまの 矢先に鳴くか 郭公』

『ほととぎす 消行(きえゆく)方や 島一つ』

『須磨寺や ふかぬ笛きく 木下やみ』

『かたつぶり 角ふりわけよ 須磨明石』・・・(『庚午紀行』=笈の小文の別稿、から)

 鉢伏から下って明石方面を廻って「人丸塚」、須磨に戻って「敦盛塚」、「須磨寺」を訪ねている。須磨寺には敦盛首塚、義経腰掛松、弁慶の鐘などが残り、敦盛の「青葉の笛」は拝観料が高価につき見ないとしている。

(須磨寺)

 『須磨寺のさびしさ、口を閉たるばかりに候。蝉折・こま笛、料足十疋(銭百文)、見るまでもなし』(友人への書簡より)

紀行文では翌21日に須磨、明石を見たように記して『笈の小文』を記述を終えているが、紀行向けの脚色で須磨に戻って泊ったようです。

 『蛸壺や はかなき夢を 夏の月』

友人への書簡から実際は、前日の20日には終えて須磨にて宿している。

須磨にて泊。

 須磨、明石見物の後は、『更科紀行』へと続く。4月21日、須磨の宿を発って、楠正成のお墓「良将楠が塚」に詣で、

 『なでしこに かかるなみだや 楠の露』

を詠んだとされる。次いで生田の小野坂を越え、「布引の滝」に登って、「能因の塚」や金竜寺の「入相の鐘」を見て、

 『有難き すがた拝まん かきつばた』

と詠む(友人への書簡より)。古代の悲恋を伝える「求塚(処女塚)」を訪れて、その後京都を目指して東へ向いました。


http://www.basho.jp/senjin/s0605-3/index.html 【須磨】 より

月はあれど留主のやう也須磨の夏

芭蕉 (笈の小文・夏・貞享五)

美しい月が出てはいるものの、主人のいない留守に訪ねてきたようなむなしさ、それが須磨の夏の風韻である、という意。諸注には、業平の兄である在原行平隠棲の地という史実を踏んで、光源氏が失意の時を過ごす舞台にしつらえた『源氏物語』(須磨)等を引きながら須磨の本情は秋にあるとし、芭蕉は夏に訪れた〈心に物の足らぬけしき〉(真蹟懐紙・初案)を詠んだとするものが少なくないが、これらは句解の微妙な地点で誤りをおかしている。なぜなら、夏の須磨がもの足りず、後悔しているなら句は詠まないからである。句に詠んでいる以上、作者は須磨の夏に感慨をおぼえている。それが〈留守のやう也〉という詞であらわされた。むろん不在なものは古物語の〈須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり〉(源氏物語・須磨)に象徴される秋の情趣である。しかし、それが秋のさなかよりも、むしろ秋以外の季節の中でこそふくらむはずのものであることは、芭蕉ならずとも自明の事柄であろう。なおこの句の前書「須磨」は蛇足で無視されてよく、『笈の小文』の未定稿的側面をかいま見せる。


http://osanpo246.blog.jp/archives/5741172.html 【古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」第32回】 より

NHKラジオ古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」の第32回(11月07日)放送を聴いた。

前回は高野で万菊と唱和し、和歌の浦でも一句を披露する箇所、自分の旅の有り様について感じていること、考えていることを記した箇所、衣替えの時節を迎える箇所、奈良であれこれを見てから大阪の知り合いを訪ねる箇所などを扱った。

須磨

  月はあれど留守のやう也須磨の夏

  月見ても物たらはずや須磨の夏

ここでは須磨の前書きで二句が置かれている。須磨は現在の兵庫県神戸市須磨区で、『源氏物語』をはじめ多くの文学作品の舞台となったことでもよく知られる。須磨海岸も有名だし、須磨寺として真言宗寺院福祥寺もある。ここでも大阪からの道筋など一切の記述は省略されている。

大阪を立つのは4月19日で尼崎から海路兵庫に入る。翌20日は須磨、明石と名所を遊歴し、この日は須磨に宿っている。『笈の小文』に掲載される須磨、明石の句はこの20日の作とみてよい。

さて須磨の句として最初に置かれるのが「月はあれど留守のやう也須磨の夏」で、月は秋の季語だが、この句には夏とあるから季語は夏の月とみておけばよい。『源氏物語』以来、須磨という土地は秋の哀れを象徴的に「体現」する土地として知られ、月の名所としても有名だ。須磨といえば秋であり、月であるというのが一般的な常識だ。この句ももちろんそのことをふまえている。一句としての意味は、月は出ていても夏の須磨であっては主人の留守を訪ねたようで何かもどかしいといったもの。和歌以来の伝統を活かしながら自らの実感したことをはっきりと打ち出した。留守のようという把握が興味深い。真蹟懐紙などでは「夏はあれども留守のよう也須磨の月」とある。

この後に「月見ても物たらはずや須磨の夏」とあり、やはり季語は夏の月。「物たらはず」はもの足りない。一句の意味をとると、須磨の夏は月を見ても何かもの足りない感じがすることだとなる。やはり秋に来て月を見たかったということなのだ。一見すると残念な体験を詠んだということになりかねない。本当にそうなのかはこの後の記述を含めてさらに考えたい。

それよりも気になるのは、須磨の夏の月はいまひとつだな~という、ほとんど同内容の二句がここに並んでいることだ。ここにも『笈の小文』の未定稿的性格が表れているというのが一般的な見解だ。どちらか一句を取ろうと、とりあえず二句を書きつけてそのままになったということだ。それに対して最近これも予と万菊の唱和なのではないのか。その万菊の名が書き落とされたものではないかという見方が示された。実証することは不能だが、可能性としては十分あり得る興味深考え方だと思う。

卯月中比の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴出づべきしのゝめも、海のかたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂浪あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花のたえだえに見渡さる。

  海士の顔先見らるゝやけしの花

ここでは「卯月中比の」とやや大づかみではあるが、時間的な記述が久々に見られる。4月の中旬だ。朧は空中に浮遊する微細な水滴のためもうろうと薄くくもった様をいう春の季語。そようにぼんやりとかすんだ月が朧月だ。ここで「卯月中比の空も朧に残りて」というのは、まだ春の夜の名残で空にはぼんやりとした月が残っていてということだ。夜が明けてもまだ空に残っている月だから十六夜以降のものに違いない。

春の名残で朧な状態であるとはいっても夏にはなっているのだから、夏の月としての性格もそこにはあるはずだ。「はかなきみじか夜の月も」というのがそれで、夏の月は涼し気なものとして詠んだり、夜が短いために十分には味わえないと詠んだりする。ここでも「はかなきみじか夜」によって夜の明けやすいことが示されている。

「いとゞ艶なるに」の艶なるは艶やかな美しさをいう語だから、ここははかなく明ける短夜の月がいっそう美しいといった意味になる。さきほどの二句とは裏腹に明け方の月から大いに感銘を受けている。これを強調するための措置であったかと思いたくなるところだ。

続く「山はわか葉にくろみかゝりて」は、山々は若葉の恵みゆえか黒味がかって見えるということ。「しのゝめ」は夜が明けようとして東の空が明るくなってくる頃をいい、「ほとゝぎす鳴出づべきしのゝめも、海のかたよりしらみそめたるに」は、ホトトギスが鳴き出しそうな夜明けどき、海の方から白み始めてきたところにといった意味になる。

上野は須磨寺がある一帯の高台をいう。その上野かと思われあたりは麦の穂波が赤くなってきている。麦の穂波は麦の穂が風になびき揺れるさまを波にたとえた表現だ。麦は秋にまいて夏に刈り入れをするもので、穂が黄色や赤く熟してくるさまは豊穣のイメージに満ちている。

そして漁師の家の軒端に近く、ケシの花が見えるような見えないようなといった具合に眺められる。「漁人の軒ちかき芥子の花のたえだえに見渡さる」だ。海人は漁師と同じこと。ここで詠まれたのが「海士の顔先見らるゝやけしの花」で、けしの花が夏の季語。けしの花は散りやすいことから、はかないもののたとえとして用いられ、その趣深さが賞美される。

文章との関係からこの句のけしの花は、「漁人の軒ちかき芥子の花のたえだえに見渡さる」と記されたそのけしの花であるのに違いない。一句は家先にけしの花が咲く景色のなか、まずその家に漁師の顔に目が行くことだといった意味だろう。古典文学作品に出てくる須磨の海人は、多くの場合哀れを解するやさしい存在だ。この句もそのことを前提としているのだろう。軒でけしの花を咲かせていることに、どのような人だろうかと興味をかき立てられているのだ。

ここは独立性、完成度の高い一段であるということが指摘されている。秋の哀れを味わう土地として広く知られる須磨に対して、その朝に風情に着目した点がなにより新鮮だ。けしの花は和歌などに詠まれることがほとんどなく、俳諧独自の題材といってよいものだ。ここに芭蕉の和歌的伝統への挑戦ということを見て取って良いのだろうと思う。先に夏の須磨はもの足りないと詠んだのは、やはりここで夏の風情を発見するための伏線であったのかもしれない。

東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするともみえず。藻塩たれつゝなど歌にもきこえ侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。きすごといふうをゝ網して真砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。若古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやと、いとゞ罪ふかく、

ここでは須磨という土地について説明や描写がなされていく。まず須磨というところは東須磨・西須磨・浜須磨の三つに分かれていて、特に何を生業としているようには見られないという。また、藻塩たれつつなどと歌にも詠まれているのだけれど、いまはそうしたことをしているようには見えないとある。「藻塩たれつゝ」は古歌に見られる表現で、『古今集』に所収される在原行平の歌に「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」とある。

「藻塩たれ」とは海水から塩を取るため、海藻を集めて海水を注ぐこと。歌の意味するところは、たまたま私のことを尋ねる人がいたならば、藻塩草に塩水を注ぎながらわびしく暮らしていると答えてくれというもの。行平は平安時代前期の公卿・歌人で、業平の兄。『古今集』の先の歌の前書きには、ある事件に関与して須磨というところにこもることになったとある。事の真相は不明ながら、このことが伝説化し、行平は松風、村雨という姉妹の海人と恋仲になり、やがて別れて去らなければならなくなったという説話が生まれる。謡曲『松風』としてよく知られるところで、「わくらばに」の歌もそのなかに取り入れられている。作者芭蕉はそうしたことを念頭に置きながら、藻塩たれつつなどと歌に詠まれるけれど、いまはそんな塩焼きは行われていないと書いたわけだ。

そして浜辺の描写となる。「きすご」はきすと同じで、スズキ目キス科の海水魚だ。その魚を網で取り、砂の上に干し散らしているのにカラスが飛来してつかんで去るとある。なかなか観察眼が鋭い。「うを」は魚のことで、古くは「いを」と言った。魚類のことだ。さかなとは本来は魚類に限定した言い方ではなく、お酒を呑む際の御菜、酒に合わせてつまむ食べ物のことが「さけのな」で、これが縮まり「さかな」になったという。酒のさかなという言い方がある。日本は島国で海に囲まれ、「さけのな」には魚を食べることが多いため魚と「さかな」が混同されていったのだろう。江戸時代には魚類を指して「さかな」ということが多くあるが、本来はここのように「きすごといふうを」という具合に使う。

さて、せっかく捕まえた魚を奪っていくカラスに対して漁師は反撃に出る。「是をにくみて弓をもてをどす」だ。カラスが魚を持ち去るので、これを憎み弓矢で脅しつけるというのだ。自己防衛のやむを得ない措置のように思えるが、そのことに対して海士のわざとも見えないと言い切っている。弓を使うのは山の猟師で、海の漁師には似合わないという意味にもとれる。あるいはやはり須磨の海人は伝統的に優しい風情のものという前提で書かれているのかもしれない。

ところが、予はそれとは別に「若古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにや」という解釈を施す。このあたりは源氏と平家が戦った一の谷の合戦場に近いところだ。もしかしたらこの地には古戦場でもあった名残で殺伐とした気風が残り、それでこのような仕業をするのだろうかというわけだ。そして、そのことを「いとゞ罪ふかく」と述べている。「いとゞ」はいっそう、ますますの意。もともと殺生をして暮らす漁師が、よりいっそう罪深く感じられたということだろう。文章は「ゞ罪ふかく」の後さらに続く。

猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすをさまざまにすかして、麓の茶店にて物くらはすべきなど伝て、わりなき躰に見えたり。かれは十六と伝けん里の童子よりは四つばかりもをとをとなるべきを、数百丈の先達として羊腸険阻の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべき事あまたゝびなりけるを、つゝじ・根ざゝにとりつき、息をきらし、汗をひたして漸雲門に入こそ、心もとなき導師のちからなりけらし。

この前の部分は終わりに罪深くとあり、そこで文章が閉じられてはいない。が、内容的にはここで別の話題になっていくと見てよい。「猶むかしの恋しきまゝに」がその仲立ちの働きをする。罪深いことに思われて胸を痛めたのだけれど、その一方やはりこの地にまつわる昔のことが恋しく思われるので、といったことだろう。そこで「てつかいが峰」に登る。一の谷の北にある海抜237メートルの山だ。道案内をする係の子がいやがって、なんとか行かずに済ませようとするをあれこれとなだめすかし、麓の茶屋で何か食べさせてあげようなどと言うと、しかたなく承知することになったとある。「わりなき」は道理から外れていることで、しかたがない、どうにもならないといった意味に使う。

予の目からは、その少年の様子がやむを得ず案内をすることに同意したという体に見えたわけだ。それでも先に立って歩き始めた。「かれは十六と伝けん里の童子よりは四つばかりもをとをとなるべきを」というのは、かつて義経を鵯越に案内した熊王が16歳であったのより4歳も年少であるのにということ。「数百丈の先達」は何百丈もの高所に登る先達ということ。「羊腸険阻の岩根」は山道が曲がりくねって険しいこと。そうした道を少年が這い登るに付いていくため、何度も滑り落ちそうになりながら、つつじや根ざさにすがりつき、息を切らし、汗びっしょりなってようやく頂上にたどり着く。

「漸雲門に入」は雲が出入りする門で、高い山の形容に使う。そして、これもこの少年のお陰だとしている。「心もとなき導師」は案内の少年を仏教において衆生を導く導師になぞらえ興じたもので、「心もとなき」はその頼りないことを言ったもの。小さな先生のお陰でたどり着けたということだ。

この後は発句が四つ並ぶ。そのうち最後の一句は明石を詠んでいる。今回は須磨での三句を紹介する。

  須磨のあまの矢先に鳴か郭公

  ほとゝぎす消行方や嶋一つ

  須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ

まず最初は「須磨のあまの矢先に鳴か郭公」で郭公が夏の季語。これは本文中に「是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず」とあったことに直結する句だ。その直ぐ後に句を配するのではなく、文章はその後てつかひが峰に登ったところまでをまとめて記し、句は最後に並べるという体裁だ。一句の意味は、須磨の漁師が向けた矢の先をホトトギスが鳴き過ぎて行くといったもの。郭公は文章中に「ほとゝぎす鳴出づべきしのゝめも」とあった。この矢先にははるか昔の源平の合戦のイメージがかすかに揺曳しているように思う。

続いて「ほとゝぎす消行方や嶋一つ」はてつかひが峰からの景観とみてよい。これもほとゝぎすが季語。一句としては、ホトトギスの姿が消えゆく方向に島影がひとつ見えるといったもの。『泊船集』には明石の前書きがある。『笈の小文』の構成から見れば、苦労しててつかひが峰に登り、ひとつの島影を目にとらえたとみてよい所だ。島は淡路島あたりだろうか。『古今集』などに所収の柿本人麻呂の歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」などがふまえられているようだ。

もう一句は「須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ」で木下やみが夏の季語。木々が群生して枝を伸ばし、葉を茂らせるため、昼も闇のように感じられることをいう。この句については文章と密接な関係はなく、かろうじて「上野とおぼしき所」から須磨寺の存在が感得されたのみだ。須磨寺と呼ばれる福祥寺の寺宝は敦盛の残した青葉の笛だ。平敦盛は平家の若き武将で、ここ須磨の地において世を去った。そのことは『平家物語』や謡曲『敦盛』を通じてよく知られている。「ふかぬ笛」に関しては、「吹かねども音に聞えぬ笛竹の代々の昔を思ひこそすれ」の歌が寺に伝わり、これをふまえたのだろうという。一句としては、須磨寺の木下やみにいると誰も吹かないのに笛の音が聴こえてくるようだといった意味になる。敦盛が笛の音を響かせる、その音を幻のなかで聴いているわけなのだろう。幻視や幻聴は芸術表現の根源にかかわるもの。素堂とのやり取りを通じて鳴かないミノムシの音を興じ合ったことが思い起こされる。

次回は須磨の後半を扱う。

以上が番組メモ。前回は番組開始7分後から『笈の小文』に入って驚いたら、今回はさらに早い6分後頃からになった。このペースなら早ければあと1回で『笈の小文』が終わりそうだ。次の『更科紀行』は短めの作品。どうしたのだろう?このスピードアップは。何か大きめな作品を扱う準備かな?